「これは?」
「今日は金曜日でしたね」
放課後、俺と朽木は音楽室でピアノを借りて練習しようとしたが、既に音楽室には数十人の生徒がいた。
「実は、水曜日と木曜日以外は合唱部の方達が使っているため、練習できません」
朽木は思い出したかのようにそう言った。それを聞いてどうするわけにもいかず、
「あの、入れないんで退いてもらえますか?」
俺たちが音楽室の前で棒立ちしていると、横から声がかけられた。
「わ、わわっ、先輩邪魔ですって」
それに慌てて俺をどかそうと腹部を押してくる朽木だが、全く力がないのかその場で足踏みを繰り返すだけになっている。
「ごめん、すぐ退くから」
頭の悪い行動をする朽木から目を離し、横を見る。だが、それはよく見知った顔だった。
「あ、瞳か」
声をかけてきていたのは瞳で、何故かジト目で俺を見ている。
「ふーん」
とだけ言い、視線を朽木に向けた。
「おチビちゃん、この人と知り合いなの?」
瞳は優しそうな口調で聞いているが、呼ばれたことに気づいていない朽木は、いまだに俺の腹部を無駄に押している。
「なんなの、この子」
朽木を指差し俺に聞いてくる。
「まあ、期待のピアニストかな」
そう答えると、瞳は首を傾げた。
「……この子が? どのくらい弾けるの?」
「俺以上、かも」
そう答えると、瞳は開いている目を限界まで開け、俺の腹部にある朽木の手を取り、そのまま顔の前まで近づける。
「えっ、えっ?」
いきなり手を取られた朽木はあたふたと落ち着きのない様子でいる。
瞳は少しの間朽木の手をじっと見ていたが、今度は細めで俺を見てきた。
「どーこーがー?」
「いや、練習量は少ないんだ」
「じゃあ、この手が巽以上ってのは、何なの?」
当然の疑問だ。長くやっている瞳からしたら、この手は素人同然と判断するだろう。
「なんだろうな」
「意味分かんない、それって私より上手いってことじゃない」
瞳もピアニストだ。
たぶん、今の高校生の実力は分からないが、瞳は相当上手い方に入るだろう。
俺が小学生の頃に四年連続の一位を取っていた時、同時に瞳は二位を取っていた。
一緒のピアノ教室に通っていた分、瞳は俺をライバル意識してくることが多かったし、すぐ に勝負とか言い出しては俺が上手いのを認め、瞳は悔しさから泣き出してしまうことが あったりと、負けず嫌いな性格だ。
今、瞳が朽木を睨んでいるのもそれが原因なんだろう。
「でもこいつは、朽木はさ、とんでもない才能を持ってると思う」
「巽だって十分よ」
「あ、あの」
話に入れていないで戸惑っている朽木の頭に俺は手を乗せ、
「弾かせてみないか?」
と提案してみた。
「そうね、ちょっと待ってて」
そう言った瞳は音楽室に入っていき、合唱部の部員の一人と話しだした。
たぶん、弾かせてくれる。自分より上手いかもしれない朽木の演奏を聴きたいと思っているはずだ。
「勝手に話が進んでいますけど」
頭に置いていた手を払われ、朽木は少し拗ねた顔になっていた。
「まあまあ、弾かせてもらえるんだから」
「……あの人ってピアノ上手いですか?」
朽木は音楽室に入って行った瞳を指差しそう聞いてきた。
「ああ、上手いよ」
それを昔、瞳に言ってみたのだが、「嫌味か!」なんて怒鳴られたので今はもう言わないようにしているが、俺は上手いと思ってる。
「ほら、許可が取れたから」
音楽室から出てきた瞳は親指で中に入れと合図する。
ピアノの周りには合唱部の部員たちが集まっていた。この様子だと、少し弾いたら帰されそうだな。
とりあえず朽木に弾かせてから考えることにして、頼むから不甲斐ない演奏だけはしないでくれ。
「さ、弾いて? 曲はなんでもいいわ」
「で、では子犬のワルツで……」
周りに人がいるせいか、朽木はものすごく緊張している様だ。
「どうぞ」
瞳の合図で朽木は一呼吸し、そのまま演奏に入った。
朽木は一切ペダルを踏まない。もちろん踏まないで演奏する人だっている。俺だって踏まず に演奏したことはあるが、やはりペダルを踏まないと思い通りの演奏はできないことがあ る。
そして不器用な左手でのメロディー。
さすがに褒められるものじゃない。
「下手くそか!」
演奏が終わった途端、瞳は俺に向かって怒声を放ってくる。
「私どころか、小学生より下手よ」
朽木は緊張からか瞳の声を聞かず、怖い顔のままピアノ椅子から立ち上がった。
予想通り朽木の演奏は褒められるものではなかったわけで、合唱部員も普段瞳の演奏を聴いているからか微妙な顔をしている。
「なあ、今度は俺に弾かせてくれないか?」
このまま帰るわけにもいかないと、そう提案した。
「た、巽が? ……大丈夫なの?」
心配そうな顔で俺の左手に視線が落ちる。
「ま、一人じゃないけどな」
「あ、私と……」
言葉を聞いて何をするのか理解した朽木はピアノ椅子を退かして右にずれ、俺はその隣に立った。
「連弾?」
「ああ」
返事と共に朽木に目で合図をした。
二人の右手が鍵盤に置かれ、朽木の指がリズム良く動き出す。
その音に合わせていったのだが、弾いている最中に違和感を感じた。
徐々にリズムがずれ始めたのだ。それに気づいている俺も朽木もお互いに合わせようとするため一向に音が重なることはなかった。それどころか、
「あっ」
お互いの手が当たってしまい演奏は止まった。
朽木は不思議そうに自分の右手を見ている。
「あ、あれ?」
「なんでできなくなってるんだよ」
朽木の頬を右手で掴んで軽く上下に動かす。
そんな俺たちを呆れた様子で瞳が見てくる。
「ねえ、二人はいつから知り合ったの?」
「一昨日だけど」
「それで連弾、しかも二手やろうとしたの!?」
驚く様子の瞳を見て、
「俺たちだって出会ってすぐに連弾しただろ」
「四手でね、ていうか、そろそろ離してあげなさいよ」
瞳の言葉で朽木の?から手を離した。
先ほどの演奏を思い返してみると、やはり朽木の経験のなさが原因だろう。
序盤はともかくとして、朽木の雑な演奏が途中からもっとひどくなっていった。
「息が合ってなかったとはいえ、この子、下手よね」
「こんなはずじゃないんだけどな」
「私だけが悪いんですか!?」
「あんただけよ!」
瞳は俺がやったように朽木の頬を思いっきり掴む。
だが、すぐに朽木も瞳の頬を引っ張り返した。
「失礼な人です!」
「失礼ですって?」
「もっと言い方ってものがあるんじゃないんですか!」
その言葉を受けた瞳はものすごい喧騒で、
「あんたねえ! 巽はさっきの連弾で下手なあんたに合わせようとしてたのを、壊したのはあんたなんだから!」
と言い放ち、朽木を黙らせた。