「ふう」
目的地に着いて早々にため息が漏れる。慣れない電車の乗り継ぎと、土地勘のないところを歩き続けて、琴音はすでにくたびれていた。
「鎌倉に来るのなんて、まだ二度目だもの。それに……今日は一人なんだから」
長い階段に沿って幾重にも連なり奥へと続く朱色の鳥居を見上げる。
佐助稲荷神社。
前にこの場所を訪れたとき、琴音は今のように一人ではなかった。
隣を見れば、いつでも優しく微笑みかけてくれる恋人がいた。
彼は、気の弱い琴音をいつも励まし、勇気づけてくれた。彼の大きく熱い手のひらに手を包まれると、どこへでも行けるような気がした。
その安心感は、琴音の心の拠り所であり、支えだった。
そんな彼と別れたのは三日前のこと。
原因は彼の心変わりだった。彼から「話がある」とメールを受けて家を訪れ、向かい合って座り、しばらく沈黙したあと別れを切り出された。理由は他に好きな人ができたという至極単純な理由で、別れを切り出された。
琴音は彼を非難しなかった。本当に心から非難する言葉は浮かばなかった。
理由ならいくらでも思いつくのだ。
自分に魅力が足りなかったから。本当はそれほど好いていなかったから。
──その相手と結ばれる運命だったから。
そう思うと納得できてしまった。
彼が自分を選んでくれたとき、彼といたとき、自分たちは結ばれていると信じようとしていたとき。琴音はなるべく自分を過小評価しないようにしていた。自分に自信がついたわけではなく、選んでくれた彼に失礼だと思ったからだ。
彼と過ごした時間は幸せだった。楽しかった思い出ならたくさんある。
琴音は彼を見つめ、ゆっくり頷いた。
彼が与えてくれたものはとても大きい。それなのに彼を咎めようものなら、バチが当たってしまう。
もちろん、彼と過ごした時間の中に運命を信じようとした瞬間が一度たりともなかったわけではなかった。
今日のように平日の晴れた日。二人で鎌倉へ出かけたときのこと。
何でも、社務所で授与される狐の陶器を二つ揃えて奉納すると縁が結ばれるという神社があるのだと言い、琴音は彼の手に引かれ鎌倉にある佐助稲荷神社へ行くことになった。
他にも縁結びの場所はあったが、佐助稲荷神社は出世祈願の神社でもあったため、仕事も恋愛もうまくいくようにと選んだのだとも言っていた。
歴史を感じさせる朱色の鳥居に囲まれた長い階段を登り、狛犬の代わりに左右に構える狐の石像に迎えられ踏み入ると、辺りには白い陶器の大小様々な狐がそこかしこに置かれている。
琴音は正面の拝殿に立ち寄ったあと、その側にある小さな社の方へ向かった。
狐の陶器に囲まれた社に一礼し、裏に回る。裏側にも狐の陶器は置かれているが、正面よりも疎らだ。それらを探るようにして見回す。
「あった……」
しゃがみ込み、一つの陶器を手に取った。他の狐と違い、首に赤い紐ンが結ばれている。
それは二人で奉納したとき、すぐに見つけられるようにと巻いたものだった。彼の狐には青い紐を、琴音の狐には赤い紐を巻いた。
しかし、自分の陶器があった辺りを見ても青い紐をつけている狐はおらず、落ちてしまったのかと探しても、それらしきものはどこにもない。
「もしかして……」
陶器を握る手に力がこもる。
彼も自分と同じように、この陶器の狐を取りに来たのではないか。
琴音は立ち上がり、足早に社務所へ向かった。
社務所にいたのは一人だけだった。お守りや絵馬の管理をしているらしく、俯いて受付の下で手を忙しなく動かしているのが見えた。
「すみません」
声をかけるとすぐに顔を上げて、朗らかな笑みで答えてくれた。
「はい」
「これを……」
琴音は狐の陶器を差し出した。
「これを、こちらで預かっては頂けないでしょうか」
「え……」
困惑する姿に申し訳ない気持ちはあったが、引くことは考えなかった。迷惑をかけることは百も承知だ。
「ええと……。お引き取りになられる予定の日時などはお決まりでしょうか?」
「いえ。引き取りには来ません」
「それは……」
「ここに置いておくことも、持ち帰ることもできないんです。だから、お願いします」
彼の狐の陶器が――片割れがない本当の理由はわからない。けれど、そこにない、という事実を目の当たりにして、やはりもう、形だけの繋がりすら持っていられないのだと思った。
ここに置いておくことはできない。かと言って、自分で捨てることもできない。
「どうか――預かってください」
どうか、どうか、意気地のない私の代わりに処分してください。
琴音は腰を折り、頭を深く下げた。
悲痛な思いが伝わったのか、それとも引かない琴音にただ押し負けたのか。その人は一つ頷き琴音の手から狐の陶器を受け取ると、「お預かりいたします」と言って、琴音と同じように深く頭を下げた。
琴音はとうとう耐え切れなくなり、涙を流した。それを隠すように、また深々と礼をしてその場をあとにした。
家に着いたのは日が暮れてからだった。
夕食は帰る途中で済ませたため、荷物を置いたあとはすぐに入浴の準備をした。湯船に湯が溜まるのを待っている間は昼間のことばかりを考えそうになり、テレビを点けたり無意味に携帯電話を弄っていた。
風呂から上がり髪を乾かし終えると、時刻は九時を過ぎた頃だった。眠気は感じず、体もそれほど疲弊している訳ではなかったが、心が弱っている。
取り立てて急ぎの用事もないため、早々に眠ることにした琴音は、歯を磨き、髪を梳かして寝室に入った。
ベッドへ向かう前に窓の鍵を外して半分ほど開ける。静かな部屋の中に、少しの風と、車の走る音や人の声が入ってくる。
そのままベッドに入り、耳を澄ませながら目を瞑った。
話し声が聞こえる。笑い声が聞こえる。車やバイクのエンジン音や自転車のベルの音。それらに自分の呼吸が混ざっているのを聞くと安心できる。
そうしてゆっくり音は遠のき、意識は途絶えた。
「琴音」
意識が浮上する。いつの間にか眠っていたらしい。
誰かに名前を呼ばれたような気がする。
薄く目を開ける。まだ辺りは暗い。寝返りをうちドアの方を見ても、閉じた扉の近くに人の姿はない。
ひゅう、と風鳴りがした。夜風が強まってきたようだ。きっと、名前を呼ばれた気がしたのも、風の音を聞き間違えたのだろう。
琴音は窓を閉めるため、まだぼんやりとしている意識を無理やり働かせて、重たい体を起こした。
「琴音」
また、呼ばれている。
ベッドから下りて、窓へと向かおうとした。
「琴音」
一気に意識が鮮明になった。体を動かしたことで、頭が働くようになったのか。琴音は窓に寄る前に、目の前の異様な状況に気付いた。
風に靡きはためいているカーテンに、人らしき影が映っている。人が屈んでいるようなシルエットだが、ここは琴音が一人で借りている部屋だ。自分以外いるはずがない。
「だ、誰……?」
琴音は勇気を振り絞り、その影に声をかけた。
何者であれ、不法侵入だ。
横目で電話の位置を確認する。棚の上に固定電話が、その前のテーブルに携帯電話が置いてある。
怯む姿を見せず威勢で追い出すことができればそれでよし。無理なら通信機のある方へ向かい、もし襲いかかられれば、逃げる道は部屋のドアだ。
「そう身構えるな。私はお前に危害を加える気はない」
琴音の考えを読み、それを嘲笑うかのように喉を鳴らしながら影が言った。穏やかでありながらも凛とした男の声だった。
いつの間にか風は止んでいた。落ち着きを取り戻したカーテンから影の正体が僅かにはみ出している。
クリーム色のカーテンよりも白い布地が揺らめき、そこから生白い手が真っ直ぐ伸ばされる。その手が何やら形を作るように動き、親指、中指、薬指を曲げて、小指と人差し指をピンと立てた。
「私はお前の狐だよ」
「きつ、ね?」
「うむ」
手で狐の形作り、まるで話しているかのように、口にあたる指をぱくぱくと動かす。
「佐助稲荷にて、お前は縁を願った。だから私が在る」
「佐助稲荷の狐……」
手の狐は頷くように上下に動いたあと形を崩す。そして、カーテンに映っていた人影がふらりと揺れ、カーテンの裏からその全貌を現した。
和服の青年だった。白い着物に白い羽織を肩から掛けている。また、髪や、よく見れば睫毛までが白い。
「っ」
琴音は息を飲んだ。真っ白な青年の美しさに驚いただけではない。彼の首に巻かれた見覚えのある鮮やかな赤に目を奪われた。
「それ……」
「ああ、これか?」
青年が首の赤い紐に指を引っかけ、口角を上げる。
「お前がくれたものだよ」
「う、嘘! だって、それは今日……」
「私と共に預けた、と?」
そう、預けたはずだ。あの狐の陶器と一緒に……。
「あ、あ……。佐助稲荷の狐って……」
「ああ、それとも――手放した、の方が正しいか」
背筋に冷たいものを感じた。
夢を見ているのかもしれない。変質者の可能性もある。
けれど本当に、本当にこの青年があの陶器の狐だというのなら……。
「私を、恨んでいるの……?」
青年はさらに口角を上げて目を細め、歩き出した。しっかりとした足取りでゆっくりゆっくり、琴音に向かって行く。
逃げることは容易い速さだったが、琴音は恐ろしさと罪悪感で動くことができなかった。
青年は琴音の目の前で足を止めた。腕が伸ばされる。琴音は思わず目を瞑った。
頭の上に重さを感じ、びくりと肩を揺らす。それから額に、目蓋に頬に、輪郭をなぞるように優しく触れられる。
「ふ、ふふ」
頬に手を添えられたまま、抑えた笑い声が聞こえた。何がおかしいのだろう。見えない分、不安になる。
琴音はそうっと目を開け、様子を窺った。
「そう怯えるな。危害を加える気はないと言ったろう?」
「ふ、え……」
あまりにも青年が綺麗に笑っていたので、琴音は目を見開き、不思議な声を出してしまった。それと同時に金縛りが解けたように体が軽くなり、力が抜けて膝から崩れそうになる。
「おっと」
床にへたり込むより前に青年に支えられる。
「あ、あり、がと……」
「……」
「な、何?」
「あ、ああいや。……礼を言われるとは思っていなかったな」
目を逸らした青年に首を傾げる。青年は取り繕うように咳をすると、改めて琴音の目を見つめた。
「まあいい。私よりもお前のことだ」
「私?」
「私がここにいるのはお前と縁が結ばれているからだ。そして、お前のことは私のことでもある」
「縁が、あなたと……」
「そうだ」
青年は大きく頷いた。
青年の話では、願いを込めて奉納された狐の陶器は、その願いを込めた者と縁が結ばれるのだという。そして、その縁は願いが叶うまで結ばれたままになる。
「窮屈な人の姿に変わってまで来たのだから、危害など加えるはずもない」
「ご、ごめんなさい」
「謝ることはない。警戒されることは予想していた。さて、理解されたなら少し力を抜かせてもらおうかな」
そう言うと青年はぶるりと大きく身を震わせた。すると、青年の頭部から犬のような白い獣の耳が現れ、腰のあたりからは同じく白い獣の尻尾が伸びていた。
「……怖い?」
琴音の顔色を窺うように青年が問いかける。同時に、獣の耳が力なく下がるのを見て、琴音は思わず呟いた。
「か、かわいい」
はっとして手で口を覆ったが、もう遅い。
それからしばらく青年が何も言わないので不安になったが、それもつかの間だった。
「はっは! その反応は予想外だ」
さも愉快と言わんばかりに大口を開けて笑うので、機嫌を損ねた訳ではないようだ。ほっと胸を撫で下ろすと、一頻り笑った青年が「さて」と、とりなした。
「本題に入ろうか」
青年の真摯な目に琴音も緩んでいた気を引き締めた。
「お前はある男と縁を願ったが、その縁はすでに切れている」
「うん。わかってるよ」
「……それは私でも、どうすることもできない」
「うん……」
「だがもう一つ、お前は心の中で願っただろう」
「え?」
あのとき、二人で狐の陶器を奉納し、それから何を願っただろう。
一緒にいたい。見捨てないでほしい。今の幸せがずっと続いてほしい。
思いつくのは、彼と共にいることばかりだ。離れてしまった今、どれも叶うはずがない。
琴音が答えを出せずにいると、青年は訝しむように眉間にしわを寄せた。
「無意識か。今日も同じことを願っていたはずだが?」
「今日も?」
今日のことを振り返り考えてみる。
拝殿には、失礼のないように挨拶をしただけだったが、彼の言うように無意識のうちに何かを願っていたのだろうか。
「私、何を願ったの?」
琴音は青年の瞳を覗き込んだ。答えを知っているらしい青年の内側が見えるような気がした。しかし、真意は見えない。むしろ、その瞳を見つめるほど、内側を探られているのは自分のような気がしてくる。
その目がすっと細められた。
「誰かに傍にいてほしい」
青年の言葉に、ぶわっと、何かが胸の内からせり上がってくる。
「一人になりたくない。それが、お前の本心だったろう?」
せり上がった胸の内を青年の言葉が包む。そのまますとん、と元の場所に収まったような気がした。
目頭が熱くなる。息が詰まり、唇が震える。
そうだった。ただ、一人になるのが怖かったのだ。
頬に添えられていた青年の手が離れ、指先で目元を拭われる。
「もう、神に願うことはない。私が叶えてやる」
青年の指が離れて、初めて自分が泣いていることと、涙を拭ってくれていたことに気付いた。
それから琴音はとうとう座り込んでしまった。青年も座り、琴音の涙を何度も拭い続けた。
琴音の涙が治まってきた頃、青年が呟いた。
「そもそも神なんているのかねえ?」
「え?」
「ああいや、私はこの方一度たりとも神なんてものを見たことがないのでね」
もう一度「いるものなのかねえ」と言って、立てた膝に頬杖をついた。
「お前はどう思う?」
そう問いかけると琴音は、鼻を啜り指を絡ませたり解いたりしながら、しどろもどろに言った。
「あ、あの……ね。お前って呼ばないで……」
青年は顔を上げ、琴音を見つめた。
「ふむ。ではなんと呼ぼうか」
「名前……名前で呼んで」
「そうか。なら、私のことも名前で呼んでもらいたいねえ」
「あなたの、名前?」
「ああ」
青年がにっこりと笑う。
「でも私、あなたの名前知らないの」
「私もだ」
一体どういうことなのかと琴音が戸惑っていると、青年は「名前がないということだよ」と補足した。
「だからつけておくれ。そうでないと、お前が私を『あなた』と呼ぶ限り、私も『お前』と呼び返してしまうよ」
「番はそう呼び合うだろう?」と茶化す青年に、かあっと顔が熱を持つ。
「わ、私、ペットも飼ったことなくて、名前なんて……」
「どんな名でも構わんさ。ただ、そこらの畜生と同じと思ってくれるな」
「ご、ごめんなさい! ええと……」
改めて青年の姿を見る。白い髪に白い和服、白い獣の耳と尻尾。それから首に巻かれた赤い紐。端正な青立ち。吸い込まれそうな瞳。
「──アカネ」
口をついて出た言葉だった。
「あなたの名前、アカネ」
「ほう。理由を聞いても?」
青年は興味深そうに琴音を見ていた。
「初めてあの神社に行ったとき、階段に沿っていくつも並ぶ鳥居が印象的で……あなたの瞳と同じ、吸い込まれそうだった。だから、アカネ」
安直かな、と苦笑すると、彼は首を振って笑った。
「琴音がよいと思ったものがよい。私は琴音の狐なのだから」
ぐっと腕を引かれ、琴音は青年――アカネに抱きすくめられた。
「望む誰かが現れたその時は力を貸そう。それまでは私が傍にいる」
琴音はじんわりと胸があたたかくなるのを感じていた。まだ、自分は誰かに必要とされていて、甘えることも許されているのだと思えた。
私の狐。私のアカネ。
アカネの背に手を回し、自らも強く抱きつく。
「アカネ、アカネ……」
まるで子供が母に甘えるのようにすがる琴音の頭をアカネが優しく撫でる。
「琴音の幸せのために私がいる。一人にはしない」
何度か撫でていると、背に回されていた琴音の手から力が抜け、体が預けられる。それから、すーすーと小さな寝息が胸元から聞こえだした。
アカネは琴音を抱きかかえるとその体をベッドに横たわらせ、布団をかけた。
ベッドの側に座り、琴音の安らかな寝顔を見ながら、ほくそ笑む。
これが笑わずにいられるものか。ずっと望んでいた状況だ。
こうも、簡単に事を運べるとは思っていなかった。
月日はかかったが、それでも、長く生きてきた妖の身には、ほんの一息つく間のことに感じられた。
あの神社で琴音と出会い、男と共に縁を願うのを見てからは、どう二人を引き離し奪うかの算段ばかりしていた。
「なあ、琴音。真実を知れば、恨むかい」
本当はあの陶器の狐ではなく、山に身を隠し生きてきただけの物の怪であることを。
社の裏で慎ましく並んだ狐の一方を持ち去り、壊したことを。
女に化けてあの男をたぶらかし、琴音から奪って捨てたことを。
この先、琴音が誰を好きになろうと、譲る気などないことを。
そうまでして手に入れたいほど焦がれてしまったことを。
知れば彼女は怒るだろうか。泣くだろうか。
「それでも、お前を一人にはしないよ。私の琴音……」
眠る琴音の頬にかかった髪を指先で掬い上げる。
琴音はくすぐったそうに身じろぎ、ふにゃりと力なく笑った。
心の溝を埋めた存在が、いかに厄介なものかも知らずに。