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(うーん。
 警察に見つかると面倒だったから、無意識のうちに繁華街の方から離れていったわけだが。
 気付いたらこんなところに着いてしまうとは。
 最後に来たのは、確か小学校の遠足の時だったか。
 とは言え、今の私は鬼太郎が特別好きなわけでもないし、平日の昼間に制服で蕎麦屋に入るのも気が引けるし、縁結びの神に願ってまで一緒に居たいと思う男がいるわけでもないし……。
 うーん。
 いや、まあでも、たぶんこれは運命だとかそういうものなんだろう。
 うん。そうだ。きっとそうに違いない。
 それに、せっかく午後の授業をサボって学校を抜け出してきたのだ。たまには豊かな自然を感じながら散歩でもしようか)
 と、ようやく考えがまとまったところで、深大寺周辺を記した地図の前で突っ立っていた私は歩き出した。が、
「あっ」私が突然歩き出したせいで、前から来た男性と肩がぶつかってしまった。
「おっと」
 すいません。と小さく頭を下げて私は鬼太郎とねずみ男の前を通り過ぎようとした。
 だが、
「ちょっと君!」
 彼らの手前で私は呼び止められた。さっきの男性に。
 まさか、休暇中の警官だった?
 そんな考えが頭をよぎり、私は男性の方を振り返りもせずに走り出した。
 さすがにこんな場所では、
「ルーズリーフの紙が切れてしまって。許可をもらって買いに来たんですよ」
 なんて言い訳も通用しないだろう。

 よくよく考えたら、部活にも所属しておらず、特別足が速いわけでもない女子高生である私が、現職の警官から逃げられるはずもないことに、走り終わってから気付いた。
 だが、どうやら私はあの男性から逃げ切ったらしい。
 現在、私は植物公園の正門近くのトイレにおり、個室に立て籠ってから5分は立ったが、私を探しているような声も聞こえない。
 ふぅ、ひとまず安心。
 でも、あの男性にまた出くわす可能性もあるし、ここら辺をぶらつくのはやっぱりやめておこうかな。
 なんて思ってトイレを出たのだが、トイレの外壁にもたれかかっている男性がいて、ギクリとした。
「あっ、やっと出てきた」
「あ、いや、その、きょ、今日は、学校行事があって、午前中に学校は終わっててですね」
「うん?」
 ま、まさか、トイレに逃げ込んでいたのを知っていたとは……というか、わざわざトイレの前で待ってるだなんて、ひょっとしてこのひと、涼しい顔して実は変質者なの? だとしたら違う意味であぶない。
「学校の事は知ったこっちゃないけど、これ君のだろ?」
「へ?」
 差し出された手の上には、ピンクの革の定期入れがあった。
「あ、わたしの」
「ぶつかったときに僕の服に引っ掛かったみたいだよ」
 たしかに、バッグに付けてあったはずの定期入れが、ない。
「ありがとうございます」
 なんだ、この人は警官でもなければ、変質者でもない、心優しい紳士だっだのか。
「ところで君さ」
「?」
「腹減ってない?」

「お待たせしました。湧水天盛になります」
「さぁ、食べようか」
「はあ……」これは一体どういう事だろうか。
 落とした定期を拾ってもらった上に、今日あったばかりの男性に蕎麦をごちそうされている。
 普通なら、蕎麦をごちそうするのは私の方なのだが。(まあ、一食千円近くする蕎麦を奢れるほどのお金も持ってないんだけど)
「そばに十割だの九割だのってこれってなんの割合の事を言ってるのか知ってる?」
 頼仁さんは、会話と咀嚼を器用にこなしながら私に質問してきた。
「いや、知らないです」
 しかし、彼の事は何となく知っている。というか、先ほど勝手に情報が耳に入ってきた。
 植物園の正門からこの蕎麦屋に向かう間に、彼はほとんど独り言に近い形で自分の事を喋っていた。
 彼の名は、東頼(あずまより)仁(ひと)というらしく、現在は新宿にある専門学校に通っており、今日は取材のためにここに来たらしい。(何の取材かは喋ってなかった)
「教えてあげよう。実はね、これはそば粉の割合なんだよ。だから十割蕎麦ならそば粉だけを使うし、九割蕎麦なら九:一の割合でそば粉と小麦粉を混ぜるんだよ」
 へぇー。そうなのか。
 ただ、私にはもっと知りたいことがある。
「あの、頼仁さん」
「ん? どうしたの」
 頼仁さんは、今まさにそばを口に入れんとする寸前で手を止めた。
「あ、ひょっとして蕎麦アレルギーだった?」だったら僕の天ぷらも食べていいよ、と彼は箸を置いて自分の前に置かれた天ぷら盛りを私の方へ差し出した。
「いや、そうじゃなくて」
「うん?」
「なんで私は、定期を拾ってもらった上に昼食までごちそうになっているんでしょうか」
「腹減ってたんでしょ?」
「まぁ、そう言いましたけど」
「だったら早く食っちゃいなよ。俺が奢るって言ってんだから」それに、一人で食べたって寂しいだろ。
 後半の独り言に、彼の本音が込められているような気がした。
 でも、いくら寂しかったからって、見ず知らずの女性と食事しようなんて思うだろうか、ふつう。しかも、制服を身にまとった高校生を。
 とはいえ、さっき走った事もあってお腹が減っているのは事実だ。私は、目の前の蕎麦にありついた。

「ごちそうさまでした」
「いや、いいんだ」
「それじゃあ」
「あ、ちょっと」
「はい?」
「また、会えないかな、これ、僕のスマホの番号」
「……別にいいですけど」
「じゃ、暇なときに電話してよ」
「分かりました、それじゃ、また」
 そう言って彼女、菅篠京香はバスに乗って去って行った。
 いやぁー。
 それにしても一目惚れってのはやはり難しいもんだ。
 わざわざこんな事してまで関係を作らなくっちゃならん。
 でも、ま、おかげで次の機会もありそうだし? 僕の努力も報われたって感じかな。とりあえず、今度会った時にはLINEも聞かなくっちゃなぁ。