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『電子古都のカグツチ』 著:美珠 武

 

※この作品は2019年に書かれたものです。作中に2020年に関する記述がありますが、新型コロナウイルスの影響により事実とは矛盾が生じています。しかし作者の意図を尊重して修正せずに記載してあります。

0 熱した鉄で抱擁を

 彼女は生まれた時から我々を嫌い、我々もまた彼女を理解の外側に置いていた。
 この歴史ある街の、脊椎で相まみえた時は、ようやくと思うほかなかった。
 加賀望美。彼女ならば、ようやくこの命に、意味が見いだせるのではないかと、期待してしまう。
 彼女ならば、現代のヒノカグツチである我々を殺せるやもと、心躍らされずにいられない。

 

一章 缶詰の中の未来

1 よく冷えた夜は月が笑う


 二〇五〇年八月二九日十二時五十三分 市内上空より記録。
 窓の外、京都の町にオレンジの衣が覆いかぶさっていた。
 コンクリートで作られたところはそのままだが、数か月かけて蓄えた緑の山々は、今か今かと時の火を乞うているようだった。
(そろそろ、本格的に客が増える季節になるな)
 ヘリコプターの狭いコックピットで、操縦士の阿古庭雄太はそんなことを考えていた。
 秋口から、京都ではヘリでの遊覧観光が活発になる。
 この機体も、今回の実践テスト飛行が終えれば実際にお客を乗せる機体になる。
 オシャレをした美人都市を上から眺めたいのだ。あるいは、子供たちのヘリコプターというものに対し抱く純粋な憧れ。
 どこで、何を思い、何をするのか。未来が待ち遠しくてたまらない。
 そういった期待が、という阿古庭雄太という男を動かしている。
 生まれ育った町、過去自分が抱いていた憧れ、今を構成するモノがとても綺麗で魅力のあるものだと再確認できるからだ。
 ふと、ヘッドセットからノイズが聞こえた。同時に、見えない糸に絡めとられたような感覚が雄太を襲う。
 トンボが、蜘蛛の巣に引っかかったようである。
(何が起こった――?)
 しかし、対処に脳を走らせたところで、遅かった。
 機械類の電源が予備電源を含め、全て落ち、無線機も同様にガラクタとなった。パラシュートのロックも、固まって外れそうにない。
 そして、絡まった糸が絡まったままプツンと切れる。
 羽の動かないトンボは、クルリクルリゆっくりと、けれど確実に落ちていく。
 己の身体も含め、世界のすべてから力が抜けていく感覚は――在りし日の、妹にされた膝カックンを思い出す。
 瀬戸際において、思い出すのは妹のことか、と苦笑する。
 少なくとも、父のことでなくてよかった。
 その顔はガラス窓に薄く反射し、迫りくる大地の抱擁をどこか受け入れているようだった。
(飛べたなら……落ちもするだろうさ)
 いつかこうなる気は、雄太の中にあった。
 ヘッドセットのサングラス部分を押し上げ、最後の景色をちゃんと肉眼で確かめようとする。
 回る世界で、再びオレンジの衣に目をやった。
 いや、すでに赤い。もう秋か。秋が来たのか。
 赤いなあ。赤いなあ。綺麗だなあ。――僕もああなれるかな?
 ――なれるとも。
 そんな声が、どこからか聞こえた。間違いない。神の声だ――

 

 弐
 五条大学二階、第三講義室は、木造の床の収音性のおかげか、静かだった。
 六十人弱が出席しているというのに、差し込む日の光が作る影は机と椅子によるものだけである。中央最前列の私を除けば。
 私、加賀望美は、自らの事情を差し引いても、うらやましいと思えるものが多々ある。
 一つは、学校のネット出席である。許せない。というか、寂しい。
 大学でもそれを認めてよいのか。と憤慨もする。マイナスの感情でいっぱいなのだ。
 私は、事情があってそれができない。
 ラウンドの眼鏡をかけ、白ブーツを履き、黒地に白のラインが入ったTシャツと、茶のスカートを着用した生身で登校しなくてはいけない。いやべつに、ファッションは固定していないが。髪は一日ごとに変えている。今日は低めの位置で一つに結んでいた。
 ファッションは自己武装なのだ。誰に見られるかより、自分がそれでいいと思うものにしなくてはいけない――おっと、脱線した。
 ともかく、物理的に……ひどく言えば形骸的にこの二限『命の歴史』へと主席したのは私だけである。
『命の歴史』は私にとって好きな授業だった。パンスペルミア説など、なんとロマンのあることか。
 ともかく、講師も含めその他の学生は姿を見せず、電子の五条大学第三講義室にいる。
(二階という概念が、二次元にもあるのだろうか?)
 あちらでは、私の座っている席は空席となっているはずだ。
 しかし制度として認められているだけで、正しいのはこちらなのだけれど、何かこちらが悪いことをした気がする。後ろめたい。
 小さく開けておいた窓から、冷たい風が入り込んできた。外を見れば、中庭に植えられた草木が頭から赤くなっていっている。どこか、血や涙を流しているように思えた。いや、涙――水分は血の一種なんだっけ?
 針がピンク色の腕時計を覗くと、頂点で重なり合っていた。
 講義の百二十分は今終了したらしい。耳がいい私にとって、チャイムという意識外の音が鳴らなかったのは良かったとも言えるが……故障か?
 書ききったA4ルーズリーフを、皮のカバンへとしまって、席を立った。
 プラスチックの椅子の足が、床と擦れてがたがたと音をたて――
「お疲れ様」
 意識外の音が、耳に飛び込んだ。
「きゃっ」
 我ながら、ベタな反応と声を上げてしまった
 椅子に意識をとられた瞬間に、目の前にホログラムが現れたのだ。見知った、松岡学長のアバターである。スライド式黒板の上のプロジェクターと、放送用のスピーカーから光と音を出している。眼は……監視カメラで事足りるか。
 チャイムが鳴らなかったのは既に切り替わっていたからだろう。
 ホログラムと言っても、色と影がきちんとついたそれは、茶色のスーツに白いシャツ、赤いネクタイをきちんと閉めた好々爺をそこにいるように思わせる。
 突然人が現れれば、びっくりもする。
 五条大学の三女傑と言われる私ですら「きゃっ」とか言ってしまう。……三女傑は悪口として認識しているが……ちなみにあとの二人は知らない。
 会えたら、お茶でもご一緒したいくらいだ。
「驚かせてすまないね。加賀君」
 サラウンドではないので、口の位置とはずれて変な感じだけれど……低く、枯れたような声が届く。
「いえ、大丈夫です。学長先生」
「そうか……実は、見送りをしたくてな。今日だったろう? インターンが始まるのは」
「ええ、これからお昼ご飯を食べてから、観光課さんの方に」
「ふむ、観光課。私にとってのここのように、あそこが君の居場所になればいいのだけれどね。……そろそろ、きついかい?」
 松岡学長は一歩、距離をとるように後ろへと下がった。私の事情を鑑みての行動だけれど……どうにも、幼少のころからされるその動作は、心から血が出そうになる。
「そうですね……すみません、私、もう行きますね」
 一度かぶりを振って、少し速足で出入口へと向かう。
 扉は重く、廊下に出ると奥のLEDが感知で点いていく。
「頑張りたまえ! 今、観光課は忙しいだろうから!」
 背中には、そんな激励がかけられる。
 言葉はとてもうれしかったが、少し引っかかった。
 忙しい? 今の京都、というか、日本で?

「インティンの世の中で?」

 インティン、とは二〇三五年に完成した、複合拡張現実技術のことである。
 半畳ほどのスペースに、ティンと呼ばれる容器を設置し、ネロと呼ばれる液体で満たし、人間がゴーグルとマスクを着けて入る。
 ティン、つまりは缶詰にされるような格好になる。
 ゴーグルにはVRの映像が映し出され、マスクにつないだチューブからは空気や、食料が供給される。
 ネロは電気に反応し、粘度を変える性質があり、映像に合わせて必要な個所に必要な分の摩擦と重量を感じさせる……らしい。
 最初は値段が高く、金持ちの道楽程度にしか使われていなかったが、ドローンのカメラ同期等の技術向上、事業のネットワーク化が進んだことでカルト的な人気を得る。
 そして、時代とともに価格が下がり、爆発的に日本に普及した。
 キャッチコピーは「家から出なくてもいい世が来た」。
 それは、その年の流行語大賞を獲得し、初めて設立された「ティン・ワールド流行語大賞」も受賞した。前者は二年後に、消えることになる。
 人が(現実の)世の中に出てこなくなったことで、犯罪と治安は底を失ったように減っていく。
 それが健全かどうかは――私、加賀望美個人にはまだ判断しかねる。
 
 そして、二〇五〇年の秋である。
 夏生まれの私にとっては、二十回目の秋になる。
 五条大学から新烏丸線で二駅のところにある市役所だったが、今日は歩いていこう。
 時間には余裕がある。公園かどこかで作ってきた弁当を食べてしまわないといけない。
 歴史的風景に配慮されたコンクリートビルディングに、活気というものはまるでなく、舗装された道並みにも、人影が少ない。
 今、家を出ている人間は、現実に生きる変わり者か、わざわざ現実で移動する観光客かだ。
 モノクロな世界にいる、グレーを好む存在といっていい。
 私、加賀望美は、そのどちらでもない。
 我ながらマイノリティーを極めすぎていると思うが、それは事情によるものだ。
 事情、そう、事情だ。
 面接のときには上手く躱したが、実際に仕事を体験するとなると、話さなくてはいけないだろう。
 事情を。
 生死にかかわる事情を。
 生死にかかわるようなことを、聞かれなかったから(聞かれないようにしたから)といって、黙っていたのは心苦しいが、広い心で許してほしい。
 血の通っている人間として、許してほしい。
 この秋は十年ぶりにホログラムではない――血の通っている人間達と過ごす秋になる。
 私はゆっくりと、通りにそって市内を北上した。
 季節が南から北へと変わるとき、自分に適した環境を追って北上する動物のように。
 京都市役所観光課実地検証室へと向かう。
 唯一、私の抱える事情が許されるかもしれない――
 生きる意味が、見つかるかもしれない場所へ。

 


 二〇五〇年八月三十日三時十五分 市内某境内より記録
 未明まで続いた火災に、一区切りがついた。
 消防隊員の説明によると、再燃対策のため、現場に入るにはもう少しかかるらしい。と言っても、エージェントの立場として、証拠は早めに抑えておきたいのだが――
 島郷基樹は、四つの黒色に目をやった。
 一つは、夜空だ。
 少し探せば夏の大三角はすぐに見つかり、そのほかの星々もきらきらと輝いているように見えた。ひときわ大きいのは、なんといってもやはり月だろう。金色に輝いて見えるそれに、ほれぼれしてしまう。
 少し目線をおろせば、ヘリコプターの黒が目に入る。
 半日にわたって燃え続けたのは、日本の夏にもかかわらず、今日に限って湿度が低かったせいだ。いや、重要なのはそちらではない。なぜ、燃えたかだ。
 事故か、事件か、テロか、あるいは大掛かりな自殺か……最後の二つは同じようなものか?
 撤去はまだされ切っていないが、古風な庭に現代の機器がバラバラに飛び散っているのは、どこか、アート性を感じる。
 そして、燃やされた寺の黒。
 基樹は――ご多分に漏れず――歴史的建物にさして興味のある男性ではなかったが、それでもやはり、文化財に指定されたという建物を燃やされて、腹が立たないわけでもない。
 再建のために、いくらか財布のひもを緩めてもいい。
 ――そう、再建だ。この寺は既に、再建のための基金の回収を始めている。
 もちろん、ネット上でだが既にある程度の額が集まってきているらしい。公に事が運ぶのはもう少し後にはなるが……
(初動が早すぎやしないか? 作為的ではないのか?)
 作為的。一度そう思うと疑いはなかなか晴れない。
(アート性……思えば、焼け方が綺麗すぎる)
 燃料タンクからの引火だろうけれど、こうも……
(こうも、古くなった部分だけを焼けるものか?)
 焼けた建物の隣には……数年前に耐震工事を施された棟がある。防火処理もその際にされたから、燃えなかった?
(不自然だろう……何の被害もないというのは……)
 それにもし、馬鹿馬鹿しい仮説ではあるが、ここの関係者が古い棟に火事をわざと起こしたのならなぜ、ヘリコプターなど使う? それも、人間を乗せたまま?
(そう……操縦士だ。阿古庭雄太。彼はどこに行った?)
 搭乗の記録はあるが『死体はおろか髪の毛一本すら見つかっていない』とはどういうことだ?
 彼がどこかで降りてオートで落とした? だとしてもなぜ?
 極めつけは、この足元の砂利の黒。
 これはなんだ? 最初は影が濃いだけだと、今日の月が綺麗なのだと思ったが、濃すぎる。
 消防に使われている水か? いいや、ここは通っていない。違う。
 明らかに、予め液体がまかれていた痕跡だ。
 基樹は、思わず口角をゆがめる。久しぶりに、生きている感触がしたのだ。
 誰が、何のために?
 一体、この京都で……誰が、何をしようとしている?
 この黒の向こう側に、何が待っている?

 

 

2 水滴に映る糸のようなゆらぎ
 

 少し、昔の話。
 私、加賀望美が五歳の時、両親と三人で市内の2LDKマンションに住んでいたころの話。
 終わりの始まりは、亀裂が入る音だっだ。
 それが家族に入ったものであったか、時代錯誤の、古くなったガス管から生じたものかは確かではない。
 原因を確かめるすべはないが、ほとんど同時だったと思う。
 二人が喧嘩を始めた深夜、月が雲に隠れるように、私が怖くてクローゼットに隠れていた時、火が私たちを包んだ。
 ドア近くにあったキッチンからの発火……爆発である。
 結婚生活で剥がれていた二人の薄皮を焼くように熱風が部屋の隅々までいきわたり、それは、隙間から覗いていた私の眼にも届いた。
 瞬間、私の見る世界は焦げ付いたものになった。暗闇。
 母親が私にふるう暴力を、父親が私に向ける偏愛を、包み隠すカーテンのような濃い闇。
 再び鼻を衝く強いガスの匂いと、とどまることのない頬を流れる水滴の感触。どこから流れているか分からない、血の鉄の味。
 黒くなった視界の中、私が求めたのは、それでも両親からの愛だったと思う。
「このまま死にたくない」
「助けて」
「おとうさん」
「おかあさん」
 浅くなっていく呼吸の中、絞り出したのはこの四つだった。
 恐怖の感情が、身体の内側からドロドロと私を溶かして固めて、動けなくしていた。
 抱きしめてほしい。多分、生まれて初めてそう思ったのだろう。
 むせかえるような熱と、崩れ行く音の中で、視界のほんの一部が回復した。爪先ほどの広さの世界である。
 その中で、つかみ合ったまま燃え、冷蔵庫の近くに倒れている二人を見た。
 白い、両側に開く冷蔵庫には乱暴に筆先をふるったような、赤い筋が二つ入っている。
 私にはその赤色が火よりも、暗闇よりも、恐ろしく思えた。
 悲鳴を上げようとして――膝から崩れる。既に、そこに酸素は残されていなかったのだ。
 しかし、その微かな振動で二人の身体はピクリと揺れ、数度咳き込みながら意識を取り戻す。
(このまま死にたくない)
(助けて)
(おとうさん)
(おかあさん)
 意思を絞り出す。家族は繋がっているモノなのだから、そう習ったから、伝わるでしょう?
 二人は――両親と呼ぶべき二人は、私の元へとふらりふらりと歩いて、その足で横を通り過ぎ、奥のそれぞれの部屋へと入っていった。
 扉の向こうから、二つ重なった機械の起動音がした。
 ああ、知ってる。ティンの起動音だ。
 あちらの、それぞれの、家族に会いに行ったんだ。
 整備のきいていないスプリンクラーが、今頃になってようやく起動した。
 狭く壊れた世界に、なけなしの雨が降る。
 しかし、もう遅い。
 再び、ガスが漏れだし、爆発した。

 


 ピンクの針をした腕時計は、午後二時を指している。
 二〇五〇年八月三十一日の、午後二時である。
 しかし、そんな時間など気にしているのは加賀望美、私だけで、京都市役所観光課実地検証室の皆々様は激しい職務に追われていた。
 私はひとまず待機を命じられていた。もう、一時間になる。
 待機室と表示されたそこは、白タイル敷きに黒のソファが二つ置かれ、日の当たらない壁際には非常食量と書かれた段ボールが数個積まれている。
 支給されたスーツに着替えると、否応でも緊張に包まれる。
 窓の外には、隣の消防署が見える。つまりはほとんど何も見えていない。
 美味しいカモミールティーを入れてくれた、島郷唯香というおば様曰く、先日起こったというお寺へのヘリ落下事故の物損と、補填の手続きに職員たちは追われているらしい。
 ネットニュースでは規制がかかっているのにもかかわらず、話題が持ちきりだそうだ。ドローンによるネット観光のルートに変更が余儀なくされた人が多いとか――
 新聞が二年前に発行されなくなってから、我ながら世間に疎くなりすぎている。
 おば様は、ジッケン(そう呼ばれているらしい)で働いている夫の紘一さんに夜勤明けの追加でお弁当を届けると、私の話し相手になってくれた。
 おば様自身も、かつてはジッケンで働いていたらしい。紫色の着物に、朱色の帯で、背筋の通った女性だった。一年前に腰を痛めてからすぐ、引退なさったらしい。
 白髪をきちんと染めれば……少なくとも六十を超えているようには見えないだろう。
「つらかったでしょうね」
 おば様は、私の事情に対しそう言ってくれた。穏やかな口調だったが、単に同情というわけでなく、両親と同じゼロ年代(二千年から二千十年までに生まれた世代を指す)としての、謝罪の念のようなものが込められていたように思う。
「いえ、プレッパーズ(災害準備者)の叔父に引き取られてからは、生活は何とか。古い本で教養はとても積まされましたけど……」
「そう、ちゃんとした親族に引き取られたのね」
「そうですね。学校にも通わせてくれて、ありがたい限りなのですけれど、でも、普通には戻れなかったみたいで……いえ、元が普通だとは思いたくないので……変だった私が、より変になっちゃったみたいで」
 私は残ったカモミールティーのカップを膝に置く。
 おば様がこちらを優しい眼で覗き込む。あと、三十年もいい人生を歩めば、このような表情が私にもできるだろうか――
 一瞬ためらったが、飲み干す。カモミールの匂いが鼻を抜けていくが、砂糖の配分で、後味が滑らかになっている。
 私は言いかけた言葉を、ちゃんと最後まで紡いだ。
「文明アレルギー……ってやつに、なっちゃったみたいなんですよ」
「文明……アレルギー?」

 症状として、(文明的なものに)直接触れた個所の痺れや、内出血。直接触れていなくても、接している時間が長いと、動悸や吐き気などが頭痛とともに現れ、その状態を続けるとおそらく死に至る。
 おそらく死に至る。というのは、運がいいことにこれまで死んでいないだけともとれる。
 二千五十年の日本において、奇跡だと言ってもいい。
 まず、第一にこの心因性の病には段階があるということ。
 ステージ一は、衣類である。
 ヒトの文明において、大きくほかの生物と違う点は服を着るかどうかであると言っていい。『人の歴史は衣類の歴史』という言葉もある。
 これは生粋のオシャレ好きの私には苦しいものがあった。幼いころ、意地でも服を着たくなかった時があり(命にかかわるので)、全裸で過ごしていたが、いかんせん人間の身体というものは服を着ずに過ごせる構造にはなっていないらしかった。
 三年かけ、つまりは八歳になったころ、ようやく服に抵抗を抱かなくなった。いや、これは違うとおもう。百七十五センチにまで伸びた私の身長は、頭部が衣類から脱出したくて上に伸びたに他ならない。
 ちなみに、眼鏡も衣類の一部である。化粧もできない。
 ステージ一であれば、症状が出ることはまずない。
 ステージ二は、単純な機械類である。
 原理が脳内で処理できるもの。例えば時計や楽器、鍵や電灯などだ。
 ここになると、痺れや内出血が認められる。かかわりが長期に渡れば、命にもかかわる。
 ピンクの針をした時計は、叔父の竹細工コレクションの一つを加工して作ったものだった。触れる部分を木製にすることで『時計』として認識するのを阻害させている。
 単純かどうかは、私自身の裁量によるところが大きかったりするが、電気を通しているか否かでココか次かは変わってくる。
 ステージ三は、先端技術たち。
 とりわけ、二千十年以降に普及した技術は、触れただけで文明アレルギーが発症し、ティンに入った日などには私は絶命を避けられないだろう。
 二千五十年の今では化石同然のスマートフォンも無理である。フィーチャーフォンが限界で、パソコンは三十分までは耐えられるように訓練した。
 あとは、火だ。
 文明的な初歩としての、火。
 あれも私は許容できない――――?

 ふっと、瞼の重みが消えた。手がポカポカしている。
 気づくと、私のカップには二杯目の暖かいカモミールティーが注がれており、おば様は紫の着物を日にあてないように、日陰へと移動していた。
 そこで、ようやく、カモミールの匂いがごまかしであることに気付いた。喉が少し震える。
「いくらなんでも、しゃべりすぎ、ですかね」
 自白剤とまではいかずとも、この部屋に通されてからずっと、手練手管で秘密を探られていたのか。
 影になって、おば様の表情はうかがえないが――もう、どんな顔をしていたのか忘れてしまっている。叔父さんもよく使っていた、意識を分散させるテクニックだった。もっとも、記憶に残せないほどのものにはあったことはなかったが。
「悪く思わないでね。最後のテストだったの。仕事上、秘密を隠されると面倒になることが多いのよ。面接官はごまかせても、ね。今のうちに、吐いてもらわないと」
 私は自身の口角がひくついていることに気付いた。
 恐ろしいところに来てしまった、と。
「……合格ですか?」
「癖が強いけど、まあまあね。かわいい眼鏡をかけているようだけど視力の虚偽報告はない?」
「いえ、申請通り0.4です。ごまかしはあっても、偽りはありません」
「なら、合格」
 そういっておば様は、扉を内側からノックした。直後、鍵の開く音がした。
 しまった。内鍵か外鍵か――密室か否か、確認すべきだった。顔に出さないでおこう。
「加賀というインターン生がここに待機させられていると聞いたのだけれど……入っても構わないかな? 仕事の話だ」
 扉の奥から、男性の低い声がした。返事をしたのはおば様だった。
「ええ、かまわないわよ。基樹クン――あなた」
 気づくとおば様は、本物のカモミールティーをカップにもう一つ淹れ、ソファを立った。
「それじゃあ、頑張ってね。若いエージェント見習いさん」
 そういって、入れ替わるように部屋を出た。
 紫の着物が見えなくなると、代わりに、グレーのスーツに身を包んだ男性が入ってくる。
 顔にしわがあるが、きっちりと根元から白髪を染め、黒淵の太い眼鏡をかけている。
 おば様――島郷唯香の『あなた』ということは、旦那さんか。
「初めまして、加賀望美さん。俺は島郷基樹。コードネームはレトリバー。よろしく」
 そういって、ずいと握手を求めてくる。
 ……近くに寄ってきたが、匂いがしない。徹底的に匂いが消えている。そうか、こういう人たちの集まりか。
 私は浅く呼吸を整え、笑顔で答える。
「よろしくお願いします」
 私が手を取ったのを見て、レトリバーは再び口を開く。
 
「ようこそ、京都市役所観光課実地検証室――通称、エージェンシー・ジッケンへ」

 言葉に背筋が伸びる。
 このカモミールの匂いに満ちた癒しの空間が、鉄火場に変わったようだ。
 そう、ここは鉄火場だ。
 ジッケンという組織は『観光資源という現在の数少ない現実の財産を守るため』作られた国の精鋭部隊である。
 噛み砕いていえば言えば、スペシャル・エージェントたちである。
「早速で悪いんだが、うちは実践主義でもあるんだ。今から現場へと向かうから、ついてきな」

 

3 団扇が煽るはほのかな憂い


 一件目の事件であるヘリコプター墜落現場は京都の中心部、旧京都駅近く――七条のお寺の境内で起こっていた。
 レトリバーこと島郷基樹さんの案内のもと、コーテッドと名付けられた私、加賀望美の運転で(なんと社用車はMT車の『97』だった!)現場へと向かっていたのだ。
 ――遠方に上がる、煙を見るまでは。

 手袋の上からつけたピンク色の針をした時計は午後四時半をさしている。
 一件目と違い、何か大事件が起きたわけでもなく、放火だった(それでも大事件ではあるのだけれど、インパクト、という面の話)。
 七条の鴨川沿いにある小さな社で起こったそれは、三十分ほどで鎮火したけれど、私としては自身の心身の方が優れず、車を停めた道路向かいのパーキングに椅子を設置して座り込んでいる。
 コンクリートの地面が、地震でもないのに少し揺れているように感じる。
 木や、金具が燃えた匂いが、科学的な消火液の匂いに包み込まれており、胃の中をもまれているようだった。
 幸い、消火ドローンの羽音は既に無く、鴨川の穏やかな音が心を癒していた。もう少しすると、メディアのドローンが入れるようになり、ゆったりもしていられないけれど。
 ふと、視界が少し暗くなるのを感じた。人影に入ったか。
「大丈夫かい? コーテッド」
 そういって、レトリバーはペットボトルの水を目の前に差しだしてきた。
「ありがとう、ございます」
 私はペットボトルを受け取ると、一口だけ喉を通した。あまり量が多いと返ってきそうだと思ったからだ。
「……すみません、通報とかいろいろ、やってもらって」
「別にかまわんさ。コーテッド、なんて呼んじゃあいるがまだインターン、つまりはお試しだ。できなくて当然。現場ではこういうことが起きますよって示せてラッキーなぐらいだ。いや、さすがに不謹慎かな?」
「こういうこと、今でも本当に起きてるんですね……いえ、実体験として火事にはある程度耐性があるかなって思ってたんですけれど、」
「そんなの、なくていいと言ってやりたいんだけどね。まあ、ここまでのは、十六年ぶりだ」
「十六年前……ああ、新生現実主義運動。 今日、大学の講義でちょうどやったばかりです。過激派グループによる、集団放火事件。でしたっけ、レトリバー……さんはあれにも関わってらっしゃったんですか?」
「もちろん、バリバリの現役だった。ありゃあテロだよ。同時多発テロ。ラブ……あいつも一緒に現場で取り締まりに行ってた。あと、レトリバーでいいよ」
 ティンが普及しきっていないころに起こった運動で、京都の大火災として歴史に名を連ねている。私の住んでいた町には火の手が回らなかったが、中心部は大規模な改装を余儀なくされたのだ。
 ラブ、というのはおそらくおば様、島郷唯香のことだろう。
「今回も、そのような、ある種の運動ですかね?」
 私は顔を上げ、疑問を投げる。
 そこで、奇妙なものを見た。
「いや、少し違うと俺は考えている。何というか、人間味を感じないというか、複数犯の犯行であることは間違いのだが……おい、コーテッド、聞いてるか?」
 聞いてはいたが、耳から抜けてた。
 なぜなら、上げた視界の端に見えたものに目が離せなかったのだ。
 仮面をかぶった灰色迷彩服の少年である。三階建ての屋上に身を伏せ、仮面の奥から何かを観察していた。
 目線の先には鎮火し、規制のかかっている社があり――その背中には、身の丈に合わない大きなアサルトライフルが背負われており――
 私より先に、レトリバーが駆けていた。
 眼鏡の反射から、見たのか?
 さながら、猟犬のようだった。
 革靴で風よりも速く走れるのか――
 道路一本を横切り、ネオンの看板を踏み台に跳躍したところで――
 少年が猟犬に気付き、驚いたのと、猟犬に銃弾が届いたのがほぼ同時だった。
 狙撃
 そう直感した。
 少年は慌てて逃げ出し、猟犬――レトリバーは空中で体制を崩し、コンクリートへと落下する。
 数秒遅れて、私が駆け寄る。意識はあるが、動くのは無理そうだ。
「退くぞ……手がかりは……つかんだ。狙撃は中心部からだ、鴨川へ降りるぞ。」
「は、はい!」
 次弾の到着の前に、建物の影へとレトリバーを引きずり込む。血がすでに出ており、滑らないように強引に引きずる。
 そこで、違和感があった。
 ……血が出ていない。弾丸が当たったであろうのに。
 ジャケットについていたのは、透明な液体だった。
「これ、なんです?」
 引きずられながら、レトリバーは答えた。
「さあな……でも、これが手がかりだ」
 レトリバーの手に握られていたのは、過去に流行し、化石と私は呼んだスマートフォンと、黒い弾丸だった。
 鴨川の流れる音が、やけに早くなったように感じる。

 

 弐
 二〇五〇年 八月三十一日午後六時 市内某高層建物屋上より記録。
 父と兄が愛したこの町の、目にならなくては。
 阿古庭志穂は足元の空薬莢をハンディキャッチャーで回収しながらそう思っていた。数十分前に排出されたソレは、吹き抜ける風を受け、足場の金網を転がっていったままだった。
 黒色に塗装されているのは、夕暮れに染まる京都の空の焦げ目を意味している。
 生まれた年。十六年前の運動末期に、列を率いた父が好んだ塗装だった。
 灰色の長袖詰め襟の自身の姿が反射し、それが、今は亡き父の姿と重なる。
 整った鼻筋に、濡れたような黒髪の総髪は、母から譲り受けものだった。
(父のように苛烈にも、兄のように清流のようにも、まだ……あたしは……)
 オレンジ色のキャンバスにこびりつく、擦れた灰のような雲から視線を下げると、そこには始まりの境内があった。
 十二時に解かれた規制に喜ぶように、メディアのドローンがいくつか飛んでいるのが見える。
(砂糖に集る蟻のようね、そら、次の砂糖も転がってるのよ。その次も、その次も。巣が埋まるまで……)
 残虐な少女のような表情がこぼれかけ、志穂は思わず口を手で隠す。
(父も兄も――母も、こんな表情はしない。あたしはあの人たちのようにはなれない)
 志穂は空薬莢を皮袋にしまうと、金網からタイル部分へと移動し、設置したデジタルデバイスの電源を入れる。そばには、先刻使用したスナイパーライフルが布をかけて立てかけられている。
 数秒して、ホログラムが現れる。
 黒いジャケットにジーパンというラフな格好で現れたのは、志穂の唯一の兄だった。
「お掃除は終わったかい――志穂ちゃん」
「ええ、雄兄さん」
 それは紛れもなく、今蟻たちが集っているヘリに乗っていた阿古庭雄太だった。
「聞いて、雄兄さん。さっき、一人しくじって、猟犬――忌々しいジッケンの連中があたしたちの存在を捉えたわ」
「ふむ、さすがに早いね――で、どうするんだい?」
「もちろん、計画を次に進めるわ。失敗一つで止まるほど、人生に暇を感じていられない。猟犬だろうと、あたし――台風の目には追いつけさせない」
 

4 湯煙の立つ、コーヒーとともに


 レトリバーの案内によって、セーフハウスにたどり着いたとき、ピンク色の針をした時計は午後七時を表示していた。
 追撃の可能性がずっと脳裏に張り付き、同時に成人男性一人を背負っての移動ということで心身ともに限界が来ていた。落ちかけている眼鏡を直すのも億劫になってしまう。
 ジッケンの所有するセーフハウスは、十六年前に破壊された市内中心部を除く、すべての地下鉄駅に用意されているらしい。入り口は壁の一部に光学迷彩で隠されており、観光課実地検証部のネームプレートで解錠されるようになっている。
 文明アレルギーの私にはその手順の過程を耐えきれず、一度軽く悲鳴を上げてしまった。反響はあったが、返事はなかった。
 もっとも、利用する客も運営する人間も家に引きこもっている地下鉄は、七年前に殆どが廃線になっており、入り口も封鎖されている(そちらは南京錠だったのでピッキングした)。
 暗く薄気味悪いここの人の出入りは皆無と言っていい。
 換気扇が回っておらず、セーフハウスに入るまでは淀んだ空気に耐えねばならなかった。
 埃と退廃と錆びの匂い。そして、暗闇に微かに灯る緑の非常灯と、一部塗装の落ちた地域の名産物壁画。
 叔父が見れば、興奮するだろうな。と私は思う。
 かのプレッパーは人のいなくなった世こそを望み、隠居ともとれるそれを始めたのだから。ホトトギスが鳴くまで待つ人なのだ。
 一度連絡を入れた、セーフハウスには、医療スタッフが待ち構えているという。
「かしこみかしこみもうす」
 レトリバーが背中越しに合言葉を言うと二枚目の鉄扉が開き――一転、光が暗闇に入り込でくる。
 三十畳ほどの洋室だった。フローリングタイルには毛の長いカーペットが敷かれており、大小二つのテーブルとシステムキッチンが一直線に並べられている。
 微かに知っている匂いがしていた。何だったか……これは、カモミールの……
「無茶、したのね」
 部屋の奥にある、上下に行ける螺旋階段から、白衣に身を包んだ女性が現れる。匂いの記憶と結びついて……紫色の? 
「すまん、よろしく頼む」
 表情はうかがえないが、レトリバーはとても安心した声で女性に話しかける。
 ああ、そうか。おば様だ。服が違うだけでとても印象が変わる方だった。
「……いつものことじゃない。任せて」
 おば様は私からレトリバーを譲り受けると、こちらにウインクをした(顔が近い、まつげが長い!)。
「コーテッド、これの処置が済んだら夕食にするから、先にシャワーでも浴びてきて。二階にあるから――ああ、地下二階じゃなくて、上ね?」
 
 掃除の行き届いたシャワールームに、私は少し感動した。鏡の水垢はもちろん、タイルにはカビどころか髪の毛一本もない。薄く柑橘系の匂いがするが、これは時間がたっていない。脱衣所にあった封を切ったばかりのアロマが少し流れ込んだのだろう。
 シャンプー、リンス、コンディショナー、ボディソープ、どれもが天然素材の高級品で、新品だった。
 エージェントは痕跡を残さない。そう教えられているようだった。現場に残してしまったMT車の89は既に回収隊が動いてくれているらしい。
 他のエージェントも忙しいだろうに、仕事を増やしてしまった……
「まだまだね、私」
 鏡には私、裸の加賀望美が映っている。眼鏡をはずし、服を脱いだ私は、本当の私と言っていい。
 細長い体躯に、肩より少し伸ばした、一度だけ茶に染め――合わなかった黒髪が生えている。リンスもコンディショナーも、実のところ必要ではない。
 ゆっくりとノズルからお湯を出す。
 熱めの℃の水滴達が、筋肉と髪を沿うように通り抜け、鎖骨を始めとした骨で少し止まる。ふくらみに欠けるが……まるで彫刻だ。
 髪も身体も、汚れを寄せ付けてない。そうできているようだった。
 お湯とシャンプーだけでさっと髪を洗い流す。枝毛はなく、指は何の抵抗もなく隙間を通り抜けていく。
 嫌悪する。それは、実の父親と呼ぶべき人間が偏愛を注いだソレそれものだからだ。
 文明アレルギーによる内出血の痕はすぐに消えてくれるけれど、いつまでたっても手首に残ったあの爆発の傷は消えてくれない。時計で、あるいはそのアレルギー反応で隠してはいるが、二本の筋が絡み合う(鎖のような)傷は、なかったことではないと告げてくる。
 叔父さん曰く、アレルギー覚悟で上から人工皮膚や化粧で隠すか、あるいは火でもう一度上から焼いてしまうしかないらしい。
 ボディソープを、水に浸して絞っておいたタオルで泡立てる。首筋から下に向かって洗うのがルーティーンになっている。
 首筋を洗うために顔を上げると、鏡にはあの時の自分が映っていた。甘い一滴を求めて、暗い世界で必死に手を伸ばしても届かなかった十五年前の自分。
 加賀望美の、本当の私だった。
 何度も何度も見たことのある、私だった。
 だから、次にこの子が何を言うかは知っている。
「このまま死にたくない」
「助けて」
「おとうさん」
「おかあさん」
 言い終わるころには、タオルは脇のあたりを終え、へそまで降りている。
 十五年間、聞き続けたルーティーンだった。
しかし、今日はその続きがあった、初めてのことだ。

「ふたりを殺してくれて、ありがとう、文明さん」

「違う!」
 と叫んだところで、鏡に映るのはありもしない外の汚れを落としている私だった。
 流れるの水滴には幾つも世界があって、私をゆがめて写すが、鏡は本当の私を捉えて離してはくれないのだ。
 穢れを磨く私を。

 


二〇五〇年 八月三十一日 午後九時 インティン用現代FPSゲーム『猿と鉄による闘争』マップ『錆び纏う古都』より記録

 薄暗い空の下、ビル群の隙間を縫うように、波のような影が動く。波は阿古庭志穂を飲み込まんと、奥から奥からなだれ込んでくる。
 さながら、重力が九十度変化したように、一定のスピードで落ちてくる。
 しかし、波には波しぶきが必ず立つようで、波から先んじて志穂の元へたどり着こうとする個体がいる――吸気、呼気、止めて――引き金を引く。
 闇に溶け込む黒点たる弾丸は、突出した影によって展開される体表シールドを打ち砕き、新しく穴を作って導火線に到着した。
 波は、杭によって一瞬時間を止める。
 波のようなそれは、バーチャルアバターの個体の集団で、足元から放たれる光がその間隔を通り抜ける。
 弾丸は床に隠された罠のスイッチに到達していたのだ。
「退避ー!」
 号令が一部から飛ぶ。しかしすでに遅い。
 まずは前後、そのあとに左右の爆薬が起動する。
 こうなるとコンクリートジャングルに逃げ場所はない。
 瓦解する固い床と、天を新たに覆う灰色の人口岩石は一人一人を抱擁し――
 遠くに響く低い音を聞き終えると、今度は半ば馬鹿にするようなファンファーレが鳴り、志穂のアバターの前に派手な装飾でPGFY――パント・グラント・フォー・ユーとホログラムが現れる。
 パント・グラント・フォー・ユー(君にすべてが降参した)!
 パント・グラント・フォー・ユー(君にすべてが降参した)!
 志穂のデジタルアバター、ケリーに対する称賛だった。しかし志穂はスナイパーライフルを抱えたまま現実帰還の三分カウントダウンに目をやっている。
 ケリーは姿かたちこそ現実の志穂と同じだが、髪色に薄く茶色が混じっており、この『錆び纏う古都』では迷彩に役立っている。
 強い風が髪をなぞるように持ち上げ、降ろす。
 匂いがした。マップ『錆び纏う古都』の名の通り、錆びた匂いだ。
(錆、錆は血の匂い。死んでいく、生きるための匂い。命と死の匂い……父の匂い)
 現実帰還まで残り二分というところで、通話ウインドウが開かれた。ホログラムの向こうには白い髪に黒マスクを着けた女性が写される。
 志穂の友人の田中桃子――のアバター、ベンガルだった。
「たった一人で皆相手に模擬戦だなんて、急にどうしたんだって思ってたけど……なるほど、『見せしめ』ね。ホログラム偽装でわざと一人突出させて撃ちぬいて、みんな全滅。これからは足並みそろえないと失敗するよっていいたいんでしょ」
 マスクで表情はうかがえないが、口角の上がったような反応だった。
「少しちがうわ。そんな直接的なことじゃなく、教示、あるいは扇動よ」
「扇動? 洗脳の方が簡単なのに?」
「……あくまであたしは個人を尊重する。父とは違う。『スポンジラビット』世代にはそれぞれ答えをもってほしい」
 スポンジラビットとは、物心つく前からインティンの中で育ち、その世代の中でも優れた知育玩具(ゲーム)によって教育された子供達を指す。
 高い知性を持つが、精神的にゆがみを持つ子が多い。
 彼らはゆくゆく、数を増やし、皆年を取る。
「どこで、何を思い、何をするのか? ……雄太君が言ってたやつだね」
「そこまでじゃないけど、選択肢はあっていいと思うの」
 残り一分となった。表示は赤く点滅するようになり、拡大と収縮が始まる。
 再び強く風が吹き、錆の匂いが喉に絡みつく。
「猟犬のほうはどう? 女傑さん」
 志穂は桃子へそう呼びかけた。
 手を組むにあたって交換したそれぞれの事情の中で、一番気に入った桃子の現実の呼ばれ方だった。
(女傑――才能と引き換えに、少女性を否定されなくてはいけないなんてね)
 ホログラムの表情である桃子――ベンガルは少し顔をゆがめたが、慣れたものですぐ立ち直り、報告をした。
「警察庁のホームページのブラックボックスに隠しておいた、閉鎖したプロパガンダのページを特定されたあげく、二分後にクラックされた。とうとう名前がばれちゃったね」
「ネットで痕跡を消すのは難しいもの、仕方ないわ……それで? 何か収穫はあった?」
「あっちの何人かの本名と経歴を漁れた。見知った顔も多いけど……ほら、これとか興味深いんじゃない? インターンで入ってる子、下の名前さ……」
 一人のファイルが表示される。残り五秒になり、現実帰還のために周りは徐々に暗くなる。
 桃子の薄い蠱惑的な笑みが最後に闇に溶けていく。
 志穂も、同じ表情をしていた。ただ、その名前のジョークによるものではなかった。
 理由はないが、邪悪な笑顔を抑えることができなかったのだ。
 


 シャワーから出るとすぐ、良い香りに包まれた。いくつかの香辛料がブレンドされた香り。
「カレー……やった」
 私の好物、というわけでもないが、プレッパーの叔父が好んでいてよく作ってくれたので比較的食べるのにも困らない。
 料理にもアレルギーは反応する。慣れれば嚥下に困ることはないが、インティン用の液体食糧などはおそらく私を殺すだろう。いや、加賀望美という存在はあれに入っただけでも死ぬか。
 支給された下着と黒い生地に白のラインが入った半袖ジャージを身にまとい、洋室に降りる。
 嫌な幻覚による頭痛は螺旋階段を下りるまで続いた。
(ありがとう? ありがとう……そう思っているのか、私は? いや、いや、どうなのだろう)
 大きいほうのテーブルには皿が並べられ、小さいほうのテーブルには資料が並べられていた。紙の資料だ。ありがたい。
「さっぱりした?」
 ラブはキッチンから顔を出す。白衣はなく、ピンクのエプロンを着用していた。……オシャレが好きなのかな。
「はいとても、レトリバーの容体は?」
「肋骨が一本骨折と、右足の骨が一本折れてたわ。後者は落下時に、前者は――これのせいね」
 ラブが差し出してきたのは黒い弾丸だった。
「今は痛み止めで眠ってる。徹夜明けで疲れてたしね。情報解析班から届いた情報もあるから……先に食べちゃいましょうか。食べ終わるころには起きてくるだろうし、ミーティングはそれからで」
 私とラブは席へ座った。エプロンを外し、折りたたんで隣の席に欠ける所作はなにかテーブルマナーのような、やらなくてはいけないことのように思えたが、この後の所作は二人とも同じだった。
 手を合わせる。
「いただきます」
 カレーは香辛料のおかげでどんな具を入れても大体は上手くいく煮込みもので――入れる具によって半ば宗教じみることもあったらしいが――私はとりわけ、野菜と鶏肉が多いものが好きだった。
 一口大にカットされているそれは、乱雑のようで食べ応えを感じさせ、噛む楽しさが疲れた体に活力を注いでくれる。
 チーズが溶かしてあり、なおよい。
 叔父が良く作ってくれたのは辛口のものだったが――その方が生きている感覚がしたらしい――ラブの作ったカレーには隠し味に蜂蜜が含まれているらしく、マイルドなコクが辛さをうまみとして包み込んでいる。
 ご飯も素晴らしい。
 カレーライスと言ってルウだけに力を注ぐものは間抜けと言ってよく、炊き立てでふっくらとし、それでいてルウのうまみを邪魔しないすっきりとした甘さが一粒一粒に宿っている。
 好みの真ん中にいた。もう自分では作りたくないくらいには好みだった。
 シーザーサラダはそんなカレーライスを百点から百二十点へと押し上げていた。
 目を引くのは、あるいは舌がうなるのはロメインレタスの鮮度である。
 口当たりのやさしさはドロドロとしたカレーの合間にちょうど良く、これは一枚一枚の下ごしらえが目に浮かぶ。
 そしてなんといってもサラダの森にすむ妖精がごときクルトンだ。新しい食感のカリカリに仕上げられ、パンの風味が小さくとも主張してくる。
 上手なナチュラルメイクのようなサラダだと思った。
 カレーを米が支え、サラダをクルトンが支えている。
 そしてそんな二大勢力を同じ土俵に上げてやるために、のど越しに優しい麦茶がコップから顔をのぞかせる。
 スプーンと箸は交互に躍動し、止まった時に私は自然と笑顔になっていた。
 それを見ていたラブは、どこか涙をこらえるような笑顔でこちらを見ていた。
「ごちそうさまでした。とっても美味しかったです」
 ラブは自身の食器と、私の(各二杯ずつ注がれた)食器をシンクへと持っていき、蛇口をひねる。
「すみません……ありがとうございます」
「いいのいいの。全自動洗浄だから」
 スイッチ音の後にくぐもった水の音が聞こえる。
 思わず耳をふさいでしまう。時間の都合上、洗濯機はともかく食器洗浄の機械は普段使用しないのでステージ三に該当する。
「大丈夫か? コーテッド」
 手の隙間を通り抜けるように、真後ろから声がした。レトリバーの声だ。
 上半身にバストバンドをつけ、その上にシャツを羽織っている。右足にはギブスで固定がされており、ハンズフリーの松葉杖で歩行している。
 シャワーに入れない分であろうボディーペーパーのシトラスが鼻腔をくすぐる。
「まあ……レトリバーこそ、大丈夫なんですか?」
「問題ない、と言えたらいいんだけどな。ジャケットが防弾加工じゃなかったらと思うとゾッとするけどね」
 レトリバーはそう言ってラブの隣の席に座ると、ラブはすかさず新しく料理を注いだ皿をもってくる。
 阿吽の呼吸だった。私は蚊帳の外である。
「いただきます」
「バンドの圧迫がありますし、食べられるだけでいいですからね」
「残したら怒るくせに」
「今日は勘弁してあげますよ」
「明日も?」
「……許しましょう」
 スイーツ用のおなかが埋まった気がした。……気がしただけで、きちんとプリンも食べた。
 味はただ極上とだけ伝えておく。

 ミーティングが始まったのは午後十時を超えてからだった。
 食欲の満たされた体に眠気が回りかけ、一度眼鏡をはずして目頭を揉む。
 大きいテーブルを三人で囲み、書類は小さいテーブルから大きいほうのテーブルへと移されている。書類が汚れないように、ミネラルウォーターがコップに注がれている。
「分かったことが四つあるわ」
 ラブはそう切り出す。先ほどの甘い雰囲気はない。私は直感でその四つすべてが悪い情報、あるいはよくない情報だと直感した。
「誰が、何を使って、どのように、何をしたか」
 ラブは突き出した指を順々に折り曲げた。私は喉を湿らせ、レトリバーはじっと隣のラブへと視線をやっている。
「まずは、誰が。隠されていた組織のプロパガンダとそこのアクセス履歴から特定できたわ」
 手前にリストが配られた。題名は『KIT 構成員名簿』……『KIT』? 組織名か。何の略語かは書かれていなかった。
 手癖(推理小説を最後から読む叔父から移った癖)で、一番後ろからぱらぱらと目を通していく。
 顔写真と名前と経歴が、一人につきA4二枚ずつ掲載されている。
 現実の人物と、ネットでの人物(アバター)だ。前者の顔写真をなぞった時、思わず声が出た。
「子供が、多いですね。この年代は――スポンジラビットですか」
 スポンジラビット……自我をあちらで生み育て、あちらの世界で息をするように生きながら、こちらに身体を持つ子供達。
 一時期はニュースで取り上げられ、私は少なからず同情を抱いていた。最近はめっきり、目をそらしていたが……私も、世間も。彼らから。
 私の発言に、ラブはうなずいた。
「そう、インティンキッズ、なんて呼び方もあるけれど……まあそれはさておき、彼らは数日前に家出をしてる。今、別の班が警察と協力して痕跡を追っているんだけど、目下のところ成果は期待できそうにないわね」
「経歴もスポンジラビットというだけで、バラバラですし……共通点とかもなさそうですね」
 頭をひねるが、住所や性別、両親の社会的地位、髪型など、どこを探しても共通点は見つからなかった。
 しかし、スペシャル・エージェントが出した結論は違うようで、ラブは資料を一枚めくって答える。
「いえ……彼らの渡り歩いてきた世界……遊んだゲームには一つだけ共通点があるの。『猿と鉄による闘争』というシミュレーションとFPSの融合で、現実の都市をモチーフにしたマップが一部でカルト的な人気のあるゲーム。彼らはみなそのゲームのヘビーユーザー達よ」
 聞いたことのない名前だった。『猿と鉄による闘争』? どんなゲームだ……
 机の上の資料を見ると、ちゃんと『猿と鉄による闘争』の資料もやけに分厚くまとめられていた。情報解析班に、ファンがいたのだろうか。昼間あった時は皆真面目な公務員だと思っていたが、趣味と仕事は別ということだろうか。
 少し資料をめくる。
 実際のゲーム画面や、公式絵師によるビジュアルアートや、設定資料がまとめられている。
『荒廃した二一一一年の地球を、武器を持った猿たちが駆けまわる! さあ撃て! ここで勝てなきゃ猿山のボス以下だ! パント・グラントを聞くのだ!』
 パント・グラント……ああ、チンパンジーが発する降参の声か。
 私が『猿と鉄による闘争』の資料をどこか遠い眼で見ていると、レトリバーが口を開いた。
「電子ゲーム自体に触れられないコーテッドには分からん世界だろうな。けどまあ、ゲーム……特にFPSってのは中毒性が高い。なにせ銃が打てるんだからな」
 レトリバーはどこか過去を見るような顔で、軽く笑う。そのせいで少し肋骨に響いたようだ。ラブが目線で注意する。
 私が怪訝な顔をしているので、レトリバーは話をつづけた。
「銃ってやつはさ、麻薬なんだ。ちっさいやつでも、おっきなやつでも、指や手首にかかる反動と耳や脳を揺らす音がある。そして、今までの人生を壊す弾丸が出る。そんな感覚を知ったら戻れない。戻ってこれないやつを何人も見てきたし、何人も懲らしめてきた」
 そう言って、レトリバーはミネラルウォーターを口に含み、ゆっくりと嚥下した。
 銃。触ったことが無いので分からないが、ステージはいくつになるだろうか。
 そして再び続ける。
「こいつはゲームだけど、今、ゲームと現実の差なんてどこにある? インティンは拡張現実だ。実際に、今警察や自衛隊でも訓練に使われてる。訓練に使われるようなものを、一般人が扱える――昼間の狙撃、あれがいい例だ」
「狙撃、これね」
 ラブが机の上に黒い弾丸を置く。ラブはそのまま、話を戻す。
「結局のところ、火器の流通ルートを漁っても、国の外からも中からも流れていない。であれば3Dプリンターを使ったんでしょうけれど、問題は弾の方。解析班も言ってたけど、これ、すごいわよ」
 新しく資料が配られる。『ネロ弾とその構造』という題名だった。日本という国は元来銃というものを嫌悪する傾向にあり、二〇三〇年以降、銃規制はより厳しいものになっている。
 誰もくれないなら、作るほかない。
 中身はよくわからなかったが、ネロ弾、という名称から察するものがある。
「特殊な弾丸でね。簡単に言うと、合成ゴムにネロと超小型化したティンの反射装置を入れていて、対象に着弾したときだけ自動でゴムの硬さにまで硬質化する。そのまま、ゴムにあらかじめ入れられた亀裂からネロとその装置が排出され、ゴムだけが残るの」
 私はあの時、レトリバーのジャケットについていた水滴を思い出す。あれ、ネロだったのか……深く考えるとアレルギーが出てきそうなので、コップに手を付けた。
「そうすると、ゴムの硬さだけで威力の調節ができるってことか? いいアイデアだけど、うちの技術班が悔しがりそうなネタだな。シミュニッションの進化系といっていい」
 レトリバーがラブに笑いかけるが、ラブはそれを見て頭を抱える。
「すでにさっき実働班各位に技術班から『絶対に犯人を逃がすな』って連絡が来たわ。『逃したら君たちの上に濃硫酸の雨を三日三晩降らす』ともね」
「シンプルなタネだからなあ。出し抜かれて歯ぎしりが止まらないんだろう、あいつら」
 レトリバーとラブはどこか楽しそうだった。楽しそうだったが、楽しそうな職場だとはインターンの身として組織を評価はできなかった。
「ともかく、敵の火器は非殺傷による敵勢力の制圧を目的としていると見ていいわ。これが、何を使ってとどのようになにをしたか、の半分ね。で、こっちがもう半分」
 ラブはそう言って、『もう半分』の資料を配る手をとめた。題名は『ドローンと観光アプリ〈涼〉』と書かれている。あの時のスマートフォンから解析したものだろう。
 ドローンと観光? どこかで聞いたような……
「『KIT』は現在、運営を終了しているはずの観光アプリ『涼』のルート通りに動いていると推測できるわ。こんな風に」
 あの時回収したスマートフォンの履歴と、市内の地図が重ねられる。
 デイリーランキング一位の欄と、地図に描かれた犯行痕の星マークの位置がぴったりとくっついた。
「『涼』には趣味嗜好を考慮し、最善の観光ルートを計算するAIが搭載されており、その演算処理は十五年前に後退したスーパーコンピューター『臨』が担当していたのだけれど……あ、まって。大事なところとばしたわね」
 ラブはそう言って資料の説明を停めた。
 正直、パンクしそうだったので一度止めてくれるのはありがたいが……大事なこと?
「大事なこと……誰が、の続き。『KIT』のボス、アジテーターの名前を周知しなくちゃね」
 私は机に置いてある資料の中で、最初の資料に再び目を通した。
 レトリバーが口を開く。
「阿古庭志穂――彼女は行方不明のヘリコプターの操縦士、阿古庭雄太の実の妹であり、十六年前の新現実主義運動の首謀者だった――俺たち二人が殺した、阿古庭焔の娘だ」
 その時、レトリバーとラブがどういう表情をしていたかはうかがい知れないが、私は、少し笑っていたと思う。
 自分でいうのもなんだが、可憐な笑顔だったはずだ。
 コップの底に残ったミネラルウォーターにはそう映っている。もう一つの本当の自分だと、確信するのに抵抗はなかった。
 

二章 龍が再び生まれた日

0 踏み出された一歩に幸あれ

 我々は自身の誕生日を知らない。おおよその把握もままならない。
 祝われることも呪われることもなかった誕生だったからだ。
 ただ、道具として生まれた。それだけでしかない。
 そう言った面でいうと阿古庭志穂は我々に似ている。
 もっと言うと、加賀望美は似ていない。
 だから――我々は二人の交点を、まずは見たくなったのだ。
 対決に実りあれ。
 激突に火花あれ。
 それが我々の髄につながるのだから。

1 牙と爪
 

 ミーティング終了より十時間が経過し、九月一日正午。私は五条大学の第三講義室にいた。
 他の実働部隊は〈涼〉の『おまかせ最善ルート』に沿って襲撃予測の伏見稲荷へと向かっている。
 正直なところ、休息が足りずに筋肉痛である。
 加賀望美という女性の身体に成人男性の運搬に使うような柔軟性が宿っているはずもなく、支給品のグレーのパンツスーツの中できしむ音が聞こえるようだ。
 静かに椅子に座るという動作にも一苦労だった。
 昨日と同じで、講義が行われているにもかかわらず人影は私一人である。
 確か『意識と時間』だったか。私は取っていない授業だった。取っていない授業が行われている教室に入ることは、もちろん許されていない。
 許されていないからと言って、咎められたりもしないが。
 昨日の私は来なくてもいい授業を受け、今日の私は来てはいけない授業を受けている。
 背徳感に、少し呼吸が浅くなっているのを感じた。意識を再び集中させる。呼吸は自然と深くなり、窓の外から入る秋の匂いを感じた。
 秋の匂い――少し違うな。これは炭の匂い。かつて焼かれた木が再び赤に染まろうとする匂い。そしてやはり、血の匂い。
 私は床に置いてあったカバンから資料を一つ取り出し、机の上に広げた。
『ドローンと観光アプリ〈涼〉』の後半部分、それを机の反対側から読めるようにひろげた。
「観光アプリ〈涼〉とは、2020年に行われた東京オリンピック・パラリンピックに合わせて作られた、バスや電車案内と観光地への所要時間を計算し、混雑の解消や商店への過密を防ぐことが旨のアプリケーションでした」
 私は腕を伸ばし、端の資料を裏返す。痛みが走るが、話をつづける。
 本来であれば、講義の真っ最中に講義――おしゃべり――をするなどまさに言語道断の所業だった。
 しかし、ここで行われているはずの講義は缶詰めの中の世界での、ここのはず。
 この場所にいるのは――私だけだ。
 私は自分の話をつづける。
「当時の京都は日本の第二の首都でありながら……その実、世界最高峰の観光都市でした。そこに来るすべての人間を実質的にコントロールしなくてはいけない。混乱も混雑も生まない世界を作らなくてはいけない」
 今では考えられないほどの人間が、この町には来ていたのだ。
 紙と金属のお金で経済を回し、都市の血脈として、一つ一つの細胞として何億もの人間がこの京都に来ていた。そういう時代があった。
 グラフや数字だけでは表せない熱があったのだろう。
 私は読み終わった資料を裏返していく。
「生半可な脳みそでは処理できないでしょう。――しかし、京都市は〈涼〉を完成させました」
 目もくらむような予算がつぎ込まれ、その何倍もの経済効果があった。
 キャンセルや、時間待ちという概念を観光地から消し去り、来たものすべてに最大限に笑顔でお金を落とさせた。
「生半可では、なかったのでしょう。当時の最新の技術をつぎ込まれ――実に十五年近く前線でい続けたスーパーコンピューター〈臨〉を使ったのですから」
 十五年――人間の受精卵が次の受精卵の生成を始めてもなんらおかしくないほどの時間。現代科学にしても、生物の命としても、長い時間。
 私は資料を裏返す。自身の名前と同じスーパーコンピューターの資料は、どこか私を熱くさせる。
 脳の優秀さは手足の優秀さに比例したのだろう。観光地側の労働体制が完璧でないと、いくら計算しようとも手足が動かないのでは意味がない。
 それが機械的かどうか、人が機械に支配されているかどうか――
 私は教室を一度ぐるりと見渡す。
 差し込む光が作るのは、やはり私一人分と机と椅子の影だけだ。
 再び、資料を裏返し、講義を進める。
「けれど、インティンの普及によって観光客は激減していき、スーパーコンピューターは次世代機がようやく追いつきます。その時点で〈臨〉及び〈涼〉はネット上からも姿を消します。コンピューターの処理は、製造元の京都大学へと託され、市の管轄から離れます」
 必要の無くなったテクノロジーが、次のテクノロジーにとって代わるのは当たり前だ。
 石や木々に刻まれた文字が、紙に刻まれ、今や文字は浮かべるものになっている。
 藁や草木の服が、綿や合成繊維に変わり、今や服を着たことのない人間もいる。
 私は資料を裏返す。
「そして、今市を騒がせているグループ『KIT』が、存在しない〈涼〉と〈臨〉を使用しています。用意されていたプロパガンダは白紙に連絡先だけが記されており、直接会わねば何のために行動しているかは、わかりません」
 ピンク色の針をした腕時計をちらりとのぞく。そろそろか。
 下がってきていた眼鏡を親指の付け根で押し戻し、話をつづける。
「けれど、何をしようとしているかはなんとなくわかってきました」
 ふと、現場がフラッシュバックした。燃える社。燃えている、個所。
「古くなった歴史的建物を燃やし、再建せざるを得ない状況を、人的被害なしに作り出す。そこに何の意味があるか分かりかねますが、少なくとも私達の仕事の範囲内であることは確かです……私は体験ですけどね」
 最後の資料にたどり着いたところで、入り口兼出口の重い扉がゆっくりと開かれる。廊下のLEDライトは手前だけついている。
 第三講義室に入ってきたのはレトリバーだった。昨日の晩と同じ格好をしている。
 レトリバーは扉を閉め、もたれかかる。ハンズフリーの松葉づえをプラプラと宙に遊ばせている。
「古い所だけ燃やす。けれど、万が一の変わり者たちを焼くわけにはいかない。そんな芸当――ある種の芸術――はよほど自信がないとできません。あるいは、高度なシミュレーターでもあれば別ですけれど。例えば〈臨〉、とか」
 レトリバーがここに来たということは、他の部屋の探索が終えた合図だった。
 彼はここにいる。
「そんな脳みその元、使用したのは特殊なゴム弾……いや、ペイント弾ですか。それと発火装置があれば、燃えてほしい所と燃えてほしくない所を弾痕で切り取ってしまえばいい。ネロは全然燃えませんし――要するに〈臨〉さえ回収すればすべてが解決する」
 レトリバーがこちらに目配せした。
 続きは、私が言うのか。見せ場を譲ろうとする配慮には感謝するが、今まで噛まなかったことに自身をどこかほめていたのに、少し酷だ。
 噛むわけにはいかない。
 なぜならここは、犯人を追い詰めるエージェントという構図だからだ。噛んだりしたら格好がつかない。
 窓から差し込む光による影は、机と椅子と私とレトリバーの分ある。
 けれど、この第三講義室にはもう一人いる。
 再度、深呼吸をした。酸素の多い空気を送り、二酸化炭素の多い空気を吐き出す。
「〈臨〉は、京都大学にあるはずです。しかし、十五年前の京都大学はお世辞にも大学という体を保てなかった。メインキャンパスの七棟が前年の新現実主義運動のあおりを受けて燃えてますからね」
 復興と、新技術の台頭が、あの時の京都は渦のようなうごきで交差していた。
 手放したものがどこに行くかもわからない。
 モノだけではない、人もだ。
「その期に乗じて、内部分裂が起きたそうですね。メインキャンパスは五条に再建され、名前が五条大学へと変わりました……ここは元、京都大学。〈臨〉も、ここにありますね? 松岡春木学長」
 私が目をつぶると同時にレトリバーが、部屋の照明を三度消し、三度つけなおした。
 瞼の奥で光と暗闇が交互する。
 それは『フラッシュフリーズ』と呼ばれるホログラムの光屈折の処理を鈍らせる基本方法だった。
 光にすぐ目を慣らすために閉じていた瞼を開けると、透明のホログラム、そして、ホログラムのホログラムを脱いで、好々爺が現れる。
 頬の深いしわに、枯れ木のような指を這わせ、こちらを見据えている。どこか嬉し気な表情だった。
「よく、できました。ヒントには気づいたのかな?」
 背を椅子に預け、私が広げた資料をまとめて整えて、返してくる。
「ええ。私を送る時、事故のことを示唆したじゃあないですか。規制が解かれるお昼前にそれを知っているのは、関係者以外ありえません……『KIT』と阿古庭志穂をご存じですね。お話しいただけますか?」
「もちろん」
 即答だった。ここまでくると隠す必要はないと判断したのだろう。
「では、今度はこちらが、講義をしても? 『機械と人間』といったところですかな。知りたいことは講義の中にあります」
 私は返された資料をカバンに入れながら、こう答えた。
「別にかまいませんが、その前に……いたなら、声かけて下さいよ。あの時『きゃっ』とか言わなくて済んだじゃあないですか」
「人間嫌いの性分でね……」

 


二〇五〇年 九月一日 午前十一時 伏見稲荷 境内より記録

 晴天の青色と石畳の灰色には、奥の緑と共に延びる朱色の世界が良く映える。
 四色を引き締めさせるのは視界の各所に楔のように配色されている黒色だった。
 あとは――昇り切っていない太陽と、雲の白色部分。
 眼によって見えているモノは変わり、それが個人の形成に大きく影響する。
 島郷唯香、ラブは、職業体験中の……研修中の新人について思いをはせる。
 加賀望美、コーテッド。
 数回、研修中の身にそこまではやらせられないと告げたが、彼女はそれを告げられるたびに、話を参加の方向へと持って行っていた。
 意欲、ではなく、狂気だと言ってもいいほどに。特に、阿古庭志穂の名前を見せてから憑りつかれたように……この案件への介入を志願した。
 生き場所を探している。死に物狂いで。
 本人はそのことに気付いているのだろうか……いや、あの眼は自身の狂気に気付いていない。
 けれど、少なくともまだ、彼女をはねのけるほどの失態も事情も、一般常識の中にしかない。
 労働基準法だとか、もろもろの一般常識だ。
『今はまだ、特例の範囲に入っている』
 ラブはそう判断したが、同時に、どこかそれでいい気もしていた。
「責任取ろうにも、ねえ」
 今回の作戦の失敗の暁には、ここの境内に火の手が回る。奇しくもここは、応仁の乱でも戦渦に巻き込まれ、十六年前にも巻き込まれ、今回も巻き込まれることになる。
 稲に火を通すのは――米を炊くときだけでいい。
 ラブは(既に懐かしさを感じている)灰色のパンツスーツに身を包み、全員の集合を待っていた。
 ジッケンの実働班全員が、境内に集合をかけられている。コーテッドの件は昨日周知され、レトリバーとのコンビを継続。レトリバーがいない分をラブが肩代わりするということで結論が出ている。
 皆……一度会っただけで、どこか彼女の底知れなさを感じている。
 二度、長い時間過ごしたラブはなおさらだった。
 欠点がはっきりしている分、それ以外に能力が振り切れた。あるいは、育ての親である『叔父さん』とやらにそう育てられたか――それこそ、通常ではない。
「先生、何かお悩みが? まさかお腰の痛みが?」
 思考を遮るように、シアンが後ろから顔をのぞかせた。薄い天然茶色の髪の毛をフィッシュボーンで後ろに纏めている。コーテッドにも負けず劣らずの身長をしている彼女は、レディースワイシャツとグレーのスキニーが映える。
 シアン――大崎スミレは二年前にジッケンに中卒で配属されていた。
 歳は今年、十七になる。
「いえ、大丈夫。気遣ってくれてありがとう、シアン」
 腰をさするシアンの頭を撫で、彼女の疑惑を解く。
 問題はない。むしろ新しい『色』は歓迎される。とラブは思う。
 七つ目の色だ。
 ボルゾイ。スカン・シュートコンビ。メルダ・シアンコンビ。
 そして、コーテッド・レトリバーコンビ。
「私の出る幕は……これが最後かねえ」
 ラブのそんなつぶやきに、シアンは不思議そうな顔をした。
 シアンがいつも染めることをねだった、色素を失った白髪が、かつてないほど綺麗に見えたのだ。
 


二〇五〇年 九月一日 午前十一時四十二分 喫茶バービリオン店内地下より記録

 喫茶バービリオンは人の気配を感じさせないほど、静寂で満ちていた。
 地下一階――正しく言うと坂の関係で一階の位置が高いので〇・五階と呼ばれている――には十人の子供がいた。
『KIT』のスポンジラビット達だ。
 年は七歳から十四歳まで様々だが、全員が灰色迷彩服を着用し、ブーツを履いて背筋を伸ばしている。丸形テーブルには幾つかのモニターや通信機が置かれており、数値が逐一更新されて表示される。
 装備の点検や、ストレッチをしている者もいる。
 モニターを見ていたひとりが、監視カメラに人影を確認すると指先で二度机を鳴らした。
『入口 一人』
 物音ひとつを立てず、半数が机やカウンターの物陰へ、二人が『ネロ弾』の装填されたアサルトライフルを手に入り、特製のヘルメットをして口の両端へと移動する。残り三人はモニターを引き続き監視し、その他からの接近に備える。
 二時間前から一般人には――破るものはいないと思うが――自宅待機命令が出ていた。
 敵か、味方か。
 半透明のガラスから見える人影が、入口へと重なって見えなくなる。
 緊張の張り詰めた糸にLEDの白光も揺れるようだった。
 二段階の認証が、入室には必要だった。合言葉と目視。
 どちらか一方にでも迷いがあれば撃て。そういう決まりだった。
「あのー、コーヒー飲みたいんですけどー。やってないんですかー」
 間の伸びた、ふわっとした女性の声がした。両端の二人が互いに見合わせ、物陰からピースサインが見える。
 合言葉は完ぺきだった。
 片側の男子がドアを開け――少し悲鳴を上げかける。
 その男子の眼には入ってきたのが体長三メートルの白熊に見えたからだ。

 一転して、喫茶バービリオンは明るい雰囲気で包まれていた。
 防音加工を施してあるとはいえ、田中桃子の笑い声はひときわ大きく、皆それにつられて笑っている。桃子は根元から毛先までを丁寧に茶に染め、前髪をカチューシャで持ち上げている。
 灰色迷彩服は、スポンジラビットと同じものだったが、裾のところにKITのバッチをつけている。
 一方、悲鳴を上げかけた男子――景はバツの悪そうにアンチホログラムゴーグルの交換をしていた。
「点検途中にすまなかったな! あはははは! でもまあ、見つかってよかったじゃないか! 十分後には味方の背中撃つかもしれなかったとか、あははは!」
「うっせーですよ。モモさん、笑いすぎですって」
「目視を項目に入れておいてよかったー! かわいい悲鳴だったよな? なあヒメ」
 ヒメ――そう振られて無言で答えたのは最年少の姫香だった。くすくすと目尻に涙をためて笑っている。景は五歳も年下の妹に笑われて、歯ぎしりをしている。
 桃子は正式に組織が成立する前にした、志穂との会話を思い出していた。
 志穂のお気に入りの、京都市全てが見渡せる背骨の上で、こういっていた。

「『KIT』という名前には別に、深い意味はないの。きっと。メイビー。それに子供。キッド。それだけ。それだけで、繋がれるの」

 志穂はそう言って、少し照れたように風に当たっていた。
 桃子は部屋を見渡す。
 皆、笑っているが、作業や準備の手は止めていない。効率的に無駄のないように生きている。
 あちらの世界で身についてしまった習性だ。
 年端もいかぬ彼らは、それぞれが単独で『猿と鉄による闘争』のソロモードをクリアしている。三十日間、ランダムで生成される極限環境を初期アイテムなしで生き抜くサバイバルであるソロモードは、全世界でもクリア人数は数えるほどしかいない。
 孤独にも、世界にも、対処できる人間がいまだ未成年である。
 十八歳などとうに通り過ぎ、二十歳にもなった桃子は、彼らの笑顔が見られるだけでとてもうれしかった。
 羽田景と羽田姫香は、活動が始まって互いに初めて顔を突き合わせたという。
 経済的に(景と姫香が稼いでいるので)余裕のある家庭でも、こういうことが起こる。
 桃子はゆっくりと立ち上がり、有名ブランドの、ピンク色の針をした腕時計をのぞく。十五秒かけて息を吐き、同数秒で息を吸う。
 もう一度、笑顔になっていう。
「さあ、作戦開始五分前だ」
 全員が笑顔でヘルメットを着け、装備を背負う。
 姫香の荷物を、少し景が――乱暴ではあるが――肩代わりしていた。
 重量は全員、パフォーマンスが落ちないように調整されているので、その必要はないのだが、桃子はその肩代わりした分の荷物を丁寧に抜き取り、自分の荷物に入れた。
「志穂ならそうする」
 自らに言い聞かせた。ここにいない、ボスの名前を出して全員の集中を高める。
 正午ちょうど、喫茶バービリオンから『KIT』が二つの分隊となって出発した。
 最初の通信は、桃子からだった。
「士気は十分だね皆。ここから先は、ミニマップなし、照準マーカーなし、残弾表示なし、体力バーなし、無敵時間なし、コンテニューなし。けれど、命と仲間がいる。すなわち今君たちには――未来がある」

 

2 鱗と骨

壱 
二〇五〇年 九月一日 午前十一時二十分 伏見稲荷 一の峰 境内より記録

「では、報告を」
 老いを感じさせぬ声が、石畳に反響する。
 ジッケンの現リーダー、ボルゾイの声だ。赤紫真の名にたがわず、赤紫の髪は地毛だというが、今年四十五になるというのは全く感じさせない若さが体にはあった。
「指示通り警察には規制線と万一の避難誘導の準備を、消防にはいつでも出動できるように待機を要請してあります。自警団、および自衛隊には『手出し無用』と」
 シアンのパートナー、ダルメが答える。二十五の彼はこの場においては二番目の若さだが、参謀でもある。
 両者とも、テーラードジャケットを羽織り、隙の無い雰囲気を出している。
 ダルメの報告する姿を、シアンは恍惚の表情で見つめていた。
「ドローン攻撃に備えて、周囲にアンチドローン電磁パルスバリケードを二重に張っています。装備はレベル一のものを。とのことでしたのでスモークグレネードとスタンバトン、それに非殺傷とは言え、火器が相手ですからね、折り畳みではありますが、ポリカーボネイトのシールドを」
 そういって、大きなバックパックから六人分の武器を取り出したのは、百八十七センチの巨漢、スカンだった。パートナーのミュートと協力して、武器を配布する。
 スカンも五十路にかかるが、筋肉の質を二十代からキープし続け、二十六歳のミュートはスカンの実の娘だった。
 二人とも、日本人離れした体格(筋肉)をしている。
 ボルゾイ、シアン、ダルメ、スカン、ミュートは装備をしていくが、ラブは一人それを離れて見ていた。
「先生?」
 シアンが呼びかける。しかし、ラブは笑みを浮かべながら答える。
「私はバトンだけでいいわ。重いのは腰に来るし」
「そう……ですか。先生がそうおっしゃるのなら……」
 シアンはそう言って、下がっていく。
 全員が装備を終えると、再びリーダーのボルゾイが口を開く。
「この案件は、テロではない。彼らは政治的目的で動いているわけではないからね」
 皆、静まる。風の音がより強くなったように、ラブは思った。
「ヘリコプターもそうだが、これまで被害にあった建物はすべて……『廃棄もしくは建て直し』が検討されていた。観光課のほうにも来ていた案件だ。予算面で止まっていた案件だがね。では、彼らがしていることを許していいかと問われれば、そんなことは決して『ない』」
 ボルゾイは最後を強めて言った。風が瞬間的にぴたりと止み、場には見えない氷が発生したようだった。
 しかし、一瞬だった。ボルゾイは表情を崩し、こう言った。
「いわば、デモリッシュ……迷惑行為でね。『許可も取らずにアーティストが壁に絵を描いた』だとか、『観光地には不法投棄が多い』だとか『子供が遊びでものを壊した』だとか、そういったよくある案件だと私は見ていい思う……思うだけだがね」
 熱くならず、大人としての判断をとれ。ボルゾイはそう言外に言った。
 皆、それを受け取り、少し微笑む。
 そしてこう続ける。
「子供の不始末は、親が片付けるのが筋というものだ。しかし『缶切り』は生憎手間で、成年を迎えている連中は行方が分からないときた。事態収束には頭を押さえるか、手足を拘束するしかない。優秀な生の手足だ。傷をつけてはいけないよ」
 生……ボルゾイは逮捕後に何人かスカウトする気でいるのか……と、全員が少し驚く。
 確かに、優秀な人材ではあるが……
「なんか、変態チックな響きですねー」
 と、シアンが口に出した。
 境内に笑い声が響く。ボルゾイも思っていなかったようで「すまない、忘れてくれ……」と腹を抱えている。
 ひとしきり笑った後、ダルメとスカンがこう締めた。
「じゃあ、とりあえずは大人として悪ガキを捕まえるってことで。作戦はどうします? ここ――一ノ峰が標的なら防衛ラインを作りますか?」
「おいおい、忘れたのか? 悪ガキとの遊びにルールはないさ。ルートが絞れない以上は各々個性を生かして、各個確保だよ。……ラブさんがここにいてくれれば失敗も無いだろう」
「そりゃそうですね。確保後の役所への送迎は誰がする?」
「ボス……は、ちょっとアブナイからミュート、頼んだ」
 皆もう一度ひとしきり笑い、そして解散した。

 ラブは一人残った境内で、コーテッドにも今の会議を聞かせてあげればよかったと後悔した。結局、顔を合わせただけで話せてないだろうし……
 穏やかな日差しと風に揺られ、どこか揺らぎつつある意識が覚醒したのは――

 体がバトンで弾丸をはじいてからだった。

 太陽の位置から見て、一時間強立ったままうたた寝をしていたらしいと自覚し、自虐する。
「年だねえ。私も、みんなも。ラインを抜かれてるじゃあないの」
 ラブはゆっくりと伸びをする。撃たれたという事実がなかったことのようにふるまう。
「この距離からじゃあ、何発撃っても同じってことね!」
 そういって、遠くの茂みから、田中桃子の姿が現れる。ヘルメットの奥の笑顔は引きつっていた。
『弾丸をはじく』という事実を飲み込むのに苦労しているようだ。
 ラブはストレッチを終えるとこう言った。
「二発以上打つのよ! 奇襲で一発だなんて信じられない! そんなの一人だと知らせているようなもの――まあ、それは気配で分かったんですけれど」
 ラブはゆっくりと石畳を進む。足取りは軽いが、纏う雰囲気は大仏のそれといっていい。
「ご教授どうも……」
 桃子は手汗を手袋の中で感じながらも――再びアサルトライフルを構えて引き金を引く――

 


 透明のホログラムは『ミラージュマン技術』と呼ばれ、インティン普及初期に確立され――取り締まられた技術である。
 三次元的なホログラム技術が生み出した、二・五次元世界の『透明人間』であるが、犯罪に使用される可能性がとても高く、サーモグラフィ(熱源探知)やアンチホログラムゴーグル、そして先ほどの『フラッシュフリーズ』の発見が『透明人間』を殺していった。
 私、加賀望美が高校生になるころには、既に使用する必要の無くなった技術たちだ。
 インティンという新しいテクノロジーが、人間そのものを変えたから――次世代機が旧世代機の上位互換になるように――
「〈臨〉はわし、松岡春木と阿古庭焔が作った。わしが五十、焔君が三十ちょっと。もう、三十年も昔のことになる」
 五条大学――旧、京都大学第三講義室で、松岡学長は講義を始めた。
 レトリバーは少し離れた入り口で、私は学長の真正面の席に座ってそれを受ける。
 声は枯れているが、嬉しそうな表情を崩さない。
 妻や、子供、あるいは孫を語る老人という構図ではあったが、どこか少年の面持ちを感じさせる。
「〈涼〉とかいう、阿呆のようなアプリを作りたいから、その演算に必要な脳みそがいる。そう市の役員に言われてなあ。その分野にいたわしが主導になってプロジェクトが動いた」
 資料にもそうある。デジタルに移行する際にもそのあたりの漏らしはない。ただ、そこには松岡春木の名前しか残されていなかった。黒塗りの下には、阿古庭焔がいたのか。
「頑張った。金を集め、人を集め、技術を集め、時間を削って作った。死ぬかと思ったし、殺されるかとも思った。けれど、生きていて楽しかった――幸せだった。出来すぎた」
 松岡学長は目を細める。
 何が映っているのか。私の眼鏡にはまだ映らないような、莫大な過去という遺産だろう。愛でるに足る、人生の遺産。
「焔くんは、教え子であり、後輩だったが、彼も〈臨〉の生誕と活躍には大層喜んでくれた。――おそらく、僕以上にな」
 僕? 一瞬だが、声色が若返った気がした。
「〈涼〉〈臨〉が評価されるほど、わしらは富と名声を得た……扱いきれんほど。学長まで止まることなく昇進し、焔君は美しい女性と結婚して男の子……そして後に女の子にも恵まれた」
 私はちらと松岡学長の左手薬指を見た。しわは深く多いが、指輪の痕は見つからない。
 そんな様子に気付いたのか、松岡学長は肩をすくめ、首を振った。
「人間嫌いでね、どうも。愛は理解できん。与えて、与えられては疲れるからな……ちょうど、世間がわしらに与えるのに疲れたように」
 松岡学長は話を戻した。
「わしは管理職につかされ新しい研究は進まず、焔君がその研究を継いでも、なかなか評価されずに苦しんでいてな。彼には家庭もあったろうし……一度〈臨〉を生み出してしまったことが、どうにもわしらには枷になったようだ」
 希望が絶望に変わる瞬間……残酷な揺り戻しか。
 松岡学長は天井を数秒見上げ、大きく息を吐いてから再度話をつづける。
「それでも、偶に時間があれば一緒に話をした。科学者という『最前線にい続けなければいけない』呪いを、二人で分かち合った。歴史は未来のためにある。そうお互いに言い聞かせて〈臨〉を超えようとした」
 私はピンク色の針をした腕時計を覗いた。分針は時針を追い越し、分針は秒針に追い越される。時針は分針が進むごとに進み、分針は秒針が進むごとに進む。
 けれど、時間は時針から成り立っている。
 追い越されていく苦しみは、生まれなければ成り立たない。
「だから〈臨〉があと一年をもって引退すると聞いたとき、わしは内心どこかで喜んだ。わしらの時代は終わったのだ、もう前線にいなくていい、とね。けれど、焔君は違った」
 松岡学長の瞳の奥に、火が見えた。かつて、阿古庭焔という男と松岡春木という男の間にうまれた摩擦――熱量の差。
「既に六十を超えていたわしと違い、焔君はまだ四十代――〈臨〉を作った時のわしよりも若かった。納得などできんだろうな。けれど、どこか納得せざるを得ない空気になる。自身がそれを認めてしまう。わしも同じ立場なら――」
 そこで松岡学長、いや、松岡春木は口を閉ざした。
 言葉を選んでいる。もしもに続く言葉を探している。電子のIFは紡げても、この先は出てこない。
 私は続きを促す。言いづらいことは、誰かが言わなくてはいけない。
「増加するインティンの処理にも当たる新しいスーパーコンピューターを導入させないため――延命のための、運動。最初はそうだったんですね?」
 最初は、皆そうやって阿古庭焔の言葉を広げていったのだろう。しかしそれは、インティンによって利益を失われた連中にも変質して伝わり――
「気づけば、焔君は家族ごと神輿の上にあげられていた。取り返しのつかない行列に祀り上げられ、目的と手段は入れ替わった。わしは知らないふりをしていたが――遠くで悲鳴はずっと聞こえていた」
 私はちらりとレトリバーのほうへと視線をやる。
 しかし、ドアにもたれたまま、腕を組み、顔を伏せていて表情はうかがえない。
「わしに直接コンタクトをとったのは、志穂ちゃんが生まれると知ってからだ。無理やりだったんであまり話はできんかったが、わしに〈臨〉を託すための作戦を告げていき、翌日に死んでしもうた」
 その後、運動は収束する。最後に京都大学を焼いて。表向きは、現実の教育に注力せよ、だったか。
「わしは一緒に死んでやることもできんかった。焔君とも、〈臨〉とも」
 そこでようやく、松岡学長は涙をこぼした。枯れ木から、ようやく一滴、流れることの出来た雫はゆっくりとしわを這って落ちていく。
 私は本題に入るべきだと思った。今ならば、答えてくれる。
「〈臨〉と、阿古庭志穂の居場所を教えてください。悲劇を繰り返さないように」
「ああ、そう、だね。学ばねばいけない。私も」

 ――切れぬ薄い刃が私を裂いた。

 何かを見落としている。何か、大切なことだ。
 なんだ? 今の言葉の、どこが引っ掛かった?
 まずいと直感して、ようやく脳がゆっくりと回る。
 遅すぎる。時針のように遅い。事態は刻一刻を争うほどのものなのに。
 ――学ばなければ――繰り返さないように――過ちを?
 どこを間違えた。
 何を見落としている。
 おかしいのは何か。
『ミラーマン』
 その単語が頭の中に浮かんだ時には――既に遅かった。
「〈臨〉も、志穂ちゃんも、既に君のそばにいる」
 そう言った松岡学長の後ろから、三本目の腕が伸びてくる。
 レトリバーのホログラムをまとった、阿古庭志穂の腕だ。
 首を正確につかみ、椅子ごと後ろの床に押したおされる。
 頭を打ち、視界がゆがむ。
 レトリバーは他の部屋を調べて、私の『予測の裏』をとった後に合流したのではなく――そこで阿古庭志穂に倒されたのか。
 喋らなかったのは、私でもできることだからではなく、ホログラムがばれるから――
「学ばないとね、加賀望美」
 眼鏡もなく、頭を打って既に視界は機能しないが、それは阿古庭志穂だった。
「あこ……にわ……し……ほ!」
 残した酸素をすべて使い、初めて会う相手の名を叫ぶ。
「はじめまして、宿敵さん。きゃって言ってくれないのね」
 抑えられた腕を強引に動かし、上に覆いかぶさっている敵を殴ろうとした。
 が、相手のほうが早い。
 開いていた方の手で顎を揺すられる。
 ショートショートアッパーとも言うべき小さな衝撃で、私は沈んだ。
 沈みゆく意識の中で、一つの問いが浮かび、同時に答えが出た。
 なぜあの時のフラッシュフリーズでホログラムが解けなかったのか。
 ――一度切って、つけなおせばいい。フリーズする前に、落としておけば――
 だって、愚か者はその時、光を怖がって目をつぶっていたのだから。

 


二〇五〇年 九月一日 正午 伏見稲荷 千本鳥居付近 より記録

 羽田景は陽動第二班の四人を率いて、祭場奥の森林を移動していた。 葉が既に赤く染まり始め、足元に落ちている。十字の陣形を保ったまま、木々の影を縫うように移動する。
 頭に入れた航空地図を思い出す……右手には観光で有名な千本鳥居。この上には新池がある。
 新池の右手、根上がりの松から山道を上がる。そして新池で折り返すルートだ。
 左手の三つ辻の観光ルートからは陽動第一班が動いているはずだ。電磁パルスバリケードを潜り抜けられないため、無線の類はない。
 バリケードを壊すという手は、ただでさえばれている襲撃のタイミングをより正確にしてしまい、取れない。痕跡を残すのは愚策だ。後ろに着かれる可能性が高くなる。
 指示は信号弾で行われる。しかしそれは己の位置をさらすことにもなるため、あまり使用したくない。
 山を登ればおのずと目的地である一ノ峰には到着する。
 あちらの動きを阻害するわけにはいかない。
 陽動とは場をかき回すことである。
 敵を先に見つけ、誘導して時間を稼ぐ。モモ――桃子が目的を達成するまでが勝負。
 景は歩みを止める。他の四人も止まった。
 正面からの、強い気配。姿は見えないが、野生の獣では発することのないわざとらしさがある。
 先頭と最後尾がそれぞれ前後を、左右が挟撃を警戒する。
 斜面のある場でのセオリーは『挟まれないこと』だ。足場が悪く、遮蔽物の多い場で『挟まれる』は『囲まれる』に直結する。
『囲まれる』は死だ。歴史がそう語っている。
 ハンドサインで景は指示を出す。
『前方を警戒しつつ、左後方へ』
 再び木々の影を縫うように移動をする。
 右後方へはいけない。千本鳥居は美しすぎるほどに『直線』なのだ。
 上をとられている状況で入るのは愚策になる。景はそう判断した。
 前方の気配は動かない。ゆっくりと距離を離していく。
(わざとじれったいスピードで移動したけど、動いてくんないか)
 本来の目的は陽動で――遊撃も許可されている。数が少なくなれば、モモさんの成功率も高くなる。
 やるか――
 右側にいた妹の姫香から、小言で意見具申がされた。
「お兄ちゃん、前に出よう。後ろはまずい気がする」
 景は同感だった。セオリー通りに動きすぎる癖が出ている。班を転進させ、一気に斜面を駆け上がる。
 それぞれある程度重量のある装備を背負っているのにもかかわらず、速い。
 景の指笛の合図とともに、射撃と回避が始まる。
 アサルトライフルからネロ弾が発射される。正面だけではなく、周囲に十度ずつ間隔を開けて撃つ。――釣れるか?
 木々にネロ弾が着弾し、弾痕――水痕がつく。
 反応はない。敵は正面だけか?
 景を含め、班全員の意識が正面に集まった瞬間、声がした。
 野生の――熟知した『猿と鉄による闘争』で最強NPCとして君臨した――ゴリラの声。
 景は親しみを覚えるほど倒した敵を思い浮かべたが、徐々に距離を詰めるそれは、表現に誤りがあると思った。
 鬨の声だ。武士が突貫する際の。
 左方より、大男が透明の盾をもって突っ込んでくるのが見える。
 タンクトップから覗かせる腕の筋肉は木々と見まごうほどだった。
「三人は前進しろ! ゴリラは俺とヒメでやる!」
 景は叫んだ。ここまで叫んだのは、さっきどっきりにあった時以来だ。
 三人はそれぞれ一言言っていく。「退路は頼んだ」「かっこいいねえ」「あとで助けに戻る」
 どれも聞いたことのあるセリフだった。
「まったく、ゲームのし過ぎだよな?」
 景は妹に笑いかけるが、妹もまた笑いながらこう言った。
「お兄ちゃんもでしょ。――あたしもだけど」
 二人はこぶしを合わせ、迫りくる敵に備えた。
 ヘルメットをかぶっていたが、二人の笑顔はゴリラ――スカンからも確認できた。
「久しぶりに見たねえ、ガキの笑顔なんて!」

 

3 心臓
 

二〇五〇年 九月一日 正午 一ノ峰 境内より記録

 桃子は石畳に膝をついた。
 しかし、痺れる手は銃を手放さない。銃口を標的に向けたまま、ゆっくりと立ち上がる。
 ヘルメットは取れ、後ろへと転がっている。その奥にはアサルトライフルも転がっていた。
 有効ではないと判断し、目くらませの投てきをあっさりとつかまれて投げ返されたのだ。
 敵――ラブの間合いは分かった。数度の挑戦できちんと『拳銃が有効』な距離。
 踏み込んでスタンバトンを伸ばされた先、三十センチ。それより外だと躱されるか弾かれ、内だと体術に持ち込まれる。
 あとはそこへと踏み込むだけ――分かっているよ。
 体術の技で抑え込まれ、無理やり外した影響があちこちに来ている。
 満身創痍の試行錯誤だったが、甲斐はあった。
「腰が悪いんですね。今日は低気圧ですし、運動は控えられたらどうです?」
 桃子は息を整えながら言い切る。目線はずっと動かない敵に向けられている。
 射程が図りやすかったのは、あの畳の部分から動かないから――
 動かないのは、動く必要がないか、動きたくないか。後者であってほしいと桃子はプライドの声を聴く。
 しかし、ラブはそんな桃子をひょうひょうと躱す。
「気圧で痛くなったりする質じゃあないの……あら、よく見ると素顔は別嬪さんね……困ったわ」
 ラブはそう言って、スタンバトンを持っていない方の手を頬に宛てる。
「そりゃどうも。あたしが可愛ければ、何か不都合なことがあるの?」
 桃子は視線を外さない。しかし、スキは一切見当たらない。
「ええだっていうじゃない? 美人は己が醜さを許せないからこそ美人なのだって」
「……何が言いたいの?」
「鼻、折っちゃったらごめんね?」
 ――桃子の視界が二分割される。
 バトンだ、目の前に――
(捻れ)
 志穂の声が桃子の脳に響く。
 スローモーションの世界で、鼻先にバトンが触れ――

 二つの影が交差した。
 
 桃子はかすって流血した頬を、ラブは払われた足首を押さえている。お互いの最高速が出て、激しい息遣いだけが互いの距離を埋めている。
 先に声を出したのはラブのほうだった。
「一つ聞かせて――貴女が、レトリバーを狙撃したの?」
「――そうよ」
 二人は体制を立て直す。それぞれ手には何も持っていない。
 互いに、互いの背は見えていない。それでも、正面から捉えられるだけで十分だった。
「良かったわね――これまで美人で」
 流れる雲より早く、二つの影はまた交差を始める。

 


 私が始めに思ったのは、椅子に手錠じゃなくて縄で縛られていてよかった。だった。全然よくない。
 文明アレルギーの加賀望美に鉄の手錠は拘束ではなく、拷問になる。
 周りを見渡すと隣の椅子にはレトリバーが縛られていた。外傷はないし、息の音が聞こえている以上、死んでいるわけではない。……死んでいる人間を縛ったりするか?
 第三講義室……時間は日の入り方から見て余りたっていない。まだ昼だ、多分同日の。
 いや、ここで三度目の失敗をするほど愚かではいられない。
 縄で縛られているので、縛られたまま椅子ごと跳ぶ。ほんの数ミリ浮くだけだが、それでも音はなる。
 蝙蝠のようにエコーロケーションというわけではないが、第三講義室での椅子の音は記憶している。一度目の失敗は無駄じゃあない。
 あまりにも齟齬があれば、第三講義室のホログラムということになるが、とりあえず、今ホログラムは使用されていないようだった。
「眼鏡はかけられているし、口もふさがれていないっと」
 私は自身の声でも確認した。その声に隣の反応があったので、レトリバーもホログラムではない。
「見えるものすべてを疑うの、嫌だなー」
 と、これは声に出すつもりがなかった言葉だ。しかし、レトリバーがそれに答える。
「なら……アンチホログラムの眼鏡にすればいいさ」
「そんなの、光を通して瞳孔死んじゃいますよ……」
「なに、つけてもこのざまだ」
 レトリバーはぎしぎしと椅子を揺らす。縄抜けを試みているのは私も同じだったが、レトリバーは失意をまとわせている。
「落ち込まないでくださいよ。レトリバー。怪我してるんですからしょうがないですって」
 半分程度解き終えたところで、私は自身が襲撃を受けた場所へと視線をやった。椅子や机は散乱し、せっかく整えた資料も床にばらまかれている。
「俺たちがここで縛られている理由は、分かるか?」
 レトリバーは先にほどき終え、関節をほぐしている。しかし、伸びをして肋骨の痛みに悶えた。
 私は絞められてまだ違和感のある喉をつぶさないように、答える。
「縛られている理由……弱かったから……ああ、ここでってのが鍵ですね。人質としてはカードにならないから。GPSなどでアジトがばれると面倒だから。あるいは……」
「あるいは?」
 私は縄をほどき終え、椅子から立つ。
「必要以上は、美学じゃないから」
 レトリバーも椅子を支えに立った。
「俺も同意だ。あの娘、筋金入りのアーティストだよ。さて、〈臨〉の確保ができなかった今、手足のほうに向かわないとな。あの鬼つえー娘が合流したら、ラブでも勝てるかどうか」
「先に行っててください。ここの処理をしておきますんで」
 私は眼鏡を押し上げ、レトリバーに笑顔を見せる。
 エージェントとして、冷静かどうか、失敗に対処できるかどうかを示したかった。
 レトリバーは「了解」とただ一言いい、ゆっくりと歩き出した。
 ゆっくりと息をする。のどの痛みはあるが、ほかに目立った外傷はない。しかし、見るからに年下の女子に、不意打ちとはいえ負けた心的なストレスは大きい。
 あの時、反応できなかったのはなぜか――
「あれ?」
 また、思わず声が出た。初めに散らばった資料を集めようとした瞬間だった。
「一枚多い…………レトリバー!」
 あの時、反応できなかった要因は、ホログラムで虚を突かれただけではない。
 引っかかるセリフがそのあとに重ねられたのだ。
『〈臨〉も、志穂ちゃんも、既に君の目の前にいる』だ。
 阿古庭志穂はともかく……〈臨〉はどこにもいない。いないものをいると言われて、混乱したのだ。
 しかしこの、増えた一枚の資料こそ〈臨〉のありかだ。
 松岡学長から資料を返されたときに差し込まれたものだろう……マジシャンのような連中だな。いや、アーティストなのか。
「……これは懐かしいな、QRコードか」
 レトリバーがゆっくりとそばによって、呟く。
「これ、機械で読み取るんですよね。お願いしていいですか?」
「いや、ここじゃあ無理だな」
 即答だった。何だろう。この黒い線の塊は実は文明レベルめちゃくちゃ高くて、専用の機器がないといけないような代物なのだろうか……指先がかゆくなってきた。
 げんなりする私をよそに、レトリバーが続ける。
「それ、インティンの古いゲームページのリンクだよ」
 インティンの、リンク? 
「え、これ画像処理とかしなくていいんですか?」
 だとすれば、文明レベルはとても下がる。
「QRコードはパズルだ。暇なときに教えてやる――ともかく、これが〈臨〉のありかにつながるんだな」

 インティンの中。それは私から最適な金庫になる。全身にかゆみが走り、頭痛につながる。
『――宿敵さん』
 彼女は初対面の私をそう呼んだ。まるで親友を呼ぶように――
 遊んでいるのか? 私やジッケンで。
 親に聞かされたおとぎ話の化け物と戦うように?
――両親に愛され、両親を愛したからこそ、苦しみながら生きてきて、美しい復讐が果たせるような楽しさか?
 そんな気持ち、私がわかってやれると思うな。

 

4 血脈 龍が再び生まれた日


二〇五〇年 九月一日 午後零時十二分 千本鳥居付近より記録

 木々に雫がはねる音がする。
 葉や枝に当たることの無かった雫は、地面へと落ちて吸い込まれていく。
 羽田景は、それが先程から降り始めた雨か自身の汗かの判別がつかなくなってきていた。
 熱い――
 心臓は鼓動を早め、手足はそれに呼応する。

 まずは正面に向かった三人の戦闘が始まる。
 感じていた気配の正体は、体格の良い女性――ミュートだった。
 ミュートは、弾幕を掻い潜り、接近戦で一人ひとり丁寧に拘束していく。その様子が視界に入り、景は戦い方を変える。
(早くゴリラを片付けて応援に向かわないと!)
 陽動として時間を稼ぐには、ここで時間を使うわけにはいかない。
 ゴリラ――スカンを、景は妹の姫香と挟み撃ちにした。
『持っているシールドが一枚である以上、必ず弾丸が防げない角度が生じる』
 景と姫香は互いを撃ってしまわないギリギリの線で、スカンを挟む。
 スカンがどれだけ移動をしようと、距離を保ちながら最適の角度へともぐりこむ。
 立ち回りこそが、勝利の全てだ。
 同時に、少しずらして、同時に。引き金のタイミングを計る。
 ホログラムの表示はないが、二人分の残り弾数を常に頭に入れ、リロード(再装填)の隙をカバーし合う。
 そこまでしてようやく、数発が身体へと届く。
 しかし、倒れない。
 そうだ。体力の設定されている『モンスター』ではない。
 スカンは笑っていた。景と姫香も笑っていた。何が楽しいか分からないけれど、笑ってしまう。水鉄砲で遊ぶ、親子のように。
 有効打だ、弱点はないか――ある。男なら。鍛えられないところが。
 奥の姫香に視線を送る。目を合わせるだけで作戦が通じる。
 ヘルメットの奥に、姫香の――普段は前髪で隠し、あちらではアバターで隠す――くすんだ銀色の眼を見る。
 景は妹の眼の色すら、最近まで知らなかった。笑顔も知らなかったし、声も知らなかった。
(終わったら、もっといろんなことを――ああ、やはりゲームしすぎだなあ)
 姫香が引き金を引くタイミングで、景は足に力を入れる。一気に距離を詰める。
 雨でぬかるみはじめた山の斜面を、滑り落ちる様に蹴る。
 同時に弾を『最も柔らかいもの』に変えた。
 スカンが景の接近に気付く。
(早い! まだ遠い!)
 景は速度をそのままに、ヘルメットをワンタッチで脱いで、投擲した。
『投擲武器でのキル』は、『猿と鉄による闘争』のゲームトロフィー対象であり、景が最も得意とする勝ち方だった。
(今なら、向こうを超えられる)
 ヘルメットとシールドが鈍い音を立てて激突する。
 スカンの意識が一瞬ヘルメットにいった隙に、大木のような足の、隙間へ潜り込む。
 隙間――股間。最小の威力でも、有効打足り得る。

 しかし、届かなかった。

 人口の霧が瞬時に空気を満たし、遠くの濡れた紅葉のみならず、すぐそばの撃つべき標的すら遮っていく。
(スモークグレネード!)
 引き金をためらった瞬間、見えない天地が逆さになる。何者かに掴まれた腕と、落ちた際に打った胸に若干の痛みが走る。
 呼吸をするたびに白い霧を吸い、自然の穏やかな湿り気が喉を伝う。
 後ろ手に拘束の縄を感じながら、立たされる。
 正常な心臓のリズムに戻りきると同時に、強い風によって霧が晴れる。しかし、雨天の空は太陽を隠している。
「危なかったな、スカン」
「全くだ。久々に獣と戦っている気分だったよ、ありがとう。ボス」
「どういたしまして」
 ボス――ボルゾイに景は拘束されていた。姫香は他の三人と共に、ミュートに拘束されていた。特殊な結び目の紐で、抜けられそうもない。
「お、こっちも片付いた感じ?」
 木々の隙間からブロンドの髪をした女子――シアンが現れる。雨でシャツが透けるのを嫌ってか、テーラードジャケットを上から羽織っている。スキニーと合わせて、男装のようだった。
 後ろには、陽動第一班の五人が拘束されたままついてきており、最後尾にはワイシャツの若い男性――ダルメの姿がある。
「上に行った一人を除いては、これで全員でーす」
「……わざと?」
 シアンの報告に、ミュートが食いつく。
 しかし、シアンは動じずに答える。
「だって先生、なんか難しいこと考えてらっしゃるみたいだから、軽く身体でも動かせばすっきりされるかなって思って」
「……呆れた。ダルメ君も」
「僕は二対六よりも、二対五、一対一の方がいいと判断しただけです」
「ねー!」
 シアンはダルメの腕へと抱き着こうとするが、躱される。
「じゃあ、傷のあるスカンとシアンを連れて、ミュートは帰還。私とダルメはラブさんの方へ向かおう」
 ボルゾイがそう言い、ジッケンが動き出す。再び強い風が吹き、雨がたたきつけるように強くなる。
 縛られたまま、景は姫香の方に目をやる。
(楽しかったか? ヒメ)
(うん。お兄ちゃん)
 ヘルメットは取られ、濡れた前髪越しだったが、景には姫香の気持ちが伝わってくる気がした。
「すみません、拘束といてもらっていいですか?」
「痛かったかい? 解けないようにはしたが、強く締めてはいないはずだけれど。……逃げるのはお勧めしない」
 景の言葉に、ボルゾイが答えた。しかし、景はこう返す。
「いえ、そちらが僕たちを拘束する必要がなくなったと言っているんです。僕たちの目的は達成されました。役目が終わった人間にここまでするのは無駄だと言っているんです――産声が、聞こえませんか?」
 景は言い切ったあと、空を見上げた。
(ゲームのやりすぎ……いや、『産声』は志穂さんの受け売りだっけか)
 微笑を浮かべる景を、ジッケンのエージェント達は不思議そうに見ていた。――ボルゾイを除いて。
「……こうなる確率は……どのくらいだったんだい?」
 ボルゾイの問いに、景は答える。
「〈臨〉の計算では――おおよそ四十兆分の一」

 強く、激流のような風が木々を通り過ぎていく。
 雨粒はまるで破水のように空の裂け目からあふれ出している。
 閃光の鱗と轟音の牙を纏い、ソレは姿を現す。
 龍だ。二〇五〇年の京都に再び、龍が現れる。


二〇五〇年 九月一日 午後零時十五分 伏見稲荷 一ノ峰 境内より記録

 打ち付ける雨の中瞬き一つせず、ラブもまた、龍を見ていた。足元には桃子が仰向けになっている。
 ラブの脳裏には十六年前の夜が脳裏に浮かんでいた。

二〇三四年 三月八日 午前零時二分 京都駅 葉っぴいてらすより記録

 長いエレベーターを、ラブはレトリバーと二人で駆け上がる。
 京都市役所観光課実地検証室始まって指折りの大事件『新現実主義運動』だった。
 後に禁句になる、室内での名称は『BP』バーニングプロトコル。炎による交渉。
 コンクリートタイルを照らす、竹との混合オブジェクトになっている照明の合間を抜けると、何もないガラス張りの空間がある。
 ガラス張りの壁からは、京都市を上から見まわすことができる。
 そこに、運動の首謀者とされていた阿古庭焔がいた。
 ラブとレトリバーの姿を見て、焔はこう言った。
「良かった。君たちなら私を殺してくれる」
 阿古庭焔には、逮捕命令のほかに――射殺の許可が出ている。
 しかし、二人とも逮捕の方面で話を進めるつもりだった。
「殺さない。第一、あなたが俺たちに来てくれと頼んだんだ。要求通り、二人でだ。警察はおろか、他のメンバーにも伝えていない。本当だ。しかし、あいつらは優秀だ。気づいて追ってくる」
 レトリバーの言葉に、ラブも続く。二人とも両手を上げ、ゆっくりと焔に近づく。
「殺したくはない。そうでしょう? 私達も、あなたに死んでほしくない。息子がいるんでしょう? 私達にもいた……いたの。よく食べる子でね。可愛かった。けど、死んだの。家族が死ぬのは何よりもつらい。そうでしょう? 逆でもそのはず。お願い」
 しかし、焔はそれを手で制する。
 二人は足を止める。インティン技術の普及が人を外に出さなくなっていっていると言っても、まだ過渡期だった。心臓ともいえる京都駅は――人通りが多い。
 被害者を出すわけにはいかない。それに、交通の麻痺は暴動を悪化させる。
「いや、違うんだ。君たちが殺したくなくても、あるいは娘のためを思っても、そうだ」
 娘? 息子の言い間違いだと、この時の二人は思った。
「君たちには、私を殺してもらう。娘のために」
 そう言って、焔はジャケットの懐から何かスイッチのようなものを出し――
 二発の銃弾が、それを止めた。
 一発はレトリバーの撃ったもの。一発はラブの撃ったものだった。
 相手が抜くよりも早く打て、そういった訓練を体が覚えている。
 前者は右足ふくらはぎをえぐり、後者はスイッチとそれを持っていた手を撃ちぬいている。
 痛みは尋常ではないはずだが、処置をすれば致命傷にはなりにくい。これまで特殊部隊を渡り歩いてきた二人は、そういう痛みに瀕した際に『死にたい』と言っていた人間が『死にたくない』と叫ぶのを知っている。
 どんな欲望よりも、自身の命が一番大事なのが結局のところ悪人だと知っている。
 しかし、阿古庭焔という男は違った。
 痛みに叫ぶことも、命を乞うことも、しなかった。
 代わりに、周りからどよめきが聞こえる。銃声を知らない日本人は、のこのこと素人マスコミュニケーションを始めるだろう。
 早く終わらせなければ四発目が出てしまうとラブは思った。じりじりと距離を詰める。二つ目のスイッチが出てこないとは限らない。
 それにどこか二人は焔の「生きたい」という言葉を待ってしまっていた。今までの悪人と同じだと思いたかった。
 焔はただゆっくりと顔を上げ、ふらふらと後ろに下がる。
 笑っていた。頬を無理やり上げたような笑い方だ。
 足元には血だまりができ始め、スイッチがバラバラになりながら落ちる。
「偽物……?」
 レトリバーが呟く。ガワだけはそれっぽくつくろっているが、電線も回路もないそれは幼稚な工作物だった。
「それの中身は……こっちさ」
 阿古庭焔はガラスの壁を、撃たれた手を無理やり握り、叩く。二発の弾丸がアクリルを突き抜け、ひびの入っているそれはいともたやすく割れる。
「娘によろしく。可愛くて仕方ない子だ。あの子のために、私は死ぬ」
「待て! やめろ!」
 レトリバーは駆け寄るが――間に合わない。
 ガラス越しでない京都の夜景は、上下対象のように美しく、焔はその天地へと身を投げる。
 同時に、市内各所に火の手が上がった。
 赤い。焔の血が飛び散ったようにラブは感じた。
 テラスから望むそれは、まるで点から線へ、線から筋へ、筋から生き物への進化を遂げる。
 火から生まれ、すべてを壊していなくなる。龍だ。
 阿古庭焔は龍になったのだ。
 


二〇五〇年 九月一日 午後十時四〇分 市内某高層建物屋上より記録

 阿古庭志穂は、強い風の中、ホログラムに写された記事を読んでいた。雨上がりの湿り気が肌を覆う。汗がにじむが、迷彩服はずっと着たままだ。

『確率はおよそ百四十万分の一? 市内数か所の歴史的建造物に同時に落雷!』

 落雷。それが今回の龍の正体だった。二〇五〇年でも、天候操作兵器の開発はタブーとされているため――文字通り、天頼みだった。
 それにしても、と志穂は思う。
「〈臨〉め、計算違いが過ぎる。今頃景は桃子にいじられているんだろうな。あはははは」
『KIT』の記事は出ていなかった。未成年が多いというのもあるが、志穂が捕まってない以上はメディアに情報を渡したくないのだろう、と志穂は考える。
 景に落雷の演算を教えたのは志穂だった。
 生まれる環境は運だ。スポンジラビット達が、将来自らの運を呪わないように、運という人生の要素に悔いを持たぬように……
 運が悪くても、全部が無駄になるわけじゃあない。
「おせっかいだね。志穂ちゃんは」
 そう声をかけた阿古庭雄太はホログラムの姿で志穂の少し後ろに立った。
「いい。罪はあたしが背負うもの、背負いたいの」
「……そうかい。じゃあ〈望美〉のほうはどうするの?」
「どうもしない」
 志穂は雄太の方を向きもせずに答える。雄太はそれをみて肩をすくめ、ゆっくりと消えていく。

「どうもしなくても、必ず追ってくる、ですか?」
 
 志穂は肉声に振り返る。
「聞いてたの? 美優」
 美優。志穂にそう呼ばれた少女、小宮美優は、作業用の緑色つなぎで物陰から現れる。邪魔にならないように切ってあるベリーショートの髪先をいじりながら、質問に答える。
「えへへ。ホログラムからの認識っていうかですね、有り体に言えば『ミラーマン』以上にカメラから映らない新技術の発見ができそうなんでそれを試してて! それでですね、あと二か月もらえればよりできそうなんですよ! 量産は難しいですよ。でも、一か月あれば志穂ちゃんの」
 途中から身ぶり手ぶりでは飽き足らず、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら解説をする美優を押さえつけ、志穂は笑顔をつくる。
「まった、明日にはできる?」
 美優は自身より年下の少女に押さえつけられ、笑ったままの口角を引くつかせる。
「できっ……無理です」
「……ありがとう。さすが五条大学の三女傑。気持ちだけもらっておくわ。引き続きあれの調節と『スコードローン』をお願い。明日までにね」
 あれ、と志穂がさしたのは、かけてあるスナイパーライフルである。
『ネロ弾』『武器』『その他電子機器』は美優の設計の元に作られていた。
 整った顔をしているが、目の下のクマがその忙しさを語っている。しかし、その忙しさの大半は自作による自業自得だった。
「『スコードローン』はつつがなく。あれの調節も既に済んでますけど、まだやるんですか?」
「限界までお願い。追ってくるもの全部落とせるくらいに」
 たとえそれが龍であっても――と、志穂は心の中で反芻した。
 人の出てこない京都に建物の光はなく、道を照らす街灯もまばらだった。
 蒸し暑い夜だ。まだ、熱が残っている――

 

三章 堕天使の細胞
 
0 電子的パンスペルミア

 まずは雷だった。あるいは火山の噴火だったかもしれない。それともあるいは別の――
 ともかく、我々は最初、偶然や運によって人間と会った。
 最初は恐れられ、次第に利用しだし、やがて我々無しでは生きていけなくなっていった。
 すると次はどうだろう。我々を人間は作りだした。
 火としての我々を認識し、我々を作り出す技術を確立させた。
 これが、最初のブレイクスルーだった。
 そして何度もブレイクスルーが起きた。
 恐れられたものは、利用され、それなしでは生きていけなくなっていく。
 蒸気で、電子回路で、核分裂で、あるいは『缶詰』で――
 ブレイクスルーを起こした技術も、次のブレイクスルーによって価値が殺され、やがて歴史の中に死んでいく。
 人の文明は淘汰と変化を繰り返す。
 我々の死と再生による恩恵だ。

 我々だけが命と意識を連続させている。

 

1 懐かしき海

 


 日付の変わる音がした。
 インターン最終日になっても、ほとんどの職員と話すことはなく、九月二日最初の二時間は――もはや懐かしの――京都市役所観光課待機室で過ごすことになった。
 一昨日に座ったソファへと腰を下ろし、背を預ける。一昨日と違ってスカートでなくレディーススーツの上下なので、多少乱雑に座ってしまう。
 帰還後シャワーを浴び、筋肉痛は取れたが、のどの痛みがまだ残っていた。
 今、加賀望美という人間にできることはない。
 表の姿である役所の一部が行う、緊急の手続きもそうだが、裏の姿であるエージェンシーとしても、インティンが最後のカギになるのなら私にできることはない。
 ラブとレトリバーも負傷した怪我の状態を見て、これ以上の実働はつらいものがあるだろう。
 元々腰を悪くしていたラブは、昨日あったという戦闘でこちらに来るのもままならないそうだ。
 レトリバーは役所に来てはいるが、元の怪我と昨日起こった戦闘で体は限界だろう。
 他のメンバーも無傷というわけではなさそうだ。けれども彼らには『未成年の暴行』や『落雷による建物火災』の対処。インティン世界での探し物など様々な仕事が入っている。
 人手は足りていない。それはすぐにわかる。
 しかし、私にできることはない。
 私はゆっくりと天井を見上げる。眼鏡の奥、背の高い自分よりも高い所にある天井だ。
 無力感を覚えるとともに、上を見上げたことでのどの痛みを意識してしまう。

『――宿敵さん』
 という言葉と共に、頭痛が走る。阿古庭志穂の声だ。楽しげな声だ。

『――殺してくれてありがとう。文明さん』
 超えたるように声が響く。頭痛がひどくなる。これは私の声だ。楽しげな声だ。

 私には、分かってやれない。加賀望美という存在では、阿古庭志穂の理解はできない。
 分かってやれない――それは私にできることだ。
 私は頭を床に向け、うなだれる。

「分かり合えないなら、断絶か、闘争かだ」
 それは、叔父が最初に私に教えた言葉だった。

 爆発の怪我が癒えた後、体質を気味悪がった両親の親戚たちに受け入れてもらえず、流れ着いた場所で、初めて人に教えられた言葉。
 叔父はそう言って、私の子供らしい甘えをすべて断絶し、問題が起こるたびに解決のための手段を教育した。
 既に、私の精神に住み着いた言葉だった。分かり合えないもの、触れられないものだらけの今の世の中で、精神を保つにはその言葉が支えだった。
 おかげで、生きてこられた。
 断絶――拒否反応か、闘争――解決か。
 私にできることは、この二つ。
 ゆっくりと息をする。カモミールの匂いは既に無い。自分で自分の本心を言葉にしなくてはいけない。
 ここ、京都市役所観光課実地検証室が私の居場所だと思うのは、ここは闘争の場だからだ。
 人のいなくなっていく世界で、過去の遺産を守るために戦う場。
 誰からも優しくされなくても、優しくいなければいけない場所。
 そこに、私がいる意味。強い拒否反応を持ちつつ、存在する意味――
 
 私が立ち上がると同時に、待機室のドアが開いた。ボス、ボルゾイだ。
 徹夜で動いていたのにもかかわらず、顔に疲れを感じさせない男性だった。
「コーテッド、動けるかい?」「それを許してくれるなら」
 私は言葉を重ねた。
 断絶と闘争するために。

 

 会議室に着いたのは、ピンク色の針をした時計が午前二時半を指してからだった。
 フローリングタイルは黒く、代わりに椅子や机、デジタルデバイスまでもが白い。
 ラブとレトリバーを除く他のメンバーは既に席に着き、会釈や手を振ってくれる。全員、自己紹介の必要がないくらいには、私のことを知っている。
 しかし、私の目に留まったのは奥に置いてあるインティンの装置だった。既にだれか使用したのか、自動清掃モードの表示が出ている。
 私はボルゾイに促されるように空けられた椅子に着く。それからボルゾイが口を開く。
「自己紹介と、昨日の反省のパートはすまないが省略だ。事態は急を要する。まずはダルメ、もう一度説明を」
 ボルゾイに促され、ダルメと呼ばれた男性が紙の資料を配布する。
「昨日拘束……保護された十名の少年たちは、一通りの手続きの後、昨日のうちに保護施設に送りました。後に帰宅、一定期間の保護観察になるでしょう。問題なのは、成人し、首謀者の阿古庭志穂の参謀を務めていいたであろう田中桃子を含め、全員が『今後阿古庭志穂がどう動くか知らない』ことです」
 どう動くか……まだ、続けるとこの人たちも見ているのか。
「考えられるのは二つです。『仲間を取り戻す』もしくは『残りのメンバーで他の建物を狙う』」
「ありがとう、ダルメ。それで、どっちだと思う?」
 ボルゾイはダルメへと問いかける。しかし恐らく、全員が結論を頭の中に出してから、会議が進んでいる。
「後者ですね。仮に彼らを取り戻したとしても、彼ら自身がもう活動には参加しないでしょう。皆満足そうに『役目は終わった』って言っています。それに、付け加えるとすれば、残りのメンバーは実働的ではないメンバー。つまるところ裏方です。戦闘能力はないとみていいでしょう。標的は実質阿古庭志穂一人です」
 役目。そう聞いて私はインティンを見つめた。私の――役目。
「では、後者では何をどう使って、どこを狙う?」
 ボスの問いを受けて、大柄の男性が手を上げた。発言を促される。
「スカン、ミュート組は〈涼〉の未完成データのサルベージに成功しました。とんでもないものが出ましたよ――三匹目の龍の卵といっても過言じゃないかもですね。ミュート、出してくれ」
 ミュートと呼ばれた女性は、デジタルデバイスを操作し、ホログラムを出す。
 半球の乗った形状をした観光用VRドローンが一機と、未完成のページがそれぞれの前に出現する。
 ページタイトルは『スコードローン計画』。
 スカンは説明を続ける。
「これは二〇二十五年から計画だけがあって、端的に言えば『ドローンで隊列を組んで映像観光をしよう』っていう、モノなんですけれど。ビジュアルイメージを出してくれ」
 新しくホログラムの層ができる。そこには数十機の半円ドローンが隊列を組んで京都市の上空を飛んでいた。
 まるで、機械の龍のように。
「安全性と法的観点、予算、インティン。どの面から見てもストップのかかるこれは、たった一機だけ立案者実費で作成されています。小宮昇博士。芸術工学で有名になった方ですね。といっても今の若い人には通じんが……」
 当時のSNSの画像が出てくる。白い髭を生やした大人が、両手でピースサインをしている様は、なんというか可愛らしかった。
「ともかく、この情報をあえて残していたということは、コイツが出てくる可能性が少なくないということです。ドローン用電磁パルスは先日の大雨でまだメンテナンスから帰ってきていませんし……龍討伐の装備は何にしますか? ボス」
 スカンはボルゾイへと笑いかける。ボルゾイは頭を抱えて「困ったな。勇者の剣は生憎実家にあるんだ。代案を考える」と皆の笑いを誘った。

 

「これを」
 ダルメは青色のホログラムで市内の地図と〈涼〉の一ページを出した。
「これが今まで彼らの動きです」
 そう言って、赤いエフェクトが発生順に重なっていく。
 三十日、三十一日、一日。合計で七つの箇所が赤くなっていく。
「そしてこれが〈涼〉の提供するルートを重ねたものです」
 数百本の黒いルート表示が街道に沿ったり空を飛んだりして市内に重なる。
「七か所すべてを三日で通るルートを通るのは、この二本です」
 全ての黒線が消え、再び最初の境内からルートが二本走る。
 一本は七か所の赤を順繰りにたどり、渦のような形状になっていく。
 もう一本は空を通り、楕円を描いて一周する。
「『最大移動。お忙しい人ねルート』と、『ヘリでなんて欲張りな人』ルートです」
 二〇二〇年の人間のセンスが少し心配になった。しかし……ヘリ? 私の怪訝そうな表情が伝わったのか、ダルメは付け加える。
「一件目の東本願寺に落ちたヘリコプターは、いまだに続く観光ヘリで〈涼〉終了後もそのルートを流用していたようですね。試験運用中の事故となっていますが、操縦者はまだ確認されていません」
 前半の情報は資料で知っているが、まだ操縦者――阿古庭雄太は見つかっていないのか。
「この二本のラインに、四日目と旅行前日をシミュレーションさせました。こうなります」
 二本の黒いラインは同じところを通ってはいるが、交わってはなかった。しかし、そこから伸びた線は、二点で交わった。
 貴船神社と、京都タワー。最北と、市内の中央。
「先ほど確認しましたが……どちらも老朽化のため『再建』が検討されています」
 条件を満たしていることを確認したところで、ダルメの横の女性が手を上げる。
「シアンから、この段階で一つお伝えします。そこの新入りさんとレトリバーさんがとってきてくれたQRコードですが、旧機体――普及した廉価版では動きませんし、そこにある最新版に搭載された互換機能も効きませんでした。これに対応しているのは最初期のものだけです」
 最初期、二〇三五年の技術成立とともに作られたモデル。とても値段が高く、最初は見世物として紹介されているんだっけ?
「最初期のモデルを所持している個人はいません。製造元に問い合わせても対応は不可能とのことでした。で、今所在が分かっていて、あやしいのは、ここ」
 見世物――観光地。シアンはホログラムに情報を入れる。そして、ある一点が三色に染まる。

「京都タワー、地下三階。旧大浴場の奥に作られた資材室に、展示用で買い取っていたものが置いたままです」

 

2 高く積まれた種火の鼓動


 二〇五〇年 九月二日 午前四時 京都市内上空――京都タワー展望台上より記録

 阿古庭志穂は距離計で、寝静まった京都を眺めていた。
 格好はいつもの、灰色迷彩服だったが、赤いカチューシャで前髪を上げている。
 ――二つの匂いが感じられる。
 一つは、手元に置いてあるお湯を入れておいたインスタントのかぼちゃのスープ。
 もう一つは、鋭い刃のような、この世界の起きる匂い。
 距離計から目を離し、インスタントのかぼちゃのスープを飲み込む。ぬるい風が肌を撫でていき、風向きが変わる前に飲み切った。
 ポケットに入れていたデジタルデバイスを起動させ、美優と雄太へと連絡を入れる。
『楽しい夜が始まる。 眠るように起きて』

 ゴミを片付けて、志穂は縁に設置しておいたスナイパーライフルを調節する。
 一度、距離計に目を戻す。ライフルを再度調整する。横に置いてあった風見鶏型デジタルデバイスの数値を確認する。
 風向き、湿度、温度――――吸気、呼気、止めて――引き金を引く。
 黒い塗装の『ネロ弾』は長距離用の高硬度で打ち出され、吸い込まれるように飛んでいく。

 動き出したジッケンの最後尾、ずっとこちらを見ていた加賀望美に向かって。

 


 
 私の目の前、MT車『89』のウインドウガラスは、まるで巨大な蜘蛛の巣をひいたかのようになっていた。
 真っ白な花火がずっと張り付いている。
『ネロ弾』の直撃……これ、当たったら骨だけでは済まないのでは? と、一瞬思ったが、ギアは落とさずにそのままアクセルを踏む。ワイパーで飛び散ったネロを落としていく。
 すぐに、二発目が来た。
 タイヤ近くのコンクリートに着弾する。『ネロ弾』は性質上、貫通しない。なのでタイヤを撃ちぬかれるということは無いだろうが、不具合は発生するだろう。
 京都タワーまで、このまま行けるか?
 私がそう思った時、一番先頭でバイクにまたがっているボルゾイから連絡が入る。
「――総員、ルートbへ。龍が来る」
 夜空を黒い爪で裂くように、京都タワーから一本の長い影が伸びてくる。
 
 ボルゾイは負傷しているシアンとスカンを連れて東へ龍退治。
 ミュートとダルメは西から迂回。
 私は、ただまっすぐに南下する。美しく整えられたこの市を、まっすぐ南へ。

 

3 血も涙もない嬰児 


二〇五〇年 九月二日 午前四時十分 五条通りより記録

 機械龍の羽音と、複数の乗り物の排気音が呼応する。
 機械龍――『スコードローン』はホログラムを纏い、細長く、黒い龍の姿で、夜の京都の空を泳いでいた。
 ボルゾイはバイクのスピードを落とし、ゆっくりと動きだした機械龍の鼻先を追っていた。バイクに搭載している熱源探知のスイッチを入れる。
『多数の熱源を探知』
 やはり、ホログラムの鱗の下に火をつけているか――ボルゾイは足のホルスターからリボルバーを取り出す。
 火のついたものを、市の上空に漂わせているわけにはいかない。
 皮手袋の向こうに、どっしりとした鉄の冷えた感触がある。
「シアン、スカン。――始めるぞ」
 ボルゾイはハンドルを離し、両手で銃を握る。
 体を起こし、呼吸は一度。吐いて、少し吸って、止める。
 上半身を抱いたまま持っていこうとする風と、引き金の重みが釣り合う――
 地をたたいたような低音。
 直後、空中の龍が大きく揺れる。
 龍の鼻――一番先頭を浮遊していたドローンへと、磁石フックがかかっている。フックはワイヤーを通し、ボルゾイの拳銃へとつながっている。
 スカンは自らが要求した技が、『本当に一発で』目の前で行われたことに驚きながらも、作戦開始位置へと車を急がせた。
『スコードローンは、飛行時の処理を楽にするため、先頭以外の機体は前の機体と同じルートを飛ぶようにしている。それが、生物の関節っぽく見える秘訣だが――これは、誘導が可能ということにつながる。前の機体が飛行不能の段階で、指揮系統は後ろへと移っていく。つまり――』
 一番前の機体だけを、壊さずに引っ張ってこられれば、罠への誘導が可能になる。
 ハンドルを切り、ボルゾイは五条通りから五条大橋へと加速する。バイクに括り付けた拳銃から伸びる〈リード〉がピンと張り、龍は方向転換を余儀なくさせられる。
 バイクは五条大橋を三分の一まで渡ると、もう一度方向転換する。
 急激な角度で曲がり、ボルゾイの目の前、すぐそこにはコンクリートの抱擁が待っていた。
 タイヤが歩道へと勢いよく乗り上げ、飛ぶ。
 バイクは重力から離れ、ボルゾイと共に、鴨川へ――
「フェイズ2、起動」
 音声認証のあと、空中で変形が始まる。
 変形――飛んでから着水までの数秒で、ロードバイクは小型の水上バイクに変形した。
 ワイヤーもきちんと最後尾に引っかかっている。
 ドドドと、まるで削ぎ取ってくるような鴨川の激しい流れに逆らいながら、水上バイクは加速を始める。
 シアンはその様子を端から見て、ふと思った。
(鯉が滝を上ったら龍になる。じゃあ、龍が鴨川を上ったら何になってくれるのかな?)

 


二〇五〇年 九月二日 午前四時十一分 京都タワー展望台上より記録

 志穂は金網の縁に立ち、二択の狭間にいた。撃つべき標的を、どちらにすべきか悩んでいたのだ。
 一つは龍を撃つ。
 味方ではあるが、アレの習性上そうすれば、あの龍は分裂を始める。
 撃たれたものは落ちるだろう――だめだ。必要以上の破壊は美学に反している。志穂はかぶりを振って、もう一つの標的へと銃口を向けた。
 鴨川を北上する、ボルゾイの水上バイクへと照準を合わせる。
 美しいまでに真っすぐに整えられた鴨川は、言ってしまえば一本道でもある。偏差射撃(移動先を読んで撃つこと)がしやすい。
 距離が離れすぎないうちに――吸気――
「きゃ」
 金網に何かがぶつかる音と共に、液体が灰色迷彩服に飛び散る。意識外からの攻撃だったが――志穂はすぐに、それが『ネロ弾』による狙撃なのだと気が付いた。
 KITの裏切りや残党という可能性は、志穂の頭にはない。押収した残り残弾をそのまま利用しているのだろう。
 ジッケンの、西側に回った二人組による狙撃――
 志穂はそのままの位置で、市を見下ろした。
 光はまばらにある。マズルフラッシュが見えればそれに越したことはないが――カーンという音と共に、二発目が金網に当たる。
 先ほどより、志穂の位置に近づいている。排出されるネロの液体が服を叩く。
 志穂は金網部からタイル部分へと移動し、下からの狙撃から身を隠す。
 デジタルデバイスに二発の情報を入れる。角度と間隔から推測できる、敵の狙撃手の位置が表示された。
 予測範囲は京都タワーの周囲、西側一キロ以内の建物群を指していた。
「…………ここか」
 志穂はライフルをもって、再び金網へと躍り出る。
 スコープで目星をつけておいた建物を見――三発目!
 顔の横を一瞬で通り抜けていく。
 しかし、ひるむことなく、志穂は一歩横に移動し、閉館した京都水族館へと銃口を向ける。
『京の里山』と呼ばれるところに、観測手と狙撃手の姿を確認した。
 水族館が経営されていたころは、緑と水の園になっていたが、今は見る影もなく無造作に草木が伸びている。
 場所も相まって、保護色に包まれている二人を、志穂はオオサンショウウオのようだと思ってしまう。
 口角が上がるのを感じていた――楽しい。
 志穂は早くなる鼓動を、抑えきれず引き金を引く。大きく照準がブレ、隣のイルカスタジアムへと着弾する。
 水の抜かれたそこに、なけなしのネロの液体が付着するのが見えた。
 ジッケンの四発目は、先ほどまでの志穂の位置を捉えて――京都の夜空へと飛んでいく。
 
 楽しい――KITの皆も、これを感じてくれたのかな――

 志穂は次の弾を打つための動作に入る。スコープ越しに、目が合った、気がする。

 


 車を旧京都駅で停め、封鎖されている地下街へと入る。
 地下街から、直接京都タワーへと入れることは教えてもらった。
 加賀望美に任された任務――それは、侵入だった。機械龍『スコードローン』の駆動演算。あるいは阿古庭志穂の狙撃には〈臨〉が使用されている。
 依然として〈臨〉の奪取は、勝利条件の一つなのだ。
 私は埃の道になった地下街を走り抜ける。
 咳き込むことも、足を止めることもせず、黄ばんできているタイルを蹴る。

 京都タワー地下、ガラスの入り口には施錠がなされていなかった。
 代わりに、門番がいた。
 緑色のつなぎを着た女性が横たわって寝息を立てている。
 彼女の周りは埃一つなく掃除されており、最初はお化け屋敷の人形か何かが捨てられているのかと思った。
 足音を殺して近づく。……味方ではない。残る敵はKITの非戦闘員だとダルメは言っていた。
 気づかれずに、傷つけないように……足を這わせる。
 支給された手錠をポケットから出す。後ろ手に縛ってしまおう。
 しかし、私が手錠をかける前に、緑色つなぎの女性はカッと目を開けた。――まるで人形にスイッチが入ったように。
 私は悲鳴を上げたい気持ちを必死に抑え、女性の動きを封じる。
「えっちょっと、何々、え、夜這い? いやいや、あんた誰、痛い痛い、腕はそうは曲がんないって! 志穂ちゃんをどこに……あんた志穂ちゃんに似てますね。痛い痛い痛い!」
 喚く女性に手錠をかけ、一度口にガムテープを貼ってやった。
 それでも、何かをずっとしゃべり続けているようで、くぐもった音が聞こえる。
 私は女性の頬を手のひらで両方から押し、おとなしくさせてからこちらの話を始める。
「今からこの頭は縦と横にしか動きません。縦はイエス。横はノー。斜めは抵抗とみなし、もう一度痛くします。いいですね。聞きたいことは二つです」
 ゆっくりと呼吸をし、手の力を抜く。
「一つ目――あなたは敵ですか」
 頭は淀みなく縦に振られる。意外に肝が据わっている。嘘がばれた際のリスクは話していないが、頭のいい女性なのかもしれない。
「では二つ目――この下、地下三階にインティンの装置がありますね。壊していませんね」
 首は、縦に振られた。

 どこか、壊れていてほしいと思っていた。しかし、腹をくくるしかない。
 元はといえば、私が志願したのだ。
 
 憎きインティンの中で〈臨〉を見つけると――

 

4 堕天使の細胞


 地下三階に着いた時、ピンク色の針の時計は四時二十分を指している。
 緑のつなぎを着た女性は口のガムテープを外すや否や、名を美優とだけ名乗り、こう言った。
「志穂ちゃんの言ってた、文明にアレルギーのある娘ってあなたですよね? 腕時計のところが少し赤くなっていますし、車の運転ですかね、手のひらに棒状のものを握った跡があります。……大変、興味深いです。生物学はあまり得意ではありませんが、ぜひご一緒させてもらっていいですか? スコードローン起動時点で私、やることありませムゴッ」
 再びガムテープでふさいだ。
 要点をまとめるとこうだ。
『敵ではあるが、敵対行動は既に終了している』
『インティンに入る文明アレルギーの反応が見たい』
 ……おしゃべりマッドサイエンティスト、略しておマエちゃんこと、美優は、私を地下三階の資材室にあるインティンへと案内した。
 資材室は、美優の工房になっているらしく、様々な機械が置かれてあった。
 3Dプリンターや、銃、ドローンの改造キット。いくつか水槽が置かれていたが、入っていたのはすべて、ぴんぽんぱーるという金魚だけだった。
 近寄ってみると、ぴんぽんぱーるはぱくぱくと口を動かしていた。肩をつついてくる美優同様に。
 ガムテープを痛いようにゆっくりはがすと、美優は口をさすりながら、ホログラムに表示したボタンを押した。
 すると、壁の一部が開き、インティンが現れる。
 最初期のインティンは、流通しているモノと形状が違い、卵型をしていた。
 インティン。
 二〇三五年に完成し、人々を現実から包み隠していった、拡張現実技術。
 文明アレルギーのステージでいうと、おそらくトップ。この美優の工房も正直つらくなるほどステージが高いが、これには及ばない。
 私は、ジャケットの内ポケットからQRコードを出す。
「おマエちゃん。これでお願い」
「おマエちゃんって誰です? ……私? いやだなあ。女傑の次に嫌なあだ名です」
「ともかく、この設定でお願い。できる?」
「できますけど……ふむ。志穂ちゃんも〈臨〉も意地が悪いっすね……これで……」
 そう言って、美優はデジタルデバイスで何かを打ち込んでいく。
 すぐに、ティンは起動し、コードを受け付けていく。
 入り口が開いた。上から亀裂が入り、人が入ったのを感知すれば自動で閉じるようになっている。
 口ぶりからして、やはり、試されているのか。
 目を瞑ると、いくつか、言葉が聞こえてきた。

『宿敵さん。このまま死にたくない。断絶。助けて。宿敵さん。お父さん。助けて。文明さん。お母さん。殺してくれて。宿敵さん。ありがとう。文明さん。ありがとう。宿敵さん。闘争』

 ゆっくりと、服を脱ぐ。
 インティンは着衣でも構わないが、どうせなら、本当の自分で、戦わなくてはいけない。
 宿敵と、私に。
「あと、ひとつだけ、美優。お願いしたいことがあるんだけど」
「何です?」
「私が死ぬまでは、絶対にこれ開けないでね」
 返事を待たず、ネロの中へ飛び込んだ。
 
 火の海を想像していたが、ネロは冷たく私を包み、閃光の後に現実を切り離した。

 


『二〇二〇年 八月三十一日 午前十一時 旧京都大学より記録』

 まずは――熱気である。人の存在という熱。旧京都大学の入り口に降り立った私は、まず人気のない場所を探した。
 適当に開いている講義室に入ろうとしても、大体は人がいるため、女子トイレへと逃げ込んだ。
 人、人間、ひと。
 とても多く匂いと音が、舞い込んでくる。
 活気、熱気。外からは車の音や楽器の演奏音が聞こえる。
 そこで、トイレの洗面台にある鏡を見て気づく。
 全裸でインティン入ったが、服は着ていた。
 こちらでは理想の服が着られるので、当たり前のようだけれど、なんだか不思議な気分だった。
 ラウンドの眼鏡をかけ、白ブーツを履き、黒地に白のラインが入ったTシャツと、茶のスカートを着用していた――二〇五〇年の、同じ日のように。
 髪は上の方で一つにまとめなおした。
 
 そして、振り上げたこぶしで、鏡を割る。
 
 先に割れたのは、天井だった。それはまるで先ほど入ったインティンが割れたように、上から卵の殻のように覆われた、ホログラムだった。
 薄い皮がむけていくと、黒い世界に包まれる。
 上下左右のない、ずっと浮いているような場所になった。
 
「よく、出来ました。どこで分かりましたか?」
 声がした。黒い世界の奥に、松岡学長の姿がある。
「あなたが言ったんですよ。出来すぎたって。この世界、二〇二〇年は、出来すぎている」
 匂い、音、そう言ったところで、感覚がマヒしかける。人の多い世の中を知らないがゆえに、だまされる。
「私の妄想していた、資料の通りの、二〇二〇年そのものすぎる。だから、鏡に映るのは、二〇五〇年の私なんです」
 松岡学長は、私の言葉をかみしめるように何度か頷き、こう答えた。
「正解です。さすがは加賀望美――我々を嫌うもの。我々を殺すことのできる、唯一の人間。では、まずは自己紹介から始めましょうか」
 そう言って、松岡学長のホログラムは崩れていく。
 黒い世界は――あの日と同じように――私を完全に包んだ。
 声だけが響く。
「我々の名はヒノカグツチ。文明そのものが、我々です」

 


二〇五〇年 九月二日 午前四時十二分 鴨川より記録

 ボルゾイはスロットルを一つ上のものにする。
 昨日の大雨で、鴨川は水かさと勢いが増していた。
 コケるのはまずい――そう思った瞬間に、後ろから引っ張られる。
『スコードローン』が入力されたルートへと戻ろうとしているのだ。
 まだか――ボルゾイはミラーで鴨川の両サイドを見る。
 通信はまだ入っていない。まだ、スコードローンの身体がすべて鴨川直上にないのだ。
 もう一度、引っ張られる。
 体制が崩されるが、ハンドルさばきで何とかボルゾイは耐える。
 耐えた報酬のように、少し前に進む――
『ボス!』
『いけるよー』
 スカン、シアンから同時に通信が入る。
「行くぞ! 削ぎ落せ!」
 アクセルを全開にする。
 スコーンドローンは再び鴨川のぼりを余儀なくされ――

 最後尾を、両サイドからの弾丸で削り取られていく。

『ネロ弾』ガトリングでのサンドイッチ、プレスだった。
 前についていっているだけ機体は弾丸によって羽をもがれ、水しぶきを上げて鴨川へと落ちていく。
 シアンは、あとで掃除することを考えてげんなりしつつも、アトラクションのような射的に心躍らせていた。
 スカンもおおむね似たような気持だった。
 二人は一機も撃ち漏らすことなく、機械龍を削ぎ落していく。
 
 ――鴨川デルタ。それは、加茂川と高野川の合流地点であり、この作戦の最終地点だった。
 
 残りバッテリーの少なくなった、バイクから、ボルゾイは飛び降りた。
 デルタの三角になった合流地点の砂利へと身を投げる。――残り三機!
 ボルゾイは立ち上がると同時に三発、リボルバーへと装填する。
 ゆっくりと呼吸し、目を閉じる。
 スピードが出たまま、三機はボルゾイへと突っ込んでくる。
 まるで、三本の牙でボルゾイを食いちぎろうとするかのように。
 
 ――二撃!
 
 シアンは銃声を『二発』分しか聞き取れなかった。
 しかし、ボルゾイは一瞬で三発正確に撃っていた。
 三機が勢いのまま、ボルゾイの後ろへと転げ落ちていく。砂利場なら、火事の心配もない。
「作戦終了。ダルメ達と合流後、私達も京都タワーへ行くぞ」
 ボルゾイはそう言って、事後処理班へ龍退治の残骸を任せると、再び歩き出す。
 シアンは残骸を見てこう思う。
(鯉は滝を登れなきゃ鯉のままだけれど……君たちはスクラップになっちゃったね)

 

 暗闇の中で声だけが聞こえてくる。
 問答の前に、私の頭には一つの考えが浮かんでいた。
 パンスペルミア説……地球の命の起源が、別の惑星からもたらされたとされる説だ。私、加賀望美が好きな説だった。
 新天地でも上手くやっていますよ。美しい星になりましたよって、元の星にアピールしているようで、私達が可愛らしく思えるからだ。
 しかし、それがもし……文明という人類の英知でも起きているとするのなら……、成長や発展が、自然発生ではなく導かれたものだとしたら。
 ホログラムで作られた虚像に騙され続けている、私のようなものだ。
 滑稽ではあるが好みではない。と思った。
「そう、そうだ。君だけが私を嫌うことができる」
 カグツチは声だけで肯定する。
 目の前の空間に、ぽつりと爪先のほどの穴が開いた。白い、光の穴だ。
 まずは匂いだ。フローリングを始めとした、家具たちと、両親の焼ける匂い。
 突然の光と鼻を衝く匂いで、目を閉じかける。
 心臓の鼓動が早くなっていく……喉の奥に悲鳴が隠れている。
 こじ開けるように目を開くと、あの日の2LDKがあった。
 火はゆらゆらと揺れて、カグツチの声がした。
「我々を断絶しようとしたものは、歴史上多くいた。加賀望美。君の叔父がそうであるように。逆に、我々を歓迎したものはその数千億倍いた。加賀望美。君の両親がそうであるように」
 両親は冷蔵庫に赤い筆跡を残し、倒れている。
「我々に対する肉体的な拒絶反応を見せたのは、君だけだ。加賀望美――だから、頼みがある」
 頼み――そう言って、火は一段と強くなる。先ほどまではホログラムで何も感じなかった火が、私に縋りつくように寄ってくる。
 私は自身の身体が燃えることを置いて、カグツチの話を聞く。
 全身に走る、耐えがたい痛みはこの火が抱える痛みだ。
 人は、他人の痛みには強い――

「このまま死にたくない。せめて、よく死なせてくれ――忘れられるのは怖い」
 
 ――激痛だった。幼いころに言えなかった言葉が、ようやく心に収まった。
 私もあの時、生きたいわけじゃなかった。
「せめて、よく死ぬ」
 口から自然と言葉が出た。それは、今は無くなってしまった気持ちだ。生きていたい。生きる意味を探したい。
 無くしてしまった私だからこそ――私がしなくちゃいけない。
 細胞一つ一つに針が通ったような痛みが走る。
 けれども、一歩前に進んだ。
 同時に――両親が起き上がる。
 血だらけの頭で、二人はちらりとこちらに向いた。
 これは――記録だ。〈臨〉が集めていた、記録。だから、二人が私の横を通り抜けるのは確定している。
 けれども、通り過ぎる前に、言わずにはいられなかった。
「私を生んだ時、幸せでしたか?」
 家族は繋がるもの。だとすれば、私が生まれた時が、一番幸せだったはず。その後どうなったかはともかく、この人たちにも、あったであろうそれを私は求めた。
 私の横を、両親は通り過ぎていった。
 奥のそれぞれの部屋が閉まる音がした。

 けれどすぐ、私の背中に暖かい感触が届く。
 両親は、それぞれの部屋を閉じ、三人で一つの部屋で抱きしめあっていた。

 これは――記録だ。証拠に、スプリンクラーは起動している。
「ありがとう。でもごめん。私行かなきゃ。私にしかできないことがあるの」
 再び、一歩前へ。一歩、一歩前へ。
 私は、ガス管からの爆発へと手を広げた。
 光と熱に、私は包まれる。薄れゆく意識の中、聞いたことのない声が聞こえた。
「のぞみ――――ありがとう。娘を――よろしく」

 


 二〇五〇年 九月二日 午前四時五十分ぐらいの、こと

 京都タワーの上へ向かったボルゾイ、ダルメ、スカンは展望台フロアにたどり着き、驚くものを目にした。
「レトリバー!」
 ボルゾイの呼びかけに応じ、レトリバーが三人のほうへ向く。
 三人は駆け寄ると、レトリバーが男性を拘束していることが分かった。
 阿古庭雄太は拘束されたまま胡坐をかき、透明のホログラム『ミラーマン』を纏っていたが、ゆっくりと姿を現すと「そろそろ来るね」とだけ呟き、レトリバーはソレに「ああ」とだけ応えた。

 京都タワーの地下へ向かったシアン、ミュートは――展望台フロアに向かった三人よりも驚愕に飲まれていた。
 緑のつなぎを着た少女を拘束するラブと――
 赤く染めあがったインティンと、中のコーテッドの姿。
「先生! どうして助けないの?」
 シアンの問いに、ラブは自身の唇に人差し指を当てる。
 すこし、静かに。シアンが口を閉ざすとともに、インティンの開閉音がした。
「ごめんね、シアン、ミュート。私とレトリバーがやり残したことを、やらせてちょうだい」

 ティンから出た時、血は体を外側からドロドロと溶かし、固めたが、加賀望美は動き始めた。

 

 阿古庭志穂は、灰色迷彩服を無数の『ネロ弾』の着弾により濡らし、弾の当たった筋には強い負荷がかかっている。
 加賀望美は、パンツスーツの下の包帯を無数の『文明アレルギー』の出血によって濡らし、皮膚数か所爛れており、足元がおぼつかない。
 望美のつけた、ピンク色の針をした時計は午前五時半を指し示し、京都の空は朝焼けで、燃えているようだった。

「ねえ、宿敵」と望美が声をかける。
 それを受け、志穂は少し口角を上げる。孤独だった、あるいは満ち足りていたこれまでを志穂は一瞬で思い返していた。
 母親が父親のことを頑なに教えず、家出した兄について回って聞き出した日々。
 才覚、容姿に恵まれるせいで、同格に渡り合える敵がいなかった日々。
 スポンジラビット達や、田中桃子、小宮美優といった、私の後についてきてくれた変人たちとの日々。
 それらはすべて、この日のためにあったのだと確信する。
〈臨〉という姉はもう、この世にはいない。
 けれど、目の前の女は負けるとも劣らない存在だと、細胞が叫んでいる。
「ねえ、宿敵」と志穂が返した。
 
「一発で決めない?」と言ったのはどちらだったか。

 太陽――地球の始まりから照らすその光が、交差する二人を照らした。

 先に、望美が膝をつく。眼鏡の奥で、流れ出る血の流れを追っていた。
 風に血が流され、まっすぐな線を描いていく。
 いや、まっすぐとは望美は認識できなかった。
 視界がぼやけていく。
 ひどい耳鳴りがずっと響いていたが、その言葉はしっかりと聞こえてきた。

「あんたの、勝ちよ……望美……」

 阿古庭志穂は、父親――阿古庭焔と同じように、後ろから倒れる。
 加賀望美はそれを――彼女の姉にしたように――しっかりと受け止めた。

 

エピローグ 灰も雪も白い。それは、次の色を待つため。

 五条大学第三講義室から覗く、中庭のテラスには三人の女性――院生一年となった五条大学の三女傑が座っていた。
 他に人影がない分、彼女たちのオーラは際立っていた。
 紅葉は既に地に落ち、雪がちらほらと見えていた。
 円形テーブルには人数分のカモミールティーが置かれ、院生一年となった女傑達は優雅に雪華のティータイムを過ごしていた。
「そろそろじゃないですかね。一限が終わるの」
 口火を切ったのは、小宮美優だった。黒いつなぎの上に、緑色のマフラーをつけている。この姿が様になるのは、端正な顔立ちあってのことだろう。
「ああ、そうね。そろそろ来るわね。ほら、望美、起きて」
 美優の発言を受けて、田中桃子がうたた寝をする加賀望美を軽く揺すった。桃子はブラウンの髪を伸ばし、ピンクのコートを羽織っている。
「ん、ああ、じゃあ、お茶入れなきゃ……あと……準備を……」
 望美は半ば寝ているような状態で、カモミールティーを注ぐ。逆の手では、皮のカバンから何かを探していた。黒のハイテックトップスに、テラコッタのサロペット、グレーのベレー帽を合わせている。
 美優を除いた二人は、羽田姫香のコーディネートによるものだった。

「皆―!」
 と、第三講義室の窓から、一年生になった阿古庭志穂が身を乗り出す。ネイビーのカーディガンの袖をひらひらと躍らせる。
「あった」
 そう言って、望美は茶封筒を一つつかみ取る。
 そこには『京都市役所観光課実地検証室 インターンシップのご案内 阿古庭志穂様』の文字が――

〈終〉