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 僕は普通じゃない。
 だから、普通のふりをしなくちゃいけなかった。
 ごくごく普通のファミリー向け世帯に住み、一人きりの朝食を取る。
 そのまま家を出て、朝のジョギング。これは日課。
 つつがなく日々を回し、当たり前の毎日を演出する。
 いつも通りのコース。
 通りすがりの犬とご近所さんに挨拶して、病院の角を左に曲がる。
 そして――出会ってしまった。
 彼女に。
 そこは、神社だった。といっても社殿はなく、紙垂を巻き付けた岩が置いてあるだけの小さな社で。
 だがしかし、ジョギングの折り返し地点であり、それ以上にこの日課の本当の目的でもある場所だった。
 だから、必然だった。
 社務所の壁に背中を預けて、少しだけ張り詰めた顔をした女の子に出逢ったのは。
 少し強気に見えるツリ目に、くすんだ灰色の瞳。
 彼女はこちらを認めると、なぜか訝しむような顔になって。
「……おはよう、ございます」
 ぺこりと挨拶をして、そそくさと踵を返す。
 正直なところ、早くこの場を立ち去りたかったのだ。
 だから、呆気にとられたような彼女の顔も無視したし、背後で何かどさりと倒れた音がしても、振り返ってみて少女が石畳に突っ伏していても――

 そして現在。
 具体的には十五分ほどの後。
「ああくそ、どうしてこんなことになるかな……」
 僕――依はひとり、自宅のキッチンで頭を抱えていた。
「あんなの助けるしかないだろ普通……あー」
 食器棚からコップを取り、蛇口を捻って水で満たす。
 結論から言うと。――ああそうだ、運び込んだのだ、彼女を。
 境内に倒れていた彼女は意識がなく、どう考えたってそのまま放置していいわけもなかった。
 僕は悪くない。
 因みに絵面としては未成年略取のそれであったことを加味しても、僕には何の責任もない。
 コップを持って、依は自室に向かう。
 とりあえずというか、それ以外に布団のある部屋がないので仕方ない。
 ギシギシと音を立てる板張りの廊下を抜けて、襖を開く。
「お――起きたか」
 開けたところで、彼女と目が逢った。
 布団から半身を起こして、あからさまにこちらを睨んでいる。
「あなた……神社で遭った人ね。これはどういうこと?」
「善意だ。あのままほってくわけにもいかなかったからな」
 そう言いつつ、依は水を彼女に差し出す。
 眼前に突き出されたコップを一瞥してから、少女はまた視線を依に戻して。
「ここはどこ? あなたは誰? ――答えて」
 獣みたいな目。
 まるで命を常に脅かされでもしているような――そんな、ぎりぎりの瞳。
 気圧されそうになりつつも、口を開く。
「僕は依、ここは僕の家で、君は神社で倒れていたからここまで運んできた。それだけだよ」
 そう言い放った僕を、彼女は値踏みするようにじっと見つめて。
 視線が突き刺さる。
 口の中で、からからと渇いた味がした。
「ふぅん」
 いまいち納得しかねるといった表情で、少女はそう相槌を打つ。
 ただとりあえず敵意がないことだけは認めてくれたようで、依の手からコップを受け取り、口をつける。
「……水ね」
「健全な水道水だよ。お茶の方が良かった?」
「これで十分。いただけるものに文句はつけないわ」
 依の問いかけにそう返して、少女は水を一気に飲み干す。
 どうやら、多少は信用してくれたようだった。
「で、どうしてあんなところにいたんだよ?」
 腕を組んで、今度は依が質問する。
 ここまで運んできたのだから、これぐらいは聞く権利があるはずだ。
「逃げてきたの。あそこは聖域だから」
「逃げたって――何から?」
 少女はそっと目を伏せ、一言。
「化物」
 ……そう、言った。

 

 

「なんだそりゃ」
 朝食の食器を片付けながら、そうひとりごちる。
 ちなみに、彼女は一口も食べなかった。
「少しぐらいは食えよな……ったく」
 残り物を冷蔵庫にしまおうとして、ふと手が止まる。
 ばけもの。そう言っただろうか、彼女は。
 追われている。――だから神社に逃げ込んだ、と。
 馬鹿馬鹿しい。普通ならそう言い捨てているところだろう。
 だがしかし、何かが引っかかる。
 なんだろうか、すごく単純なことのような。
「神社、化物、逃げ込んだ…………あ」
 言葉を羅列して、ようやくそれの正体に気付く。
 彼女は逃げ込んだ、と言った。そこは神社だ。
 ――つまり、ここは安全ではない。
 瞬間だった。
「ぁあぁ」
 突然、背筋に悪寒が走る。
 依の背後に、何かが現れた。
 それはのっぺりとした嫌悪感として、依の後ろに確かにいた。
 恐る恐る、依は振り返る。
 顔。真っ黒で暗い、洞のような顔がそこにあった。
 ばけもの。
 逢うのは初めてなのに、はっきりとそうわかる。
 そいつは依よりも二回りは大きく、天井に届きそうな体をしていた。
 体は闇を貼り付けたような漆黒で、表面が不定形に波打っていた。
 頭には丸く窪むように色濃く淀む穴があり、かろうじてそこが顔であると認識できた。
「――っ」
 息が詰まる。体が動かない。
「ぁあぁ、ぁぁあ……」
 化物から、言葉にならない声が漏れる、蒸気のように。
 嗚咽のようにも聞こえるそれは、まるで地の底から響くようで。
「おまえ」
「っ」
 喋った。思わず息を呑む。
 はっきりとは聞き取れないはずなのに、どうしてだか意味がわかった。
「おまえ――おまエは、ちがう」
「え?」
 途端、すっと重みが消えた。
 解放されたのだと気付いて、依はへたり込む。
 正直、腰が抜けたのだ。
 悪寒が引いていく。
 だというのに、立ち上がることができなかった。
 刻まれた恐怖は余りにも大きく。後ろを振り返ることさえままならない。
 気配が進んでいくのがわかる。寝室の方へ。
 まずい、そう思っても足が動かない。 
「く……ぁ――は……」
 くそったれ。そう叫ぼうとしたのに、言葉が出ない。
 口がうまく動かなかった。何度試しても音だけが抜けていく。
 情けなかった。
 こんなふうに這いつくばっている自分が、何もできない自分が、不甲斐なかった。
 ああ、もう、間に合わない。
 
 次の瞬間、寝室が爆発した。
 片開きのドアがはじけ飛ぶ。蝶番が跳ねて転び、同時に少女も飛び出す。
 少女はこちらを一瞥してから、すぐに視線を戻す。
 元の位置に。寝室の中にいるそれに。
 依からは見えなくとも、少女が何を睨んでいるのかはよくわかった。
 どろり、とした気配。
 ドアの無くなった枠に、ばけものは手をかける。
 それは手だった、指は人より一本足らず、その長さもまちまちだったが、確かに手と呼ぶべき部位だった。
 少女が一歩下がる。依を庇うように背を向けて。
 続いて体が出る。深淵を切り取ったような巨躯。少女はおろか依さえも優に超えるそれの先は、洞のような頭。
「ぁ――おぉお……」
 目と目が逢う。
 少女は、ばけものと対峙する。
 先に緊張を破ったのは、少女の方だった。
 飛び上がり。
 ばけものの腕に掴みかかり。
 ――引き千切った。
 ブチブチという音と共に、ばけものの腕が欠損していく。
「ぉがっ、ぉぉ――」
 ばけものが悲鳴を上げる。
 依の前に着地した少女の手には、何か黒く、うねる虫のような何かが蠢いていた。
 少女は一目、それを見ると。
「……ふん」 
 ぐしゃ、とつまらなそうに握り潰す。
 そしてまた上げた顔には――汗が浮かんでいた。
「ぉおぉぉ……」
 ようやくばけものも体制を立て直す。
 少女に先制を奪われ、左腕の大半を失ったばけものはしかし、平然としていた。
 細い廊下、再び対峙するばけものと少女。
 形勢は明らかに、少女が有利に見えた。
 だが、どうしてだろう。
 少女の方が、焦っているように思えるのは。
「――ッ」
 少女が駆け出す。
 それは軽やかな音をフローリングに響かせて、あっという間にばけものの足元へ。
 ゼロ距離。少女はまたしてもばけものの左腕に組み付く。
「おぉぉ」
 ばけものも抵抗を試みる。右腕を左の少女へと向かわせるが――遅かった。
 ぐしゃぁ、と鈍い音を立てて、ばけものの腕が折れる。
 依の胴ほどもある、幹のような腕。
 それが確かな質量をもって、ばけものの足元に転がった。
「ぉ……おぉおおぉぉぉぉ」
 握りそこなった右腕で虚空を掴み、ばけものは叫ぶ。
 泣いているような、一抹の寂しささえも感じさせる声。
 それを聞いていると、どうしてか依は不安になるのだ。
 勝っているのは少女なのに、不利なのはばけもののはずなのに、どうして。
 その瞬間、また鈍い音がした。
「っつ……」
 少女が依の場所すれすれまで下がる。
 仕掛けたのは、ばけものの方らしかった。
 血。
 ボタボタとしたたり落ちたそれは、フローリングに赤いしるしを刻む。
 どうやら、避け損ねたらしい。
 慌ててばけものを見る。それは、異形だった。
 いや、元から人ではなかったが、変貌しているのだ。
 まるで失った右手を補填するかのごとく、ばけものの腕は膨張していた。
 一本足りない四指はそれぞれが膨らみ、歪み、先端はこよりのように捻れていた。
 二本の足は融けたロウソクのようにその丈を減らし――まるでバランスを取るように。
 ヒトらしかった体を捨て、ばけものになっていた。
「ッ――」
 少女が仕掛ける。
 右から出した足は左へとステップを繋ぎ、一気にばけものとの距離を詰める。
 狙うは頭。
 不快な音を撒き散らす、洞のような顔へと少女の拳が勢いよく。
「がっ」
 届かない。
 小さな殺意の塊は、しかし直前で阻まれた。
 少女の拳が届くよりも早く、ばけものの右腕が少女を吹き飛ばした。
 依の後ろまで弾かれた少女は、そのまま壁に激突する。
 少女の方が早かった。ばけものの方が長かった。
 だから――少女が負けた。
「ぉ……おい、大丈夫か!?」
 依は叫ぶ。ようやく動くようになった口で。 
 少女はなにも返さない。死んでいるようにも見えた。
 ばけものが動く。ゆっくりと。まるでとどめを刺しに向かうように。 
 まずい。
 そう思っても体が動かない。
 それどころか、近付くばけものに身震いが止まらなかった。
 ばけものは通り過ぎる。
 目の前を通り過ぎる。
 それだけ――それだけなのに、体が動かない。
「ぁ――あ……っくそがぁぁぁ」
 すくんでしまって。意識とは切り離されたように。
 動かない。
 体が、躰を、動け。動け。動け。うごけうごけうごけうごけ。
 ばけものが腕を振り上げる。
 彼女を、あの子を、助けなきゃ――
 瞬間。偶然が起きた。
『ピ――。ピ――』
 依のすぐ後ろ、そこから突然音が鳴った。
 冷蔵庫が鳴った。開きっぱなしだったので、警告音が再生されたのだ。
 大きいとは言えない、控えめな音量。
 その程度でばけものは止まらない。
 が、緊張は解けた。
 手をついた床の冷たさが、現実を認識する。
 依は飛び出す。まるで脳信号が体中にやっと届いたようなロスを感じた。
「のけぇぇぇぇぇぇぇ――!」
 時間が引き伸ばされたように、自分の声がスローで聞こえる。
 今振り下ろされんとするばけものの腕をかいくぐって、その先の少女を突き飛ばす。
 ――届いた。
「がっ――」
 そう思った次の瞬間、背中を鈍い痛みが襲って。
 意識は途絶えた。
 

 

「っ……ぅ」
 目が覚めた。同時に痛みが背中を襲う。
 視界に映るのは見慣れた天井。
「大丈夫?」
 と、割り込んで来た少女の顔だった。
 思考がぼやけて判然としないが、どうやら生きているらしかった。
「……あの化物は?」
 依の質問に、少女は首を横に振る。
「わからない。起きたらあなたが目の前で倒れていたの」
「そっか……っう」
 体を起こそうとして、背中に痛みが走る。
 確か、少女を庇って――たぶん、あの右腕の振り下ろしをモロにくらったのだろう。しびれるような痛みがじわじわとやって来る。
「痛む?」
「だいぶ。生きてるのが不思議なくらいだ」
 肩に手を回して、痛みを確認する。
 感覚からして血は出ていないのだろうが、もしかしたら内臓や骨のいくつかは逝っているかもしれない。それほどまでに、あの異形の一撃は重かった。
 依の手の上に自分の手を重ねて、少女は眉を顰める。
「ごめんなさい。その……巻き込んでしまって」
「ほんとね。……っ、いい迷惑だよまったく」
 顔を歪めながら悪態を吐いてみるが、どうにも意が乗らない。
 命あっての物種とは言うが、素直に喜べなかった。
 しかし、疑問が残る。
「やっぱり変だ……ん?」
 ふと、視線を感じた。
 顔を上げると、少女がこちらを見つめていて。
「何?」
「……どうして、私を庇ったの?」
「んー、どうしてだろうね。僕もわかんないや」
 どうして。と、聞かれても。
 少なくとも、そんな勇気は普通じゃないのに。
 僕はそうじゃないはずなのに。
「なにそれ。……ばかじゃないの」
 くすっと笑った彼女は、そんな疑問を押し流すぐらいには可愛くて。
「ほーんと、馬鹿だよね」
 背伸びをして、そう答えた。
 体はもう、どこも痛まなかった。
「で、さ」
 改めて。依は切り出す。
「巻き込まれついでに――事情、教えてくれない?」

 

 

 ばけものが初めて少女の前に現れたのは、五歳の時だったという。
 最初は、それはただ立っているだけだった。
 ぼうっと立って、こちらを向くだけの存在だった。
 信号機や道路標識のように、そこにあるだけのものだった。
 関係が変わったのは、十歳。
 少女の母親が蒸発したときから。 
 ばけものは、彼女のとなりにいつの間にかいる存在になった。
 バス停で。
 駅で。
 あるいは友達との待ち合わせの場所で。 
 少女が立ち止まったとき、そばに居合わせるものになった。
 別に、怖くは無かった。もう慣れていた。
 他の誰にも見えないらしかったのも、拍車をかけた。
 自分の心が見せている幻だと。――そう理解していた。
 あの日。 
 少女が罵り合いの最中、鉄棒をぐしゃぐしゃにするまでは。
 直接触ったわけじゃなかった。けど、けれど――
 針金みたいに捻れ曲がった、それを見て。
 ただただ事態に怯えるクラスメイト達を見て。 

 自分がやったのだと、そうわかった。
         
 自分はヒトじゃないのだと、そういう疑念が生まれた。
「いいかい、よく聞くんだよ」
 父の言葉。
「お前のお母さん――」
 ――は、アタシのオカアサンは。 
 
「あぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 走った。
 聞きたくなかった。知りたくなかった。
 知るべきじゃなかった。嫌だった。嘘だと思いたかった。
 違う。こんなの現実じゃないこんなのこんなのこんなの。
 嘘だ。嫌だ。もう――

「ぁあぁ」
 
 出遭った。いた。
 それはそこにいた。
 いつも通りに、まるで前からそうだったように。あたしを見ていた。
 黒くてのっぺりとした。 
 それ。
 息の切れた、立ち止まった丘の上で。
 出逢ってしまった。
 いつも通り。当たり前のように。
 あたしを追って――そういうものになっていた。
 そして今。
 そう語る彼女はひとり、そっと目を伏せた。
「……で、今朝に至る。と」
「ええ」
 こくん、と少女は頷く。
「どうして神社にいたの?」
「あそこは禁域なのよ。小さい頃から入るなって言われてたの」
 だから、もしかしてって思って。
「……待ってるのよ、あいつ。鳥居のちょっと先、だいたい道路の向かいにね、立ってるの。昔みたいに、じっと待ってるのよ」
 ぼうっと。元からそこにいたみたいに。
 こちらを見つめているのだという。
 震える肩を抱いて、少女はそう言った。
「あれは私を殺すつもりなのよ。潰して、壊して……」
 その様はまるで――まるで妄想に憑りつかれたみたいで。
「……ほんとに、そうなのかな?」
「どういうこと? あなただって襲われたでしょう? あいつは私を殺すつもりで――」
 すごい剣幕で反論する少女に、依は一言で返す。
「でも、生きてるよ」
「っ、それは……偶然というか」
「ありえない。あいつが君の言う通りのばけものなら、気まぐれで僕らを逃すはずがない」
 つまり。
「何かあるはずなんだ。あの状況からばけものが引かざるをえなかった理由が」
「理由?」
「うん、それはたぶん――」
「たぶん?」
「……ええと」
 腕組みをして依は考える。
 が、その程度で答えなど出るはずもなく。
「……なんだろうね?」
「全然ダメじゃない」
「う、うるさいなぁ! そんな言い方ってないだろ!?」
 改めて、頭の中を整理する。
 こういうときは、視点を変えてみるのもアリだ。
 たとえば彼女の話。あれはどういうことだろうか。
 ばけものが初めて現れたのが五歳。
 居合わせるようになったのが十歳。
 そして、いまのようになったのが十五の時。
 少しずつ近づいたばけものとの距離は、明らかに少女自身の環境に比例している。
 いや、環境というよりそれは。
「そうか、だから――」
 だんだんと紐解けてきた。
 ばけものと少女。
 行ってはいけなかった神社。
 母親。
 ばけものは最初からいた。それが母親の失踪を引き金にして変わった。
 そう考えれば。
 そうだとすれば。
「ねぇ、お母さんのこと、好きだった?」
「なによ突然。……そりゃ、好きだった、けど」
 ほんの少し照れて、少女はそう答える。
「今でも?」
 見つめた。じっと、答えを、言葉を迫った。
 ほんの少し、少女は戸惑って。けど。
「嫌いだったら悩んでない。嫌いになれなかったの」
 そう言った。
「……そっか。うん――だよね」
 彼女の答えを聞いて、自分の答が間違ってないことを確認する。
「なによ、ひとりで納得して」
 不満げな顔を浮かべる少女に、依は「あはは」と笑う。
「すぐにわかるさ。それより、外に行こう」
「どこに?」
 
「神社。かみさまのおわす場所にさ。――全てのけじめを即けよう」
 いや、しかし、まぁ。
 ぼくは、神様なんて信じてないけどね。

 

 

 外は、もうじき夕暮れ時だった。
 橙にうすぼんやりと染まり始めた青空の端を見上げて、ふと息を吐く。
 白く滲むそれを両手で受け止めて、ささやかな暖を取る。
 依と少女は二人、石段に座り込んでいた。
 ここにいるのは、かれこれ一時間ほど。
 二人はこうして、ばけものの現れるのを待っていた。
 だがしかし、来ない。
 神社の中は安全だから気を張る必要もないのだが、奇妙な退屈が生まれてしまう。
 この時間は人通りもなく、会話さえもないまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
 ぽつり、と少女が切り出した。 
「ねぇ、あなたって何なの?」
「んー、人間だよ」
「人間はそう答えないわ。……もしかして神様?」
 首をこっちに傾けて、少女が尋ねる。
「違うよ。そんな高尚なものじゃない。もっともっと、低俗で矮小なヤツだよ」
「じゃあ悪魔?」
「どうして二極化するかな……。そんなんじゃなくて、もっと曖昧なのがいっぱいいるのに」
 だから見えないんだよ。
 なんて、話し相手に言っても仕方がないわけで。
「じゃあ、妖精か何かなのね。……あんまり可愛くないけど」
「余計なお世話。僕はぼくなんだよ。ぼくらにだって矜持はあるんだ」
「あっそ」
 一言で一蹴された。
 肩を落としてふてくされてみたが、そのまま会話は途切れた。
 ほんの少しの緊張感を纏ったまま、時間が過ぎていく。
 夕暮れ。日が落ちて、刻限が逢魔に差しかかった頃。
「――来た」
 はっきりと、少女が立ち上がってそう言った。
 同時に、のっぺりとした違和感が依を襲う。
 纏わりつくような、それでいて拭うこともできない、不快そのもののような感覚。
 少女は睨み付ける。
 視線の先。
 鳥居の先、神社の敷地すれすれの場所に、あいつが居た。
 黒の異形。洞のような顔、捻れた四肢に、呑み込まれそうな漆黒の体。
 ばけものが、居た。
「っ」
 息を呑んだのは、どちらだろうか。
「それで、私はどうすればいいの?」
 少し上ずった声で少女が尋ねる。
 それに対して、依は落ち着いて口を開いた。
「質問に答えてくれればいい。僕がいまからいくつかのことを聞くから」
「……了解っ」
 では、まず『いち』
「君が物心ついたときには、もうあのばけものは見えていた。――これは正しい?」
「――うん」
 次は『に』
「きみの横にばけものが居合わせるようになったのは、いつから?」
「……お母さんが失踪した時から。あたし、悪い子だったんじゃないかなって、そう思った。あたしのせいかもしれないって、思った」
 少女は饒舌に言葉を吐く。まるで強いられたかのように、奥の奥までを吐露していく。
 『さん』
「きみが友達と喧嘩して鉄棒を歪めたとき、悪いのはどっちだった?」
「あたし。どっちも悪いかもしれないけど、最後は感情に負けたあたしが悪かった。そのせいであんな――」
「次!」
 無理矢理に懺悔を打ち切って。『よん』
「自分が人じゃない事を知った時、親を恨んだ?」
「恨んでない」
 『ご』
「じゃあ、何を恨んだ?」
「運命を。こうなってしまった結果を恨んだ」
 『ろく』
「ばけものに――今のようになったあいつに会った時、どう思った?」
「怖かった。うそみたいなことが現実になって、あいつがそんな出来事そのものみたいな気がした。殺したくなった」
 どす黒い、本音。
 少女の口から漏れたそれは、足元に落ちて、ばけものの元へと向かっていく。
 依は溜息を吐く。
 なんとなく、そうだろうとは思っていた。けど――
 『なな。これでさいごのしつもんだ』
 言霊を吐く。少女に、真実を突き付ける。

「きみがほんとうに恨んでいるのは、自分自身の『はんぶん』じゃないのかい」

「……ぁ」
 小さく、少女の口から言葉が漏れる。
 少女自身気付かなかった、ほんとうの呪詛。
 運命を恨んだ。自分自身に流れる半分を嫌悪した
 こんなものがなければ。そんな現実さえなければ。
 人を恨まない優しさは、代償をそこに選んだ。
 不幸の度に居合わせたばけものに、想いをなすりつけたのだ。
「ぁあぁ」
 ばけものが呻く。
 同時に、洞のような顔からどぼどぼと、墨のような液体が溢れ出した。
「ぁああぁあぁああああああ」
 堰を切ったように、泣きじゃくる子供のように、液体は流れ、勢いを増す。
 それは憎悪だった。
 少女の、行き場のない憎悪だった。
「あああああああああ――あ、ああ」
 十五年。それだけの歳月の結晶が、砕けていく。
 感情を吐き出して、次第に元の形を取り戻していく。
 それは、人だった。
 背丈は少女とさして変わらず。髪型も似たり寄ったり。
 少し強気に見えるツリ目と、くすんだ灰色の瞳。
 鳥居の向こう側にいたのは、『はんぶん』
 瓜二つの、もうひとりの少女だった。
「あなた――は」
 こちら側の少女が、呆然とした顔でもう一人を見つめる。
 わかっている。それは憎悪した相手だった。
 恨みようのない現実の代わりに、用意した仮想だった。
 もうひとりの自分だった。
「……これが現実だ。きみがしていたのは自己嫌悪。だけれども、君が憎悪した自分は、人としての側面とはかけ離れ過ぎていた」
 だからこそ、別の存在たりえた。
 足り得てしまった。
 募らせた憎悪は、『はんぶん』を別のものへと変えていった。
 姿形の似通らない、異形へと。
「あ、ああ……」
 少女は歩きだす。鳥居の方へ。もう一人の方へ。
「自分が嫌になることは、誰にだってある。当たり前の感情だ。きみだって、その当たり前をしたに過ぎない――けどさ、けど」
 ふたりの少女は手を取り合う。まるで合わせ鏡のように。
「許してあげても、いいんじゃないの?」
 優しく、依はそう言った。
 鳥居を挟んで抱き合う少女たちに。自分を許せなかった少女に。
「――ごめんなさい。全部あなたのせいにして。あなただけが悪いわけじゃないのに。あなただけのせいにして」
 二人の少女は見つめ合う。
 逃げた弱さは私のもの。
 振るった力はあなたのもの。
「自分からも逃げた臆病者を、許してちょうだい」
 そっと。こちら側の少女がそう言った。
 その灰色の瞳からは、いつの間にか涙が溢れて。
 向こう側の少女も、無言でもう一人を抱き寄せる。
 十五年間、離れ離れだった彼女は、ようやくひとつになったのだった。

 

 

 ――気が付くと。日はもう沈んでいた。
 少女が依と名乗る人外の少年に出逢うことは、それから二度となかった。