読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 日常の中の何気ない瞬間。その一瞬に、違和感を覚えたことはないだろうか。
 たとえば、昨日まであったモノが無くなっていたり、或いはその反対。
 たとえば、毎日会う友人の名前を忘れてしまったり、或いはその反対。
 たとえば――

「ん? 十二円少ないぞ……」

 ――たとえば、そう。財布の中身が違っていたり。

  ■■■

 八月二十八日、水曜日、早朝。
 親友の旭川翔と伏見稲荷大社に来ていた式守歩は、頂上付近の自販機でロイヤルミルクティーを買うべく小銭入れを開け、そこで違和感を覚えた。
「やっぱり十二円少ない……」
 小銭入れの中身が少なくなっていたのだ。
 いつもの彼なら自分の記憶違いか、と何事もなく目当ての品を買っていただろうが、今回は状況が違った。というのも、ここまで登ってくる途中、中腹にあった自販機でも、彼は買い物をしているのだった。参道の中腹でロイヤルミルクティーを買った時、彼の小銭入れの中には、五百円玉が一枚に百円玉が一枚、十円玉が二枚の合計六百二十円が入っていた。そして、ロイヤルミルクティーを買おうとしている今、変わらず、小銭入れの中には六百二十円が入っているはずだった。しかし、現状は五百円玉が一枚と十円玉が二枚しか残っていない。ジッパー式の彼の小銭入れでは道中中身が零れることはまずないし、スリ? いや、論外。いったいどこの世界に財布の中からわざわざ百円だけ抜き取るスリがいるのか。
「……もしいるなら会ってみたいな」
 自分の身に起きた小さな事件を忘れてスリに興味を持ち始めた歩に、幾本もの赤鳥居が立ち並ぶ階段の上から声が掛かる。
「式守、まだかい」
 歩の親友である旭川翔だ。
「ごめん、いま行くー」
 京都にある大学のサークルで出会った二人は、何かと馬が合い、名所巡りという共通の変わった趣味を持っていたこともあり講義のない日や休日はよく二人で出かけている。今日、伏見稲荷大社に来たのもその一環といってもいい。
 二人の石畳を叩く靴の音が、朝日を吸った朱色の鳥居に木霊する。
「君は歩くのが遅いねぇ。いつも僕の後ろにいないかい?」
「いや、旭川がハイペースなだけだろ。落ち着きのある見た目とは大違いだよ、ほんと」
「外見を判断基準にするのはどうかと思うよ、僕は。それより、ミルクティー狂の君が随分と悩んでいたみたいだけど、そんなに種類があったのかい?」
 涼しい顔してさらっと毒づく翔の、既に慣れてしまったそんな言葉に、歩はさっきの出来事を思い出し、再び小銭入れの中を確認する。
「いやさ、実はちょっとおかしなことがあって――」
 小銭入れから親友に視線を戻すため振り返ろうとした歩は、一瞬、わけが分からなくなった。自身が置かれた状況に理解が追い付かなくなった。
(あれ、俺……)
 危うく停止しかけた脳を無理矢理回転させ、思考する。
(伏見稲荷にいたよな、俺……)
 そうだ、教授の都合によって休講になった水曜に、旭川翔と朝から伏見稲荷大社の参道を歩いていた。
(ん、夢か……?)
 ついさっき、ほんの一瞬前まで千本鳥居の下にいた歩は、だが今は、どういうわけか、どういった理屈か、喫茶店のテーブル席に座っている。向かいには、さっきまで前を歩いていた翔が、優雅にカップを傾けている。
(なんでこんな見覚えのない場所に……いや……)見覚えはある。ここは、二人が大学終わりによく足を運ぶ喫茶店『文化堂珈琲』だ。しかし、だからといって何も解決はしていなかった。伏見稲荷から文化堂珈琲まで、直線距離にしても七キロはある。一体どうやって……。
「それで僕は思ったんだ。実は犬じゃなくて――」
「なあ旭川、何で俺たちここにいるんだ……?」
 翔の話を制して恐る恐る聞く歩に、翔は一瞬目を見開いたのち、手に持っていたカップを置いて――
「――何か」
 ゆっくりと、静かに返す。
「何か、違和感を覚えたことはないかい」

  ■■■

 天井から下がっている三枚羽のプロペラがゆっくり回っている、レトロで落ち着いた店内。普段は、少なからず三人は客の入っている店内に、今は歩と翔、カウンター内でサイフォンを拭いている初老の店長の三人だけ。
「違和感……?」
 混乱している状況下で唐突に振られた疑問に、歩は疑問で返してしまった。疑問で返してから思い出した。
「……金がなくなってた」
「うん、詳しく」
「自販機でミルクティーを買おうとして財布を開けたら、百円なくなってたんだ」
「それも違和感の一つではあるが、欲しい回答はそれじゃあない。うん、そうだな。少し話でもしようか」
 翔はそういうと、ミルク入りのコーヒーを一口飲み、話し始めた。
「君は、きっと僕の知っている式守じゃあない。僕も君のよく知る僕じゃあない」
「は、なにを言って――」
「迷い込んでしまったんだよ、君は」
 なんだ、俺をおちょくっているのか? そう考える歩を置いて、翔は続ける。
「例えば、南禅寺の水道橋、その柱の本数が日によって違うと言ったら、驚くかい?」
「だからなにを――」
 たまに可笑しなことを言う翔だが、真剣な顔で冗談を言う姿を目の前に、歩は再度混乱を覚えた。だが、そんな親友を「そうなるのも当然」というような目で一瞥し、翔は話を進める。
「二条城の本丸前にある門、その装飾の蝶が日によって変化すると言ったら?」
「なあ、今はそれどころじゃないんだ。俺たちは確かに伏見稲荷に――」
「東大寺の柱くぐり。数か月に一度、別の柱に穴が開くのは?」
「…………いや、知らない」
 なおも続ける翔に、歩は諦めて大人しく従うことにした。
 歩の答えに、翔は「じゃあ」と続ける。
「バタフライ効果は知っているかい?」
「それなら……ほんの小さな出来事でも、それが起こった時とそうでない時でその後の結果が大きく異なる……ってやつだろ」
 歩の答えに、翔は笑顔で「その通り」と頷き、カップに手を伸ばす。
「少し難しい話をするね。まず、世界というのが選択によって分岐するってことを知ってもらいたい。例えば……」
 そう言うと、翔は手に持っていたカップを口には運ばずにテーブルの上へと戻した。
「僕は今、コーヒーを飲まない、という選択をした。その瞬間、世界は、僕がコーヒーを飲まなかった世界線と、飲んだという世界線の二つに分裂したんだ」
「シュタゲでみた」
「全く、話が早くて助かるよ」
 歩の言葉に、翔はやれやれ台無しだ、といった表情で再びカップに手を掛ける。翔がコーヒーを飲み終えたのを見計らって歩が口を開く。
「……戻れるのか?」
「戻れる。でも、その為にはきっかけを知る必要がある。だからもう一度聞くよ……。何か違和感はなかったかい?」
「違和感……」
「こっちの世界に飛ばされる前後で思い当たる節が、必ずあるはずだよ。よく思い出して」
 親友の優心を含んだ瞳を前に、歩は記憶を辿る。
(自販機でミルクティー買おうとして、それで財布の金が減ってて……いや、それは違うって言われたしなぁ……)
「んん~~、わからない!」
 頭を掻きむしる歩。彼をなだめるように翔は言う。
「飛ばされる前後のわずかな時間に違和感があったはずなんだ。よく思い返してみて」
「飛ばされる前後……」
「そうだ」
「お前……旭川と話してて……」
「うん」
「そこでも金が減った話をしようとして、財布を覗いて、それから……」
「それから?」
「お前の方を見ようと振り……」
 ……振り返った……?
 いや、旭川は俺の前を歩いていたはず。
 旭川を見るなら、そのまま顔を上げるだけでいいのに、なぜ振り返ろうと思った?
 なんだ、この、違和か…………ッ!?
「見つけたぞ! お前の言ってた違和感を!!」
 バン、とテーブルに手をつき立ち上がった歩に、翔は口角を少し吊り上げながら応える。
「うん、じゃあ、その場所に行こうか」

  ■■■

 真上に昇っている太陽。その光で深紅に染まる千本鳥居の中を歩と翔は歩いていた。
「遅いぞ、旭川」
 翔の数歩前を歩く歩が振り返りながら親友を見る。
「ハァ……少し、待ってくれないかい。どうも今日は、ハァ……調子が悪いみたいでね」
「旭川らしくないなぁ。いつもとは立場が逆だな!」
「まあそう言わないでくれよ。おや、自販機があるじゃあないか、少し待っていてくれ」
 翔は階段を数段登り始めている歩に目も向けずそう言うと、自動販売機へと足を運んだ。
「君も何か買うかい? おお、ロイヤルミルクティーがあるよ」
「いんや、大丈夫」
 歩の返事に翔は、少し残念そうに「そうかい」と返し、二人は再び歩を進める。
「もうすぐだぞ、旭川」
「そうか、もうすぐか。それにしても、喫茶店で突然『何でここにいるんだ?』なんて言われて、正直僕は困ったんだよ?」
 笑って言う翔に、歩も「そんなこと言われてもなぁ」と同じく笑って返す。
 二人の石畳を叩く靴の音が、陽光を反射し深紅に染まった鳥居に木霊する。
「だが、まあ、僕もよく分からないけど……何だか楽しかったよ」
 翔に、唐突にそんなことを言われ、歩はふと、お礼を言っていなかったことに気が付く。
「なあ旭川……、今日は色々とありが――」
 そう言いながら振り返るが、そこに親友の姿はなかった。
 さっきまで会話をしていたはずの人間が、消えていた。
「……あ、旭川ぁぁああぁぁああ……!!」
 叫んでも返事は返ってはこない。
 そうは分かっていても、歩は叫ばずにはいられなかった。
 しかし、驚くことに。
「どうかしたかい、式守」
 返ってきたのだ、返事は。
 歩は声のした方向、階段上へと振り返る。
 そこには、後ろにいたはずの親友の姿があった。
「旭、川……」
「君が頂上に忘れ物をしたというから、こうしてまた千本鳥居をくぐっているというのに。本当に君は歩くのが遅いねぇ。そんなに僕の後ろが好きなのかい?」
 そう、つらつらと文句を連ねる親友に、歩は、
「なあ旭川……」
 彼には言えなかった言葉を紡ぐ。
「――ありがとうな」
 だが、式守歩はまだ気づいていない。最初の違和感、百円玉の行方に――。