手首は、ピアニストにとっての弓である。
これはショパンが言った事言葉で、俺が通っていたピアノ教室の先生もよく言っていた。
手首が弓なら、指は矢、なのだろう。
そして、弓とは矢を飛ばすための道具だ。
その矢を失った俺の弓は、いったい何のためにあるんだろう。
耳障りな音が三階の廊下に響く。
音楽室から聴こえてくるピアノの音は子犬のワルツを奏でている。それは所々にミスや音のズレがあり、まともに聴けたものじゃない。
ピアノとはもう縁がないはずなのに、まだ俺の方がうまく弾ける、そう思った自分が嫌になる。
聴かないように階段で二階に降りようとした時、耳に響いたその音が、俺の足を音楽室へと いざなった。
慌てていて落ち着かない、何か急いでいるような、なんだか放っておけない音だ。
音楽室の扉の窓から中を覗くと、ピアノを弾いている女子生徒の姿があった。
その女子生徒が目を瞑って演奏していることに気づいた時、ついカッとなり、
「おい!」
扉を開けたと同時に声をあげていた。ピアノの音が小さくこだましてから止まり、女子生徒 は驚いた様子でこちらを見る。
「え、え?」
「目なんか閉じて演奏してたらうまく弾けるわけないだろ!」
「わわ……わわわ、わぁ!?」
ゆっくりと近づいていくと、少女は後ろに反り倒れてしまった。
鈍い音が響いた後、俺は倒れた少女に
「だ、大丈夫か?」
「痛いです、大丈夫じゃないです」
何度か勢いをつけて立ち上がろうとしているが上手くいかないらしく、諦めた様子で両手を こちらに差し出してくる。
「お願いします」
起こしてくれという意図を読み取り、右手で少女の左腕をつかみ思いっきり持ち上げた。
「痛い痛い!」
少女の高い悲鳴を無視し、そのまま引っ張り上げ、椅子に足を絡ませていた少女はそれごと座る体制のまま元に戻った。
「両手で引っ張ってくれればいいのに……」
「あのな、俺が引っ張るタイミングに体を起こしてくれれば楽だったと思うぞ」
少女は黙ったまま睨むような目つきで俺を見てくる。
「わ、悪かったよ、脅かしたのは」
非はこちらにあるので軽く謝ったが、そんなことはどうでもいいと、少女は姿勢を正し直してからピアノに向き合った。
「一度聞いてもらえますか?」
俺の返事を待たず、少女は鍵盤に手を置き演奏を始めた。
静寂の音楽室にピアノの低い音が響く。これはメヌエットのト短調だ。
廊下で聴いた子犬のワルツよりはまだましな演奏だが、上手いとは言えない。どちらかと言 えば下手な部に入るだろう。それにペダルも踏んでない、ただ鍵盤を叩いてるだけだ。
一度演奏を止め、すぐに弾き始める。
今度もメヌエットだったが、リズムが悪く、鍵盤の位置は把握できていても小さなミスが多くなった。
一通り弾いたあと目を開けこちらを見る。
「どうでした?」
「どうって……言われてもな」
元々上手いとは言えない演奏なのに、二度目のメヌエットは目を瞑ったまま演奏をしていたせいでもっとひどいものになっていた。
「目を瞑って演奏できるんだな」
下手と言おうとしたのを止まりそんなことを褒めてみた。さっきは勢いで下手と言ってしまったが、今の俺にそんなことを言える権利はない。
「下手なら言ってください」
「いや別に……」
「下手ですよね?」
自覚があるのかそう聞いてくるので正直に言った。
「……はっきり言えば、下手くそすぎる」
「そんなに!?」
今更だが、とても面倒臭い奴に絡んでしまったと、自分を恨んだ。
あの時、この少女が目を瞑って演奏なんかしていなかったら、そのまま内心で罵った後帰っていただろうに、短気な自分が腹ただしい。
「あの、子犬のワルツを一度、弾いてもらえませんか?」
そう言って少女は席を立ち俺に譲る形になった。
「いや、俺は……」
「お願いします、人の演奏を評価できる人は、上手いはずですから」
そのまま流れでピアノ椅子に座ってしまった。
両手を鍵盤に置いた所で、演奏することに躊躇った。
それは演奏ができないからなどではない。目を瞑ったってこいつより上手く弾ける自信はある。
だけど、自信があっても俺には弾けない。
「あの……」
隣に立っている少女が何かを言おうとしたとき、前に出してきたその右手を掴んだ。
無意識に掴んだ事で、少女も俺自身も戸惑ったが、なんでこの手を掴んだのか自分で理解できた。
「お前は右を弾け、俺が左手で合わせる」
少女は何度か目を瞬きさせてから、
「は、はい」
何か言われると思ったが、随分と素直に返事をしてくれた。
立ちあがり椅子を横にどかす。俺が左にずれて右手を鍵盤に置くと、少女も隣に立ち同じように手を置いた。
「左手で弾かないんですか?」
まずいと思った、当然の疑問だ。無意識にこいつが右隣にいたからこちらに立ってしまった。
「……動かないんだよ、俺の左手は」
別に隠すこともないだろうとそう告げた。
少女は言葉を詰まらせこちらを見ている。俺も少女の方を見るが、すぐに鍵盤に目を下ろした。
俺は左手での譜面を思い出した後、横目で「弾いていいぞ」と合図をしてから、少女は頷き真剣な表情で鍵盤を見る。
「……いきます」
一泊空いてから音が跳ね始め、それに合わせて俺も弾いていった。
少女の出だしは先ほどの演奏と違って完璧。ペースにブレもなく俺も合わせやすい。
右手で左の演奏をするためミスもでると思ったが、一度もそんなことはなく、段々と、そして、確実に二人のリズムはシンクロしていった。
少女の呼吸を感じ取れるようだ。
ただ音を重ね合わせているだけじゃない。それが分かるように、この演奏は素晴らしいものとなっている。
自分が弾いてきたどの演奏よりも、この音楽は完全なもの。体で感じながら弾いている、頭で鍵盤なんて叩いていない。
息をするのも忘れてしまうほど集中できている。それは隣の少女も同じで、見なくても分かるものだ。
俺達の演奏は誰にも再現できない、しようとしたって不可能だ。
だってこれは、俺が求めていた最高の演奏だから。