読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

「はぁーっ!」
 演奏が終わった途端に少女は長い息を吐いた。
 俺も詰まった息を思い切り吐き出したあと、額に溜まっていた汗を制服の裾で拭った。
「なんか、なんかすごかったですね……」
「ああ……なんか、な」
 俺たちはそんな幼稚な感想を述べていた。
 顔を合わせるが二人して深呼吸を繰り返し、しばらく会話が無いまま、逸らす事なくお互い の目を見つめあっていた。
 手の先が震えているのが分かるほど敏感になっている。
 ぼーっと少女の黒い瞳を見ていると、ふと、視界から少女が消えた。
 俺は遅れてから下を見る。少女は膝から崩れていき床に座った。
「ちょっと……疲れたか?」
 そう聞くと、少女が荒い息をしながら首を縦に振る。
「ダメだ、俺も……」
 後ろにあるピアノ椅子に腰を下ろし出てくる汗を右手で拭う。その手は小さく痙攣していた。
 熱気に耐えられず、していたネクタイを緩め、深く息を吐いた。
 落ち着いてくると、外から入ってくる静かな風がとても涼しく思える。こんなに疲れたのに気持ちがいいのは初めてだ。
 俺はふと、さっきまで鍵盤の上で踊っていた右手を見た。
 少し練習をしていたとはいえ、右手でよくあそこまでの演奏をできたものだ。始めはミスをしないようにと思って演奏していたが、こいつの弾き方に自然と合わさり、ミスよりも完璧を求めた。
 俺がまだ左手で弾けてた頃に目指した、最高の演奏をできると思ったから。
 そして、それはできたんだ。誰にもできない、あの人にもできないような、演奏を。
「あ、あの……」
 自分の右手を見ていて気づかなかったが、だんだんと落ち着きを見せる少女はいつの間にか立ち上がっており、何か言いたそうな様子だった。
「えっとですね、えっと……」
 何を躊躇っているのか知らないが、
「左手を練習しろよ」
「え……?」
 俺はなかなか言い出さない少女に焦れて言いたい事を先に言った。
「今のは、まあ上出来だとしても、それは右手だけで演奏したからだ」
「えっと、右手は上手いと?」
「左手は下手って事だ、いい方だけとるな」
 その言葉に少女は頬を少し膨らましたが、すぐに笑顔になって両手を合わせる。
「なら、教えてもらえませんか!」
 さっき言い出そうとしていたのはこの事なんだろう。
 目を輝かせて俺の言葉を待つ少女に、すぐに返事を出来なかった。
 いろいろな気持ちが混ざって、考えの一つを絞りだせない。
「……お願いします」
 頭を下げられても困るだけなら、黙ってこのまま音楽室から出ていけばいいのに。
「無理だ」
 それをしなかったのは迷いがあったからだろう。
 さっきの演奏、あれは少女の実力だ。右手だけなら俺より上手いかもしれない。あくまでか もだけど。
 左手での同時演奏が下手なこいつが、今のまま演奏したってひどいままで終わる。
 なら俺が教えたら? もし左手も右手で弾いたように上手くなればさっきの演奏を一人でも実現できるはず。
 それを聴きたいと思うし、聴けたら良いとも思う。俺が求めた演奏をこいつに弾いてもらう
のは、すごくいい考えだ。
「どうして、ですか」
 それでも、返事は……ノーだ。
「さっきも言っただろ、左手が使えないって」
 俺は少女に左手を開いて見せる。
「ここから拳を作ろうとすると、こうなる」
 人差し指と中指は伸ばされたままでチョキの形ができた。俺の左手は拳を作ることができない。
「私生活に影響は出ないけどな」
 俺は席を立ち上がり、何も言わずに俯く少女の脇を通って音楽室を出てった。

 

「やっほ」
 翌日の朝、いつも通りの通学路を歩いていると後ろから聞き覚えのある声がかかり、そのまま俺の前に現れる。
「ああ、おはよう」
 足を止めて挨拶を返す。目の前には幼馴染の佐倉 瞳がいた。
「相変わらず面白い髪型だな」
「これはピアノを弾かない時だけ……ってなんか機嫌いいね」
 瞳は首を傾げながら不思議そうな顔で俺を見てくる。
「そうか?」
「普段なら挨拶した後すぐに歩き出しちゃうのに」
 思い返せば、そうだった気がする。
 左手が使えなくなりピアノをやめてから、無意識のうちに今でもピアノを弾いている瞳を避ける形になっていた。
 瞳は瞳で気を遣ってくれてるから、俺に何か言ってくることもなかった。
「……そんなことより、最近ピアノはどうだ?」
「えっ……」
 瞳の表情が変わる。普段からはあまり見ない真顔になっていた。その表情に思わず俺も驚いてしまう。
「な、何かおかしなこと言ったか?」
「だって、だってだって! 巽からピアノの話なんて……あの日からした事ないじゃない」
 また表情が変わり、今度は焦った様子だった。
 瞳の言う通りだ。俺からそんな話、したことない。
 昨日ピアノに触れたからか、思わず振ってしまった話題。
「そう、だっけ」
「うん……そうだよ」
 気まずい空気が流れる中で、瞳が口を開いた。
「もしかして、弾いたの?」
「あ、ああ」
「……弾けた?」
「……弾けた」
 そりゃもう、最高の演奏を。
「そう、良かったわね」
 今度はにこりと笑い、瞳は手を上げた。
「それじゃ、今度は私の演奏でも聴いてね」
 瞳は俺から背を向けて学校に歩き出した。
 その背中を追うように、だけど少し距離を開けながら俺も歩き出す。
 たった一回ピアノを弾いただけなのに、ここまでピアノが愛おしく思えるのは、俺がまだピアノを弾きたいと思っているからなのか、分からない。
 別にピアノを嫌いになっていたわけじゃない。
 だが、それでもこの左手には絶望した。
 よりにもよって、動かないのが人差し指と中指だ。
 いや……どの指だろうが関係ない、親指だって小指だって演奏に不可欠な大事な音源だ。
 そして、俺はそれを失った。
 昨日のことを今、後悔している。
 完全に、鍵盤の感触を思い出していた。