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 幼い頃から、博物館という場所が好きだった。
 僕がこの世に生をうけるよりも前の時代の痕跡が展示された空間に身を置いていると、自分が長い時代の、広い宇宙のひとかけらでしかないことを思い知らされるかのようで、少し、気が楽になる。将来の夢がなくとも、好きな人がいなくとも、結局最後は無機質な骨に還るだけ。そう考えると、些末な悩み事に煩わされずに済むからだ。
 僕は眼前のショウケースへと目をやった。
 今日は、東京国立博物館にて四七年ぶりに開催されているというきもの展へと足を運んできていた。四季それぞれをモチーフにした刺繍が区切られて施された、安土桃山時代を象徴するというデザイン。江戸文化の多様性を象徴するような、華美な絵画めいた装飾。それらの着物を順に眺めながら辿っていくと、やがて展示品は現代に近いものへと転じていった。
「――へえ」
 僕は思わず、感嘆の声を漏らしていた。それは京の都を彷彿とさせるような、精緻な意匠があしらわれた着付けの組み合わせだった。
「綺麗、ですよね」
 唐突に、横合いから女性の声がした。最初は自分にかけられたものだとは理解できずに無視していたが、そのセリフを受けるはずの相方の声がいつまでも返ってこなかったため、僕はその声の方角へと振り向いた。
 女性と目が合う。精緻な人物画じみた、整った面立ち。かえって現実感を欠いた美麗さを纏う人だった。
 こういった場で知らない人から話しかけられるのは、初めての経験ではなかった。以前に巨大な劇場に演劇鑑賞に行ったときも、隣席に腰掛けた貴婦人から「本日はよろしくお願いします」と声をかけられたことがある。それが、いわゆる『格調高い人種』の行動様式としては不自然ではないのだろうなという認識は、僕の中には存在した。
 だから僕は怖じ気づくことなく言葉を返そうと思ったが、
「また、着てみたいなあ」
 そんな言葉に、遮られてしまった。
「……また?」
「ええ」
 確かに、彼女ほどのルックスの持ち主なら、これを合わせても違和感は生じないだろう。しかし、これを纏った経験がある、というような口振りは、展示品に対しての一種の冒涜ではないだろうか。そう感じて口を噤むと、彼女はしみじみとした表情でそれに視線を這わせた。
「あの頃は、街が綺麗でした。暗い噂が行き交えど、皆一様に、同じ未来を見すえておりました。佳き時代、でした」
 どこでもない虚空を見つめながら、随分と芝居がかった口調で彼女は語る。まだ二十代ぐらいだろうに、何を知ったような口を、と反発したい気持ちが湧いた。
「貴方は、今のこの国が好きですか」彼女が問いかけてくる。
「……別に、嫌いじゃないです。でも、貴女みたいな訳の分からない絡み方をしてくる大人は苦手です」
 すると彼女は、そう、と艶然と微笑んだ。そして、
「なら、よかった」
 と言い残し、す――と虚空に消えていった。

 あれが何だったのか、今となっても正体は分からない。
 夏の暑さが見せた幻覚だったのか、思春期の抑圧された性衝動が産んだ青い妄想の産物だったのか――あるいは、いつしかの時代を生き抜いた、ひとりの女の子だったのか。
 けれど、分からないままで良いのだと思えた。
 過去となっても、残り続けるものは確かにあるのだから。