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 夕刻。八月ともなれどまだ蒸し暑いこの時期。匕(さじ)夕一(ゆういち)は極楽寺駅で江ノ電から下車すると、ホームから出口へ向かう。そうして改札を抜ければ、すぐに石段とスロープが見えて、駅の外へと出た。
「あっついなぁ」
 高校指定のブレザーの首元を掴んでパタパタとさせると、彼は一度天を仰いだ。時刻は現在六時半を回ったところである。蒼い空に橙色のやわらかい光が差して、溜息が出るほどに美しい夕焼け空がそこには広がっていた。今日のように部活が遅くならなければ、きっと見ることは叶わなかった景色である。
 夕一は視線を落として、古い丸型の朱いポストの前を通り、帰路を進む。
 こうして近くの橋まで差し掛かった時だった。
 ふと、夕一は欄干の側で誰かがじっと佇んでいることに気が付いた。よく確認すれば、それは白いワンピースを着た女性だった。UFOのような鍔のついた帽子を目深に被っているため、表情などは分からない。直立したまま微動だにせず、ただ長い黒髪をそよ風に泳がせていた。
 こんな時間に一人で橋の上にいるなんて不思議な人もいるものだ。そう思いながら、夕一は帰路の橋を渡ろうと、女性の前を通り過ぎようとした。
 刹那、
「……こんばんは」
 か細くも、艶のある声で女性が言った。
「えっ」
 話しかけられた驚きの余り、夕一は思わず足を止め、彼女の顔を凝視した。帽子の下にある瞳はとても澄んでおり、綺麗な顔立ちであることが分かった。しかし、夕日によってオレンジに染まっている頬はそれでもやけに白く見え、表情からは感情が読めなかった。
「あ、はい……こんばんは」
 夕一は困惑しながらも、挨拶の言葉を返す。
 すると、女性は静かに口を開いた。
「ねえ、お願いがあるの」
「お願い……?」
 眉をひそめる夕一を見つめ、女性が告げる。
「カンカントンネルに連れていって」
「え」
 カンカントンネル――それは、こちらの極楽寺側と打越側を繋いでいる小さなトンネルだ。それ故に、打越トンネルなどとも呼ばれている。中は照明こそあれ、かなり暗く、気温も低い場所であると夕一は記憶している。小学生のころの肝試し大会以来、彼は一度も訪れたことはなかった。鎌倉時代の武士の霊や、白い服を着た女の霊が出るという噂は、噂にしては目撃情報が多いこともあり、近づかない方がいいという思いもあったからだ。
 白い服を着た女の幽霊――まさに彼が想像するような女性が、そんないわくつきのトンネルへ行きたいと言っている。彼は怪訝そうに目を細めた。
「どうして、そんな場所に?」
 夕一の問いに、女性が答えることはなく、
「連れていって」
 と、ただ無表情のまま、そう言うだけだった。
 断った方が良い、と夕一は考えた。距離はそこまで遠くないが、家とは反対方向だからだ。
 しかし、見回しても周囲に人の姿がないこの状況。彼女が困っているところに丁度、自分が差し掛かったのだという考えが彼の脳裏をよぎった。困っている人をそのまま放っておけるほど、彼は非情にはなれない。幽霊を怖がっていられるほど若くもなかった。
「分かりました。案内します」
 夕一はゆっくりと歩き出し、橋を渡った先で背後を振り返る。
 女性が音もなく、ぴったりと背後についていたことにぎょっとしつつも、彼は平静を装うように前を向いて、再び歩を進めた。
 そうして稲村ケ崎小学校を越えてから細い道を辿り、月影地蔵堂なる小さなお堂をさらに越えて、二輪車でなければ通行できないくらいに細くなった道路を歩き続けること十分。
 夕日がさらに傾いてきたところで、夕一の前に一つのトンネルが姿を現した。
 今まで通ってきた住宅街の景色に突然、ぽっかりと口を開けているソレは、さながら異世界への入り口のようで、彼は目の前まで近づくと足を止める。
 奥を覗けば、打越側の出口から夕日に染まった道路が見えた。鉄板が張り巡らされた、暗くて不気味な内部は、彼の小学時代の記憶と一致していた。
「着きましたよ」
 そこでようやく彼は、橋を最後に一度も振り返ることのなかった背後を顧みた。
 
 ――だが、そこに女性の姿はなかった。
 
 立ち尽くすこと数秒、彼の口から小さな声が漏れる。
「えっ」
 女性の足音は小さいながらも確かに今の今まで聞こえていた。なのに、背後にいないとはどういうことか。狐につままれたとはまさにこのことである。
 奇怪なり、と彼が正面を向いた瞬間、
「うわぁっ!」
 と、驚きの余り一歩後ずさった。
 たった数センチの距離、夕一の目と鼻の先に白いワンピース姿の女性が立っていたのだ。
 いつの間に移動したのか。彼がそんな疑問を抱くよりも早く、彼女はそのか細い腕で、夕一の手首を掴む。
「えっ!?」
 突然腕を掴まれたこと、そして自身の腕を掴んでいる彼女の手が死人のように冷たいことに思わず彼は目を見開く。
 直後、女性はくるりとトンネルの方を向いて、ゆっくりと足を踏み出した。夕一は足を踏ん張って抵抗しようとするが、不思議なことに彼女が一歩進む度、滑るように彼の身体はトンネルの奥へと引きずり込まれてゆく。
 全身の毛が逆立つような不快感に合わせて、彼は本能で身の危険を感じた。
「――っ!」
 夕一は咄嗟に、掴まれている自身の腕を大きく振る。すると冷たい手の感触はいとも簡単に、するりと離れた。刹那、夕一は反射的に極楽寺側の出口へ、脱兎の如く駆け出す。彼は何も考えられなかった。ただ、夕日に染まる元の世界へ戻るのに必死だった。
 出口まであと少し。彼は一種の安堵にも似た感情を抱いた。
 
 その時――突然、彼の左の足首辺りを〝何か〟が掴んだ。強い力だった。
 
 視界がぐらりと歪み、彼は自身が転倒したことに気が付くまで一秒の刻を要した。その際に擦りむいた膝の痛みを感じる余裕もなかった。
 彼は慌てて、自身の足を確認する。そして、息を呑んだ。
 視線の先、あの女性が四つん這いになって自身の左足を掴んでいる。にいっと笑いながら、彼女は帽子の鍔から覗かせた血走った眼で、こちらを見つめていた。
 夕一はその光景に強い恐怖を覚えた。
「ひいっ」
 引きつった声が口をついて出るのと同時、夕一は女性の手を引きはがそうともがく。が、先程とは打って変わって、彼女の握力は強く、いくら彼が暴れようとも彼女の手は離れなかった。それどころか、女性にぐいっと足を引っ張られ、夕一の身体は少しずつ、再びトンネルの奥へと引きずられてゆく。
「い、いやだ……いやだいやだっ!」
 出口の光がゆっくりと遠ざかる中、彼は自由な右足で、掴まれている足ごと女性の手を幾度も蹴った。右足のかかとが左足に直撃する度に痛みを感じたが、彼はそれに構うことなく、必死に、執拗に蹴り続けた。
 しかし女性の手は依然として足から離れず、彼を暗い穴の奥へと誘う。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
 夕一は涙目になりながら叫び声を上げる。そして今まで以上に思いっきり、右足で踏みつけるように女性の手を蹴り下ろした。左足への鈍い痛みと引き換えに、確かな手ごたえが返ってくる。
 ――途端に、足首を掴む女性の手が若干緩んだ。
 その隙を逃すことなく、もう一度右足で彼女の手を蹴りつける。こうして左足から完全に手を引きはがすことに成功した彼は、悲鳴を上げながら走り出した。
 鉄板だらけの空間を駆ける途中、彼の背後でカンカン、という音が響いた。鉄板を何かが叩くような音だった。だが、彼が振り返ることはない。
 次の瞬間、絶叫と共に夕一はトンネルから飛び出す。そのまま彼は迷いなく走り続け、トンネルが見えなくなっても、その足を止めることはなかった。