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「……溶け、ない」
 茫然と呟いた言葉は喧騒に溶けてゆく。それなのに、水に浮かべた私の形代(かたしろ)は、ぷかぷかと浮かんだままその形を保っていた。
 水に浮かぶ人形に書かれた自分の文字を、左から震える声でゆっくりと読みあげていく。
「十九才 女」
「篠宮(しのみや) 空(そら)」
「事故除け」
 水の張った桶からゆっくりと頭を上げた私の顔色は、おそらくよっぽど酷かったのだろう。藍色に色とりどりの朝顔をあしらった可愛らしいお揃いの浴衣を着た二人組の少女が、私の顔を見て小さく「ひっ」と肩を上下させた。

 

 一か月前のことだ。梅雨の明ける頃、たった一人の親友――少なくとも私はそう認識している――の相田(あいだ )牡丹(ぼたん )に一緒に京都旅行でもどうかと誘われて、私はその誘いに乗った。人形祓いの話を知ったのもその日の晩。ただ観光するだけじゃつまらないでしょうと、夏にぴったりなホラースポットを検索していた時に、偶然見つけた。
 地主神社。清水寺の境内の中にある、小さな神社だ。「恋占いの石」をはじめとし、縁結びの神社として人気スポットなのだが、同時に「人形祓い」や「いのり杉」というオカルトな伝説が宿ることでも有名な場所らしい。
 怖がりな牡丹を素直に誘ったところで全力で拒否されるのが関の山。しかし私は知っていたのだ。彼女は「運命の人」がいつか現れて、その人と少女漫画のような恋をするのだと信じている、いわゆる「恋に恋する」乙女であることを! そんな彼女が縁結びなどというワードに食らいつかない筈がなく、オカルト伝説の方が入らないよう上手く話を誘導し、私は彼女を地主神社に連れてくることができたのだった。
 
「私、行っていいかな? 縁結び」
「うんうん、待っててやるから行っておいで」
 鳥居の前でウズウズしている牡丹が長い黒髪のポニーテールを大きく揺らして階段を駆け上がる様を見送り、あの調子なら三十分は戻ってこないなと私も階段を上る。境内は意外と狭くて、真新しい建物の隣を歩けばまだヒノキの香りがした。牡丹と似たような眼の色をした可愛らしい浴衣姿の少女達が集まるスポットを通り抜け、やって来たのは最奥。急に人の数が激減して、人々から避けられるようにポツンポツンと建っている社がふたつ。大きく切られた杉の木にそのまま社を建てたような雑な姿が物々しい、これが「いのり杉」。なんでも一つだけ願いを叶えると言うこの杉の木で、その昔、丑の刻参りが行われたと言う。その幹には当時の釘の跡が残っていた。その反対側の社に、これまた雑に置かれた机とペン、そして「人形」。
 私はスマホを取り出してもう一度やり方を念入りに確認すると、作業に取り掛かった。
 
 一、 人形の左腕に年齢と性別、右腕に自分の名前を書く。
 二、 人形の胴体に願い事を書く。
 三、 呼気を三度吹きかける。
 四、 桶の水に浮かべる。
 このとき人形が水に溶けれるか沈むかすれば願いはかなう。
 どちらもならなかった場合、願いは叶わない。
 
 ここで「事故除け」を選んだのは何となくだった。後で牡丹を連れてくる際に聞かれて困らない願いだし、あまり大きな願いをして沈まなかったら怖いし、ということだったのだが。
 水に浮かべた私の人形は、溶けなかった。ここで話は冒頭に戻る。
 
 
 あれから十分ほどじっと見つめてみたが、人形が溶ける様子はなく、その間も私の心はじわじわと恐怖に汚染されていった。牡丹が戻ってくるかもと思い出した私は、逃げるように来た道を戻り階段を駆け下りて鳥居の前にたどり着く。なにしろ思っていたより狭い神社だ、牡丹が早くに戻ってきてしまう可能性はおおいにあったが、幸か不幸か牡丹はまだ戻ってきていなかった。
 私はスマホを取り出して、人形祓いを知ったあのサイトを開く。何か、何か載っていないか、解決策は、人形が水に溶けなかった場合の対処法は。
「載ってない……!」
 いや、まだだ、この伝説はそれなりにオカルト界隈では有名だって検索中に見かけた気がする。それなら、どこかに、どこかに誰かが書いておいてくれているはず……!
 
 人形祓いについて触れてあるサイトは、そのとき出来る限りの最大数見て回れたと思う。時間にして十分もなかっただろうけれど。
「空、大丈夫?」
 不意に私の肩をたたく者がいた。振り返れば案の定そこには牡丹がいて。私はきっとかなりむつかしい顔をしていたのだろうなと、少し引いている彼女を見て思った。いつの間に戻ってきたのだろう、牡丹の手には買ったばかりと思しき可愛らしいピンクの恋愛成就のお守りが握られていた。牡丹の動きやすさ重視でボーイッシュなファッションに、その可愛らしいピンクの小物が似合わなくて、私は思わず笑いそうになった。急ににやけた私を見て、牡丹は更に困ったような顔をする。
「ああ、大丈夫、大丈夫だよ、牡丹」
 ちょっと行ってくるね、そう言って私は牡丹の手を振り払い、再び境内への階段を駆け上る。後ろで牡丹が「ええと、がんばれ!」と酷く曖昧なエールを送ってくれて、それは私の背中を強く押す追い風となった。
 実際のところ、ここで私が何をすればよいのかは最初から分かっていた。それを実行できなかったのは、私の勇気のなさと、強欲さからだったのだ。だって、叶えられる願いはたった一つだ。慎重に選びたかったのだ。
 手水舎で手と口を洗い清めると、人形祓いを行ったあの場所に戻ってくる。桶を覗くと、事故除けと書かれた私の人形はまだそこにそのままの形で浮かんでいた。大丈夫。
 今、沈めてあげる。
 私は振り返って、相変わらず人の寄り付いていないあの不気味な社を見た。「いのり杉」。たった一つだけ願いを叶えてくれる、呪いの杉の木。
 その賽銭箱の中に百円玉を投げ入れて、二礼二拍手一礼。
 「私はどうなっても構わないから」
 
 「せめてこの旅の中だけでも、牡丹から笑顔を奪わないで」
 
 二人とも助けてなんて贅沢なことは言いません。私は、私は牡丹さえ最後まで笑顔でいてくれれば……――――!
 
 
 辺りはやけに静かだった。他に観光客はたくさんいるのだから、そんなはずはないのだけれど。顔を上げた時、すべての喧騒が遠く聞こえたのだ。
 願ってしまった。
 私はふらりといのり杉の前から離れて、桶の中を覗いた。そこに、私の人形は無くなっていた。その時になってやっと、私の耳には音が戻ってきたのだった。
 
 牡丹には、いのり杉のことも人形祓いのことも、結局話さなかった。あの時駆けだした私の行動は、どうやら牡丹には情熱的な何かだと勘違いされていたようで――――まああながち間違いではないのだけど――――戻ってきた私の肩を叩いて「応援してるよ」と言った牡丹の決め顔が妙に印象的だった。
 それから旅は何事もなく終わる。最終日は全国どこにでもあるようなカフェチェーン店でパンケーキを食べて、お土産も特に買わずに新幹線に乗った。
 私たちが乗った便の二つ後の新幹線が、人身事故か何かでストップしていたらしいことは、帰ってから何気につけたテレビのニュースで初めて知った。まあ人身事故も事故だ、私たちはどうやら初めから怪我する予定などなかったのかもしれないなと、少し不謹慎ながらそう思った。それでも願わなければよかったなどとは思っていないし、……願わなければどうなっていただろうか、とかは………………まあ、考えないのが、正解だろう。