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フィールドワーク実習
『霞む美』 著:伍巳游
 
 私は事前にサイトを見ていて粗方の展示品の種類などは知っていたが、彼女は多分何も調べていないだろう。そして、何も知らないままここまで来ている。それっぽく作品を眺めているが、眺めている以上の行動なんてきっととっていない。そこまで思ったところで、彼女がこちらを向き私の顔を見ながら、
「結局何書いてるかよく分かんねえな」
 と限りなく抑えた小声で言ったのだった。
 箱が展示されている場所だけ彼女の点在時間は長く、ショーケースと顔の距離が異常に近くなるため私が何とか引きはがし、いつになく真剣に箱を見る横顔を眺めるしかない。
 何がそんなにいいのかと聞くことはできなかった。聞いたら彼女の興味を否定するようでならなかったからだ。

 元々違う世界にいたのに、どうしてかこれらの展示物、歴史を物語る調度品にやけに馴染みのあるような、そんな気がした。使ったことがあるデジャヴのような感覚を持つとまではいかないが、それでも漆器なんかを見ると実家に置いてあったなんて思い込んでしまう。
 人間でいう実家なんてないし、あったとしても多分ゲームのプログラムでしかない。私に組み込まれた親の記憶やトラウマに関しては、彼女が『設定』として定めた一種の指標でしかない。私が元いたゲームというのは大まかな外見と基礎的な性格しかなく、それが物好きな人間にからしたら設定をほぼ無限につけられるといったような状況だったのだ。そして、彼女は物好きな創作者だった。
 いわゆる架空のキャラクターを現実に投影する技術は今のところこのゲームでしか適用されていないらしい。私は遺憾なく人間として振舞えている――ゲームの中では人間とは違うまた別の生命体だった――ので、そこら辺の人間と同じく紛れている。本来この身体で人間として振舞うのは推奨されていない。あくまで戦闘の幅を広げるための手段だと痛いくらい言われた。私はそれを無視して人間であろうとした。彼女を守るための方法がこれしかなかったから。

「お前の家にもこういうのあったの」
 彼女もまた私のことを人間と相違なく接した。
「いえ、ここまで古い品物はありませんよ。私の実家は昭和家屋ですから」
「そここそお宝が眠ってるんじゃないの」
「無いですよ。そんなもの、あったとて誰かが売り飛ばしてしまっている」
 芸術の価値が分からないと言っていた彼女は、発言通り皿を見るなり「売ってるやつとどう違うのかいまいち分からんな」と小言を漏らし、壺を見ても「装飾が細かいくらいしか思わん」と言い、埋蔵物を見て「どうしてこれが」と零したのであった。
 私にも当然分かることではなかった。愛玩動物は飼い主によく似ると聞いたことがあるが、私も似てしまったのかもしれない。外に出て、入り口前のベンチにもたれながらそう話した。
「私に似るなよ」
 と彼女は苦笑した。
「学のないやつに似たら困っちまうよ。忠助(ちゅうすけ)は私より賢いのに、馬鹿が二人に増えたらたまったもんじゃない」
「文才はあなたに劣ります」
「それだけでしょ、それ以外は全部お前の方が上だ。だからお前に頼っているんだよ。私じゃどうにもならないから。今だって箱以外の何がいいか分からなかった」
 私だって美的センスはない、と言うと、ここに来た意味なかったじゃない。やっぱ、だめだね。そう目を逸らしながら呟くのであった。

 元々天候は優れなかったが、それがさらに悪化して霧雨が降った。それでも彼女は帰ろうとせずに、「庭を見てから帰ろう」とつかつか歩き、薄霧で霞む庭園に佇んだ。
 めんどくさいから持って、と持たされた傘を自分と彼女に雨が触れないように掲げながら、夏頃であるため緑に染まる庭園を一望する。目の前に苔色の沼が広がり、その周りを囲うように木が植わっている。春になれば桜が咲き、秋になれば葉が赤に色づくのだろうが、色は一様にして一番自然らしいものたちで埋め尽くされていた。苔色の中からゆらりと鯉が浮かび上がり、物乞いのように口を開閉させる。彼女は何も持っていないのに、餌を撒くふりをして、びちびちと踊る鯉を目にしてほくそ笑んでいた。性格のいい笑い方ではないと分かる笑みだった。
 雨はさらに強くなり、傘に当たる雨粒の音が心地よく思えるくらいに鳴った頃に彼女はひとりでに話しだした。
「やっぱり何がいいのか分からなかった。箱の螺鈿や蒔絵には少し興味が湧いたけれど、それだって多分一か月も経てばなぜ好きだったのかなんて忘れてしまうほどにちっぽけなものなんだろうって、暴れる鯉を見て思ったよ。そんならまだ、ここの鯉の方が全然印象に残るかもしれない。風情もへったくれもないね。どうしてこんな浅ましい人間が、文字だけには強く惹かれたのだろう。学のある人間が書いてやっと創作は映えるのに、私はこれでも文字が書けてしまっているのだろう」
 雨は止まない。鯉は虚の撒き餌に気付き苔色に沈んでいった。私は傘を彼女側に寄せることしかできなかった。

(了)