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 ──一体どうして、こうなった。
 縁は腕のない手で顔を覆う代わりに、盛大な溜息を吐いた。湯を弾く黒い翼からは雫が垂れ、腰に巻いているタオルはすっかり冷たくなってしまった。
「……なんなんだ。こいつは」
 時刻は午後七時。この時間に鞍馬に来る客などそういる筈もなく、脱衣所には縁ともう一人の客しかいなかった。その客はいま、縁の目の前で倒れている。
 ゆでだこのように真っ赤になったその青年は、先ほどから縁が脚で小突いてもびくともしない。ただ単にのぼせただけなら放っておいてもいいのだが、そうできない理由が縁にはあった。
「……ん」
 すると不意に、青年の口元が動いたと思えば、ごろりと気持ちよさそうに寝返りをうった。その瞬間、何かが縁の中で切れた。
 ゆらりと立ち上がり、ふーと長い息を吐く。そして、脱衣所に怒号が響いた。
「さっさと起きねぇか! このクソガキ!」
 鞭のように縁の脚がしなったかと思えば、倒れていた青年が吹っ飛ぶ。して、悲鳴とともに青年は洗面台の方へと消えていった。
「いだぁーーーー!?」
 何が起こったのか分からない青年は、暫くその場で辺りを見回す。その体は複数の目玉で覆われており、ぎょろぎょろとひっきりなしに動いていた。
 しかし仁王立ちする縁を捉えると、青年はヒッと短い悲鳴を漏らして固まる。怒りを露わにする縁に圧倒され、その目は潤いを見せていた。
「おい、そこのクソガキ百目」
 縁は青年の元へ近づくと、その後ろの壁を蹴った。
「助けといて、この返しか。てめぇ、殺される覚悟はできているんだろうなぁ?」
「へっ? 助け? 返し? 一体なんのこと……」
「ほう、どうやら頭ものぼせたらしいな。水風呂に沈めてやろうか? あ?」
 縁はぎろりと琥珀色の瞳で青年を睨むと、その顔を覗き込んだ。
「俺の妖力を奪ったんだ。てめぇがな」
 神気と妖気に満ち溢れたキョウト府は、人ならざる者が暮らすのには最適だ。しかし、人でなくても場を弁えるという行為はいつだって潜在するもの。
 だからこそ、縁は助けた相手に妖力を奪われるなど、想像すらしていなかった。
 縁はその場に青年を正座させ、不機嫌そうにここまでの経緯を説明した。
「俺、湯舟、入る。てめぇ、溺れている、担ぐ。ここまで分かるな?」
「いや、なんで片言……」
「馬鹿にも分かるように言ってやってんだ。感謝しやがれ」
 そのまま縁は続けた。
「俺、お前、触る。妖力、吸い取られた。以上が経緯だ」
 実に端的に、かつ合理的に縁が説明を終えた。すると青年はまるでこうなることを知っていたかのように、落胆して下を向いた。
「あー……。やっちゃった……」
「あ? やっちゃったってなんだ。おい、こっち向け」
 縁が言うや否や、青年は両手を床につくと、深々と頭を下げた。
「すいません。それ、ボクの体質のせいなんです」
「体質だと?」縁が怪訝な顔をすると、青年は説明した。
「生まれつき、他者の妖力を奪ってしまうんです。自分の意思とは裏腹に。でもここ最近、特にそれが酷くなってきてしまって……。その時に、ここの温泉を知ったんです」
 それを訊き、縁は一人納得した。
 ここ、鞍馬山というのは天狗の加護がある。日本三大妖に入る種族であるため、その力は病気を治すだとか、妖力を増すなど妖に何らかの影響を与えるほどだ。
 どうやらこの青年も、その噂を聞いてやってきた一人に違いない。しかし、今の縁にとってそんなことはどうでもよかった。
「つまりはなにか? お前が馬鹿みてぇにぼーっとしていたせいで、無関係な俺が巻きこまれた。いわゆる事故だと言いてぇのか?」
「そ、そうなりますね……」
「なにが、そうなりますね、だ」
「いだっ!」
 縁が青年の額を蹴ると、青年はその場に蹲った。縁は青年の頭を上げさせ、腕のない肩を見せつけた。
「いいか、クソガキ。俺は生まれつき腕が無い。その分、俺は妖力に頼って暮らしている。腕の代わりに風を吹かせてな。しかし先ほど試してみたが、風を起こせねぇほど俺の妖力が吸われていたことが分かった。お陰で着替えすらままならねぇんだよ」
 言い終わってから、縁は軽く舌打ちした。
 妖において、五体不満足というのはすなわち、その名に傷をつけるという意味でもある。古来より妖というのは、人間よりも優位な存在であり続けなければならない。故に、無事に生まれることすらままならない存在と、妖としては差別の対象となるのだ。
 差別されるのは慣れたが、相変わらず身の上を話すというのは慣れないものだ。状況を説明するためとはいえ、こんな子どもにつらつらと話してしまったことを、縁は少し後悔した。
「生まれつき……」
 青年が縁の言葉を繰り返す。自分なりに解釈をつけているのだろうか。
 縁は理解を求めるつもりは無かった。ただ、吸い取られた妖力さえ戻ればそれでいい。
 蔑むなり、嫌悪するなり好きにしろ。そう思ったときだった。
「じゃあ、戻るまでボクが手伝います」
 数秒が数分にも感じられるほどの静寂が流れた。無機質に回り続ける扇風機の羽音だけが響く。
 いま、こいつはなんて言った?
「は?」
「だから、ボクがあなたの手になりますよう。お詫びに」
 縁が間の抜けた返事をするが、青年はあたかも当然といった表情で縁に笑いかけた。
「あぁ、そうか。いや、そうなんだな。お前、生粋の馬鹿か」
「え!? なんでそういう反応になるんですか!?」
「ったりまえだ! なんでわざわざ俺が、お前と過ごさなきゃならねぇ! 俺は妖力を返してくれればそれでいいんだよ!」
「そ、そんなこと言われましても、コントロールできませんし」
「あ?」
「吸い取った妖力は確かにボクの体内にありますが、そこから先のコントロールはできないんです。だからボクは、この温泉にきたんですよ」
 青年は涙が潤んだ目で縁を見上げる。その一つ一つが癇に障り、縁はもう一度青年を蹴った。
「だから痛いですって! 謝りますから、それ止めてください!」
「てめぇの策略にハマった気がしてムカつくんだよ」
「策略ってなんですか! 悪気は無かったんです!」
「じゃあもっと後ろめたそうにしやがれってんだ!」
 二人しかいないのを良いことに、脱衣所では暫く怒号が響き渡っていた。
「あんたらうるさい! 外まで聞こえているんだよ!」
 不意に張りのある女将の声がして、二人はぐっと言葉を飲み込んだ。縁は盛大な溜息を吐いて、その場に座り込む。そのまま石造のように固まった。
「……あの」
「話しかけんな。死ね」
「言葉の暴力……」
 スンスンと可愛げのない涙を流しながら、青年もその場から動かない。着替えることができない縁を気遣ってか、青年は縁と同じように腰にタオルを巻いたままだ。
 大の大人が脱衣所で裸とは。なんだこれ、と縁は自分が馬鹿らしくなってしまい、諦めたような笑みを浮かべた。
「……おい、クソガキ」
「えっ、あ、はい」
「俺は砂糖が嫌いだ。甘ったるいだけの食い物を出したら殺す。服は勝手に洗濯するんじゃねぇ、皺ができる。それと……」
「ちょっとまってください! え?」
 何の前置きもなく、次々と出される命令に青年は首を傾げた。
「なんだ、ゴミクズ」
「す、隙あらば悪口って……。え、それじゃあ」
「てめぇの提案を呑むっていってんだ。ただし、俺は借りを作るつもりはねぇ」
 そういうと縁は青年を足で指した。
「てめぇの特異体質の治し方、探してやる」
 何の感情もなく放った言葉だが、青年の瞳の色が変わった。
「だからさっさと、俺の妖力を返してもら……」
「本当ですか!?」
 青年はがばりと勢いよく立ち上がった。座っていたせいで分からなかったが、青年の身長は縁を優に超え、頭部二つ分の差はあった。
 気づきたくなかった事実に、縁は更に顔を苦くさせた。
「ありがとうございます! あの、色々頑張ります!」
「やる気を出すな。暑苦しい。お前、名前は」
「め、眼目です」
「は? めめ?」
「百目なので」
「……安直だな」
「え、そうですか?」
「まぁ、いい。とりあえず、着替え手伝え」
 縁と眼目、二人の不便な日常が始まろうとしていた。