子どもの頃、火事避難の心構えとして「お・か・し」という言葉を教わった。押さない、駆けない、喋らないの頭文字を取ったものだ。最近ではそれに「も」が加わったという。戻らない、の意だ。
確かに、加えて正解だっただろう。俺は今、戻ることの危険性を身をもって味わっているのだから。
けたたましいベルの音に飛び起き、部屋を出たのが五分前。マンションの同階で火が出たらしい。四つ隣の部屋から、黒煙が漏れ出していた。中に人がいたら助からないだろうな、とか、そんなことを思う程度には余裕があったのを覚えている。幸いケータイと財布は持って出てきていたから、すぐに階段で避難した。
そこまでは良かった。あとは自分の部屋が無事でいることを願うのみだったから。他人の事のように。
それが狂ったのが一分半前。ちょうど買い物から帰ってきたらしい隣の奥さんから「息子を知りませんか」と聞かれたのが原因だ。
在宅ワーカーでゲームも多く所持していた俺は、隣に住む晃太という男の子に懐かれていた。晃太は小学二年生で、たまに俺の部屋を訪れてはゲームをしていく。あまり笑顔で迎えることはしてなかったが、今にして思えば、俺も気に入っていたのだろう。拒絶しなかったのがその証拠だ。
俺は近くで火事現場を見つめる住民たちを見回し、その中に晃太を探した。まぁ、そこにいなかったからここにいるわけだが。
そう、俺は禁を犯し、戻ってきたのだ。
たった五分で状況は一変していた。一つ下の階まではなんともなかったのに、自分の部屋の階はもう煙が充満している。無駄に機密性の高いマンションはこれだからいけない。さらに、黒煙の向こうに赤い光も見える。炎も外へ出てきたようだ。
俺はなるべく姿勢を低くし、晃太の部屋を目指す。煙を吸わないように口と鼻は押さえているが、目が痛い。視界が悪いのももちろんだが、そもそも目を開けていたくなかった。
晃太の部屋は、出火元と反対側の隣だ。鍵は、空いている。不審には思ったものの、扉を開けて中に入った。
部屋の中に煙は入っていなかった。これ幸いと扉を閉め、煙の侵入を防ぐ。そして中を見回すと、そこに晃太の姿はなかった。やはり、か。一応呼びかけてもみるが返事はない。それほど広くない部屋だ。見逃しということもないだろう。
今日は平日で旦那さんは仕事、奥さんは買い物に行っていた。晃太は確か運動会がどうの言っていたから、振替休日か何かか。何にせよ、奥さんがわざわざ聞いてきたということは家にいたということだ。小学二年の息子を一人残していくなら、当然鍵をかけるはずだから、開いていた時点でこの展開は予想できていた。
つまり、晃太は自力で逃げていたのだ。さっきはたまたま見つからなかっただけだろう。全く、これが骨折り損というやつか。
そうとわかれば長居は無用。これ以上はさすがに危険だ。
早速扉を開けて外へ。すると、またしても視界が黒煙に覆われる。そうだった。姿勢を低く、煙を吸わないように、だ。心なしかさっきよりも熱気が強く感じられる。歩き出そうとした瞬間、隣の部屋が目に入った。出火元側の、つまりは俺の部屋だ。扉が開いていたのだ。
冷静を装っていても、やはり俺も慌てていたらしい。扉を閉め忘れるとは。不用心にもほどがあるだろう。と、そこまで思って、嫌な予感がした。
本当に俺は扉を閉め忘れたのか。誰か別の者が扉を開けたのではないか。その誰かなど決まっている。晃太だ。
俺は立ち上がって、急いで自分の部屋に入った。扉が開けっ放しだったおかげで、部屋には黒煙が充満している。家具やら何やら新調する必要がありそうだが、今はそれどころではない。
「晃太っ!」
いた。部屋の真ん中で倒れている。叫んで、駆け寄って、俺もだいぶ煙を吸ってしまった。意識が朦朧としてくる。
それでも何とか晃太に寄って呼びかける。返事はない。だが、心臓は動いている。大丈夫、まだ間に合う。はずだ。
晃太を抱え上げ、これ以上煙を吸わないように口と鼻を塞ぐ。俺はできるだけ呼吸しないように気をつけながら部屋を出た。晃太を抱えたままではしゃがめないし、そもそも煙はもう下まで到達している。
長くもないはずの廊下を、壁に肩をこすりながら進んだ。あと少し、もう少しで廊下を出る。階段まで行けば煙から逃れられる。だが、その少しが限りなく長い。一歩、また一歩と進むごとに思考が煙に侵されていく。どれくらい経った。どれくらい進んだ。わからない。わからない。何も、わからない。
「晃太、ごめんな……」
そう呟いて、俺の意識もそこで途絶えた。
その後、俺と晃太は階段の踊り場で発見されたらしい。低層階であったことが幸いし、俺たちは煙に呑まれずに済んだのだそうだ。自力で階段までは行けたようだが、実のところ何も覚えてはいない。そのため、晃太や奥さんに散々感謝されても、実感がない、というのが正直なところだった。
今回助かったのは、単に運が良かっただけ。火事で本当に怖いのは煙だというが、まさか火を見ることもなく命の危険を感じるとは。全く恐れ入る。
精々晃太には「お・か・し・も」を守ってもらいたいものだ。