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物語創作抗議
『皿を食む』 著:鈴木たろう

 妻と娘がこちらを見て笑っている。
 僕は見ていられないから、視線をそらした。
 左手には朝から開いたままの窓が街を縁取っている。僕の住む坂の上にあるマンション、ここから坂の下に続いている道を見下ろすと、傘を差した親子が紫陽花を見て談笑している。
 視線を元に戻すと、やはり妻と娘は笑っている。窓から流れ込む湿った風が蟀谷を触ると、その生ぬるさに汗が滲み出る。僕は窓を閉めた。そのままその風が、立てたばかりの線香を濡らしてしまう気がしたのだ。笑顔が綺麗に撮れている写真も濡れてしまっては困る。
 僕は仏壇周りを掃除していた。しかし、彼女らの笑顔が僕の手を止めるのだ。もう少し話しかけてやればよかったのだと今更にも後悔するので、つい仏壇の前に置かれた座布団に座っては話しかけてしまった。
「僕は、君が居ないと何もできないのだ」
 彼女たちが返事をすることはない。変わらない笑顔で僕を嘲っているようにも見える。それで構わない。
 失ってから気付くもの、なんて大雑把な言葉があったものだが、僕がそれを体験するとは思わなかったし、したくなかった。しかし、そう思っていいほどの努力を僕はしていなかった。彼女たちのいる暮らしは決して不幸せなものではなかったし、幸せだったのだと思うけれど、僕は幸福感の中で、その幸せを忘れてしまっていたのだ。僕の不注意さえなければ、彼女たちは枠の中ではなく、まだ僕の横で笑ってくれているのだ。
 今、僕が涙を流したところで、それは自分の不甲斐なさに対するものであり、彼女たちの慈しみのためではない。そんな目で見てあげられるほど、僕は立派な人間じゃなかったのだ。泣く権利などない。情けない涙も流したくはない。
 いい加減、掃除をしようと思う。何かをしていないと、居たたまれないのだ。
 一人で暮らす、ということをすっかり忘れていた僕は、三人で暮らしていた部屋に取り残され、僕の周りには同情するようにゴミが埋め尽くしている。いや、僕が寂しさを紛らわせるために埋めたのだったろうか。そんなものはもう要らないのだ。
 妻が死ぬ前から日頃、僕は片付けをしていた。その気でいた。僕がやっている方付けと言えば、ゴミを袋やゴミ箱に入れ、その際に分別をしながら置く程度のことである。ゴミ出しは僕の出勤する方向とは真逆に回収が来る場所が設けられていて、そちらの方向には娘の小学校があり、妻が娘を途中まで見送りに行くついでにゴミを出してくれていた。
 そんなものだからゴミ出しの曜日も分からず、加えて塞ぎがちになってしまった僕のコミュニケーション能力は著しく低下しているものだから、周りにそんなことを聞くことさえできなかった。
 料理もしないので洗い物は出ない。キッチンのシンクだけは生活感が感じられないほどに綺麗なままである。
 ゴミに混じって敷き詰められた服を拾い、臭いがきついものであったら洗いに出し、大丈夫そうならば着てしまう。どれが着たもので、どれが着ていないものだったかもわからないからこんなことをしている。
 皺くちゃになったティーシャツを床から拾い上げてはそれに着替え、寝間着を洗濯かごに放り込んだ。絨毯と化している布たちを片端から引きずり出し、それらも全て放り込んだ。洗わないよりは洗ってしまうほうがよいだろう。掃除を再開した。
 ゴミや服の片付けをしていると、僕のものではないものが出てきて、しばしば、娘の玩具を発掘し、泣きそうになるが、僕への責がそれを止める。
 妻が綺麗にしてくれていた床も、よく分からない染みがついているし、一体何汚れなのかをスマートフォンで調べながら必要なものを探すが、掃除用品なんぞどこにあるかもわかったものではないので、仕方がないからあとで購入することにした。余計なものを買うと妻に怒られそうである。
 衣服の整頓が終わり、娘の玩具などは親戚の誰かに娘ができたという話を聞いたので、そちらに譲ろうと思う。
 しかし、まだまだ我が家のリビングには水面を張るようにゴミが漂っている。
 妻は服に頓着がなかったので、処分にはあまり困らなかった。しかし、彼女の趣味であるカメラへのこだわりは果てしなく、寝室に置かれた防湿庫にはとてつもない数のレンズが並んでいる。何がそんなに違うのか、僕にはわからない。レンズを取り出そうとすると、ものすごい剣幕で怒ったものだから、僕はそれ以来そのパンドラの箱には近づくことはなかった。
 今や煩く言う人もいないので、こっそり取り出しても構わないと思ったが、いつの間にかパンドラの箱には錠がかけてあったのだ。娘の悪戯が及ばないようにしてあるものなのだろうが、彼女も死ぬことはわかっていなかったので、誰にもその錠を開ける鍵の居場所を伝えなかったのである。
 机の中、棚の中、彼女の隠していたヘソクリの近く、色々なところを探したが鍵らしきものは見つからず、残るはこのゴミの大海原であり、鍵なんて小さいものは無数に落ちているコンビニのビニール袋なんかにに入り込んでしまっているかもしれない。とても大きなため息が出てくるのを何とか飲み込んだ。
 僕は大きなゴミ袋を数枚用意し、得意げに分別をしながら海の水を汲んでいくのである。しかし海は広大であり、汲めども水嵩は減らない。誰かに頼ろうにも、勤めていた会社を鬱になってからは行けずに、そのまま辞めてしまったおかげで、今では関りなどないので宛てがない。
 一人で海を汲み上げた暁には神様と奉られても構わないのではないだろうか。しかし、この大海原を創り上げた神もまた僕である。なんて無意味なことを繰り返しているのだろう。
 しかし、世界は創造と破壊を繰り返して形成されているはずだ。実に自然なことなのだ。そう納得することで、自分に対する情けなさがこれ以上に積み上がることを防いだ。
 いつ終わるかもわからないこの作業の途中、ビニール袋のゴミを持ち上げると何か乾いた金属音が響いた。落下した鍵の音である。僕はついに広大な大海原で一つの宝を見つけたのだ。どこかの漫画のような設定になってしまっていた。
 鍵を手にして燥いで喜んでいたが、あのパンドラの箱を開けたところで特に喜びを見いだせないことにようやく気付いたのである。中にあるレンズを取り出しても、きっと悲しさで溢れるだけだろう。僕は寝室に入り、鍵を防湿庫の上に置こうとした。しかし、埃だらけの手から鍵は滑り出し、防湿庫の下に入り込んでしまった。膝をつき、鍵を取り出さんと背を曲げてのぞき込むと、鍵の横で鈍く黒光りする虫が居た。
 ゴキブリである。
 僕は幼少期から、昆虫採集やザリガニ釣りが趣味の腕白な子供であった。昆虫採集の標的として、その黒いのも例外ではない。あの黒い虫が持つ艶やかさを孕む翅の輝きと、珍妙で不規則な動きをする長い触角、昆虫とは思えない素早さ、あらゆる点に興味を持っていた。素手で捕まえるのも厭わなかった僕は、周りからは怪訝に思われていたに違いない。
 そんな幼少期を過ごしていたある日、一人で留守番することになった。
 腹が空いたからキッチンに立つも料理ができないので、買い置きされていたカップ麺を食べることにしたが、蓋を開けたところで電気ポットの中には湯が残っていないことに気が付いた。僕は電気ポットに水を加え、当時は何と読むか分からなかった急騰と書かれたボタンを押し、しばらく実家の中をぐるぐるして暇をつぶした。間もなく、電気ポットから湯が沸いたのを知らせる電子音のクラシックが鳴り響いたので、キッチンへ戻り、半分開いたカップ麺に急いで湯を注いだ。蓋を箸で抑え、三分間を自分で数えては蓋を開け、混ぜ込み、ずるりと掻き込んだ。
 しかし、本来カップ麺にはあるはずのないプチプチとした感触が口の中で弾ける。こんなものだったかと不思議に思って箸を止めるが、もう手遅れであった。スープにはゴキブリが浮いて出てきていたのだ。
 どうやら蓋を開けて放置している間に侵入していたのである。確認もせず混ぜ込んでしまったので、気付くことはなく、口の中で弾けた食感はそのゴキブリが抱えていた卵であった。
 以来、僕はゴキブリが嫌いである。その時の記憶は思い出したくもないのでこれ以上は語らないが、世界でゴキブリの卵の食感を知っている人間は有数であろう。
「ひぇっ」
 情けない声とともに後ろによろける。何を言わずとも、ゴミ屋敷と化した我が家でこいつが出没していなかったほうがおかしいのである。一匹見つけたらなんとやら、この家はもはや黒く光る巣窟と化しているのだろう。独りぼっちだと思っていた僕は、いつのまにか大家族になってしまっていたのだ。
 その一匹のゴキブリは警戒するどころか触角を防湿庫の下から覗かせ、様子を見るようにこちらへと姿を現した。
 しかし、こちらも怯むばかりではいけない。この家の家主は僕であり、奴らの支配からこの家を奪還せねばならないのだ。ベッドの上に広げてあった雑誌を手に取り、それを筒状に丸めてはゴキブリを仕留める準備をした。
 さぁ、開戦である。
 僕は強烈な一撃を奴に浴びせるべく勢いよく縦に雑誌を振り下ろすが、俊敏な奴の動きには僕の一打は遅すぎたようで、横に避けられてしまった。きっと、僕の心の中にあるゴキブリに対する畏怖がこの一撃を弱めたのだ。もう容赦はしない。
 次なる攻撃を繰り出そうとすると、ゴキブリは僕の首元めがけて飛んできたのだ。僕は叫んだ。ぎゃあぎゃあと喚きながら首から奴を振り払い、奴の脚の乗った感触を消すために、冷や汗で濡れては鳥肌の立った首筋を必死に擦った。
 そこからは防戦一方であった。何故か奴は攻撃的であり、こちらの必死な抵抗は悉く躱され、ついには引っ付いたまま、身体中を走り回り始めた。失神しそうな意識を引き留め、僕は一矢報いるため、素手で抵抗した。その手は走り回る奴をついに捕らえた。捕らえてしまった。
 手の中に奴を収めた僕は、慌て、今度は僕が走り回り始めた。手の中で蠢く感触をいち早く取り去るべく、家中を駆け巡って、ついに僕はリビングに置いてあった、いつ使ったか分からないガラスのコップを手に取り、その中に奴を放り込み、奴を閉じ込めた。閉じ込めたコップの口を下にし、リビングのテーブルの上に置いた。
 閉じ込めてどうするのだ。駆除でいいだろう。しかし、手の感触を忘れたい僕はそれどころではなく、執拗に手を洗ってからリビングへ戻った。
 戻ると、コップの中でゴキブリがちょこちょこと動いていた。コップの縁が少し欠けていたようで、そこから出られないのか脚を出しているように見えた。長く伸びた触角は、観察すればする程におぞましい動きを繰り出している。しばらく見ていると、ゴキブリが大人しくなった。触角だけを動かしながら、観念したようにこちらを見ているように見えたので、僕はゴキブリに語り掛けた。
「すまんな、僕は君たちのことが嫌いなんだ」
 やり切った気で、僕は翻り、身体中に残る感触と、嫌にかいた汗を流すべく、風呂場に向かおうとすると、どこからか声が聞こえた。
「見逃してくれないか」
 その声はなんだか曇っており、何やらガラスに包まれたような声であった。まさかと思って振り返る。そんな馬鹿な話があるものか。
「見逃しては、くれないか。アラタ」
 それは明らかにゴキブリが僕の名前を呼びながら喋っていた。

「……言語が変換されていないのか」
 何やら訳の分からないことをコップの中でぶつぶつとつぶやいている。ついに僕の頭がストレスで壊れてしまったのだろうか。妻と娘の顔を見る日もそう遠くないかもしれない。
「おい、アラタ。聞こえていないか」
 まだ幻聴が聞こえるものだから、仕方なく答えておく。どうせこの部屋には僕しかいないのだから、答えたって平気だろう。
「聞こえてるよ。なんだい」
「なんだ、聞こえてるのなら返事をしてほしいものだ」
 触角をすこし立たせながら喋りかけてくる。
「うるさいな。ゴキブリが喋るわけないし驚いてるんだ」
「その割には冷静じゃないか。しかし、言い争っている暇はないのだ、アラタ」
「さっきっから、なんで僕の名前を呼んでるんだよ。自己紹介した覚えはないぞ」
「そこに名札がぶら下がっているぞ。見たところ仕事を辞めたのだろう」
 いったい、こいつはいつから僕のことを見ていたのだ。
「失礼、私はプルプ。この生き物を依り代として寄生している。他の惑星からやってきた、君たちの言う宇宙人だ。私からすれば、君も宇宙人だがね」
 何を言い出すのかと思えば、僕の幻想は、なんだか出来の悪いSFみたいな設定を語り始める。
「何言ってるんだ、ゴキブリのくせに」
「まぁ、そうにしか見えないだろうが、私の背中をよく見てくれ」
 言われた通りに背中を見てみると、翅の付け根に青の光で点滅する、なにやら機械的なものが取り付けられていた。
「この装置が私をこの星の環境に適応させてくれている。寄生している分には平気なのだがね。さらに翻訳機としての機能とともに、ビーコンの役割をしている。信号を変えると、目的のために我が星の住民たちがこの星に移動を始める」
「目的……?」
「あぁ、そうだ。そのためにも私はここで死ぬわけにはいかないのだ」
 真面目なのか、ふざけているのか、ゴキブリの姿ではよくわからない。
「私たちの種族は先に言ったように寄生型なのだ。我が星にも先住民がいた。今も共存という形で寄生している。しかし、寄生先の種族の間で疫病が流行ってしまってね。手は尽くしたが、ほぼ絶滅するだろうという結論が出ている」
「だから、新しい寄生先を探せってことか?」
「そうだ。寄生先となり得る生物を探すために、私を含めた最後の派遣団数人が移住候補となる星に飛ばされた。各惑星に一人ずつ、無論この地球にも私一人で調査に来た。人間という種は私たちからして、寄生するにも最適であるという結論に至った。誰かが先に寄生しなくてはならないのだが、私は君に寄生するのに失敗したというところだ」
 ふざけた話である。攻撃的だったのはそのせいだったのか。
「つまり、人間に寄生するってことだろ? ゴキブリに寄生できるならなんで人間がいいんだ?」
「私たちが移住するにあたって、それは文明の著しい退化を意味する。知識だけは持っていけるが、そこまでの物資は持っては来れない。しかし、人間という高度な知識と文明を持っている生物が居て、それを利用できるのなら、こちらの種としては優位な立場で新しい文化をスタートできる」
「寄生された人間はどうなる」
「知的な種族というものに寄生した例は少ないから確証はないが、例外がないのであれば、記憶を維持したまま、中身は別のヒトに入れ替わる。人格が塗り替えられるということだ。数は約三百万、君たちにしたら少ない数だろう」
 僕が寄生されるだけで三百万の人々が気付かぬうちに見知らぬ異星人にすり替わっていたと考え、血が冷えるのを感じた。
「だめだ。僕の選択で三百万もの人を犠牲にはできないし、僕だって消えたくはない」
「しかし、私も退くわけにはいかないのだ。どうか、私の依り代となってはくれまいか」
 これ以上、僕から何を奪おうというのだ。
「いやだ、俺はまだ生き足りない」
「……あの写真、あれが君の妻子だろう」
 少しの間を置いて、プルプと名乗るゴキブリは言葉を吐いた。
「君にはもう、失うものがないじゃないか」
 実に、その通りであった。何を思うことがあろう、彼には守るべきものがある。僕は妻子を守ることなく失うべくして失ったのだ。彼は今、守るべくしてここに来ている。何もしていなかった僕なんかより、ずっと偉いじゃないか。
 何かを取り戻そうと掃除から始めていたけれど、そんなちっぽけな人間性なんぞ無理をしてまで手に入れる必要があるのか。果たして疑問に思えてきた。
 僕は、少し黙ってしまった。たかが一匹の虫けらの、たかが一言の刃で刺されているのである。
「……少し出かけてくる」
 僕は床に転がっていた漫画本を二冊手に取り、重石のようにコップの上に置いて、財布を手にしては玄関のほうへと向かう。
「アラタ。少し言いすぎたかもしれないが、私たちも必死なのだ」
 振り向くことなく、玄関を開けた。外はまだ雨が降っていた。

 傘も手に取ることなく、外に出てしまったものだから、少し濡れてからコンビニでビニール傘を買った。前に買ったビニール傘もくたびれていたので新調としては丁度いいだろう。
 酷く空しそうな表情をしているだろうから、その顔を隠しておきたい僕が選ぶべきはビニール傘ではなかった。しかし、収入源もないので贅沢は言っていられない。あのゴキブリを喋るゴキブリだと言って見世物にするのなら、少しは稼げるのだろうか。しかし、こんな僕が死ぬだけで一人が助かり、加えて三百万の命が助かるのならば甘んじて受けたほうがよいのであろう。だが、ようやく生きる勇気をつけた僕が、つけてしまった僕が、死ぬ勇気を持つことなど果てしなく先の話である。それに、僕の選択で人類の何人かが犠牲になるのだ。
 しばらく宛てなく歩いていると、公園で雨合羽を着た子供たちが遊んでいる。そのうちの一人である男の子が転んでしまったようで、うずくまっていた。いい大人が見過ごす訳にも行かないので、様子を見るように話しかけた。
「大丈夫かい、血が出てるじゃないか」
「滑ったぁ……」
 どうやら、雨でぬれたコンクリートで滑ったようだ。擦りむいた膝と脛を水道で洗わせ、持っていたハンカチで拭かせた。しかし、どうやら足を挫いて転んでしまったようで、そちらのほうが痛むらしく、しばらく動けそうになかった。
 心配していたが、最近の子供は小学生のうちから携帯電話を、それもスマートフォンを持たせてもらっているらしく、親に迎えに来てもらうように電話した。今でも僕はガラパゴスだというのに。生意気な小僧め。
 大人らしく、雨の日に遊びに出ることはやめなさいというほかに言うことはなかった。それだけを呟いて子供だけを置いていくのもよろしくないと思うが、よれよれのティーシャツを着て、無精ひげを蓄えた無職の男が一緒に居るのも不審極まりないのではないかと思い、どうしたものかと悩んでいると見覚えのある青いシャツにタイトなスラックスを履いた男が走って駆けつけてきた。
「大丈夫か~」
 その男は自分の息子であろう生意気スマホ少年の前まで来ては、こちらに礼を言って頭を下げるが、すぐその頭を上げた。
「アラタじゃないか!」
「おう、久しぶり」
 元同期であるコバヤシだった。

 歩けない息子をおぶったコバヤシに僕は彼の持ってきた大きめの傘を差し、共に彼の家のある商店街の近くへ向かう。
「なんだ、顔も見せないで連絡もなしに辞めるなんて、心配したんだぞ」
「いやぁ、ごめんよ。タバコ奢るから」
「タバコはだめだ。二人目できてんだ」
「おめでたか、じゃあ赤飯だな」
 子供のことを思い出して、ぼんやりとしているところで、コバヤシの声が僕の意識を引き戻した。
「……ごめんよ。奥さんと娘さんのことで辞めたんだろうにな」
「いや、僕が弱いだけだ」
「いやいやぁ。仕方がないと思うけどね」
 そうだろうか。僕が彼女たちを放っておかなければよかっただけなのではないだろうか。
「……そっちの仕事はどうしたんだ」
「あぁ、出てきただけだよ。今日やることも終わってるし、そんなきつい会社じゃないのも分かってるだろ」
「優しいな、お前は。俺は家族のために動くことはできなかったよ」
「お前なぁ、交通事故だろ? お前はその場にいなかったんだろ? 仕方ねぇ以外ないじゃねぇの」
「仕事ばかりで、その日も休みのはずなのに仕事してたんだ。一緒に行けてれば今頃――」
「埒あかん。あのな、お前は誰のために働いてたんだ。もうちょっとしたら三人で旅行したいとか、辞める前言ってたよな? その金集めるのに仕事取ってきて稼いでたんなら、立派な父親なんじゃねぇの?」
「それは……」
 コバヤシはおぶった息子を揺さぶり、話しかける。
「なぁ、シン。俺が遠くにお泊りでお出かけしようって言ったら、うれしいよな?」
「うん! あのねあのね、ホッカイドー行きたい!」
「そうかそうか。ただ、すぐには行けないからな。赤ちゃんが産まれて、大きくなってからだぞ」
 コバヤシはからからと笑った。
「ほれ、こんくらい喜んでくれるんだ。インドアなお前が旅行を選んだのも、彼女の写真趣味に合わせてなんだろ。少なくともお前は恨まれるようなことはしてねぇよ」
「そうか、ごめんよ」
「あぁあぁ、謝るな。もっと胸張れ。しばらくすれば立ち直るさ。部長はいつでも待ってるってよ」
「頑張るよ」
 いつの間にか、彼の家の前まで来ていた。おぶっていた息子を優しく降ろすと、彼は玄関まで息子の肩を支え、先に入っていろと促して、奥で休んでいる妻を呼び、一度こちらへ戻ってきた。
「まぁ、やりきれない気持ちはわかる。けどよ、奥さんが惚れたのは今みたいなお前じゃないだろ。そろそろしゃんとしろ、そんなんじゃ呪われるぞ」
「僕が変われるかは分からないよ」
「もうちょっと自分に甘くなるだけでいいのよ。それができないのなら、もっと人を頼れ」
 何も言えないでいると、会社に戻らないわけにもいかないと、コバヤシは忙しく家に戻っていった。彼の後ろ姿が扉で見えなくなると、彼が出てくるのも待たずにすぐ帰路へとついた。

 マンションに向かって、坂を上っていると雨が止んでいることに気付いた。
 少しの間外にいると、先までのゴキブリが喋る奇談なんて嘘に思えた。ドアを開けてはまだ散らかっている廊下を進む。しかし、リビングのテーブルには胡坐をかくように座るゴキブリの入ったコップがある。コップにはなにやら電子光が照り返している。
「何やってんだ」
「あぁ、いや。少し読書をしていただけだ。ちょうど今読み終えたところだ」
「……なんとも、まぁ」
「こんななりでも君たちと同じ、知的生命体だ。本ぐらい読ませてくれ」
 翅の付け根から伸びた背中のデバイスが、コップに文字を映し出しているようだった。ゴキブリの脚でコップに映った画面をスワイプして、画面を閉じたようだった。
 コバヤシに医者を紹介してもらうべきだっただろうか。
「どんな話なんだ」
「あぁ、よくある話だ。たった一人の戦士が民のために命を張る話で、まぁ、死んでしまうのだけれどね。しかも戦士の本意ではない形で民の命は救われるし、戦士が本当に必要な犠牲だったのかはよく分からない内容だったよ」
「なんだか、似てるな」
 ゴキブリが少し笑ったような気がした。
「まぁね、自分を鼓舞するために似たような立場の主人公の話を選んだだけだ。……まぁこのままそっくりに行くのであれば、私は死に、知らないところで民は救われるようだ。めでたしめでたし、という感じだ」
 胡坐からそのままひっくり返って、気持ちの悪い腹側をこちらに見せては脚をばたつかせる。
「まぁ、そう自棄になるな」
「お、なんだ。私の身体になってくれるのか」
 ゴキブリの身体がすごい勢いで起き上がる。
「いや、死にたくはないよ。この身体もあげない」
「なんだぁ。これでは民は根絶してしまうぞぉ」
 もう一度ゴキブリは仰向けになり、うがぁと叫ぶ。
「なんだか、さっきより緩くなったな。人っぽいよ」
「いや、私も考えたのだ。君の価値というものを」
 なんだか偉そうに語ろうとしているが、偉大なことのために働いている男の仕事ぶりなのだろうから、僕は大人しく聞くことにした。
「私たちの種族は、種として存続していく意思は強い。団結力もある。しかし、亡くなった者や、これから亡くなる者に対してそこまで慈しむことはできない」
「なんだ、家族ぐらい居ないのか」
「いないさ、産みの親はいるが、産んだというだけだ。私からしたら、君たち人間の、他人のことまでを慮る行為は、とても甘ったるく、傲慢なものだと思う。団結しているわけでもなく、自分に余裕もないのにどうしてそこまで他を愛せるのか」
「そんな人間は少ないと思うよ。僕もそうではない」
「いいや、君はそうではないだろう。見知らぬ異星人に身体を渡せと言われ、一瞬でも迷う奴こそ少ないだろう」
 自分の情けなさのあまり潰れかけていただけではなかろうか。そう口にするまでもなくプルプは続ける。
「まぁ、その調子で迷ってくれると助かったのだけれどね」
 僕はテレビをつけ、片付けの続きをしはじめた。
「しかし、まぁ汚いな」
 耳元で煩い蠅が飛ぶように、煩くゴキブリが口出しをする。
「そこ、なにやら液体が腐っていたから、気を付けて片付けたほうがいいぞ」
 言われた通りの場所が何やら臭いのは分かっていたが、なぜそこまでこの家に詳しいのだ。
「お前、どのくらいここにいるんだよ。時間がないんじゃなかったのか」
「観察し、寄生するにあたって適切かどうか判断するのも私の仕事だ。掃除ができないようじゃ、私たちのような高貴な存在の器としては相応しくないぞ~」
 なんだか調子に乗って話し始めたゴキブリに、読書でもしていろと促し、少し黙ったところで、僕の作業効率は飛躍的に上昇した。
 僕はゴミ袋を次々とゴミ一杯で膨らませ、ついに床全面が見えるまでに掃除をした。外はすっかり暗くなっていて、掃除の途中、五時を知らせるチャイムが鳴っていたような気がしたのを思い出して時計を見ると、針は六時を指していた。
 換気のために窓を開けると、意外に涼しい風が流れてくる。
 すると、腹が空いていることに気付いた。財布を握り、飯を買いに行くことにした。
「飯を買ってくる。そういえばお前は何か食わなくていいのか? あるなら買ってくるぞ」
「あぁ、気にしないでも持ち込んだ食糧がこのデバイスに保管されている」
 便利だな。そんな技術は人間社会を取り込んだところで復旧できるとは思えないが、何か秘訣でもあるのだろう。
「そうだ、ノリというものは美味いな。ゴミにへばりついているものを拾って食ったが、好きだぞ、あの、野菜というのか?」
「あぁ、海苔か。海藻だ。海に生えてる草だよ。じゃあいつも通りで済みそうだな」
 しかし、その食べ方は本当にゴキブリなのではないか。きっと寄生する前も虫のような見た目に違いない。
「しかし、お前は……」
「なんだ?」
 また、プルプが笑った気がした。彼は先ほどより朗らかな雰囲気を纏っている気がした。
「いや、なんでもないよ。いってらっしゃい」
「家族みたいに振舞うんじゃない」
 テレビを消そうとリモコンを握ったが、彼が暇にならぬようにつけたままにしておくことにした。
「いってきます」

 死ぬ、死なないには関わらず、腹が減ったら飯を食いたい。僕は日頃通っている商店街近くの弁当屋についた。ここに通い始めたのは妻を亡くしてからである。
「あ! いらっしゃいアラタさん、今日はノリ弁残ってるよ!」
 店先で雨が跳ねて泥のかかってしまったのであろう看板を、タオルで丁寧に拭いているエプロン姿の女子が、こちらに振り向いて頭に巻いた三角巾を直し、元気に笑っている。
「あぁ、カワタさん。今日は大学の授業は終わったのかい」
「もう夏休みですよ。試験も終わったので、サボって早めの夏休みですけど。うちの大学、夏休み短いんで少しでも長く、と思いまして」
 にかにかと喋りながら、立ち上がり、少し進むとドアを開けて店の中へ招いてくれた。
「今日はなんだか元気なさそうですね。どうしたんですか?」
「いや、特に気にするほどのことでもないんだけどもね」
 カワタさんには僕の妻子のことや大体のことは喋ってしまっている。特に気が許せるだとか、そういうわけでもないのだけれども、彼女は両親を早くに亡くしているので、親戚の援助はあるものの、自力で稼ごうと必死に暮らしているものだから、同情のあまりつい喋ってしまった。しかし、僕はそんなに立派ではないことにこの前気付いた。
「アラタさん、少し、こう、柔らかくなりましたね」
「何がだい?」
「表情と言いますか、雰囲気といいますか。とにかく、何かいいことでもありましたか?」
 いいことなんてあるものか。異星人との死闘を繰り広げ、とんでもない量のゴミを片付けた僕のどこにいいことがあったのだろうか。
「あまり、塞ぎがちにならないでくださいね。アラタさんはもっと笑うべきです」
 にかにかと続ける。
「きっと、素敵ですよ」
 そう言って彼女はノリ弁をビニール袋に包み、こちらに差し出すので、僕はお釣りなしでぴったりと支払い、続けた。
「僕は、笑ってていいんだろうか。僕はまともに生きることから、妻と子供の死を理由に逃げ続け、人に迷惑もかけていたとも思う。そんな僕が笑ってて、どこかで必然に死んでいく人が居るのなら、僕のほうが死んだ方がいいのかもしれない」
「……アラタさん、外、行こうか」
 会計を終え、レシートを握りしめながらドアを開け、外で水たまりに反射した電光をめでなぞって待っていると、ほかの客の会計で遅れたカワタさんが裏口から出てきた。
 人が居る店内で話すことではないのは分かった。店の雰囲気も悪くしてしまうことを考えていなかったことを反省はするつもりでいると、やはりカワタさんはにかにかと笑ってはいなかった。
「安く、死ぬとか言わんでください」
 彼女の声は震えていた。泣いているようだけれど、心配をするには人間が足りない気がして声をかけられなかったし、泣かせているのは自分だということに遅れて気付いた。
「誰かが、貴方を必要としていたら、って考えたことありますか」
 そんなこと、あるわけがない。あらゆる関係を断ち、こんな不潔極まりない格好でうろつく無職に、この世界からの需要があるわけがない。
「少なからず、私はアラタさんに生きててほしいと思ってますよ」
「……え?」
「アラタさんは、自分で思ってるより優しいんですよ。甘ったるいほどに優しいんです」
 そんなことがあるものか。自分の思い通りにいくように動いているだけで、自分を思っていつも生きてきたはずだ。結局、自分が悲しいだけで落ち込んでいるのだ。
「以前に、見知らぬだろうお婆さんに、自転車が壊れてしまったと尋ねられたアラタさんを見ました。そのころは名前も知りませんでしたが、今時珍しくガラケーなんて持ってたんで、よく覚えてます」
「随分、前ですね」
「随分前ですよ。必死に手を油まみれにしてチェーンを回してて、結局自転車を担いで近くの直せる場所まで持ってったんですよね、あれ」
「そりゃ――」
「当たり前だと思いましたよね。普通の人はそんなことまでしませんよ。あなたはとても優しい人ですよ。ほら」
 そういって彼女は店の前のコンクリートの隙間に咲く一輪のドクダミを指さした。
「あなたはいつもあの花を避けていたし、なんならまだ花ですらないのにわざわざ避けて、かわいいですよね」
 ようやく彼女はにかにかと笑った。
 それはわざわざ踏むのも可哀想だろう。
「とにかく、あなたは真面目で優しいが故に、全部自分のせいにする。自分がやらなきゃいけないことだと思い込みすぎている。話してて、いつもそう思います」
「いや、それは全部僕のせいで……」
「もっと、人に寄りかかってください。いずれ潰れて、本当に死んじゃいますよ」
 少し歩こうという旨の誘いを受け、夕闇が混じり街灯が点々とし始めた商店街を並んで歩いた。
「うちの親が早くに死んだことは言いましたね」
「うん。小学生のころだっけ」
「はい。母が死んで、数日のうちに父が後を追ったんです」
 そんなに重いものだとは思っていなかったので、私は握りしめたレシートをクシャクシャと鳴らしながら聞き続けた。
「子供をおいて死ぬような親なんて、酷いですよね」
「まぁ、それはね。さすがに」
「アラタさんは、奥さんと娘さんの二人とも亡くなられたているって話を聞いたとき、いつかアラタさんも追いかけてしまうんじゃないかと不安でした。まだ不安ですけど」
「僕に死ぬ勇気がなかっただけだよ。痛いのは怖いし、未知の体験もやっぱり怖いから決意を濁らせるんだ」
「生きてるだけましです。死んだら誰とも話せません」
「話す相手も居ないんだ。生きてる意味もないのに、なんでここまで生きてきてしまったかね」
「意味はなくても、アラタさんには生きる価値はあります」
 彼女は三角巾を頭から取り外しては振り回し、鼻歌を混じりで少し跳ねながら歩く。
 そして振り返っていった。
「私がアラタさんの生きる意味になれれば良いんですけどね」
「それは……」
 にかにかと笑う頬がいつもより赤い。
「いいんですいいんです、今じゃなくても、なれなくても。少なくとも、貴方は私の生きる意味にはなってるから」
 鼻歌を続けて前に向きを直す。彼女の鼻歌は少し震えていた。
「ノリ弁買いに来てくださいね」
 振り返ったと思ったら、いつの間にか三角巾を頭につけていて、いつものにかにかでこちらを見ていた。
「行くよ。もう一人、ノリ弁が好きな人が居てね」
「え、彼女ですか?」
「まさか。男……だよな」
「え……」
 そのあとは適当な閑談を続け、弁当屋の前に着き、彼女とはそこで別れて家に向かうことにした。
 そしてプルプとはしっかり話さなくてはならないだろうし、自分とも向き合わねばならないのだ。
 僕は、ノリ弁が少し冷めているのに気づいて、少し走った。

 その日は、帰ってからリビングのテーブルの上で弁当を広げ、海苔をコップの縁から押し込み、プルプに与えた。やはり美味なようで、これから宇宙人がやってきたら、海苔を与えてみるという試みをするべきだと、全世界に発信するつもりである。そうすれば、侵略はされなくて済むかもしれない。
 しかし、やはりゴキブリを前にする食事は、やはり良いものではなかった。そんなことの愚痴を零しては、互いの故郷の話だとか、文化の話を数時間して、夜も更けたころに適当に切り出した。
「なぁ、僕はやっぱり死ねないよ。人の生きる理由になりたいんだ」
「あぁ、分かっていたよ。君は死ぬ必要はない。私はもう諦めたよ」
「え、そんなあっさりでいいのか?」
「そのうち別の派遣団員が適当な星を見つけてくれるだろう。発展、といっても存続を重視する私たちは、絶対的な安定性を取る。不確定な要素が少しでもあると嫌がるのだ。微妙なラインの調査内容を提出しておいたので、まぁ大丈夫だと思う。さすがに嘘はつけないから、しっかり真実を書いたけれども」
 調査内容を提出していたのか。僕の汚い部屋も報告されていたのだろうか。写真など残されていたら、たまったものではない。
「……お前はどうするんだ」
「まぁ、死ぬのだと思うよ」
「そうか。まぁそうだよな」
 他に方法はないのだろうか。
「どうにか、寄生したままにはできないのか?」
 そんなことを聞くと、プルプは初めて声に出して笑った
「ははは、本当に優しいのだな、君は」
 そうだな、と考えるように言ったプルプの声は、何かを考えているようには聞こえなかった。
「まぁ、小さい生き物に寄生するのは、大体、二週間ぐらいが限界だ。器が小さいからね。そうだな、ある程度、脳が大きい生き物でないと、寄生が安定しないのだ。知的生命体と言わずとも、テレビで見た、猿ぐらいの脳を持つ生き物なら、なんとかなるが、この辺りには居ないだろう」
 ここまで、ゴキブリに情が移ったことはない。そんな酷い顔をしている気はしなかったが、どうやら顔が崩れてきていたようで笑われた。
「餓鬼じゃないんだから、駄々をこねるな。覚悟はできているし、もし他の惑星が見つからず、種が滅びたのに私だけのうのうと生きているわけにもいかない。潔く死なせてくれ」
「そうか。ごめんよ」
「君は、きっと優しいから、私が死んだら丁寧に弔ってくれるのだろう。私が嘘をついていて、他の誰かに寄生するかもしれないからな、このままのが良いだろう?」
 そういって、プルプはコップをたたく。
「私が死んだら、頼めるかな」
「あぁ、いいよ」
「ありがとう。じゃあ、少し、寝るとするよ」
「おやすみ、また」
 そのゴキブリは少し笑っては、小さい頭を動かして頷いた。
「また、な」
 僕はリビングの明かりを消した。

 翌朝、コップの中には腹ばいになったまま動かなくなったゴキブリと、その横にゴキブリよりもひとまわり大きいタコのような軟体生物が事切れていた。

 僕は、タコは海だろう、と砂浜で遺体の入った箱を抱えていた。海苔が好きだというので、わざわざ有明海まで来たのだ、ぜひとも感謝してほしい。
 きっと、見る人によっては、ただゴミを捨てるようにしか見えないのだろうけれど、私は彼の入った箱を抱え、半身を海に浸かって進んでいく。やがて、胸まで沈む深さで、僕はその箱を手放した。箱が開いたかは分からないけれど、異星人の弔いの仕方なんて分かりもしないので、このくらいでよいのだろう。
 僕は一度、顔を海水に浸し、よく擦った。

【調査報告、三】
 地球の人間という種族は、他を愛する生き物である。ここまで個に対して愛を分け与え、悲しみを共有しようとする種は初めて見た。我々に理解できないほどの感情の深さを持っている。その感情が、今後、種としての存続にあたり弊害になることがないかを見極めるため、二週間の観察を続けた。
 結果、この種の持つ感情は、間違いなく種に対する弊害が及ぶということが認められる。
 この星の環境は私たちの文化をスムーズに進展させることが可能だろう。しかし、この星での交流、文化の発展は、それこそ我が種の存在を根本として変えるほどの影響がある。つまり、この星で暮らすということは、私たちは「人間」になるということだ。
 その真意を知りたいのであれば、この星に訪れ、人間に交流を図るといいだろう。
 私に人間は殺せない。
 私は人間として、この星に生まれたかったと切に思う。
 健闘を祈る。
 調査終了。

(了)