肌寒い朝を迎え目が覚め、カーテンを開けた。
窓から差し込む光を全身に受け、高校の制服に着替えた。
自分の部屋からリビングに行くと、母が眠そうな目を擦りながら、
「おはー」
とてきとうな挨拶をしてくる。
「おはよう、朝飯は?」
「うーん……今日って平日だっけ?」
俺の問いには答えずに細い目でこちらを見ながら聞いてくる。
「いや、土曜日だけど」
「んん?」
母は俺の着ている制服をじろじろと見てから、朝のテンションとは思えない声の高さで笑い 始めた。
「土曜日なのに制服着てんの? ドジやね! 可愛いなぁ!」
そしてテンションが最高潮に達した証拠に口調が変わっている母を荒んだ目で見た。
平日と土日を間違えるやつなんていないだろ。
「そんなはぶてるなや!」
「俺は今日学校に行くんだよ」
「ええけぇ、ええけぇ、無理せんで」
そんな勘違いをされているところに、
「おう、朝から騒がしいな」
パジャマ姿でリビングに父が入ってきた。
「あれ? 今日は休み?」
「ああ、まあ救急の患者が出なきゃの話だが」
父は近くの大学病院で医者をやっている。専門は眼科だ。
母とは別でちょっと変な人だが、俺は人として父が好きだ。
左手が使えなくなりピアノを辞めた時、一番コミュニケーションを取ってくれたのは父だった。俺の怪我には専
門外なのに、今の医療技術が追いついていなくてすまない、と何度も謝られたことがあって、そんな父を見てた
ら、逆に申し訳なくなってしまった。
本当に、あの時は父に救われた。
結局、無意識のうちにピアノからは離れてしまったけれど、もしあのままだったら、今どうしてたか分からない
。
「巽は補習か?」
「違うけど、ちょっと学校に用があるんだ」
「ふうん」
流石に母のような勘違いはしないが、聞いてきたわりに興味を示さず、そのまま冷蔵庫を開け缶ビールを取り出
す。
「パパが飲むなら私もー」
それを見た母も父のあとに数本のビールを片手で取り出して、二人がけのソファに座った。
その隣に父も座り、
「乾杯!」
「かーんぱい!」
こんな朝だが、特に珍しいというわけでもなく、休みの日は当たり前のように二人はビールを飲み始める。
そして、母はすぐに酔う。
「きょーは家事もなしじゃぁ」
「おっ、いいねえ」
何がいいんだろうか。
「あはははは! 巽もこっち来んさい!」
既に三本目のビールを開けて、一度も息をつかずに飲み干す。
「そろそろ出ないと……」
俺は時計を見ながらそう言うも、母は俺を睨んでくる。
「いいから来いや、ボケェ‼︎」
「ママは怖いなぁ」
「にゃーん、そんなことないよぅ」
父も母もお互いに弱い。俺はそれに巻き込まれるわけで、なかなかに迷惑している。
こんなコントを見ていても仕方ない。
俺がリビングから出て行こうとすると、父に呼び止められ、テーブルにあった長財布から一万円札を取り出し俺
に差し出してくる。
「朝飯食ってないんだろ? 今日の朝昼晩はなんか食ってこい、ママがこうなったら止まんないし」
「とみゃりましぇーん」
泥酔状態の母を横目で見てから受け取り、
「ありがとう、お釣りは夜返すから」
「いいから、とっとけ」
父はそう言ってからビールを飲みほした。
「何かあった時のために持っとけ」
「あ、うん」
「くれぐれも、俺とママのようにはなるなよ」
その冗談にも聞こえない言葉を受け取り俺は家を出た。
学校までは家から徒歩でおよそ十五分程度で着く。
その途中にあるコンビニで朝と昼合わせてのり弁当を買った。
現時刻 十時五分。
特に朽木と時間の指定をしたわけでもないが、少し早めに来て学校のピアノに触っておこう と思っていた。誰
にも邪魔されない静かな音楽室でピアノが弾きたい。
片手でも、昔の自分より下手でもいいから。誰も望まない演奏でもいいから。今は弾きたい。
でも、朽木がいたらこの気持ちは抑えよう。
元々はあいつに教えるためなんだから、俺が弾いてたってダメなんだ。
ピアノを弾きたいと思っていたからか、いつの間にか早足になり、俺はいつもかかる時間よ り早めに学校に着
いた。
校門から音楽室が見えるが、人の気配はない。
職員玄関から中に入り、階段を二段飛ばしで上がっていく。
3階の廊下は音一つなかった。
「誰も、いないな」
音楽室に入り辺りを見渡す。人の姿はなく、入り口真正面には堂々とグランドピアノが構え ていた。
それに近づきながら鞄を床に置いた。
ピアノ椅子に座り鍵盤蓋を触る。
「やっぱ、アップライトとは違うよな」
どう違う? そう聞かれたら説明はできないけど、なんとなくそんな気がする。
外から入る太陽が、黒いピアノに光を灯す。
まるで命が宿ったような、綺麗なピアノだ。
今まで音楽の授業で嫌というほど見たが、そんな風に見えたことはなかった。
心変わりからなのか、それならもう一度ピアノに目を向けさせてくれた朽木に感謝しないとな。
俺は両手で鍵盤蓋を優しく開ける。
白い鍵盤が眩しい。
昨日だって家で見たのに、どうしてこう違うんだろう。
気づけば右手の人差し指はドの音を鳴らしていた。
続けてゆっくりと指を右にずらしていく。
この音、そしてこの高揚感。
家で弾くのとはまるで違う。
「さ、弾くか」
ピアノに声をかけてから右手を大きく振り上げる。
そして、左鍵盤に一度下ろしてからすぐ右に移り細かく指を動かす。
左手が使えない分、右手での演奏をより丁寧に。
中学の時は左手のハンデをなくすために焦って弾いてたけど、考え一つ変わればここまで楽 しくなる。
いつの間にか一曲弾き終わっており、メドレーのように次の曲を弾きだしていた。
やっべ、止まらないな、これ。
指一本一本が生き物のように動く。弾かれて出される音が音楽室に広がっていく。
さっきまで丁寧とか考えてたけど、無理だ。
今はそんな事より、この高揚した気分で弾くに限る。
もっと。
もっと……。
頼むから、この時間をもっと……。
俺にくれ。
「……っ」
汗が鍵盤に垂れたのを見て、指を止めた。
近くに置いた鞄からタオルを取り出し鍵盤についた汗を拭き取る。
額にタオルを当てたまま、廊下にある水道で顔を洗った。
冷たい水が興奮で火照った頬を冷ましていく。
一息吐き、音楽室に戻った。
朽木が来ないのをいいことに、俺は昼過ぎになっても弾き続けていた。
途中途中で休憩を挟みながら何十曲と演奏を重ねていく。
だけど、何かもの足りない。この演奏には何かが足りない。
自分が満足できていない。
夢中になれるモノに、夢中になりきれていないんだ。
さっきまでの興奮がなくなってきた。
弾ければいいとか思ってたけど、結局限界を求めてしまう。
「遅いんだよ……来るのが」
次の曲に入ろうとした時、扉が音を立てて開かれた。
「あ、先輩、先に来てたんですね」
来た。俺の演奏に、もの足りない何かが。