これは自慢ではないが、最近よく読書をしている。私と同世代の高校生に、読書を普段からしているという人は見かけない。この学校にも図書室はあるが、どちらかというと自習室として使われることが多い。図書室としての体裁を整えるために、何十何百という本は置かれているが、多くは図鑑や参考書が占めており、広く若者が好むような本は、満足の行く準備がされていなかった。
そんな環境で、なぜ私が本に興味を持ったかというと、別に何か特別な理由があるわけでもなく、忌まわしき記憶を持つ人も多いであろう夏の読書感想文や読書週間などで、これといった苦労を経験しなかったからである。持論だが、苦労しないということは向いているということである。まして、多くの人が苦しんだ読書感想文などの経験を経ているのだから、それはきっと間違っていないに違いない。そう確信していた。
学校では、ほとんど本は読まない。我が友人である霧野友代が、日頃から鬱陶しく関わってくるからだ。幸い私は帰宅部なので、読書に充てられる時間は多かった。
この三週間ほど読み耽っていた文庫本を読み終え、新しい本を買いに行くことにした。いわゆる「積み本」のようなストックを作ることは、本への新鮮な興味を失うだけの愚かな行為だと考えていた。
休日の昼間、私が向かったのは神保町。古来より本の街としての認識がされ、新刊から巻物まで、幅広く取り揃えられている。思うに、幅広すぎに取り揃えられすぎている。
地下鉄の出口から外に出ると、大きな交差点だった。向かい側に「ナントカ書店」と書かれた看板が多く並んでいたので、ちょうど青信号になったのもあり、横断歩道を渡った。
これといったアテもなく、通りを歩いていた。高層ビルが建ち並ぶさまは都会そのものだが、ビル群から視線を少し落とせば、古めかしいフォントに色褪せた看板がズラッと並ぶ、どことなく昭和っぽさを感じさせる景色が広がる。
とりあえず、本を探すのに街を歩いているだけでは、見つかるものも見つからないと、適当な書店に入った。敷地は狭く、日焼けなのか茶色い背表紙の本が積まれた書店だった。すこし埃っぽさも感じる店内を巡り、適当な棚に目をやった。
「えっと……『源氏物語』!?」
タイムスリップでもしたのかと思った。現代のハイテクノロジー社会に生きる私たちにとって、古典オブ古典と言える作品が教科書以外の姿で現れるのは、カルチャーショックに等しかった。慌てて周りを見回すと、他にも聞いた事があるやら無いやら、いかにも私は百年の歴史がありますよ、と話し出しそうな、ボロボロと言うのも失礼だが、とにかく多くの傷を持った本が、棚一面に詰め込まれていた。
凄まじい威圧感を持つそれは、私に歴史と言う名のボディブローを打ち込んだ。ノックアウトされた私は恐ろしくなり、リングから早々に逃げ出した。
何とも恐ろしい体験をした。退散する時にちらっと値段が見えたのだが、五桁であった。私はせいぜい文庫本二冊が買えれば充分ぐらいの所持金。鼻から客ですらなかったと思った。
気を切り替えて、大通りに面した、キャッチーな印象を持つ書店に入った。後で調べたが、チェーン店だった。
先ほどの歴史的書物店と違って、近年の流行を多く取り入れた、私の思う「書店」であった。都会人の書店に対するステレオイメージは、既にチェーン店に占領されているのだ。すこし入って見渡せば、新刊コーナーやメディア化コーナーといった、売上の殆どはここから生まれているであろうコーナーが目に入る。現代に生きる若者は、夜の街灯に群がる蛾のようにそこへ吸い寄せられて行く。
メディア化といえば、アニメや実写映画など、テレビを付けていれば自ずと知るようなもの。事実、このチャンスを逃すまいと、広いスペースの中に聞き覚えのあるタイトルや見覚えのあるキャラクター達が所狭しと並んでいた。しかし、私の中の読書人間としての反骨精神がここで邪魔をしてきた。
「紗倉千佳、あなたはそんな薄っぺらい人間なの?
あなたは作品を見る目がある。選ぶ権利がある。
みんなと同じ事をして楽しい? あなただけの人生を歩みたくない?
それとも、流行に乗っかるだけの、一発屋にすらなれない流され人間になりたいの?」
それは私の脳内で繰り広げられていたわけではなく、本を眺めていた私の耳に入ってきた言葉。それも、嫌というほど聴き覚えのある声で。
「……どうして、ここにあんたが?」
「私、先生になった覚えは無いよ?」
何かと思ったが、確かそれに近いタイトルの漫画があった。入口あたりに新刊発売のポスターが貼られていたはずだ。流行に乗っかるだけの薄っぺらいパロディ人間はどっちだ。
腰まで伸びる長い黒髪と、対照的に真っ白いTシャツ――縦に「BOOK」と書かれたあからさまにダサい――を着た、"ヤツ"は確かにここにいた。
霧野友代。高校一年からの友人だが、プライベートで会うのは珍しい。
「質問に答えろ、なんでここに?」
「別に、私がどこにいたっていいじゃん。嫌だった?」
嬉しいか嫌かで言えば、プライベートで学校の友人に会う気まずさを考えると、嫌と答える人の方が多い気はする。
「……まぁいいけど」
「この~、照れ屋さんめ」
やっぱり帰ってくれないかな!
決して嬉しくない合流を果たし、私と霧野は共に行動することになった。結局この店では、惹かれるような本は見つからなかった。二階に上がればマンガコーナーもあったが、今日はそれ目当てではなかったし。
外に出ると、そろそろ昼ということで、まだ初夏なのにも関わらず太陽は熱く照りつけていた。地元の方は雲がかって涼しく、重ね着をしてきたのを今になって後悔した。
さて、暑さを堪え忍びながらまた大通りを歩くと、これまたどでかい書店にぶちあたった。店名を見るに、ここが本店らしい。またもチェーン店だが、本店ということは実質神保町特有の店舗だろうと勝手な結論を出して、そこへ入った。
これほど大きいと、人の出入りも激しい。立ち読みも含めて、これまでと比べ物にならない規模だった。フロア案内を見ると、小説は上の階だ。
エスカレーターを上がると、閑静な小説フロアに着いた。同じくメディア化コーナーもあったが、それ以上に出版社ごとに分けられた棚がいくつも並んで、これだけあればさすがに何かしら見つかるだろうと期待させた。
「あ、これ見たことある」
霧野はメディア化コーナーからひょいと一冊を拾い、私に見せてくる。
「ふーん。面白いの?」
面白いかどうかという質問以上に、人の好みで結果が分かれる質問は無いだろう。
「知らなーい。読んだことないし」
「なんでだよ」
曰く、CMで見ただけとのことだった。各社の広報担当の方々の涙ぐましい努力によって、薄っぺらいパロディ人間である彼女の作品知識は形成されている。
適当に、大手出版社の棚を眺めていた。国語の授業で名前を聞いたことがあるような無いような、そんな著者の名前まで含めて眺めていた。平積みにされているのは、比較的新しいものだったり、人気のシリーズだったり。表紙が目につきやすい分、霧野はそっちに気を取られていた。
「うーん……」
腕を組みながらじっとタイトルを横に見ていく。いまいち、目に留まるものはない。
ふと思った。目に留まるとは、どういうことか? 確かに、インパクトのあるものには一瞬気を奪われるかもしれない。だが、それが面白いかは別だ。じゃあ、目に留まることだけが正しいと言えるのか?
私は「運命」という言葉をあまり信用していなかった。運命的な出会いとはよく言うが、しかし例えば霧野と今後末永く付き合いがあるとして、高校での出会いが運命だったと聞かれたら、絶対に否定する。それが、多くの場合一回読んで終わってしまう本なら……。
固まったままの私に気づいた霧野が、一冊の本を手に話しかけてきた。
「千佳、これ買っていい?」
彼女が持っていたのは、確か数年前にアニメだかドラマだかが放送されていた、ミステリ小説だった。作者の名前も知っている。
「それを買うのに、あたしの許可いる?」
「いや、千佳も読むかもなって思って。じゃあ私が買うね」
彼女は嬉しそうにその文庫本を抱きかかえた。まだ買ってもないのに。
「……霧野」
「うん?」
「どうして、それ買おうと思った?」
私にとって、本やゲームを何の情報も無く買うのは、金をドブに捨てていると言ってもいい認識だった。結果が当たりにせよ外れにせよ、己の感性だけで手に取ることはできない。公式サイトとか、レビューとか、そういった前情報を必ず仕入れるのが普通だった。
一方で霧野は、流行には敏感だが、広くアニメやドラマなどのコンテンツに精通している印象は無い。私が知ってるぐらいのものであれば、霧野も知っているぐらいだ。だが、今彼女が手に取った作品については、見る限り知らないようだった。それがどうして、表紙だけを見て買おうと思ったのか。不思議でならなかった。
「えー? っとね……」
彼女は、本を小脇に抱えたまま顎に手を当てて、見るからに考えてますよといったポーズをとった。そのまま数秒間停止してから、脇に挟んだ本を手に取って表紙をじっと見つめた。
「……なんでだろうね?」
「は?」
不良の生徒が教師の物言いに納得できない時に出すような「は?」を言ってしまった。
「いや、なんとなくね、興味があったんだよ。分かる? この本棚をぶわーっと見た時に、ほらこれ、タイトルがどんって書いてあるじゃん? 他のやつは、キャラとか描いてあったりするけど、これはそうじゃないじゃん。そこがさ、なんとなくってやつ?」
ぶわーっと話した彼女の言う、ぶわーっと並んだ本棚を見たが、当然、キャラクターの描かれていない、ごく一般的な風景写真にタイトルが記されただけの本は他にもたくさんあった。それこそ、一目見て分かるぐらいに。
「あー……えっと……」
それに気づいたようで、霧野は言葉を詰まらせた。
「えっと、ね。私もよく分かんないや。なんとなく手に取ったのがこれだった、それだけ!」
身も蓋もない答えを彼女は出した。納得はいかなかったが、らしいと言えばらしいか。
「ま、好きにすれば」
そっけない素ぶりで話を終えると、再び自分のための本を探し始めた。眺めては立ち去り、眺めては立ち去り。ウインドウショッピングもいいところだった。
やがて、小説コーナーの端にある、ライトノベルのコーナーに着いた。娯楽小説の娯楽部分を突き詰めたような作品が多く、また若者受けの良い可愛らしい、あるいか格好いいキャラクター達が華々しく描かれた表紙は、見る者を惹き付ける。だが、こんな所でも私の慎重さは遺憾無く発揮され、なかなか手に取ることができないでいた。一方の霧野はと言うと、絵に釣られているのか、興味津々なようだった。
純粋な小説もそうだが、ライトノベルにおいてもレーベルの傾向がある。それはファンタジーだったり、ミステリーだったり。恋愛やSFだってある。当の私は基本ノンジャンルで、これを読めと本を渡されたら読む。そんな主体性の無さが、この判断力の弱さに一役買っているのかと気づいた。
そんな中で、ふと目に付く本があった。周りと比べて、表紙のキャラクターが素朴というか、味があるというか、分かりやすく言えば時代を感じさせるキャラクターデザインだった。目の大きく、スタイルの抜群に良い露骨なアニメキャラと比べて、その絵は無骨で、哀愁が漂い、どこか繊細に見えた。手に取って見ると、タイトルの前に「新装版」と書かれていた。見るに、最初に発行されたのは十年以上前のようだ。
さっきの源氏物語じゃないが、こういった歴史ある作品が、今もこうして人々の手に美しい状態で届けられる。それはなんと素晴らしいことだろう。近年はコンテンツの消費が著しく、供給が追いついていない状態だとどこかで見た。ネット上の妄言なのかもしれないが、しかし全て嘘であるようにも聞こえなかったのだ。
……気に入った。これを買おう。
「あ、千佳、それ買うの?」
私が買うのを決めるも否や、霧野は迅速に反応し、私の手の中のその本を覗き見た。
「お、私これ知ってるよ。いいチョイスだねっ」
パロディ人間の「知ってる」をどこまで信用していいのか分からなかったが、しかし新装版が刊行されていることや、帯にも金字塔がどうのと書いてあるので、少なくともチョイスに関しては信じてよさそうだった。
レジは一階で全て取り扱っているらしく、エスカレーターを降りる必要があった。
「こうして本持って歩いてると、なんか万引きしたみたいだね?」
ろくでもないことを言うな。
会計を済ませ、外に出る。暑さは変わらないし、店内は空調が効いていたのもあって、むしろより暑くなったように感じた。それと、時刻は正午を周り、ちょうどお腹も空いてきた。
「ふふん、グルメなら私にお任せあれだよ」
少量の汗を流しながら霧野が言うと、颯爽とスマートフォンを取り出した。
真のグルメは、いちいち検索しないだろう。
神保町は周囲に教育機関や会社も充実しているので、飲食店も相応に多い。昼食を済ませるには最適に違いない。霧野はしばらく画面とにらめっこした後、着いてきてと言ってとっとと行ってしまった。仕方なく彼女に着いていく。昼休みであろうYシャツ姿の会社員も多く、正直、彼らの後を追った方がまともな店にあたるんじゃないかと思ってしまった。
やがて小さな路地に入ると、彼女はシャッターの降りた軒先で足を止めた。シャッターには、「日曜・祝日休業」と書かれていた。今日は日曜日だ。霧野はと言うと、口をあんぐりと開いて絶句していた。
「なん…………だと…………?」
パロディ人間は小さく呟いた。なんだとも何も、たぶん個人経営だから休みの日は休みたいだろう。私はすっかり呆れてしまった。
踵を返し、通りに戻ろうとすると、彼女は私に向けて手をかざした。勢いで揺れる髪の隙間から覗く鋭い眼光は、的確に私の目を捉えていた。
「もう一軒だけ……いいかな?」
らしくないキメ声で、情けないセリフを吐いた。
どうやら、ハズレだった際の代わりもすでに目星をつけていたようで、再び霧野は先陣を切った……二人しかいないが。
通りに戻り、書店を二軒三軒と素通りし、一直線にどこかへ向かって行く。途中、この町に腰を据えている出版社の横も通ったが、彼女は目もくれぬ様子だった。
そうして数十分歩き続け、辿り着いたその先には……シャッターが降りていた。こちらは土日祝日休業のようだ。
「Noooooooooooooooooo!!!!!!!!!」
閑静な路地に、彼女の悲鳴は虚しく響いた。周りの注目を買ってしまうので、黙らせるべく、地に伏せた霧野の尻に軽い蹴りを一発叩き込んだ。「うっ」と小さな呻き声を上げ、彼女は沈黙した。絶命したわけではないようだ。
はぁ、と私は溜め息をついて、伏せたままの彼女に聞かせるように独り言を呟いた。
「ああ、これはシカタナイ。じゃあもう、食べられればなんでもイイカナ」
我ながら名演技だ。私の独り言に卑しく聞き耳を立てていた霧野はすっくと立ち上がり、私の顔も見もしないでどこかへ向かった。
着いたのは、数人の行列のできている、通りに面した……チェーン店だった。
「結局かよ!」
私のこの探訪で、神保町らしいことが何も出来ていないとさえ思った。突っ込んだ私の肩に、霧野は馴れ馴れしく手を置いて、
「世の中の生きてる店の大半は、チェーン店だよ」
とサムズアップした。そういうことじゃなくてだな。
とはいえ、ここまで来て食べないのも店側に悪いので、ここで食事をとることにした。
座席について、注文したメニューが来るまでの間、先程購入した本をパラパラとめくってみた。……文章量は相応に多いし、ちょっとくどい表現もあるかもしれないが、だが不快になるほどではなく、むしろ想像を掻き立てるような書き方だ。挿絵も、その古風な絵が示すように、煽情的ではないので、私が読むのにはちょうどいい。
「……まぁ、悪くないかな」
「お、アイドルになるの?」
このパロディ人間は。軽く言葉狩りだ。
そういえばこれを買うときは、「目に留まった」。たぶん、この表紙が他に比べて、なんというか質素だったからだろう。私がこういったライトノベルなどに抱いていた印象とはほとんど真逆で、それもあるかもしれない。
「そういうのもあるか……」
「お、アームロック決める?」
さっきから言葉狩りは勿論、作品に対する認知がいちいち雑だ。ひょっとすると、こういうところから既にコンテンツの消費は始まってるのか。
作品というものは共通して、代名詞的なセリフとか、或いはキャッチコピーが作られる。その印象を抱いて私達は作品を手に取り、そして周囲へ伝搬する。凝り固まった、言うなればステレオ化した作品のイメージは、それを利用した一方的な消費を加速させ、結果として寿命を縮めることになる?
……よく分からなくなってきた。私は漫画や小説を書いたことは無いし、志してもいない。でも、経験上確かに、知っているものには先行したイメージが定着している。なら、全く中身を知らない、自分にとっての新境地であれば。
「……霧野」
「うん?」
先に注文したメニューが届いた霧野は、麺を啜る姿勢のまま視線だけ私に向けた。
「あたしがこれを買った理由、分かる?」
「えー、何? 作中の印象的なシーンを繰り返して記憶に残させるやつ?」
お前は何を言っているんだ。彼女は麺を噛みちぎり箸を置いて、咀嚼しながら私の買った本を受け取った。
「うーん……分からない。なんで?」
疑問に思う彼女に、私は薄く微笑んで、こう答えた。
「なんとなく」
運命。少しぐらい、信じてみてもいいかもしれない。