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 これは僕、神谷(かみや)尊(みこと)しか知らない不思議な物語。

 先日些細な喧嘩で彼女と別れてしまった僕は、慰安……いや、傷心といった方があっているかもしれない。――傷心旅行で一人、京都へと来ていた。
「さてと、そろそろホテルに戻りますか」
 今日計画していた分のお寺と神社の観光が終わり、京都駅近くのホテルへと遅足で帰宅した。自室がある五階に向かう。自室に入りパンフレットやお守り、荷物をベッドの上に放り投げる。代わりに部屋に置いてあるホテル用の浴衣寝間着を持って大浴場に向かう。大浴場に向かうためエレベーターを待っていた時、同じように浴衣寝間着を持った家族連れが僕の横に並ぶ。エレベーターが来るまで時間があり、子どもがまだぁと駄々をこね始める。親はもう少しだからねー、と言葉を柔らかくして子どもが面倒にならないようにする。エレベーターが来るまであと少しといったところで家族連れの子どもが突然ズボンを引っ張り話しかけてきた。
「ねぇねぇ、お兄さん一人?」
「え、あ、うん。そうだよ」
 僕が少々吃驚して答えると、父親がコラ、すみませんと謝ってきた。子どもにも頭を下げさせる。僕は大丈夫です、と一言付けて微笑をみせた。そんなちょっとしたやりとりをしているとエレベーターが開いた。だが、そのエレベーターには大浴場に向かうであろう部屋着を持った人たちが乗っていた。入れて後三人……僕は家族連れに先を譲ることにした。
「どうぞ、お子さんもいますし。先に」
「でも、お兄さんの方が先に待ってたじゃ――」
 これ以上日本人特有の譲り合いで時間が長引くと、乗っている人たちにも迷惑をお掛けすることになる。そこで僕が思いついたのは――
「あ、僕忘れものを! 部屋に戻らなきゃならないんで」
 そう言い残し、相手の言葉も聞かず早足で自室へと戻った。自室に戻り、下手な芝居を打ったなぁと少し後悔をしながら、ベッドの空いてるスペースに座り込む。
「あのエレベーターの人数だと今混んでるんだろうなぁ、大浴場」
 独り言を吐きながらとりあえず部屋のシャワーを浴びて体を洗うことに。

「――あぁ! さっぱりした!」
 シャワーを浴び終わりテレビの脇にある時計の時刻は午後七時半を差していた。浴衣寝間着を着て髪を乾かし、一階ロビー隣の食事処でバイキングを食べることにした。食事処に行くと多くの宿泊客が席に座り、食事を楽しんでいた。その中には先ほどの家族連れもいた。
「あ! さっきのお兄さん!」
 先ほどの子どもが声を張り上げる。両親も子どもをうるさい、と叱りながらどうもと会釈をしてきた。これがどういう状況なのかよく分からないがとりあえず会釈を返す。出入口付近のテーブルを取り、ご飯を取りに行く。ご飯、ハンバーグ、ドリンク、サラダ、そしてデザートを取りに行こうとしたその時、ズボンを後ろからちょいちょいと引っ張られた。後ろを振り向くとお察しの通り、あの家族連れの子どもがいた。
「お兄さんは何食べるの?」
 すると、お母さんが小走り出来てまたコラ、と子どもを叱り軽く謝罪された。
「いえいえ、大丈夫ですよ。えっと」
 デザートのチョコケーキを取り、膝を曲げ子どもに見せる。
「僕の今日の夜ご飯はこれだよ」
「あ! 僕もチョコ食べたよ!」
「そうかぁ、デカくなるためにたくさん食えよ!」
 子どもは挙手して大きな声ではいっ! と返事をしてくれた。母親に手を掴まれ元の席へ――と思いきや、今度は母親の方が。
「先ほどから優しくして下さりありがとうございます。先ほどもしかしたらなんですけど、忘れものってタオルかなぁーなんて思いまして。大浴場の方にもタオル置いてありましたよ」
「あ、わざわざすみません。ありがとうございます。」
 お互いにそれでは、と会釈を交わし席へと戻る。一人で黙々と三角食いをしながら、周りの楽しそうに食べるお客さんを見る。そんな中カップルで食事をしているのに目が行く。幸せそうな彼女を見ると、やはり心に来るものがある。早く立ち去ろうと早食いをして食器を返却所に戻し、そのまま地下にある大浴場へと向かう。
「思った通りこの時間なら人も少ねぇわな」
 脱衣所はガラーンとしていた。服を脱ぎながら脱衣所の時計を見ると大体八時頃だった。
「んまぁ、子ども連れの家族が多かったから当たり前と言っちゃ当たり前だな。時間が遅くなれば眠くなって無理矢理入らせないといけなくなるからな」
 大浴場に入ると一人の体付きの良い、老いぼれたチョビ髭の爺さんが湯に浸かっていた。僕はシャワーを浴びて爺さんと同じ湯に浸かる、が距離は人三人分くらい空けた真横だ。十分くらいすると爺さんが真正面を向いた状態で突然話しかけてきた。
「兄ちゃん、一人かい」
僕は少し遅れてはい、と返事をした。
「兄ちゃん、ここで会ったのも何かの縁だ。面白い話をしてやろう」
 二人きりの状態でまだ入ったばっかりだし、性格上逃げられない……。
「じゃあ、よろしくおねがいします」
 この爺さんの話は後に僕に不思議な体験をさせるためにあったのかもしれない。
「これは昔、私がお前さんくらいの年齢の時の話だ。その日私はとある事情で気分が落ち込んでいた。だから私は綺麗な景色を見に伏見稲荷大社に出掛けたんだ。そこの頂上から景色を見ると自分の悩みがちっぽけに思えるからね」
 はぁ、そんな自分語りですか。なんて話の聞き方をしていたその時、爺さんはここからが面白い、とこちらを見てきた。
「帰ろうとしたその時、一人の白い透き通った肌で巫女さんみたいな可愛らしい服装をした小学三年生くらいのちっこい女の子に出会ったんだ。髪の毛もさらりと長くそれはそれは綺麗な子だった。そのあと私はその子のおかげで人生が変わった。今じゃ、物凄い幸せもんじゃ」
 最高の笑顔を見せながらそう言って立ち上がり爺さんは湯から上がった。そして大浴場のドアまで行き手を掛けながらこちらを振り返って、明日(あす)行ってみなと言葉を残し出ていった。僕もそのあとゆっくりドアに寄り隙間を開けて、爺さんがいなくなったこと確認し大浴場を出た。そしてタオルで体を拭きながら先ほどの信じ難い爺さんの話を思い出していた。
「伏見稲荷大社か……」

 自室に戻り明日の予定帳を見返す。
「行くなら夜かな」
 予定帳をパタンと閉めてテーブルに置きベッドに横になった。そして伏見稲荷の話を思い出しながら眠った。

 夜、伏見稲荷大社に出向くと物凄く何か、力を感じるような気がした。
「あの爺さんに言われてきたものの……まぁいいか、ここも回りたかったし」
 大社の眼前で写真を撮り千本鳥居をくぐりに。そうあの爺さんが言っていた景色の良い頂上へいち早く向かう。少しずつ息を上げながら頂上へ、約三時間ほどかけて黙々と足だけを前へ前へと押し出す。僕がこんなになるのに理由は一つしかない。あの爺さんの笑顔と『今じゃ、物凄く幸せ』という言葉だけだ。彼女と別れ気分は落ち込んでいるのは爺さんと同じ状況だ。それに京都旅行やあの爺さんに会ったのも何かの縁だろう。そう信じて頂上まで登り切った。そして息を整えて顔を上げ景色を見ると――
「綺麗だ」
 この一言に尽きた。この日は空気も澄んでいたのだろう。今まで見てきた中で一番の景色だった。すると頬に何か冷たいものが、手で触れてようやく理解した。この景色を見て感情が高ぶり涙を流していた。手で涙を拭きとっていると出口に向かう鳥居の上の方から声を掛けられた。
「おい、主。なんで泣いておる」
 見上げてみるとそこには頭上に何かがついている人のような姿が。月明かりに照らされているが逆光で顔がよく見えない。すると上から飛んでその人は降りてきた。地上に降りてようやくわかった。橙色の尖った耳に大きな尻尾、透き通るような白い肌。
「白狐の擬人化?」
「白狐の擬人化とは何かーー!」
 僕は軽く頬を叩かれた。
 だが、爺さんの話だと小学三年生くらいの女の子……この子はどちらかというと女性に近い気がする。長髪ではあるけど。
「それにしてもお主、よく儂(わし)の姿が見えたのう」
「いや、見えるも何も」
 すると登りの方からカップルが素通りして下って行った。僕が白狐様に目を合わせると、『ね』という顔をされた。
「見える人は上位の神主かそうとう気分の落ち込んでいる何も持たない普通の人間だけ。で、主は神主には到底見えぬ」
「多分後者の方だと思われます」
 そうかそうかと腕を組みうなずき、頂上を下るように言われた。
「登ってくる途中ベンチがある少し開けた場所があったろう。そこで主の話を聞こうではないか!」
「本当ですか! ありがとうございます! 白狐様!」
「白狐様はやめてくれ、私の名前はいなりじゃ。いなりちゃんと呼ぶがいい」
「い、いなりちゃん……」
 容姿は女性だというのに。まぁいいか。
 下山を始めるといなりちゃんが質問をしてきた。
「ところで主はなぜここに?」
「いやぁ、恥ずかしいことに傷心旅行でして」
 笑いながら答えるといなりちゃんは立ち止まって、回れ右をし近づいてきて顔もズズイと近づけてきた。
「い、いなりちゃん?」
「傷心旅行で京都なんて来るんじゃない!! 悩みも受けんぞ! このバカたれがっ!」
 物凄くお怒りになって僕を置いていく勢いでいなりちゃんは下山をする。
「待って、いなりちゃん!」
「待たん!」
 少しするとそのベンチの場所に到着した。僕はいなりちゃんに謝り続け許しを乞いて隣に座らしてもらった。
「それで、主の悩みはなんじゃ」
「いや、最近彼女と些細な喧嘩で別れまして……結婚もお互い視野に入れてたんですけど」
 いなりちゃんは足を組んで昔話を始めた。
「四十年ほど前昔の話じゃ、儂がここまで成長する前の。その時お主と同じような悩みを持った男がいてな。その男はもう諦めかけていたんじゃが、儂の占いと予言その両方を信じて今でも幸せそうに生きておる。お主もあったであろう、大浴場で」
「あ! あの爺さんのことか! 小学三年生くらいの女の子の話してきた!」
「あの頃は儂も小さかったからのう」
 足を組み替えいなりちゃんはそんなことじゃなくって! と話を戻した。
「今はお主の話じゃ。これ以上落ちぬほど気分が落ち込んでおるから。どうする? 儂を信じてしてみるか、占いと予言」
 僕は唾を飲みこみ、もちろんよろしくお願いします。と返した。いなりちゃんは目を閉じて僕の目の前で占いと予知を始めた。何かはよく分からないがいなりちゃんから気のようなものを感じる。そして気を感じ終わるといなりちゃんは目を開け息を吐いた。
「よし! 主の未来が見えたぞ!」
「おお! いなりちゃん本当かよ!」
 俺は驚き思わず声を出してしまった。だが、次のいなりちゃんの言葉は僕にとって悲痛の一撃となった。
「主、その元彼女と縁を戻さない方がいいぞ」
「な、な、なんで!?」
 そう聞くといなりちゃんは真剣な眼差しで答えた。
「主、完璧に道具扱いをされておる」
 僕は声が出なかった。人間は本当に驚いたり、悲しむと声が出なくなるもんだと思った。
「あやつ、今は破局したが浮気をしておったぞ。しかもあやつはこの先もする。それに主が買ったものは全て金に換えられホストなどに使っておる。むしろ別れられて正解じゃったと思うが」
 僕は信じられなかった。彼女の笑顔や仕草、愛想や夜の営み。あれは全部嘘だったのか。そんなわけない……。
「そんなわけない! だって彼女は僕の目を見て…す、好きだって…愛してるって、あれが全部演技だったわけが……わけが……」
 涙が止まらなかった。いなりちゃんの顔は『残念だけど』という顔をしていた。膝を思いっきり掴みながら、ぼろくそに泣いた。そんな僕をいなりちゃんは無言で胸に抱いてくれた。――子どもの頃、母親に泣いて抱きついた時と同じくらいとても暖かかった。

 泣き止むといなりちゃんは続きを話してくれた。
「さっきも申したが別れて正解じゃったと思うぞ。それに主には暖かく素晴らしい未来が待っておる! 道を間違えなければじゃが」
 鼻をすすりながら聞いているとさっきの抱きかかえる優しさとは打って変わって、『元気を出さぬかぁー!』と頭をぐりぐりとされた。
「分かった、分かったから! もうやめてぇーー」
「よし! ではコホン! これは予知じゃ、じゃが主の頑張りも必要じゃぞ。まず会社を金融関係に変えて……」
 いなりちゃんは突然俺のおでこにでこを合わしてきた。
「今から見せる女の人、それが主の運命の相手じゃ」
 脳内に出てきたのはスーツ姿の女性で仕事ができそうなOLだった。長髪でポニーテール、眼鏡をかけている……が、次に家での様子が脳内に! 眼鏡をはずすと目がキリっとしているが可愛らしい女性だと思えた。家の中も女性らしく本当に僕の運命の相手なのか疑心暗鬼になった。いなりちゃんがでこを離すとスゥーと脳内からその人も消えた。
「疑心暗鬼になるでない! 儂を信じると主も決めたじゃろうが」
「ご、ごめん。いなりちゃん」
 いなりちゃんは立ち上がり、円を描くように歩きながらその女性について話始めた。
「主の運命の相手は『水上(みずかみ)澪(みお)』一個上の二十二歳じゃ。仕事も出来るし、後輩に慕われておる。何より一途で家族想いじゃ」
「いなりちゃん……」
 いなりちゃんは足を止めてなんじゃ? という顔をしてきた。僕は強く拳を握り、いなりちゃんに対して拳を突き出した。
「僕! 本気で頑張るから! いなりちゃんのことも自分のことも信じて絶対幸せになるから!」
 いなりちゃんはポカーンと口を開けていたが、ニコッと笑い『うむっ!』と大きく頷いてくれた。
「それに、この願いが叶えば儂は願いを千個叶えたことになる。そしたら儂は、千尾狐になれるのじゃ! だから主は何も気にせずに行け!」
「でも、水上澪さんがどこの金融に――」
「それも大丈夫じゃ! とりあえず儂が『水上澪』に会わすまでは出来レースしてやるから、そんなこと気にせず本気で頑張るのじゃぞ!」
「はい!!」
 僕は走って下山し始めると階段を踏み外し転んだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ――ドスン。
 
 目を覚ますと目の前にはホテルの天井があった。頭を掻きながら周辺を見渡すが、完全にホテルの自室だった。
「いなりちゃんは……夢だったのか」
 外はすっかり朝になっていた。僕は夢ではあったがいなりちゃんの言う通りに、今日を持って傷心旅行を終わらせ東京に帰ることにした。荷物をまとめ、残り二泊分を残して。そして駅に向かう――が、その前に。
「ここにこなきゃ、行けねーわな。夢であったとしても世話になったのに変わりねぇからな」
 ホテル前でタクシーを拾って伏見稲荷大社に来た。タクシーの運転手には荷物を持って待ってもらうようお願いした。近くのコンビニである分のいなり寿司を買い占めて大社を走って駆け上がる。そして夢と同じベンチの場所に来て、他の客もいるが感謝の意を込めて大声で。
「いなりちゃーん! お礼のいなりです! 食べてくださー――」
 最後まで言えず誰かに茂みの中へ連れ込まれた。
「だ、誰ですか!!」
 そう言って背後を見るとそこには――
「儂じゃ、あんなデカい声で儂を呼ぶ大馬鹿者がいたからな」
「い、い、いなりちゃん!」
 僕は嬉しさのあまり抱き着いた。そして、昨夜の夢のお礼を言って今日これから出発することを伝える。
「そうか、主が根性なしで無くて儂は嬉しいぞ!」
「だから、このいなりお礼です!」
 いなり寿司を受け取り『ありがとう』と笑顔を見せてくれた。僕は又来ますね。と一言だけその場を後にした。
 
 
 《エピローグ》
 その後の僕は幸せでしかなかった。三回ほど金融会社には落ちたが、四社目には受かり、そこには澪がいた。これがいなりちゃんの言ってた『出来レース』だったのだろう。今では僕と澪は新婚一年目になる関係だ。近いうち、また京都に行っていなりちゃんにお礼がしたいな。――なんて思っていたが後日『千尾狐の願い』という昔話がテレビで放送された。千尾狐になるとその白狐は神様に昇格し人前に現れなくなるという話を。