きっと、幻想だったのだろう。
救われたと思った日も。全てを捧げようと決断した日も。あの人の害になるもの全てを排除しようと誓った日も。全て。
自分が夢見た幻想で、こうあってほしいと願った空想で。それが幸せだと信じて疑わなかった、一人の大馬鹿者が望んだ未来で。
誰も望んでいない。自分だけの幸福。
あれは狐が見せた、たった一瞬の夢物語だ。狐に化かされて掴み損なった、たった一瞬の幻想だ。
低い段差に足をかけ、写真撮影を行う外国人の隙間を抜ける。ここ、稲荷山の入り口では連なる朱色の鳥居を一目見ようと観光客で賑わっていた。
古来より朱色は生命の躍動を表しており、災いを防ぐ色として多く使われていたらしい。現在では鳥居などでしか見なくなった朱色だが、なるほど荘厳さは一切失われていなかった。
朱色の隙間から木々が顔を覗かせる。太陽の光も草木と鳥居に遮られてあまり活躍はしていない。ひどく汗が滴るこの頃だ。少し落ち着いた気温の方がありがたかった。
千本鳥居と言えば一度は耳にしたことはあるだろう。京都にある伏見稲荷大社の裏にある稲荷山の山頂までの道なりに連続して立ち並ぶ鳥居。まるでそのまま異界にでも行ってしまいそうだが、元々鳥居というのは神の住む神域と人の住む俗界を区画するものだ。であればある意味異世界と評しても問題ないのかもしれない。
ほとんどのものがカメラや携帯電話を掲げている中、『彼』だけは鳥居など興味がないとでも言いたげに前へ前へと突き進んでいた。
風が吹くたび草木が揺れ、季節の虫が声を鳴らす。
観光客の話し声も、しかし山頂に近づくにつれ薄れていった。
自分の吐息と石を踏みしめる音が規則的に鼓膜へと届く。中盤に差し掛かれば鳥居だけをカメラに収めたかっただけの観光客はもういない。前を向いても後ろを向いても一人か二人、いるかいないかだった。
本当なら自分の他にもう一人来るはずだった。
最愛で敬愛し、後にも先にもあの人以上の存在に出会うことは不可能と思わせる存在。
伽藍堂の自分を満たしてくれた唯一の人間──否、唯一地上で出会える神様。
なにも一番になりたいわけではなかった。あの人の隣に並ぶことも望まず、ただその背中を崇拝できればよかったのだ。それ以上は望まない。それ以上は欲さない。だからその背中に跪かせてくれと、そう願った。
あの人はそれを良しとし、自分もまた自然と依存していった。
あの頃はいつになく幸福だった。
愛しいあの人の後ろについていけることが嬉しくて、羨望の眼差しを向けながらただ付いていく人生が華やかで。この時間が一生続くことを、本当に願っていた。
しかし。その関係を壊したのは、たった一人の男だった。
そいつはあの人を人間に堕とした。
自分にとっての神様を、人間へと成り下げたあげくその隣を歩いている。笑いあっている。
そんなことはあってはならない。そんなことは存在してはならない。
誰もあの人の隣に立つことは許されない。誰もあの人と対等になることは許されない。あの人の特別になることなんて、絶対、絶対に許してはならない。
しかし、あの人は笑っていた。
人間に成り下がり、人間として笑っていた。
それを見て、あの人も人間だったと思い出した。自分が、自分たちがかってに崇拝してただけの、人間だった。
そう思うと、また彼の胸に風穴が開いていた。
山頂の一歩手前。四ツ辻では街並みが一望できた。
そこだけ木々が薙ぎ払われたかのように街まで見下ろせる景色は、世界最高峰の画家がつい筆を走らせたかのように美しい。その画家はいつになく上機嫌で、愛しい誰かを思い浮かべながら描いたのであろう。でなければこんな、こんな。
──蒼天の空と絡まる街並みを何よりも遠いとは感じないはずだ。
手を伸ばしても届かず、歩み寄っても近づかず。自分という存在があまりにちっぽけに思える情景で。
愛しいからといって側に居られるわけではない。愛しいからこそ離れなければならないこともこの世にはある。
誰よりも遠く、何よりも遠く。けれどそこに負の感情はない。
悲痛も悲壮も悲観もない。ただ、愛おしいという思いだけで描いたたった一枚の絵。
木々のさざめく音を聞いていれば、彼の頬に光の筋が伝っていた。
ただじっとそこに立ち、背後を過ぎ去る人に目も向けず。徐々に暗くなりつつある空色を眺めながら、その時を待った。
観光名所であっても山頂付近であれば人が少ないと先ほども言ったように、まばらにいた人々もライトアップにはまだ早い時間帯では減っていく。
人の声も気配もなにもかも。なくなる瞬間がそっと訪れた。
柵を越え、崖の前で立ち止まる。昼間とはまるで別人のような景色にもう一度目を向けた。
そして、納得する。
画家は自分だと。
この景色は自分の心情だと。
遠い、けれど愛おしい。それを美しいと思い続け、やがて廃れていった過去を。
この景色は一番幸せだったあの頃の、幻想だ。
彼の胸は、いつしか満たされていた。あの人に声をかけられた時のように、ずっしりとした重みを持って。地に足がついた状態で、ふと、笑みをこぼす。
そして、
「──さようなら、先生」
それだけを残して、彼──蜩火雨は宙に身を躍らせた。