読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 落ち着いた色の照明の下、俺は透明なケースの中で横たわっている展示物に目を奪われていた。
「すげぇ……」
 ぽかん、と口を開けている俺の視線の先にあるのは一振りの太刀だ。
 二尺六寸四分――約八十センチメートルの刀身は細いながらも大きく反っており、小乱れの刃文がライトの光に煌めいている。それは、あの天下五剣の一つにして日本の国宝。刀銘は三条宗近、またの名を三日月宗近という。何でも平安時代に打たれた太刀らしいのだが、千年以上が経過した現在でも白刃は美しく研ぎ澄まされていた。
 きっと保存方法が良いのだろう。
 ここ――上野にある東京国立博物館は刀剣に限らず、展示物はしっかりと管理されている。そのおかげで、遥か昔の貴重な資料が現代まで形を残している。こんなに素晴らしいことはない。
 そこで、俺は背後に人の気配を感じた。博物館なのだから、周りに人がいるのは当たり前だ。そろそろ移動しないと迷惑になりそうだと思い、俺は少し名残惜しそうに三日月宗近から離れようとして、
「やっぱり課題のテーマは日本刀かい?」
 と聞こえてきた声によって引き留められた。
 背後を向けばクラスメイトの友人が、少し呆れたような顔で佇んでいる。男にしてはやや長めの髪に、細身の体をした幼馴染。
 高森伊織。それがこいつの名前である。
 俺は頷きながら、ケースの中の国宝を改めて見つめて答える。
「ああ。この三日月宗近について色々書こうかな、って」
「あはは。舜は本当に刀が好きなんだね」
「だってカッコいいじゃん」
「まあ、否定はしないよ」
「だろ? これなら、いくらでも課題書ける自信あるぜ」
 課題。いわゆるレポートというやつで、この国立博物館の中から一つ展示物を選び、それについて色々なことを調べ、まとめなければならない。これは日本史か世界史のどちらかを専攻した生徒にもれなく課される。期限は一週間だ。
 だが正直、俺はこの手の宿題が得意だった。元々、自分の意見を文字に起こすのが好きなんだと思う。必修のためにやらなければならない数学の問題集を解くのに、かなりの時間をかけていることからもそれは明白だ。
 加えて、俺は刀剣――特に日本刀――が好きだった。博物館の入場料も結構バカにならないので、最近はこういうところを訪れることも少なくなってしまったが、小学生のころなどはよく両親に日本刀が展示されている場所へ連れて行ってもらったものだ。将来は日本刀に関わる職に就きたいと考えているくらいには、刀剣オタクと言って問題ないだろう。家にはお年玉や小遣い、そして最近はバイトで貯めたお金で買った居合練習用の打刀がある。両親も初めは驚いていたが、今では諦めたようにそれらを置くことを許してくれている。そんな想いに答えたいという願望もあって、俺は目の前の課題を〝自分の大好きな日本刀〟で切り抜けようとしているのだ。
 伊織はそんな俺から、三日月宗近に目をやって、
「羨ましい」
 そう口にした。
「何が?」
「舜には夢中になれるものがあって羨ましい」
「なるほど。そういや、お前って飽きっぽいもんなあ」
「ああ……課題どうしようかな。僕は何を選んだらいいと思う?」
 その言葉に、俺は頭を抱えざるを得ない。やっぱり日本刀でしょ、と真っ先に言えない辺り、俺は刀剣のことが好きなんだと再認識した。ここで伊織に日本刀を勧めて、やっぱり興味ないと言われ、後悔されるのが一番嫌だったのだ。
 とはいえ、俺が他に勧められるものはない。入館してすぐのところにあった大きな仏像や、この途中にあった螺鈿細工の箱などは調べてまとめるのが大変そうだし、国宝や重要文化財であるのは分かるが、正直刀剣たちに比べると興味を引かれなかった。
 俺は伊織に告げる。
「そりゃ、日本刀だろ」
 途端、伊織は口元を綻ばせた。
「やっぱり、そう言うよね」
「俺に聞いたってことは、その答えを待ってたんだろ?」
「まあ、待ってたというか、それしかないかな……と」
 そう告げて、伊織はじっと三日月宗近を見つめた。こいつの目には一体、日本刀がどのように見えているのか、ちょっと気になった。
 俺は何の気なしに口を開く。
「三日月宗近は良いぞ。天下五剣の中で最も美しいとされる太刀だ」
「へえ。天下五剣って?」
「室町時代の頃に名刀と謳われた五振りの刀だ。三日月宗近の他に、童子切安綱・鬼丸国綱・大典太光世・数珠丸恒次っていうのがある。あ、ちなみに全部太刀だからな。打刀じゃないぞ」
「僕には太刀も打刀も違いが分からないなぁ」
「簡単に言えば、刃を下に向けて展示されているのが太刀」
「えっ、そんな簡単な見分け方が……?」
「太刀は腰に下げるとき、刃を下にして鞘にしまうんだ。馬上で使うことを前提にしているのもあって、全体的に刃も長く、そして反ってるってわけ」
 なるほど、という小さな声が伊織から返ってくる。明らかに、先ほどまでの薄い感情とは違う。
 すると突如、伊織は俺を振り返って、
「ちょっと興味出てきたかも。意外と深い世界なんだね。僕も日本刀でレポートを書くよ」
「お、マジか。良かった。日本刀って結構歴史あるし、国宝クラスになれば文献とかもいっぱいあるから書きやすいと思うぜ」
 そう。日本刀を題材にする利点はここにある。太古の昔から現代に至るまでの歴史を記したものが残っているのだ。伊織に日本刀を課題のテーマとして勧めた理由の一つも、歴史を調べやすいというところにあった。
「ありがとう。何か分からないことがあったら、舜にまた聞いてもいいかい?」
「ああ、いいぜ。俺も分かる範囲でなら答えるぞ」
 後ろに少し列ができてしまっていたことに今気がついた。俺は伊織の服の袖を引っ張って、展示ケースの前から退いた。
 国宝にして最高峰の美を誇る刀剣、三日月宗近は来た者に等しく白刃の輝いている様を見せつけている。もうちょっと見たいという気もあったが、流石にこれ以上に本当に大迷惑なので止めた。代わりに、ふと隣を見れば友人は何やらメモに筆を走らせていた。
 どうやら三日月宗近についてのメモらしい。
 そんな姿を眺めながら、俺は伊織と刀剣の世界をもう少し巡ることにした。