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 私の勤めている東放出版業務課は、オフィスビルの地下二階にあり、他の課とは物理的に隔離されている。
 こんな辺鄙な場所にあるせいか、こうして製本の作業をする同業者も中々粒揃いだ。
 例えば、私の対面の岩野さんは美女なのにエヴァ(葉っぱ)を愛しているし、その隣の早乙女くんは同期でいい歳しているのに年中、半袖短パンである。彼の隣のこれまた美男はオカルト好きで、私の知る限り仕事中だけでも七回は十字を切る動作をしている瓜生くん、その前には若く、この世にエルフがいると信じている電波女の桐山さんがいる。
 そして私の隣が、一番の問題児である。田中ウジャルタ。曰く、フィリピン人と日本人のハーフで、帰国子女。真意のほどはわからないが、少なくとも私は信じていなかった。
 彼はお菓子が好きで、いつ見ても作業の合間合間に何かを摘まんでいる。今日も例に違わず、かたそうなアメリカ産のグミを咀嚼しながら、ウジャルタはキーボードを叩いていた。
 すると、電波女の桐山さんが憂いを孕んだ甘い声で呟いた。
「わたし、小鳥になりたいわ。小鳥になれば、誰の目も気にせずエルフちゃんと遊べるのに」
「小鳥といえば、この間行ったシンガポールで飛んでいたカモメがとっても綺麗でしたよ」
 流暢な日本語を操りながら、編み込んだ黒髪を揺らしてウジャルタが笑う。瓜生くんはニヤりと笑みを浮かべて、「また例の旅行か?」と茶化すように言った。
 ウジャルタの妄想癖の中でも、一番反応に困るのがこの「旅行」だ。一日では行けない距離の国や地域の話を、まるで昨日行ったばかりのように語る。実際、昨日は「フランスの凱旋門に行ってきたんですが、意外と大きくて驚きました」、一昨日は「ペルーのマチュピチュを見てきましたよ。素晴らしくて涙が出ちゃいました」。
 私は立ち上がり業務課から他の課に繋がる扉へと急いだ。
 階段で上層まで走るように駆ける。外の空気が肺に流れ込んだときには、心底ほっとした。会社員専用のカフェテラスに入ると、見知った顔がにこにこと手を振っている。課は違うが、入社説明会で気が合って仲良くなった袴田という同い年の男性だ。
「お疲れ、初野。なんか頼むか?」
「……じゃあ、オレンジジュース頼もうかな」
 私がそう言うと、袴田は近くを通った店員を呼び止めて注文をしてくれた。
「大変そうだな。またあの変人たちか?」
「うん、まあ……。ウジャルタ、今日はシンガポールに行ったんだって」
 袴田は体を揺らして豪快に笑う。私もつられて笑った。
「ウジャルタはなぁ……。あの妄想癖さえなければ、仕事もてきぱきこなすし良い奴なんだけど」
 私もそう思う、という言葉を飲み下す。丁度ウェイトレスが運んできたオレンジジュースを流し込んで、紙ナプキンで口を拭った。
「ここだけの話だけど、俺一回、あいつの旅行に付き合ったことがあるんだ」
「えっ、本当? どうやって?」
「どうもこうも、やってみればわかる。あいつは真性の妄想癖だよ」
 袴田がまた笑う。私は笑えなかった。
 飲み終わった後、私は急いで業務課に戻る。
 社内行事で午後から博物館に行く予定があった。

 

 

 じりじりと照りつける陽は容赦なく肌を焼き、その衰えを知らない夏の日差しを私は睨むように半目で見上げる。
 こと最近に至っては毎日こんな日和だ。赤々とした日の元に晒されながらも社内行事のため、上野公園を歩く同業者の表情は皆一様に険しく歪められていて、それは私も例外ではなく。一歩と足を進める度に足取りは重く、このまま踵を返して家に帰り会社を休んでしまいたくなるような億劫な気分に陥ってくる。
 いや、それは夏の暑さ関係なく毎度のことか。
「やっと着きましたね」
 ウジャルタが率先して入場の手続きを済ましてくれる。
「さあ、行きましょう。メインは縄文の展示みたいですよ」
 みんな思い思いに散らばって、気がつけば私一人だ。
 私だけ人の流れに逆らうわけにもいかないから、その辺にいた中学生にこっそりついていくことにした。たぶん効率よく観て回れるはずだ。
 縄文の展示物があるところでは、ウジャルタが顎を触りながら立っていた。展示物の中でも一番のメインだというのに、まるで興味ないふうに素通りする中学生。それに便乗したけれど、すぐに引き返して足早にウジャルタのもとに駆けた。ウジャルタは唖然と私を見つめていた。
「ねぇ、ウジャルタの言う旅行は、どこにでも行けるの?」
「どういうことですか?」
「ほら、それこそ、縄文時代とか」
 彼は一瞬呆気に取られたような顔をしたが、すぐに笑顔になって、「行けますよ」と言っった。私はウジャルタに詰め寄って、
「私を縄文時代に連れて行って」
 ふいにウジャルタが歩き出したので、私も続いた。
 歩み進めるうちに、人目がない通路にいることに気がついた。そして薄暗い。
 少し不安になってウジャルタに声をかけようとしたけれど、ずんずんと薄暗い通路の奥へと行ってしまう。
「初野さん、こっちへ」
 声のする方向へ手探りで歩いて行くと、ウジャルタの腕に触れた。ウジャルタが手を差し伸べてきたので、私はそれをつかみ、手を繋いだ。
 どことなく気恥ずかしかったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「では、行きます。目を閉じてください」
 言われるがままに、私は目を閉じた。
「縄文時代のどこに行きたいですか?」
「どこでもいい」
「じゃあ、縄文時代の集落にしましょう。活気があって、いいところですから……」
 ウジャルタがそう言うと、ふいに遠くから市場の喧噪のような音が聞こえてきた。
「想像してください。照りつける太陽と、真っ青な快晴。走り回る子どもたちと、装飾品を着飾る女性」
 もう気のせいではない。私はゆっくり目を開けた。暗闇に慣れた目に光が入って痛かった。ここはもう博物館内などではない。あまりにリアルな縄文時代の景観だった。
「空が綺麗でしょう」
 そう言われて、上を見上げる。まともに空を見たのは何か月ぶりだろう。
「東京の空はビルが立ち並んでいて、少し不安になりますから、僕はたまにこうやって空を眺めているんですよ」
「――――――」
「――――――」
 声の主は、私にはわからない言語で楽しそうに会話している。
「縄文時代の人たちは、戦いや争いをすることがなく、男女が共に働き、共に暮らした、平和な時代だったそうです。日本人は平和を愛する民族です。戦いよりも和を好む。そうした日本人の形質は、縄文時代に熟成されたものといえるかもしれませんね」
 私はひたすら感銘を受けながら、彼の手を強く握った。やっと絞り出した一言は、「帰ろう」という消極的なものだった。
 目をつぶって、一歩踏み出すと、たちまち市場のような騒ぎ声も光の熱さも霧散してしまった。
 少しばかり残念に思いながらも、私は彼に笑いかける。
 妄想癖があって変人の田中ウジャルタではなかった。不思議な魔法を使うことができる、田中ウジャルタという一人の人だった。
 ウジャルタと一緒に縄文時代に旅行したことで、私はかなり価値観が変わったと思う。
 重い荷物を背負って歩く行商人や、無邪気にはしゃぐ異国の子どもたちを見ていると、業務課の彼らを「変人」と十把一絡げにして、個人の良いところを探そうとしなかったのが、どうしようもなく重い罪のように感じた。
 だから、良いところ探そうと思った。

 

 

 私の勤める東放出版業務課は、オフィスビルの地下二階にある。なので空はおろか、夕日の光をちらりと見ることすら叶わない。
 そんな辺鄙な場所にあるからか、業務課のメンバーは個人の考えを大切にしている。
 例えば、自然を愛するエコロジー主義の岩野さん、子ども心を忘れずに新鮮な目線を持つ早乙女くん。神秘的な存在感のある瓜生くん。夢があって、未来に希望を持っている桐山さん。不思議な力を持つ、仕事場のムードメーカー、田中ウジャルタ。
 私が彼らのためにしてあげられることは少ないけれど、少なくとも理解することはできる。だから、私は今日も出版社の階段に足をかけるのだ。