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 今年も満開に咲いた桜は散り、替わりに咲いた新緑が暖かい日差しを遮り、涼しい春風が今いるここ、深大寺にそよそよと吹く。昨日雨が降ったせいか、葉に残った雨水が日差しに反射してキラキラと輝いていた。ここが日本最大の厄除けと有名な場所だからか、空気は澄んでいるしどこか神秘のようなものを感じる。
「今日晴れてよかったわね、天気予報だとこの一週間はずっと雨らしいわ」
 カーキシャツの下に白のオールインワンを着た彼女が、手元のスマホを見せながらそう呟く。画面には天気アプリで、今日の天気は曇りのうち晴れのマークがあった。気温は二十五度、降水確率は二十パーセントと表記している。
「テレビでも夕方からまた降り出すって言っていたな」
「一応傘持ってきた?」
「もちろん、そっちは?」
「持っているわ」
 スマホをベージュと黒のショルダーバックに入れ、別の口から紺の折りたたみ傘を少しだけ見せてしまう。
 平日のせいか人はあまりいなく、観光客と散歩に来た老人ぐらいだ。なんだか今日は登山家っぽい観光客が多い。大きなリュックを背負い、一生懸命慈恵大師像が置いてある元三大師堂に向けて祈る様子を何度も見かけた。
 俺たちも手水舎で手と口を清め終わると、彼女は元三大師堂方面の左手にある小さめの池に向かう。そのままついていくと、彼女は池の中をじっと見つめる。真っ黒な鯉が多く、白、赤、黒の鯉もちらほら見かけた。確か暇つぶしで調べたときに大正三色やら紅九紋竜なんかのそれっぽい鯉の写真を見つけたが、実際に見ると素人の自分にはどれがどの種類なのか全くわからない。
「鯉、好きなんだよね」
「知ってる、いろんなところに行っても必ず鯉見ているだろ」
「そうね」
 彼女は手を池に向かって伸ばした。鯉たちは餌をもらえると勘違いしているのか、彼女に向かって口をパクパクと水面から出している。
「……でも、もしかしたら今日でなくなるんじゃないか? 身を清めて、こうして境内にいるだけで、少しずつ浄化されている」
「ええ、とても気持ちがいいわ。それに私たちがここにいるのに、今日は一度も“黒いアレ”を見てないわ!」
 心の底から嬉しそうに、彼女は驚きと笑顔でこちらを見つめる。そして近くにある木々を見上げた。
「もっと早くこっちに引っ越すべきだったわ。そうすれば、この呪いはなくなっていたかもしれないし……たとえ消えなかったとしても、こんなにも効果はあるのだからやっと安心して一緒に暮らせるわ」
 少し泣きそうな表情の彼女を優しく身を寄せた。ダークブラウンの頭が俺の右肩に頭をのせる。
「あれから十四年、あの時からずっと……ずっと、つきまとわれていたわ。どんなに神社やお寺に行っても少ししか祓えなかった。あの時に食べさせられた黒い塊が、ずっとお腹の中で嘲笑っていた。どんなに祈っても離れない、逃がさないって」
「あぁ、体にも心にもへばりついているような、本当に呪いのような。子供ながらに思ったな、アレは絶対に食べモノじゃない、嫌な気分になる、気持ち悪いって……今思えば、あの時に抑えたやつら全員悪霊だったな」

 

 

 今から十四年前、俺はとある田舎の村で暮らしていた。田んぼが多いこの村に、当時はコンビニがなく、最低限の施設と小さくてボロボロな店ぐらいしかなかった。信号もほとんどなく、街灯もないこの村には一つの噂話みたいなのがあった。

『黒服さんには会っちゃならん。黒服さんには目を合わしちゃならん。黒服さんには声をかけてはならん。黒服さんについて行っちゃならん。黒服さんから黒いお菓子を口に食べちゃならん。もしお菓子を食べたら、あちらの世界が見えてしまう。あちらの世界に触れてしまう。あちらの世界から追われてしまう。死後あちらの世界の住人になってしまう。黒いやつになってしまう。七つまでは手は出せない。十からは手が出せない。黒服さんは探している。黒服さんはさまよっている。黒服さんは待っている』

 その頃にはまだ生きていた祖母が、俺が八歳の誕生日に教えてくれた。俺は正直に言って信じていなく、近くに住んでいた同じ年の彼女――幸音、通称ユキも同じことを言われたらしく、その時の俺は興味と探求心しかなかった。好奇心旺盛なユキも同じことを思っていたらしく、学校の帰りに少しだけ道草をして黒服さんを探した。
 そしてある日、とうとう見つけてしまった。スーツのような服を着た男の人がひっそりと道の端っこに立っていたのだ。黒いシルクハットをかぶっており、夕日の逆光で顔が見えなかった。黒服さんを見つけた俺たちは子供らしく興奮した。
 黒服さんはゆっくりとこちらに近づいてくるだけで、とてつもない恐怖が全身に伝わる。怖い。逃げたい。そう思っても足は動いてくれなく、黒服さんから目が離せない。黒服さんは俺たちの前で止まり、俺たちの視線に合わせるようにしゃがむ。目を合わせちゃいけない、そう思って視線を下に動かそうとするとあっさりと動かすことができた。口元を見ると、寒い日プールに入った時の唇より青紫――血色が、これでもかという程悪かった。
「おやおや、おやおやおや、どうやら君たちは私のことが見えているようで。あらあら、あらあらあら、久しぶりに会いました。あれあれ、あれあれあれ、なぜ私と目を合わせてくれないのですか? ねぇねぇ、ねぇねぇねぇ、聞こえているのでしょう? なぜ何も言ってくれないのです。なぜこちらを見てくれないのです。ねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇネェネェネェネェネェネェネェネェネェネェネェネェネェ」
「ヒッ」
「い、いやぁ……」
 底知れない恐怖に、俺たちはただ怯えるしかなかった。ユキはギュッと俺の裾を掴んでいた。逃げたくても足が動いてくれない。助けを呼びたくても震えてうまく声が出ない。
「あぁ、あぁあぁあぁ、なるほど、君たち悪い子か。ふむふむ、でしたら、いい子になれるお菓子をあげましょう。えぇえぇ、えぇえぇえぇ、そうしましょう」
 黒服さんの手にはいつの間にか黒い塊を二つ持っていた。一瞬おまんじゅうかと思ったが、その塊から凄く嫌な予感がした。脳内で絶対に食べちゃダメ、あれは食べモノじゃないと幼い脳が危険だと判断した。
「さぁさぁ、さぁさぁさぁ、その小さなお口を開いて」
 グイグイと黒い塊を俺たちの口に押し付けるが、俺は首を振ったりするなど絶対に口を開かないようにする。ぽろぽろと涙が溢れてきた。ちらりと隣にいるユキを見ると涙を流しながら必死に口を閉じている。ユキの足元を見ると涙で湿った地面が広がっていた。
「あぁあぁ、あああああああもう! 口を開いて!」
 ゾクッ、と背後から黒服さんとはまた違った恐怖を感じた。ナニカがいる。ガタガタと体が震えていると、黒い影みたいなのが俺の鼻の下と顎を後ろから掴む。ググッと上下に引っ張り、俺の口を開こうとする。俺はもう怖くて、怖くて、目をつぶりながら必死に口を閉じた。
「ぁ……」
 隣からユキの声が聞こえた。その声に反応してちらりと隣を見ると、ユキは黒い影に無理やり顔を上に向けられたせいか黒服さんと目が合ってしまった。
「ぁ、ゆき……なん」
 俺の背後にいた黒い影が口の中に入って無理やり口を開きっぱなしにさせられる。そしてユキと同じように顔を上げさせられた。
「や、やら……ッ!」
「おやおや、おやおやおや! やっと私の顔を見てくれましたね!」
 黒服さんは嬉しそうな表情を、目がある部分を黒いナニカがうごめきながらニッコリと笑った。
「さぁさぁ、さぁさぁさぁ! よい子にはご褒美を上げなくては!」
 黒服さんは俺たちの口に黒い塊を入れた。黒い影は俺の口を閉じさせる。食べたくないのに、飲み込みたくないのに、体はいうことを聞いてくれなくしっかりと噛みしめた後飲み込んでしまった。黒い影は消えていき、体の力が抜けてしまってその場で座り込んだ。あぁ、食べてしまった。
「いい子、いい子、美味しそうに食べていただいてとても嬉しいです。では、次は死後で会いましょう」
 俺たちが帰ってこないと探しに来た村の人たちが来るまで、俺とユキはその場で座り込んでいた。

 

 

 そよそよと風に揺れる葉を見つめながら昔を思い出していた。あの時はただ恐怖しか感じなかった。情けない話だが、ユキがいなかったら俺はとっくに自殺していただろう。
「ユキ、そろそろ参拝しよう」
「えぇ」
 ユキの手を握り、まずは本堂に向かおうとする。
「そういえば、正式な参拝じゃないな」
「あ、さ、最初からにしましょう」
 一度本堂に向かって一礼をして山門から出た。いったん深呼吸して、ユキと一緒に一礼する。手水舎で手と口を清め、常香楼で賽銭入れて身を清め、いよいよ本堂に向かう。あらかじめ持っていた五円玉と五十円玉を賽銭箱にそっと入れる。チャリン、と小さな音が聞こえた。ユキとアイコンタクトでタイミングを合わせ、静かに手を合わせて祈願する。
「「南無阿弥陀如来」」
 手を合わせたまま深くお辞儀をして、感謝の気持ちを込めて一礼する。本堂から右手、ユキがいた小さな池の手前にある階段を上り、元三大師堂に向かう。途中でユキが足を止めた。
「祐、体から黒いのが……」
 驚いて俺を見つめるユキの体にも、黒い煙のようなものが抜けている。
「ユキ、君も……」
 体から黒いのを出している人がいるのに、周りの人間はこちらを見ても何も反応がない。ユキの手を握って、元三大師堂の前に立つ。先程と同じように祈願するとぶわっ、と黒い煙が一気に体から抜けていった。呆然と、体の変化を確認する。無くなっている、あの気味が悪いものが、アレとの繋がりがきれいさっぱり無くなっていた。
 嬉し泣きそうなユキに向かって
「ユキ、今後について蕎麦を食べながら話さないか?」
「えぇ、えぇ!」
 ユキの指を絡ませながら山門へ歩く。最後に一礼すると、暖かい風が吹いた。まるで背中を押しているような、勇気づけられたような、そんな風だった。