「美しい光を見た人」
人が多い場所は昔から嫌いだった。学校や駅、店なども例外ではない。生活に必要のない、博物館などは、もってのほかだ。
だのに私は東京国立博物館を訪れていた。
つい溜息を吐いてしまう。
たまらなく気が重い。今にも泣き出しそうな曇天がそれを助長していた。
「帰りたい……」
ひとりごちる。しかし図ったように風にかき消された。
私は眼前の本館を睨めつけた。大学の講義の一環でなければ、近寄ることすらしなかっただろう。知らず固唾を飲み込んだ。
「……よし。早く回って早く帰ろう」
意気込んで、一歩踏み出した。
「――もし」
男の人の声がした。私はふと足を止めてしまう。
気がつくと本館の出入り口の傍に人影があった。身の丈はあまりないけれど、肩幅から男性だと窺えた。よくよく目を凝らして、刀を佩いていることを知った。
認識した途端に心臓が早鐘を打つ。
男と視線が交差する。その口が弧を描く。先ほどと同じ声が耳を打つ。
「おれを見たな」
私は一も二もなく逃げ出そうとした。踵を返して男に背を向けた。
すると目と鼻の先に男の顔があった。
「おい。娘、しっかり息をしろ」
男の言葉にハッとする。
私はいつの間にか座り込んでいた。他の客が遠巻きにしている。
正面の男が私を見下ろして言う。
「息を吐け。そして吸え。ゆっくりでいい」
言われるがまま、深く息を吐いて、大きく吸い込んだ。そうして私は気がつく。つかの間だけど呼吸をしていなかった。
「ふむ。おれの声も聞けるか。面妖な娘よ」
「……幽霊のあなたに言われたくない」
「違いない」男は涼やかな目を細めた。
なんとか腰を上げて、重い足取りでベンチへ移動する。木製の座面に着席すると、私は頭を抱えて溜息を吐いた。
死者に目をつけられてしまった。生者の前で挙動不審になってしまった。
これだから人の多い場所は嫌いだ。
「さぞ難儀な人生だろう。彼岸の者を認識するとは」
私は横に立つ男を睨んだ。知ったような口振りに虫唾が走る。
手提げ鞄からスマートフォンを取り出して耳に当てる。
「何が望み?」
早口で問うた。男が私を一瞥する。私の目線は移っていない。
「さすがに話が早いな。では手短に言おう。おれをあの建物の中へ招き入れてほしい」
男の顔の正面は本館へ向いていた。それに私は目を瞬かせてしまう。
「あなたひとりで入れないの?」
「何度も試みた。だが叶わなかった。だからおれは、おれを見る者を探した。そうして、娘、そなたと目が合った」
「……そう。そういうこと。わかった。あなたの望みを叶えてあげる。だから、叶ったら、私を解放すると約束して」
「よかろう。約束する。おれの念願が叶うのならば」
念願。この男の未練か。
改めて男の装いを見る。鎧を纏う彼は武士に違いない。けれど被り物は烏帽子だ。おそらく戦国時代の人ではない。
そんな武人が博物館に何の用だろう。
「目的は何?」
男は口の端をつり上げた。
「おれを斬った刀だ」
そのいびつな笑顔に背筋が凍る。私はとんでもない約束をしてしまったかもしれない。
幽霊は基本的に現世(うつしよ)のものに干渉できない。彼らが常世のものだからだ。ところが強い思いが稀に影響を及ぼすことがある。
己を害したと言った。ならばきっと怨みがある。
もしや刀を壊すつもりだろうか。
「……壊そうって言うの?」
尋ねたが返答はなかった。男はただ笑っていた。私はつい舌打ちをしてしまう。
カムフラージュのためのスマホを鞄に戻す。すぐさま立ち上がって足早に本館へ歩を進めた。
「娘」
ガラス扉をくぐるなり男に呼ばれる。顧みると扉の直前で突っ立っていた。
招き入れるだけだ。それだけで私は自由になる。刀の損壊なんて私には関係ない。
わかっている。だが躊躇ってしまう。
「娘、約束だ」
再び男が私を呼ぶ。急き立てられて、とうとう口にする。
「お入りください」
「礼を言う」言うや否や男はあの笑みを浮かべた。
次の瞬間、突風が起こった。風が止んだときには、そこに男の姿はなかった。
「あの男……!」
私は男を探して駆け出す。
男は刀の展示場所に佇んでいた。一振りの刀だけをただ眺めていた。
並んで私も展示物を見やる。するとまばゆい光が目に飛び込んできた。なんてことはない。鋼の刃が照明を反射しているのだ。
誇らしそうに男が言う。
「美しいだろう。目が眩むのも無理はない。おれもこの輝きにしてやられた」
視界の端に光の粒を捉える。さながら蛍のようだ。
「あんまりまぶしくて、目に焼きついて、眠れなかった。もう一度見れば治まるだろうかと、ここに来たのだ。ただそれだけなのだ」
「……もう眠れそう?」
「ああ。やはりまぶしくて叶わないが。なぜだろうな。今ならば穏やかに眠れそうだ」
男の声が遠くなっていく。トンネルにいるみたいに反響して聞こえる。
「手間をかけさせたな。感謝するぞ、娘。返せるものなどないが、せめてそなたの今後の人生に、多くの幸があることを祈ろう」
最後に見たのは、先ほどとは違う穏やかな笑顔だった。
「おやすみなさい」
(了)