ノアの方舟。
誰もが一度は耳にしたことのあるこの単語。旧約聖書に登場する大洪水を回避するために、ノアが造り出した大舟にノアとその家族、多種の動物を乗せた。この大舟こそがノアの方舟である。
さて。話は大きく変わるが、初夏を迎えた空気の透き通った深夜。上野の東京国立博物館の館内。誰もいない月明かりのみが照らす薄暗い廊下を二つの影が歩いていた。
「なあお兄ちゃん、ほんとにここにあるのかね?」「なんだ弟ちゃん、この俺の情報を疑っちゃってるのかね?」
容姿、身長、体重、ほくろの数からその位置まで瓜二つの彼らは、あっちの世界ではほどほどに名の知れた窃盗チームの墓守兄弟。因みに左手が利き手なのが兄で、弟は右利き。
そんな二人がなぜ東京国立博物館にいるのかと言えば、もちろんお宝を頂戴しに来たのであり、今回二人が狙っているお宝というのは――
「だってここ博物館よ? 公共の施設よ? そんな場所にあっちゃっちゃっていいもんじゃないでしょ、俺らの探してるもンは」「それがあっちゃっちゃうんだなぁ、これが。ほら、目的地にごとうちゃ~く」
墓守兄は、土偶展に展示してある小さな小さな、手のひらサイズの土製の箱の前で止まった。
「あらら~、もしかしてお兄ちゃんバッカにしてるぅ~?」「もしかしなくても俺は本気だぜい、弟ちゃんよ♪」「さらば~兄よ~、決別のときぃ~♪」「まあまあ待ちなよ弟よ。ほら、ここにエジプトのピラミッドから借りてきた石があるじゃろ?」
そう言いながら墓守兄は懐から鳥居出した楕円形の石を箱へと、ショーケースのガラス越しに近づける。が、特に何も起こらなかった。
(ありゃ、ガセネタ掴んじまったかなぁ)そんな思考を悟られないように、墓守兄は陽気に取り繕おうと、「あっれれ~、おっかしいぞう。なあんにも起こらな……」
そう、取り繕おうと弟のいた方を向いて初めて気が付く。そこに弟はいなく、自分は今一人で、博物館とは全く別の見たこともない通路に立っていることに。
木製の薄暗いその通路は、左右対称に壁の向こうの部屋に繋がると思わしき扉が、等間隔に配置されていた。通路の後先は闇に包まれており、言われればそう思ってしまうほど無限に続いていそうだった。
墓守兄は思考する。(あー、まさかとは思うが、方舟の中なのかァ、ここは?)
もしそうなら出口を見つけて、さっさとお暇したいねぇ。そう思考する彼は、しかし通路の壁に設置されてある扉が気になって仕方がなかった。
(……時間はたっぷりあるし、少しならいいよな……?)
墓守兄は一番近い左側の扉を開けた。おかしなことに、扉の向こう側は完全に闇に包まれており全く見えなかった。
「ええ、どうなってんだよ」墓守兄が覗こうと顔を近づけた瞬間、闇の中へと引きずり込まれてしまった。
扉の先。墓守兄が引きずり込まれた先は、さっきいた通路とは打って変わって緑生い茂る森の中だった。放り出された墓守兄は、目の前に広がるその異様な光景に……いや――
「おいおい、マジかよ……どうなってんだよホントにさ~」
――目の前を闊歩する太古の生物、すなわち恐竜に、自分が置かれた状況に、驚きを通り越して呆れかえっていた。そして、何より驚いたのが――
(コイツら、確かに呼吸をしてる。くっさい鼻息だって俺にかかってる。もちろん匂いもする。……だが、偽モンだ。良く出来た、ああ。現代の技術じゃあ絶対に再現不可能なほど精巧に、それこそ体内から体液の動き、細胞の一つ一つまでを完全に再現した3DCGだ……)
そう、墓守兄がここまで落ち着いているのはどこか見つからない場所に隠れているからではなく、恐竜たちが彼に全くの関心を向けていない、つまり完全に無視されているからであり、さらに言えば、この空間に投げ出されてすぐ、自分に向かって走ってくるティラノサウルスとトリケラトプスを前に「嗚呼、終わった」などと幼少期以来のおんなのこ座りで諦めていた彼を、その二体が透き通って行ってしまったのを既に体験していたからだった。
さて、話を少し戻す。墓守兄は今、一つの仮説について思考を巡らせていた。
(ここからは仮設……単なる憶測でしかないが、この、ノアの方舟――これをノアの方舟と仮定する――ってのは、旧約聖書にあるような、大洪水から生物を守る舟としての役割じゃなく、生物……生命をデータとして記録し残すための巨大な、途方もなく膨大な情報量を内包可能なUSBメモリー…………ってところかね)
USBメモリーという墓守兄の指摘はまさに的を射ており、超記憶記録媒体『ノアの方舟』を制御できれば、新たに情報を書き込むことはおろか、既に記録されている情報を外へとアウトプット。すなわち、完璧なクローンを造り出すことも可能になる。
墓守兄はここまで思考して、結論を出した。
「うん、いらねっ! こわいし」
翌日、東京国立博物館の土偶コーナーから貴重な展示品が一点行方不明になったというニュースが放送された。墓守兄弟はこのニュースを太平洋沖上のクルーザーの上でシャンパン片手に心底笑いながら聞いていた。彼らが何を目的に海の真っただ中を訪れていたかは言うまでもない。
因みに、墓守兄がどんな方法で方舟から脱出したかは、また別のお話。