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 ある初冬の日、俺はとある人物と新宿駅で待ち合わせをしていた。
「お待たせー」
 集合時間から十分遅れてやってきたのは、友達の郁菜だ。黒のタートルネックの上に黄色いセーター、さらにその上からベージュのコートを羽織り、下は紺色のガウチョパンツに、黒いブーツを履いている。
「それじゃ、行こうか」
 遅れてきておきながら謝りもしない郁菜にほんの少し憤りを感じつつ、俺たちは山手線に乗って上野駅まで移動した。上野公園の木々はほとんど葉を落とし、平日のためか人も多くはなかった。公園の景色を楽しむこと数分、俺たちはついに目的地に到達した。
 東京国立博物館。誰かと感動を共有したくて、俺が郁菜を誘った。
「けっこう大きい建物ね」
 正門から見える建物は左から表慶館、本館、東洋館だ。郁菜は主に西洋的な建造物である表慶館に目を引かれているようだったので、近づいて写真を撮った後、入ろうと思ったら閉館中で入れなかった。
「こればっかりは仕方ないよ」
 そこで俺たちはまず、期間限定で公開されている庭園に向かうことにした。
 入り口からまっすぐ道なりに歩くと、芝生の広場に出た。広場にはベンチが並んでおり、その目の前にはため池が広がってる。池を囲うのは様々な木々で、上野公園とは違い葉はまだ残っているものが多かった。ほとんどが針葉樹林だからだろう。池には鴨がたくさん泳いでおり、ときどき水のはねる音や鳴き声が庭園に響いた。
「これが日本庭園。西洋の庭園はビジュアルにこだわるけど、日本の庭園はむしろありのままの自然を楽しむための工夫が施されてるんだって」
「ふーん」
 俺の解説には興味なさそうな郁菜だったが、景観は気に入ったらしく、写真を何枚か撮り、ベンチに座ってその写真をチェックしていた。郁菜は屋外で何かを撮影するとき、スマホではなくミラーレス一眼カメラを使う。恐らく一時的なブームだろうから、使わなくなったら俺が貰おうと秘かに企んでいる。
「今日晴れてるから暖かいな」
「うん」
「はあ、のどかだ。平和だ」
「ねえ、そろそろ行こう」
 俺がベンチに座って庭園を眺めていると、郁菜が俺の肩を揺らしてきた。
「眠りそうだったよ」
「寝ないよ。ただちょっと、物思いに耽ってただけだから」
 それから俺たちは池の周りを一周した。庭園には五つの茶室があり、風情のある景色を彩る要素となっていた。
「ここに住みたいなあ」
 木々に囲まれた道すがらそう呟くと、郁菜の反応は無言で苦笑いしただけだった。俺たちの地元は同じで、二人とも田舎の出身だ。そのため昔から俺は自然を愛するタイプなのだが、郁菜は逆に、都会に対して強い憧れと執着を持っていた。
 二人の性格の違いは、いざ博物館の中に入ったときにも食い違うことになった。俺たちが最初に入ったのは東洋館で、中には石で作られた巨大な彫刻や子供ほどのサイズがあるつぼ、ミイラなどが展示されており、その存在感と何百年、何千年前に作られたという歴史的な重みに俺は息をのんだ。
 一方の郁菜は、それらの展示物に対して「大きい」「すごい」と感想を述べるだけで、むしろ興味を惹かれていたのは金のアクセサリーや古代の装飾品のほうだったらしく、まじまじとガラスケースの向こうを見つめていた。
 次に入ったのは本館で、俺が最も印象に残った展示物は、腕が何本も生えた仏様の像だった。俺は熱心な仏教徒でもないが、まるで今にも動き出しそうな貫禄があり、思わず手を合わせてしまった。他にも、男なら誰でも好きな日本刀や槍や鎧、初めて実物を見た屏風絵など、見どころは尽きなかった。郁菜は着物に目を輝かせていたが、他はほとんど退屈そうに展示物を眺めていた。
 三番目に入ったのは平成館で、ここでは縄文、弥生時代の土器や、古墳時代に作られた古墳の中に入っていた埴輪に心掴まれることになった。
「見て、馬の埴輪。かわいくない?」
 これだけは俺と郁菜の意見が一致した。
 大昔の勾玉やら銅剣やらに目を細める郁菜だったが、まったくその価値が理解できないというわけでもないらしく、「すごいね」と言う表情には、映画や漫画に出てくる「事情を把握していなくても事態の深刻さは感じ取っているサブキャラクター」のようだった。
 最後に、法隆寺宝物館に入った。ここは他の展示館とは明らかに雰囲気が違い、独特な静けさが館内を支配していた。そもそも人も少なく、展示品のバリエーションも少なかった。
 展示室にただひたすら人形サイズの仏像が並べられている、という壮大とも珍妙とも受け取れる空間を前にして、最初は神妙な面持ちで鑑賞していた俺でも、だんだん面白さが込み上げてきて、建物を出るころにはとうとう二人して無言の笑みを浮かべるようになった。
「なんかシュールな場所だったね」
「それな」
 なんだかんだ言って三時間以上かけて見て回った博物館から退場して、今日はお開きということで、俺と郁菜は上野駅に向かって歩いた。途中、国立西洋美術館の前で郁菜が、
「ここ、懐かしいね。覚えてる?」
 と、話しかけてきた。
「覚えてるよ」
 勿論覚えている。博物館に入るのは今日が初めてだったが、実は、美術館には過去に訪れたことがあるのだ。
 俺と郁菜は同じ中学で、修学旅行先が東京だった。同じ班だった俺たちは、自由行動の時間に美術館を訪問した。
「郁菜が行きたいって提案したんだよな」
 俺は乗り気じゃなかった。当時から趣味も嗜好も正反対だったが、今ではどうしてか腐れ縁の関係となっている。
「今日また、この場所での思い出が増えたな」
 この出来事もいつか、歴史となるのだろうか。歴史と思い出はよく似ている。過去の記録と、過去の記憶。博物館に展示されなくても、誰にも知られなくても、俺の心に保管されている大切な思い出は、ずっと消えずに残っていくだろう。