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 朽木の下手な演奏をバックに、俺は買っておいたのり弁当を生徒椅子に座りながら食べていた。
 まあ、聴けないほどじゃないけど。
 何故か朽木は演奏中眼鏡を外し、髪は結びを解き、ストレートな黒髪を左首に回す。
「下手だ……」
 ぼそっと呟いた独り言だったが、朽木はそれを聞いていたようで、
「分かってます! なら、お弁当食べてないで教えてくださいよ!」
と、演奏を止めて大きな声を張り上げてくる。
「食べ終わったから、ちょっと待て」
 俺は席を立ち上がり、ピアノの横に立つ。
「予選に弾く曲は決めてるのか?」
「今一番練習しているショパンの滝にしようかと思ってます」
「滝か……」
 まあ、いい選曲かもしれない。
 右手を存分に活かせる曲だと思っている。
 朽木の右手には限界を超える可能性を秘めているから、今からの練習次第で予選は通過できるだろう。
「准本選は黒鍵、そして本選は……」
「待て待て待て」
 勝手に話を進めていく朽木を止める。
「あのな、准本選と本選は予選でやるような練習曲じゃダメなんだぞ」
「へぇ……さすが先輩、詳しいっすね」
 朽木の間抜けな顔に思わず頭を抱える。普通調べておくものだけどな。
「よくそれでコンクール、しかも本選に出ようなんて思ったな」
 呆れた口調で言ったが、朽木は苦笑を浮かべながら、
「出たいですからね」
「そうか」
「あれ? 理由になってないだろ! って言ってくるかと思ってました」
 朽木の言う通り最初はそう思ったが、
「いや、そうなんだけど、俺も初めて出た時はそんなこと考えてなかったからさ」
 思い返せば、初めてのコンクールでの選曲は、ピアノ教室の先生に任せていた。
 何を弾きたいか聞かれても悩んでいた俺に、先生がほいほいと目の前に見たことない楽譜を 持ってきて、「こ

れとこれと、あとこれも弾くんだ」と、弾いたこともない譜面をコンク ールまで必死に練習したのを覚えている


 それに比べれば、弾きたい曲が決まっているこいつの方がまだましかもな。
「それに、理由にはなってるだろ」
「……そうですね」
 朽木は納得したように頷いた。
「とりあえずは予選通過だな、准本選はまた考えるとして」
 俺は座っている朽木の左に立ち、
「滝、弾いてみてくれ」
「はい」
 朽木の十本の指は音が出ないほどに優しく鍵盤に置かれる。
 そこから軽く手を挙げ、呼吸とともに音は響きだした。
 最初の出だしで、いい選曲かもと思ったのは間違いだった。
 この曲は速さがある。その速さを活かせてこその曲なのに、右手に追いつけない左手。その  右手に合わせよう

として、無理だと思ったのか逆に左手に合わせようとすると、流れる水が 勢いを止めてしまうようにリズムが遅

れる。
 聴けば滝という曲だとわかるが、作曲する前にこれを聴いて、もしこの曲に名前をつけるとするのなら、
「少しだけ蛇口を捻って出てる水道の水、だな」
「なんですかそれ」
 手を止めた朽木は不思議そうに聞いてくるが、そんな話をしている場合ではない。
「……練習してどれくらいだ?」
「家で二日間です」
「え、学校では?」
「今日が初めてですよ」
 その言葉に怒りなどより呆れてしまう。
 一番練習してるって言ってたのに、二日間かよ。
 勝手に考えてた俺の予定、一週間で完璧に。そうじゃなくてもそのくらいの期間で予選が通 過できる程度には

できるようにして、余った時間を准本選に使う。
 だが、これでは無理だ。
 しかも平日は合唱部が使うから今日を合わせて計四日間の練習で、水道水から滝にしなければならない。
 家だとキーボードでの練習になるし、そうか、教えもできないのか。
 俺からしたらコンクールに囚われず、時間をかけてでも初めて会った時の演奏を弾いてほしいんだけど。
「あの、先輩?」
 少しの間考えていると、朽木は首を傾げながら俺の裾を掴んでくる。
 まあ、この考えてる時間ももったいないし、
「とりあえず、ペダルの踏み方からだな」
「ペダルってこれですよね、何に使うんですか?」
「右にあるペダルに足を置け」
「こう、ですか?」
 俺は鍵盤に手をやり、人差し指でソを鳴らす。
「それじゃ、次はペダルを踏んで」
 もう一度俺はソを鳴らす。それと同時に朽木は右足でダンパーペダルを踏んだ。
「あ、なんだか……違いますね」
「単純に音が伸びるんだよ」
「へえ、ドラムみたいに別の音が出るのかと思ってました」
「は?」
「じょ、冗談です」
 細かいミスは無視して朽木に滝を弾かせ、その流れのままペダルを踏むタイミングや、大まかなコツなどを教え

ていった。
 それを反映できているように、最後の演奏は、今日一日だけで少し上達したのがわかる。
 しっかりと理解して弾いている。これなら一週間でもできるかもしれない。
「明日は午前中から練習するぞ」
「無理です」
 朽木は髪を後ろで一本に結び、眼鏡をかけて椅子から立ち上がった。
「明日は用事があります」
「なんだよ、用事って」
「それは…………とにかく! 大事な用なんです」
 朽木は何かを言いそうになった口を閉じ、そこから誤魔化しをいれてくる。
 聞くだけ無駄だと思い問うのはやめて、俺は置いていた鞄を手に持った。
 まあ、明日も午前中にピアノ弾けるならそれでもいいかな。右手で滝の左メロディーも確かめておきたいし。
「分かったよ、その用事が終わったらさっさと来い」
「はい」
 真剣な表情から、本当に用事があるのは分かった。
 別に疑っていたわけではなかったが、危機感の無さからなんとなく心配になってしまう。
 まあ、やる気はあるしな。