物語創作講義
『トラウマにさよならを』著:渡氏有
授業担当の先生が教室手前の扉に手をかける。ガラガラと音を立てて教室内に廊下の空気を取り込みながら退場するのを、私は礼をしながら目の端で捉えた。
終わった! 授業という呪縛から解放された!
数分も経たずして、教室内は一週間の試練から解放された安堵の声で溢れかえる。ここに存在する人たちは皆、私と同じ感情を抱いていることは明白であった。そんな彼らの声を耳に入れながら、ガタリと椅子を引いて着席しなおす。
私、桃井愛梨沙(ももいありさ)は、これと言って特徴のない平凡な生徒である。黒縁眼鏡にぱっつん前髪。腰に届きそうなストレートの黒髪は、三つ編みにして垂らしている。また、女子高生の通過儀礼であろうスカートを折る行為はせずに、律儀に膝丈までの長さのあるそれを着る。
いわゆる『マジメちゃん』なのだ。
がやがやとした教室のなか、次第に私はとけ込み、「背景の一部」になる。はずだった。
ふと顔を上げると、そこには目の前にはクラスメイトの女子二人。
わお、マジか。
彼女たちは確か、水野さんと萩原さん、であったと記憶している。学級委員長としてかかわりはあるが、普段会話を交わすことはほとんどない。
なぜこのタイミングに普段関わりの少ない私に声をかけるのだろうか。そんな私の疑問はすぐに解決することになった。
「今日の掃除当番変わってよ、委員長」
水野さんが唇を動かす。萩原さんはその左隣に立って、長いネイルで器用にスマホをいじっていた。
今日の昼休みに確認を取ったじゃないか。なぜその時言わなかったのだ、この二人は!
それを盾に反撃してみると、「急用なんだってば」と悪びれる様子もなく、私の右隣にある机に寄り掛かる水野さん。
この人達ってば本当に……。
しかしこれを嫌だと突き返せないのが、私という愚かな人類の最たる例である。
他人の目を異常なまでに気にする私は『波風を立てない様に学校生活を送る』ことを何よりも優先している。この服装もこれが要因だ。そうして、人に頼まれたことや他の人がやろうとしないことを進んで行っているうちに、私はイエスマンとして名を馳せてしまったのである。だからこうして便利な人扱いされやすい。
「ええ、っと」
「駄目? 別に今度埋め合わせするし。ね、いいじゃん」
こ、断りたい……。
しかし、ここまで頼み込んでくるってことは、彼女たちにも何か事情があるのかもしれない。それなら特段予定のない私が請け負った方が良いだろう。それにここは請け負った方が陰で変に騒がれないはず。あまり気乗りしないがこれも安寧のためだと自分に言い聞かせ、彼女たちに了解したとの旨を伝えようと声を出そうとした。
その瞬間、
「ねえ、ちょっといい?」
ひとりのギャルによって発せられたちょっぴりハスキーなその声に、私の喉まで出かかった声は行き場を失った。
シルエットを隠すだぼっとしたカーディガンに何回も巻いているであろうスカート、ミルクティー色の綺麗な髪は真っ赤なシュシュでお団子状に結われている。
彼女は黒羽帝奈(くろばてぃな)。帝奈と書いて『てぃな』と読むらしい。いかにも『ギャルです』という見た目も相まって、正直あまり関わりたくない。
「水野さんと萩原さんだっけ。さっき廊下で『カラオケ行きたいから委員長に掃除おしつけよう』とか言ってたよね。あれって何?」
「っ!」
はい⁈ 何ですかそれ聞いてないんですけど。
黒羽さんが苛立ちを含ませながら言葉を発したと同時に、私はやはり水野さんたちにサボるために押し付けやすい便利な人扱いされていたという事を実感する。
「桃井ちゃんが何も言わなかったら、押し付けるつもり満々だったってことでしょ。ちょっと自己中過ぎない? マジメで優しい桃井ちゃん相手なら何してもいいとか、まさかそんな腑抜けたこと考えてんじゃないよね?」
「……いいや、もう行こ」
「う、うん」
物怖じしない黒羽さん相手に居心地が悪くなったのか、ぶつくさと不満を漏らしながら二人は足早に廊下へと向かう。黒羽さんは「自分らのことぐらいしっかりやれよ」と悪態をつき、チッと彼女たちの背に向けて舌打ちした。
私は黒羽さんにお礼を言うべく、慌てて席を立つ。
「あ、ありがとう黒羽さん」
「別に。困ってたみたいだったし。でもイヤなことはイヤだって言いなよね。桃井ちゃんの誰にでも優しいとこソンケーするけど、やり過ぎるとナメられるかんね。もっと自分の欲に正直になりなよ」
黒羽さんは苛立ちそのまま、私と鼻先が触れ合うくらいの距離までずいっと顔を近づけてそう指摘した。どうやら彼女は、私が頼まれたら断れない性格であることを既に把握していたらしい。
「うん、気を付けるね」
「ん。じゃ、それだけだから」
挨拶を交わそうと思った時には、もう既に、黒羽さんは教室前の廊下で待機していたギャルたちの元へと到着していた。
――――っだー! 怖かったーー‼
黙って折れるしかないかと思って口を開きかけたところだったため黒羽さんには感謝の気持ちでいっぱいだが、それにしても苛立っているギャルというのは凄みが桁違いである。
今、身をもって体感した。
恐るべし、黒羽帝奈。
ここでふと私は、先ほどまで騒がしかった教室内が授業中のような静けさを取り戻しつつあったことに気づく。クラスにとどまっていた大半の生徒が、校門を潜り抜け下校をし始めている何よりの証拠だった。
「……私も帰るか」
机の中にある教科書を鞄に詰め、私は自分の席に別れを告げた。
校門を通り抜けると大半の生徒はそのまま直進し駅を目指すが、学校から家までの距離がまあまあ近い私は電車を使わずに帰る。そのため、右に曲がり家を目指して歩き出す。
特に会話するような相手もいない帰り道。私は、夕日に背を向けてまっすぐに進み続けた。
すると道中、可愛い格好をした女性二人組とすれ違った。
ロリィタ服。
それが二人組の着ている服の正体である。それを着こなしている彼女たちに、暫くの間、目を奪われていた。
実は私はロリィタファッションが大好きであるという秘密がある。しかし、過去にこれを否定されたことが原因となり、「ロリィタファッションが好きだ」と声を大にしていう事はなくなっていった。
小学生時代、服に無頓着だった私が町で出会い、一瞬で心奪われた服。それこそがロリィタ服である。フリルやレースがふんだんにあしらわれたブラウスとスカート。おとぎ話の世界から飛び出てきたようなゴージャスかつ可憐なその見た目に、私は釘付けだった。
中でも惹かれたのは、ピンクと白のレースを基調としたその店一番人気の服。いわゆる『甘ロリ』と呼ばれるものだ。
これにお小遣いを使いたい! 貯め込んでいるお年玉もあるし、いける!
謎の確信を持ちながら下に置いてあるプライスキューブに目を落とす。するとそこには想像の倍以上『0』の文字が並んでいた。
これはダメだ。小学生のお小遣いでは到底手の届くような値段ではない。
しかし家に帰ったあとも私はあの服のことが忘れられずにいた。諦めきれなかった。
雰囲気だけでもあの服に寄せたものを着たいと母にねだり、プチプラで揃え始めることにした。
ある日、私は自分の好きなものをみんなに広めたいと思い立ち、学校にロリィタファッションに似せた服で向かうことに決める。いつもは母が近くの服屋で買ってくるシンプルなもののため、ピンクのフリルが沢山付いた女の子らしい服を着ていくのはこれが初めてだった。
褒めてもらえるかな、とドキドキしながら教室の戸をくぐった私を待っていたのは、クラスの男子たちによる心ない悪口だった。
「愛梨沙が変な格好してる」
「真面目な人だと思ってたからイメージと違くて変な感じがする」
「お前みたいなブスにはそんなフリフリの服は似合わない」
散々な言われようだった。勇気を出して『自分の好き』をみんなに伝えようとした結果がこれである。
しかし、私が今着ている服たちに罪は無い。問題があるとすれば服の魅力を引き出せなかった私の方だろう。私はその間にうずくまり、自分の不甲斐無さがひどく憎らしいと思った。
ヒートアップした男子たちは、その後も私と服に向かっていろいろと言ってきたが、それを聞いたクラスの女子たちが制止したことにより事態は終結した。
その日以来、ロリィタファッションに関することはおろか、自分の気持ちを他人に伝えることに少しずつ恐怖を覚えるようになった。また、周りから思われているイメージを崩す行為をすることに対し異常なまでに怯えるようにもなっていった。
それから私は、当たり障りのない方、自分が傷つかない方を選ぶようになった。何かを言って否定されるのが怖いのだ。
黒羽さんには誰にでも優しいから尊敬していると言われたが、私はそんな大それた人間ではない。過去のトラウマに囚われてばかりの人間。
私は、自分のこういった弱い部分が心底嫌いであった。
自分の意見を他人に堂々と主張できる黒羽さんの方がよっぽど尊敬に値する人物である。ああ、私もあんな風になれたなら……。
その時、突然後方から聞こえてきた車のクラクションに身体が跳ね上がる。
物思いにふけっていた私は、によって現実世界へと帰還を果たした。どうやら先ほどすれ違ったばかりの女性二人組はもう見る影もなく、そこには私ただ一人が突っ立っているだけであった。
私は運転手に対して謝罪の意を込め一礼をし、再び家に向かって歩みを進め始めた。
ただいまの挨拶と共に、私は大きな音を立てながら自室がある二階へと駆け上がった。
「ちょっと、静かに上りなさいよ」
そんな私を咎める母の声が一階から飛んでくる。
「次から気を付けるってば」
「あんた、いつもそう言って直そうとしないじゃない。この前だって」
まずい。このままではいつものお小言タイム直行コースだ。
この会話は何度もしている、もはや日常茶判事と言っても過言ではない。だから絶対そうなるという確信があった。
私はため息をつきながら自室に入り後ろ手にドアを閉める。少々乱暴になってしまったため、バタンと大きな音が家中に響いてしまった。それを聞いた母が「愛梨沙!」と叫んでいるが、無視を決め込むことにした。
……でも今のドアの閉め方については私が悪いし、後で謝っておこう。
私は机の上にあるピンク色のノートパソコンを開き電源を入れた。
椅子に座りながらヘッドセットを装着する。パソコンが立ち上がると同時に、デスクトップの一番左の列、上から二番目のアイコンを素早くダブルクリック。画面上には『welcome!』の文字とパスコードを打ち込む欄が出現した。パスコードを入力しロックを解除する。
これが私の毎日のルーティンだ。
あんなことがあっても結局ロリィタファッションへのあこがれを捨てきれなかった私はある日、VRチャットなるものに出会った。そこではチャットに参加するときに必要な自分の分身・アバターを作る。とにかく服の種類が多く、その中には私が好きなロリィタ服も何十種類も取り揃えてあったのだ。
ここでならアバターを使って自由に『自分の好き』を語ることができる。自分の分身を自由にカスタマイズ出来て、素性を隠しながらそれを使っていろいろな人と交流することができる。
試しにアバターを着飾ってみて、それを使って他のユーザーと話をしてみよう。〈ロリィタが好きな人お話しませんか?〉と題しチャットスペースを作成する。安直なタイトルだった。
しかしそれが功を奏したのか、何人かが話し相手としてログインしてくれた。一同に個性的なアバターを利用している。
私は少し不安になりながらも、その人たちに自分のことをぽつりぽつりと話し始める。
するとどうだ、ユーザーたちは私の話を非常に興味深いものとして受け止めてくれたのだ。そこには私のことを馬鹿にする人などは存在しなかった。
ここなら私を受け入れてくれる。
心地よさを知った私は、それに驚くほどのめり込んでいったのだった。
――――ピロン。
DM専用の通知音が部屋に響く。
差出人は、一番仲の良い友人・ミレリアというユーザーからだった。愛称はレリィ。彼女は、その自由奔放さと気さくな雰囲気から、チャット内でも特に慕われている人物だ。私が初めて立てたスペースで最初に話しかけてくれたのも彼女である。
『リサっち! リサっちぃ~~!』
『どしたんレリっち、また推しのレンジ大佐がどうとかって話?』
『ブブー違います! ……いやまって、大佐のことでも話したいことあるわ』
いや、あるんかい。
それにしても、彼女が推しキャラ以外のことでこんなにはしゃぐ姿はレアケースだ。本当に何があったんだろうか。
『大佐のこと以外で興奮してるなんて珍しいじゃん。何があったん?』
『いや~ちょっと奥さん、聞いてくださいよ!』
『だれが奥さんじゃ』
『まあまあ、ちょっとこれ見てみてよ!』
そういって、レリィはダイレクトメッセージに一枚の写真を共有した。そこには白とピンクを基調としたロリィタ服を着たレリィの姿。インフルエンサーとしても活動している彼女は、よくSNSに自撮りを投稿している。それは、そのうちの一枚であった。
……ん? ちょっと待って、これ私のアバターに今着せてるロリィタ服とめちゃくちゃ似てるんだけど。私一番のお気に入りである服にめっちゃ似てるんだけど。え、何、どういうこと?
『じゃじゃーん‼ 最近始まったコラボ衣装のやつなんだけどさ、もうめちゃくちゃ人気で行列とかできてて買うの大変だったんだよね~~』
『ちょ、ちょっと待って、え、なにそれ』
『あれ知らない? この前コミュニティ全体メールで回ってきてたと思うんだけど。今、レティルハウスってお店でコラボ商品としてこの服売ってるんだって』
私は急いでメールフォルダ確認する。すると件のメールは迷惑メールとして三日前に振り分け済みであった。
〈数量限定! 超人気ロリィタがリアル衣装でも!〉との文字が並んだ白とピンクを基調とした何とも可愛らしい広告。
内容を確認すると、それは私がアバター衣装の中でも一番のお気に入りである衣装であった。随分と細かい装飾がなされた最高レアリティの衣装だが、細部まで抜かりなく完璧に再現されており、画面から飛び出してきたと言っても過言ではないほどのクオリティだ。
振り分け機能のバカヤロー!
『……迷惑メールに来てた』
『あちゃー、それじゃ気付けないのも無理ないね』
どうしよう。めちゃくちゃ欲しい。
私は意気揚々とVRチャット連携のネットショップを開いた。しかしいくら探してもお目当ての服はヒットしない。
もう一度広告を見てみると、『店舗限定販売商品となります。ご了承ください。』との注意書きが左端の隅の方にちょこんと書かれていた。
畜生なぜだ。
期間限定ガチャを天井まで回してやっとの思いで手に入れた服がリアルで触ることの出来るまたとない機会。しかし店舗に買いに行くとなれば、知り合いと鉢合わせることだってあるかもしれない。それだけは絶対に避けたい。
私は熟考の末、レリィに問いかけることにした。
『……ねえ、レリィ。これって明日までだよね』
『うん。明日までってメールにも書いてあるよ』
『買いに、行こうかな。一番好きな服だし』
『おおー! 買って着たら写真送ってね! 試着するでしょ?』
『うーん……気が向いたらするかもってことで』
『ええーーーー‼』
はぐらかす私に、彼女はブーイングを飛ばす。
私のVRチャットを彩ってくれたこの服を、現実でも手に入れたいと思う心を無視することは出来ず、私は店舗に赴いて服を購入しに行こうと決めた。
ま、まあ、誰かに出くわす前に買い物を済ませてしまえばいい話だし!
私は頭をふるふると横に振り、きっと大丈夫だと自分自身に言い聞かせた。
ミレリアに別れの挨拶をして、画面上に小さく映し出されているログアウトのボタンをクリックした。
ヘッドセットを外しながらノートパソコンを閉じる。それらを所定の位置に片付け、すぐ後ろにあるベッドに倒れ込んだ。
「えっと、確かハチ公像を背にしてまっすぐ歩くんだったよね」
太陽がぎらぎらと照り付ける午後二時。私は地図アプリを開きつつナビゲーションにそって歩いていた。
極度の方向音痴である私にとって、この機能は控えめに言って神機能。これがなければ、渋谷に集う人々の波に揉まれ帰り道すら分らなくなってしまうだろう。
ナビゲーションの指示通りに歩みを進めること約十五分、フルーツサンドショップと雑貨屋に挟まれる形で目的の店はそこに存在していた。
「……来ちゃった」
レティルハウス。レリィの話によると、あのロリィタ服はこの店に売っているとのことらしい。長いことロリィタ好きを主張している私だが、店名すら知らなかった未知の店との遭遇に胸を躍らせた。
念のために確認を取るべく、キョロキョロとあたりを見回してみる。すると入店扉の窓のところに昨日メールで目にしたものと同じ広告が貼ってあった。
間違いない、ここだ。
ショウウィンドウには、淡い紫と白を基調としたロリィタ服がマネキンに飾られている。梅雨の季節だったからだろうか。裾や袖、ヘッドドレスにはあじさいをイメージしたボリューム感たっぷりのレースがあしらわれている。
私は期待に胸を膨らませながら純白の扉に手をかけ、店内へと足を踏み入れた。
――――チリンチリン。
扉上部に設置されたベルがドアの動きと共に店全体に響き渡った。
店には私一人……というわけもなく、先客が三名ほど。コラボ衣装が販売されている店だというから、正直もっと賑わっているのかと身構えていたため拍子抜けだった。
「たしかこの情報ってうちのコミュニティ限定でメール回されたんだっけ」
私の記憶に間違いなければ、今朝レリィとそんな会話をした気がする。という事は、まだ在庫に余裕があるかもしれない。
これなら余裕でゲットできそうかも!
それならば店内をゆっくり見回って、それから店員さんに声をかけてみるのもいいかもしれない。入り口から一番近いところから順番に回ろうと右手側にあるラックの前に移動したとき、
「このコラボ服もう残りわずかなんですか⁉」
「えっ」
店の奥から驚きに満ちた女性の声が聞こえてきた。
つられて私も素っ頓狂な声を上げる。
……状況を整理しよう。思ったより客がいなかったのは、限定メールだったからとか知名度があまりなかったからとかではなく、今日という最終日前にみんな買いに来てたってこと?
あの服めちゃくちゃ可愛いからな。無理もないか。
そうこうしているうちに、先ほどの女性が件の服を持ってレジへと向かっているのが目に入った。
――まっずい、売り切れる‼
事の重大さに気付き、私はすぐに近くにいた店員さんに大慌てで声をかける。
「すっ、すみません。あそこに貼ってある広告の服ってまだ在庫ありますか?」
「確認してみますので少々お待ちください~!」
「ありがとうございます」
そうだよね。考えてみれば、わざわざ最終日に買いに来る人なんてほとんどいないもんね!
先ほどの女性の一着で売り切れになっていたらどうしようと不安に陥る。こんなことなら余裕こいてないで入店後すぐに確認していればよかった。
頭を抱えながらその場でうろうろとしていると、確認を終えた店員さんがこちらへパタパタと駆け寄ってくる。
「お待たせしました~。ただいま確認させていだたきましたところ、残り一着の在庫がございます」
「本当ですか。よかった……」
店員さんの言葉に安堵しほっと息を吐く。
良かった、とりあえず購入はできる。
「ご試着なさいますか~?」
「試着、ですか」
「はい! お時間大丈夫でしたらぜひご試着なさってみて、イメージとお比べになってみて下さい」
昨日はレリィにああ言ったけど、もし今、私がこれを試着したら私が試着し終えるまでその分の在庫は確保されるのでは?
試着してみるのもいいかもしれない。私は店員さんにその旨を伝えた。
「じゃあその、広告のやつ試着させていただいてもいいですか」
「かしこまりました~! フィッティングルームまでご案内させていただきますね。他に合わせてみたい小物などはございますか?」
「あー、えっとじゃあ、あそこにあるレースの手袋とヘッドドレスを。それと四十センチ丈のパニエもお願いします」
私はフィッティングルームのすぐそばに陳列してあった、白レースの手袋とピンクのヘッドドレスを指差した。
「こちらとこちらですね~。では一番左側のフィッティングルームをご利用ください。お召し物は足元のかごをお使いください。もしご不明な点がございましたらお声掛けくださいませ!」
カーテンを開けつつ中にある小さなラックに服をかけながら、店員さんは軽く説明をしてくれた。
私は分かりましたと頷き、そこへと足を踏み入れる。それを確認した店員さんが外側からシャッと音を立ててカーテンを閉め、私のための個室を作り出してくれた。
私はラックにかかったロリィタ服を手に取り、着替え始めた。
「わあ……」
着替え終わった私は、自分が今身にまとっている衣装を改めて見下ろした。そして思わず感嘆の声をもらす。
アバター着せ替え画面で飽きるほど見たあの衣装を、実際に着用している。試着ではあるもののついに悲願を達成できた高揚感はすさまじいものであった。
「お客さま、いかがですか~?」
フィッティングルームのすぐそばで、先ほどの店員さんの声が聞こえる。どうやら私の感想を求めているようだ。私はカーテン越しにいる店員さんに嬉しさをにじませながら言葉を紡ぐ。
「いい感じです。想像していたよりも、ずっと」
「本当ですか~! ありがとうございます! もしよろしければ、フィッティングルームを出て左側に大きな鏡もございますので、どうぞご利用くださいませ~」
……外に出る?
という事はつまり、先ほどの店員さんや他の客にこの姿をさらすことになる訳で。
嫌でも過去のトラウマがフラッシュバックする。自分の感じ方や考え方と周りの捉え方は大いにずれていると痛感した、小学生の時の記憶。
しかし試着までしてみたのだ。せっかくなら大きな姿見で、幼少期から憧れていたファッションを身にまとった自分を見てみたい。
でも、似合ってなさ過ぎて周りの人に引かれでもしたら?
思考。
渇望。
不安。
――――ええい、ままよ!
ぐるぐると頭の片隅にととどまっていた不安を振り払った。私は、半ば自暴自棄になりながらもシャッと音を立てて勢いよくカーテンを開けた。くるりと身体全体を鏡の左側へと向ける。
そこに映っていたのは憧れ続けたロリィタ服を身にまとった、まごうことなき『私』の姿であった。
袖口にほどこされた純白のフリル、胸元や腰についた大きなピンク色のリボン。中にパニエを二重にして着込んだおかげでボリューム感の増した、サテンのリボンがあしらわれたスカート部分。頭にはハート形のビジューをあしらった薄めのピンクと白のヘッドドレス。
それはまさしく幼少期の私が夢見た、おとぎ話の世界に出てくるお姫様の恰好であった。
店内に設置されたクーラーからから出るひんやりとした風が、私の紅潮した頬を撫でた。
「お気に召されましたかっ?」
つい周囲の把握がおろそかになっていた私に先ほどの店員さんが後ろからひょいと顔を出し、ふわりとほほえむ。
「こういう服、ずっと憧れていたので」
「そうだったんですね~! このお洋服、先日から数量限定・期間限定で販売されていまして、初日から大人気の商品なんです。でもこうしてご試着されたのは、お客さまが初めてなんですよ! やはり実際にご試着されていると、当ててみただけのときよりもロリィタとお客さまの可愛さがぐんと際立ちますね~」
店員さんはうっとりとした表情で語る。
「私こういう服、着るの初めてで。えっと、その……似合ってますか、ね」
よみがえる負の記憶を押さえつけ、私は意を決して客観的な意見を求めることにした。不安になりながらも言葉を待つこと二秒。返ってきたのは、とても明るい声だった。
「とってもお似合いですよ~! 小物の合わせ方もお上手で、お客さまのロリィタへの愛を感じちゃいますね!」
もちろんここで「似合っていません」なんて言う人はいないであろう。私とてこれがお世辞であることぐらいは心得ているつもりだ。
しかしそれでも、こうして向き合って言葉をかけてもらえることで『桃井愛梨沙』が肯定されたような気がした。
なにより、それを自分の好きな衣装を身にまとった状態でかけてもらえたことが心の底から嬉しい。
私は興奮冷めやらぬまま店員さんに再度声をかける。胸に光を宿しながら。
「これ、買わせてください。あとヘッドドレスと手袋も一緒に」
「ありがとうございます~!」
「あと、ひとつお伺いしたいのですが……これってこのまま着ていくことは可能ですか?」
店員さんが開けてくれた店の扉をくぐり、私はレティルハウスをあとにした。
「ありがとうございました~、またお越しくださいませ!」
ぎらぎらとした太陽の光が私を照らしだす。アスファルトには裾元にあしらわれたレースの影がはっきりと落とされていた。
結果的に購入して着ていくことは可能であった。しかし、私が先ほど着用していたのは試着用のものであったため再度着替える必要があったのだが。
着替えの最中、私は今日履いてきた靴がカジュアルなスニーカーだったことを思い出していた。
今日限定の恰好だけど、せっかく着てるんだし靴まで揃えて統一感を持たせたいな。
私は会計を進める店員さんに待ったをかけ、追加でピンクのリボンがついた白いパンプスも購入したいと伝える。
本音を言うとレジ付近に陳列されていたアイボリーの日傘も購入して理想のロリィタフルコンボを決めてみたいところであるが、それまで購入してしまうと財布がすっからかんになってしまう事実にひどく落胆した。
ちくしょう、もっと金額に余裕を持つべきだったか。私は過去の自分を少しだけ恨んだのだった。
一時間半前と同じ道をたどり、渋谷駅に向かった。
その道中で私はレリィにお目当ての品をゲットすることができたと報告することにした。
トイッターを開いてレリィとのトークルームを選択し、画面上に指をするすると滑らせ慣れた手つきで文章を打ちこむ。
「えー、『〈報告〉限定服、買えたよー』っと」
反応してくれるのか心配だったが、今日は土曜日。休日になればいつもVRチャットに張り付いている彼女を思えば、それは杞憂に終わるだろう。
次の瞬間、スマホは振動しながらピロンと通知音を奏でた。
『おめでとナイスー!』
『レリィが教えてくれなかったら涙で洪水おこすとこだったわ。ほんと感謝、ありがとまじで』
『まあね~! ロリといえばリサっちだもん。情報共有しないはずがないんだよな☆』
『やめてその略し方は誤解を生む』
『あはは、ごめんごめん』
レリィは自分のことのように喜んでくれた。たとえそれが文面上だけだったとしても今の私にはそれが嬉しかった。
私は片手でスマホを操作しつつ歩道の端へと寄り、立ち止まる。彼女とのやり取りは長くなるからだ。
『それで? なにか渡すものがあるんじゃないのかい、お嬢さんや』
『え、そんな約束してたっけ』
なんのことだろう。
私は彼女とのトーク履歴を遡ってみる。しかしそれらしき書き込みは残っていなかった。
『まって、ガチで分からん。なんのこと?』
頭に疑問を浮かべたままレリィに問いかけてみた。
『写真だよ、しゃ・し・ん! 昨日はああいってたけど、まさかリサっちほどのロリィタ服好きがあんなに思い入れがある服見て着ないわけないでしょ?』
『あー……』
そうだった、そういえばそんな話を昨日パソコンのほうでしてたっけ。そりゃトイッターのトーク履歴に残るはずもないよね。
レリィから『もったいぶらないで早く見せてよ~』と催促された。駄々をこね始めた彼女は自分の意見をほとんど曲げないという厄介な事実を私は知っている。これは写真を送るしかなさそうだ。
『似合ってなくても文句言わないでね』
試着のときに写真を撮っていなかったことを思い出した私は、カメラアプリを起動し内カメに設定して現在の姿を端末に収めた。トリミングと色加工を施してできあがった一枚を、心臓をばくばくさせながらレリィに送信する。
すると彼女から、食い気味に反応が返ってきた。
『ちょーかわいい~! めっっっっっちゃ似合ってるじゃん‼ 靴とかレースの手袋とかまでアバターの再現してるの細かくていいね!』
『ほ、ほんと?』
『ホントだよ~~!』
レリィはお世辞を言うタイプの人間ではない。リアルの私とは真逆のタイプ。
だからこそ彼女から発せられる言葉は、いつも私を不安から救ってくれるのだ。
『てかリサっち、そのままお出かけしてるんだね。いいじゃーん』
『トキメキ止められなかったんよ』
『あるある~、可愛い服着て出かけるの自己肯定感めちゃくちゃ上がるし』
レリィとの会話が盛り上がってきたその時、スマホの画面がふいに暗くなり画面中心部にバッテリー残量の警告が表示される。昨日の夜に充電を怠ったツケが回ってきてしまったらしい。
それによりレリィとのトークは一時的にお預け状態とならざるを得なかった。
『ごめーん! 充電少なくなってきちゃったから、いったん落ちるね』
『ん、オッケー。おうち帰ったらまた話そうね~』
レリィの言葉を合図として、私はトークルームを後にした。
スマホのバッテリー温存のため地図アプリを開いて歩くことができないのは非常に心許ないが、複雑な道でもないしなんとかなるだろう。私は謎の自信を抱きながら、再び渋谷駅を目指したのだった。
それから持ち前の方向音痴を発揮すること一時間、私は無事に駅へとたどりついた。しかし道に迷ったおかげで、乗ろうとしていた電車はちょうど人が増え始めている時間帯であった。
せっかく勇気を出して着た宝物を傷つけてしまった、なんて未来を迎えることだけはごめんだ。
「時間つぶしも兼ねてぶらついてみるか」
この服さえ身にまとっていれば大丈夫という謎の安心感と共に、私は駅の近くで時間をつぶせる店を探すことにした。
まずはスクランブル交差点を渡ってからの話だよね。
ちょうど赤に切り替わってしまった信号の近くで、次の波に巻き込まれる覚悟を決めた。しかし向こう側に渡るまでまだ時間がある。
長時間外出をする可能性を考慮していなかった私のスマホは、充電残量二十パーセントを切ろうとしていた。加えて今日は日差しが強い。こんな日に外でスマホを使おうとするならば、画面の明るさを最大にでもしないと何も見えないだろう。
――さて、このちょっとした時間をどうやってつぶそうものか。
手持ち無沙汰になった私は、喧騒に耳を傾けて時間をつぶすことにした。自分では知りえない情報も耳に入ってくることもあって、これが結構楽しい。
まず私は、すぐ隣にいた女子二人組の楽しげな声に耳を傾けた。
「マジェフレの新作見た?」
「それ見た! ミンスタに投稿されてたやつでしょ」
ベージュのブラウスとハイウエストの黒いショートパンツを身にまとった子が問いかけると、隣にいるグレーツイードのセットアップに身を包んだ子がスマホを操作しながら答えていた。
「あのセットめっちゃ可愛くない⁉」
「それな⁉ あれは買うしかないわー」
彼女たちの話していた『マジェフレ』についてミンスタで検索をかけてみる。心もとない充電残量ではあるが、さっと軽く調べるくらいならほぼ減らないだろう。
検索をかけてみると、それはフレンチガーリー系のブランドであった。ロリィタとは違う路線だがこれもこれで可愛い。今度機会があったら立ち寄ってみよう。
続いて、私はちょっと離れたところから聞こえた男性たちの声に耳を傾ける。
「あー……なんで土曜日なのに講義あるんだよ」
「今日お前バイトは?」
「あるよ」
げっそりとした声で話す男性がとても気の毒だった。彼の友人も私と同じ気持ちらしい。
「うっわ、それはドンマイだわ」
「今日で九連勤目。もう死にそう」
「よーし、そんなお疲れモードのタニグチくんに、お兄さんがステバのフラッペをプレゼントしてやろう」
瀕死状態の男性、タニグチさんの声がその言葉で一気に生気を取り戻したのが分かった。
「まじ? 神かよ」
よかったね、タニグチさん。彼にはぜひとも健康に生きて欲しい。
――はたと、私はあることに気が付いた。
周りにいる人たちの会話をどれだけ聞いても『ロリィタを着た人』については言及されなかったのである。つまり私は、この渋谷という町に上手くとけ込んでいるわけで。
昨日まであんなに心配していたイメージとかけ離れた自分を他人に見せるのが怖いという思いは、この町の前では何の意味も持たないことに不覚にも気付かされることとなった。
しかしここは本当に多種多様なファッションで溢れかえっているのだなと、改めて感心させられる。
ナチュラルな雰囲気で統一している人から地雷系やストリート系ファッションを身にまとった人まで。先ほどの女性二人組だってそうだ。各々が個性を大切に生きている何よりの証拠だ。見ていてまるで飽きる気配がない。
そう思いながら視線を正面に戻したとき、私は反対側で信号待ちをしている一人の綺麗な女性に目を奪われた。
ふんわりとカールがかかったミルクティーの長髪に、前髪をかき上げる細フレームの青いサングラス。白い肌に赤いリップがよく映えている。きりっとした目元からは『私は私だ』というような強い意志すら汲みとることができた。
群衆の中スポットライトを浴びたように胸を張ってそこに存在する彼女を、私はただ美しいと思った。彼女はきっと、トラウマに囚われ続けてうじうじしている私なんかとは正反対の、自分の意見を優先して通す勇気ある人なのだろうと直感する。
「綺麗な人だなぁ」
私は目線をそらさずに、周りの誰にも聞こえない小さな声でぼそっと本音をこぼした。
……そういえばあの人、黒羽さんに似てるな。
私はふいにクラスメイトのギャルについて思い出した。黒羽さんも彼女のような見た目をしていたし、他人の意見や周りの目に流されることなく自分の好きなことを貫く人。いつだって真っすぐで、そんな彼女の生き様が私には眩しすぎて怖かった。
黒羽さんのイメージを正面の彼女へと重ね合わせる。
――まさにその瞬間、ふいに顔をあげた彼女と視線が絡まった。
彼女は驚きに満ちた表情でこちらを見つめ返す。
渋谷の喧騒が遠ざかっていく。先ほどまでは嫌というほど入り込んできた周りの人たちの声だって、聞こえない。世界がモノクロになっていくような気さえした。
だが、そんな無声映画の世界で彼女だけが色付いていた。
はっきりと、眩しいほどの色彩。
私と彼女しかいないのではないかと錯覚してしまうほど『他人』が徹底的に排除された世界だった。
彼女の澄んだ双眸は私を捉えて離さない。すべてを見透かしているかのごとくまっすぐな視線。昨日浴びた黒羽さんのものも同じような感覚だ。私はそれにこのうえない羞恥心を覚えたが、絡まった視線の糸を外すことは容易ではなかった。
信号が上から下へと光を移動させて歩く人物のイラストを照らしだす。それをかわきりに、人々が目的の方向へと歩いていった。
はっと我に返る。同時に、世界は瞬く間に色を取り戻していった。
信号を渡るためにここに来たのに、私の身体は石像のごとくピクリとも動かない。しかし彼女は、そんな私なんてお構いなしに視線の糸を絡めつつミルクティーの長髪を揺らしながら私の方へと歩いてくる。まるで私と対を成すかのように堂々とした面持ちで。
それがなんだか気まずくて私は彼女からふいと目を背ける。
一歩、また一歩と、着実に距離が詰められていく感覚を肌で感じとった。
なんて言われるのかな。私がずっと見てたのに気付いて、怒っちゃったりしたかもしれない。ごめんなさい、マナー悪いことしちゃってごめんなさい!
かつてないほどの緊張が私を襲う。
今日は普段と違うことばかりしてしまったせいで、気が緩んでいたのかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない!
「ねえ」
ちょっぴりハスキーな女性の声が私のすぐ近くから聞こえる。いつの間にか私の目前まで迫っていた、私が見惚れていた彼女の声だった。
私は怒られる覚悟を決めて自分でも驚くほどの弱々しい声で返答する。
「はい……」
「おー、やっぱそうじゃん」
「は、はい?」
私はその反応の真意が一瞬理解できず、思わず聞き返してしまう。そうして改めて彼女の顔を覗きこんだ。するとそこには、
「やっほー桃井ちゃん」
「くっ、黒羽さん⁉」
手をひらひらと振りながらこちらに笑顔を向けている黒羽さんがそこに立っていた。
なかば予想外であった本人登場に、私はすっとんきょうな声をあげて一歩後ろに後退する。
さっきから黒羽さんと似ているなとは思っていたけど、まさか本当に彼女だったなんて。
つうと嫌な汗が頬を伝う。
「てかその恰好どうしたの? いつもと全然雰囲気違うじゃん。帝奈、近くにくるまで桃井ちゃんだって気付かなかったわ」
そう投げかけられた瞬間、体中の穴という穴からぶわっと汗が噴き出したようなそんな感覚が私の中を駆け巡る。しかし不幸なことに、ビジュアルを重視のロリィタ服はお世辞にも風通しが良いとはいえなかった。背中が汗でじっとりと湿っていくのをはっきりと感じた。
きっと今、私は黒羽さんの中の『マジメちゃんの桃井愛梨沙』というイメージをぶち壊している最中なんだろうな。
嫌だ。もう他人に『変な子だ』と思われるのは。
嫌だ。他人が『信頼している桃井愛梨沙』を壊すのは。
嫌だ。『自分の好き』を否定されるのは。
「あはは。似合ってないよね、こんな格好」
そう思った私は、スカートの裾を左手に持って見せつけるようにひらひらと動かしてみせて、いつもの癖でつい自虐に走ってしまった。
本当は好きを隠したくはない、否定なんてしたくはないのに。そう思っていても一度動かしてしまった唇は止まることを知らない。
でもこれが『桃井愛梨沙』であるための私なりの処世術なのだ。
しかし私の自虐が気に入らなかったのか、――はたまた私の本心を見透かしているのか、黒羽さんは不機嫌そうな顔をして大股で詰め寄ってきた。そうして彼女はため息まじりに口を開く。
「桃井ちゃんさ、それ本気で言ってる?」
やばい、黒羽さん相手に選択肢をミスったとなればこれからの学校生活が大変なことになってしまうかもしれない。
「だって私なんかが」
「はいそれストップ。根暗モードすぎ。てか別に帝奈さ、その服桃井ちゃんに似合ってないなんて一回も言ってないじゃん。勝手に帝奈の感情決めつけないでよ」
黒羽さんが私をたしなめるようにぴしゃりと言い放った。そうして私をまっすぐに捉え直す。
「帝奈は桃井ちゃんのことが知りたいだけだよ。自分の欲に正直な桃井ちゃんのことがさ」
そう訴える彼女の瞳は、先ほど横断歩道越しに向けられたものと全く同じだった。
ただ一点だけを捉え続ける、曇りのない瞳。
しかしその視線に昨日学校で感じたほどの恐怖を覚えることはなかった。むしろ自分の意見を貫き通す彼女はかっこいいとさえ思う。
途端に、先ほど自分の好きなものを否定してまで保身のために自分自身に嘘をついた自分が恥ずかしくなった。
ここでまた保身に走ったら、今度こそ過去を払拭する機会を失ってしまうだろう。
私も――黒羽さんのように堂々としていたいんだ。
「私、ロリィタファッションが好きなの。シンプルな服装よりも、きっちりとした制服よりもロリィタの方が百億倍好きなの! フリルもレースもたくさんあればあるほどかわいいと思うし、ピンクを基調としたドレスみたいなのめちゃくちゃ可愛いと思ってる!」
私は勇気を振り絞って、ぎゅっと両目を瞑りながら黒羽さんに思いのたけを叫んだ。ちょっと声が多すぎたのか通行人がこちらに視線をちらちらと向けている。
しかしいつもなら気になって仕方ないそれが、今まさにこの瞬間は全く気にならなかったのである。
それほどまでに自分の『好き』を全力で誰かに伝えることが快感だったのだ。
伝えたいことは伝えた。さて、人生二度目のカミングアウトの結果はどっちに転ぶだろうか。私はおそるおそる視界を回復させる。
すると先ほどまで不機嫌そうだった黒羽さんの様子が一変、満足そうな面持ちで私のことを見つめていた。
「いいじゃん、いいじゃん。そっちの方が生き生きしてるよ」
「黒羽さんは、私がロリィタ好きだって聞いて変だとか思わなかったの?」
「だってそれが桃井ちゃんにとって心から好きなものなんでしょ? じゃあ私が否定する要素なんてどこにもないでしょ。ま、ちょっとは驚いたけどね」
そういって黒羽さんは冗談めかして肩をすくめた。
そうだ、黒羽さんはこういう人なんだ。自分の意見も他人の意見も否定することなく、それでいて伝えたいことは包み隠さずはっきりと声に出す。
ギャルだからだの、自分とは住む世界が違うだの、人を見かけで判断して自分自身に枷をかけるのはもうやめにしよう。
私は、他人の目なんか気にせず自分に正直に生き続ける彼女に憧れたんだ。
「それに、似合ってる似合ってないでファッション判断する方がもったいないし。大事なのは『自分がその服のことをどれだけ好きか』ってことじゃない?」
他人の目を気にしすぎて好きな服を着てこなかった私にとって、黒羽さんの言葉は殻を打ち破るためのハンマーと化した。
車用の信号が青から赤へと切り替わり、私たち二人のいる横断歩道のすぐ近くには次の青信号のタイミングを待つ人たち。その状況を察したのか、黒羽さんは棒立ちだった私に対して提案をした。
「てか、ここで立って話続けると邪魔になっちゃうし近くのカフェいこうよ。桃井ちゃんの話もっと聞きたいし。帝奈、雰囲気めっちゃいいカフェ知ってるんだー」
彼女のその提案を断りたい、と思うことはなかった。
むしろ今は、未知の世界へと飛び出してみたいとさえ思う。
「本当? じゃあ黒羽さんにお店選びお任せしようかな」
「オッケー決まりだね」
黒羽さんは視線を私から外し、身体を右にぐるっと向いて目的地のカフェのある方向と思わしき方へと歩みをすすめる。私も背を向けた彼女の後ろをついていこうと、その後をついていこうとした。
「あ、言い忘れてた」
すると突然、黒羽さんが足を止めて再度こちらに視線を向けた。
「その服、桃井ちゃんにめっちゃ似合ってるよ」
屈託のない笑顔で彼女は私にそう告げる。
偏見という眼鏡を持たずに素の状態の私に理解を示してくれた黒羽さんからのストレートな誉め言葉に、私は嬉しさから自分の頬が紅潮していくのを感じ取った。
私は興奮冷めやらぬまま、黒羽さんのあとをついていく。
否、それよりももっと進んで、彼女の隣にならぶ。
今はまだそのくらいしかできないけど、いつか黒羽さんみたいな生き方ができるように。
長い間私を縛り付けていたトラウマを忘れて、心からロリィタファッションを楽しめるように。
自分のなりたい『桃井愛梨沙』を作れるように。
私は袖口についているサテンの白リボンをなびかせながら、背筋を伸ばして歩くのだった。
(了)