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 まだ眠気の残る目を擦りながら、台所に向かう。
 やかんに火をかけ、まな板を出して大根を細切りにする。鍋と味噌も用意する。
「お姉ちゃん、おはよう」
 琴音の声が部屋のほうから聞こえた。振り返ると、寝ぐせをつけた妹が立ってた。
「あら。おはよう、起こしちゃった?」
「ううん。トイレ行きたくて」
 琴音はトイレに入ってった。
 やかんから甲高い音がして、お湯が沸いた。味噌を掬うためにスプーンを取り出す――その瞬間、スマホから聞いたことのない音が大きく鳴り出した。いや、これって!
「あっ」
 足元がふらついて転びそうになった。けど、私つまづいたりしたわけじゃなかった。
 バランスが崩されるように床が横に揺れる。それに耐えようとした途端にさらに大きな揺れに襲われる。立っていられない。ひざをついて屈む。
「お姉ちゃん! すごい地震!」
 トイレの中から琴音が叫ぶ。
「何かに掴まってなさい!」
 まな板の上の包丁が、揺れのせいでだんだん私のほうに寄ってくる。落ちそうだ。
 台に手をついて、なんとか立ち上がる。まな板ごと弾くようにしてシンクの中に落とした。
「あっ、ガス!」
 中腰のままコンロに横歩きする。なんとか栓を閉めた。
 あとは台所から逃げなくちゃ。赤ちゃん歩きで移動する。こっちのほうが早く進める。
「お姉ちゃん大丈夫!?」
 揺れはまだ収まらない。トイレの狭い空間の中だと琴音も不安なのかもしれない。
「大丈夫よ、うちは落ちてくるものないから……」
 部屋に入って布団までたどり着いた瞬間、台所で大きな音がした。
 見るとやかんが床に落ちて、お湯がぶちまけられてた。
「すごい音したよ!?」
 ドアが開く音がした。琴音が出てきたみたい。
「琴音、大人しくしてなさいって」
「やだっ」
 まだ揺れる家の中を、琴音が壁つたいに歩いてくる。
「うわっ」
「あぶないっ」
 琴音は広がってきたお湯に滑って、尻もちをついた。
「なにやってんのよ……、危ないからこっちきなさい」
 琴音に手を伸ばして、引っ張ってあげた。
「ありがとうお姉ちゃん」
 テーブルの下に潜ろうとしたけど、うちのテーブルは小さいから一人分のスペースしかない。琴音を入れてあげて、私は布団を何重にも重ねてその下に潜る。
 じっとしてるとだんだん揺れは収まっていく。弱くなるとときはあっさりだ。
「もう収まったんじゃない?」
 布団をどけて立ち上がる。一瞬、まだ揺れてるのかと思ったけど、揺れてる感覚が残ってるだけみたいだった。
 すぐにテレビをつけたら、ニュースが放送されてた。震源地は伊豆の海。津波の危険があると言われてる。うちから伊豆は遠くないけど、海からは離れてるから非難はしなくても大丈夫そうだ。
「びっくりした。お姉ちゃん、怪我しなかった――」
 棚の上からカラーボックスが落ちてきて、琴音が潜ってるテーブルの真横に落ちた。
「大丈夫!?」
「びっくりしたあ、平気だよ!」
 ああ、よかった……。琴音はテーブルの下から出てきた。
「脚持ってたら危なかったよ」
「え?」
 琴音は私に抱きつきながら言った。
「うん。学校でさ、地震が起きたら机の下に入って、机の脚を持つようにって言われなかった?」
 そういえば小学校のときに、担任の先生がそんなことを言ってた気がする。
「覚えてるかも」
「今そうしてたら、手に当たってたかもなって」
「確かに! 机の脚持つのも考えものなのかもね」
「内側に取手があればいいんだけど、そんな机見たことないよね」
 賢い妹ね。
 布団にくるまるっていう選択肢も間違ってはないのかもしれにあ。でも実際にやってみると、周りの状況が掴めないし、閉鎖的な空間っていうのもあって、すごく怖かった。
 それにしても変な話だ。例えばすぐ非難したいのに、手が何かの下敷きになったら身動きがとれない。どうしてそんな危ない話を、学校で教えるんだろう。
「妹に間違った情報を吹き込んだ職員許せない……。よし、電話するわ。卒アル持ってきて」
「落ち着いてお姉ちゃん! またクレーマーとしての過ちを犯しちゃうよ!」
「はっ!」
 そうだった。私が妹を溺愛するあまり、今までいろんな人に迷惑ないいがかりをつけたせいで親戚から疎まれたんだった。そのせいで精神科を勧められたこともあるし、生活費の支援もろくにしてもらえてない……。災害時でも、この悔しさを忘れてはいけない。
 それに琴音にまで失望されたくない。
「ごめんね琴音。私、ちょっと動転しちゃった」
「いいよ別に。私のことを思ってのことだもんね」
 ああ、なんて可愛い妹なの。
「お姉ちゃんが安全な机作ってくれたらいいのに」
「家で? 仕事で?」
「そりゃ仕事で」
 いくらニトリに勤めてるっていっても、私はただの店員よ。
 でも、琴音が望むのなら……。
「いいわ、わかった。私、商品開発部を目指す!」
「冗談に決まってるじゃん……、でも、応援するよ」
「ありがとう、琴音」
 二人で抱き合ってると、足元に冷たい何かがぶつかってきた。見ると、水だった。
 地震でぐちゃぐちゃになった床を見る。さっきこぼしたお湯が水になって、どんどん広がってる。
「あ、片づけなきゃ」
「手伝うよ」
 今日も仲良くひもじく、生きています。