父に揺さぶられ、神谷 優は重たい瞼を開けた先に広がっていたのは煙だった。
部屋の上部を侵食し、焼け焦げた匂いが充満する。徐々に覚醒する脳が急激に危険信号を打ち上げた。
パニックになりかけた脳だが、父の大きな手が頭を鷲掴み、顔を布団に押し付けた。もがいたところで叶うはずもなく、早まる心臓を無視しながら抵抗をやめる。抵抗の意思がないとわかると、父は腕の力を抜き、髪を乱雑に撫でた。
「火元はわからん。多分下だ」
「下って……ならどこに逃げれば」
「避難通路を使う」
ここは六階建マンションの四階。火元が三階ならば避難通路を通って階段を降りた方が安全だろう。しかしもしも火元が一階なのであれば、逃げたところで火に突っ込むようなもの。
そんな危険な賭けに乗れるほど勇気もなければ能天気でもなかった。
「で、でも、救助の方が早くない?」
出来るだけ危険を回避しようと提案するが、父は仏頂面の顔を顰めて舌打ちをした。
「確証はあるか?」
「ない、けど」
「なら行くぞ」
そう言うと父親は掛け布団を口に当てて部屋から飛び出した。優も慌てて父親の後ろについていく。
広がるのは煙だけで特に熱さは感じないが、煙たさと息苦しさが相まって頭がクラクラと揺れ動く。何度も咳き込み何度も立ち止まる。その度に父親が無理やり手を引いてくるが、言ってしまえば救助を待ちたかった。
部屋を出て、突き当たりの避難用通路にたどり着く。身を低くしながら歩くため進みはかなり遅い。転びそうになる体をなんとか保ち、父親は避難用通路の扉に手をかけた。
すると、
「おかあさん! おかあさん!」
聞いたことのある少女の声が鼓膜を震わせた。
その子は隣に住む小学生の女の子で、両親は共働き。夜まで帰ってこないのだと話していた。
声を聞く限り両親はまだ帰ってきていない。父親もその声が聞こえたのか、扉を開けたまま止まっていた。
「父さん……」
「……」
父親は数秒間固まっていると、諦めたように息を吐いた。
「俺が助ける。お前は先に行け」
父親はそれだけ言うと静止も聞かずに踵を返して走っていった。
このまま逃げる? しかしこのまま逃げるのは父親と少女を見捨てることとなる。助かる確証もなければ死ぬ確証もない。それに優が行ったところで助かる確率が上がるわけでもない。それなら父親一人で行った方が足手まといにならない。父親はいつだって冷静で俊敏だ。のろまな優がいるだけで負担が増えるだけだ。
優は何度も何度も逡巡し、歯を食いしばりながら避難用通路に足を踏み入れた。
そこにはすでに避難を開始しているひとたちが何人もい、我先にと揉みくちゃになっていた。満員電車のように敷き詰められてはいないため、押されたものは転んだりぶつかったりと、二次災害が起きている。誰も父親のように冷静にはなれていない。
優は覚悟を決めてその集団の中に無理やり肩を入れ流れに乗る。女性の悲鳴。男性の怒声。子供の泣き声が響き渡り、充満する煙も相まって苛立ちが徐々に溜まってきた。
すると、
「どけどけ! こんなんじゃ誰も助かりはしねえ! おれが先に行く!」
背後から大声をあげて人を押し倒していく男性。優もその勢いに押しつぶされる。重心がよろけ、バランスが崩れる。そのまま受け身を取ることもできずに階段から転げ落ちた。肺が圧迫され、息苦しさが増す。足と腕をぶつけたらしく、かなりの激痛が優を襲った。そっと瞼を持ち上げれば、地面にポタポタと血液が垂れる。どうやら額を切ったらしい。
その場がシン……と静まり返る。皆が突き飛ばした男性を責め立てるように見つめ、男性は居心地が悪そうに眉をひそめた。
「お、お前がのろまなのが行けねえんだ!」
男性はそう言い残し階段を駆け下りていった。
数人の女性が優を労わるように駆け寄ってくる。優はなるべく笑顔で応じ、肩を貸してもらった。皆は冷水を浴びたように冷静になり、先ほどまであった阿鼻叫喚はなくなっていた。
なんとか外までたどり着き、女性らとは救急車の前で別れた。
額を切ったにしろさして深くはない。救急隊員にガーゼを貼ってもらうと、礼を言って立ち去った。
父親はまだ帰らない。
少女の姿も見えない。
不安は時が刻まれるごとに増し、徐々にもしものことを考えてしまう。けれど、あの時優が残ったからと言ってできることは何もない。老人を背負うならまだしも、少女一人、父親が簡単に担いでいける。
しかし後悔は募るばかりで。あの時怖気づいてついていけなかった自分が不甲斐なくて。
そう思うと涙がそっと溢れてきた。拭っても拭っても止まらず、徐々に嗚咽も混ざっていく。
死んでほしくないと、そう願う。助かって欲しいと、そう懇願する。
仏頂面だが優しい父を、返して欲しいと、優は初めて神に祈った。
「おい」
聞き慣れた声が頭上から浴びせられる。
勢いよく顔を上げると、煤で汚れた父が泣きわめく少女を片手に睨んでいた。
「なにしけたツラしてんだ」
「だって……」
それ以上、言葉は出なかった。
言葉の代わりに嗚咽がもれ、父親は呆れたようにため息を吐いた。そして優の頭に手を乗せる。
「よく頑張った」
父親はそれだけ言うと、少女を救急車まで運ぶため、その場を離れた。
父親の手の温もりが、じんわりと頭に残り、いつまでたっても消えることはなかった。