昨日と同じ三叉路で朽木と別れ、そのまま家に着いた。
「おう、おかえり」
俺は二人とも酔い潰れていると思い黙って家に入ったのだが、リビングには父がいて、ソファで新聞を読んでいた。
「ただいま……あれ、母さんは?」
遅れて挨拶を返し、周りを見渡して母がいないことに気づき父に聞いた。
「ああ、俺が明日仕事で遅刻できないから、俺を起こすためにママは寝てる」
父は新聞から目を離すことなくそう答え、何やら難しい顔でいる。
しっかりと俺の問いに答えてくれたって事は、特に機嫌が悪いというわけではないのだろう。
「考えものだな」
独り言のようにそう呟いた父は新聞をテーブルに放り投げてソファから腰を浮かした。
そしてそのまま俺の目の前に立つ父は、真剣な表情で、
「一曲、弾いてくれないか」
と言ってきた。
「あ、うん……いいけど」
少し戸惑ったが、俺は返事をしてピアノ椅子に座った。
父がそんなことを言ってくるのは初めてだった。
弾いてくれなんて普段なら言ってこない。俺が勝手に弾いてるのを聴いてるだけだ。それに俺がピアノを弾かなくなってからは一度もピアノの話には触れてこなかった。
もともとピアノには無関心な父だったし、それも当然か。
「最近弾いてるんだろ?」
「知ってたの?」
「まあな、さ、弾いてくれ」
父は俺のすぐ横に腕を組みながら立ち目を瞑った。
「えっと、何が聴きたい?」
「ジムノペディ一択だ」
昔からこの曲を好きと言っていた父のことだからなんとなく予想はできていたが、一択ときた。
「一番だよね」
「ああ」
俺は鍵盤に両手をのせ落ち着いた雰囲気のままで弾き始めた。
不器用ながらも左手の動かせる指を使い演奏していく。この曲でなら俺の左手も活かせるだろう。
このゆったりと、音は出ているのに静かだと思わせるような曲調が実に良い。
サティが作り出す幻想的な世界観に引き込まれるようで、演奏をしながらでもそんな気持ちになる。
3回ほどループさせ終えてから鍵盤から手を離し、父の方に向き直る。
「他に何か弾こうか?」
「いや、十分に楽しんだ。俺は寝るとしよう」
そう言うと父はリビングから出て行った。
「楽しんだ……ね」
あの気難しそうな顔から、どこに楽しさがあったのか聞いてみたい。
壁にかかっている時計を見ると、時刻は八時を指していた。
朽木が予選で演奏する滝を弾こうと思っていたが、この時間以降は近所に迷惑もかかるしこれ以上は無理そうだ。
「先輩、疲れました」
翌日の午後一時前、朽木は音楽室に入ってきた。その時の第一声が挨拶でなかったのは置いておこう。それより気になるのは、五月の中旬とは思えない朽木の汗の量だ。
「どうしたんだよ、外、そんなに暑かったのか?」
「うーん、どうでしょう?」
聞くと朽木は首を傾げた。
「走ってきたので分からないです」
なるほど、それでそんなに汗を。
納得と共に視線を朽木の顔から少しずつ下にずらした。
小ぶりな唇から細白い首、そこから更に下、汗をかいてるということは……。
「先輩?」
案の定、汗でシャツは透けていたわけで、俺はそれを真剣に見始める。
走って来た暑さからか胸元にリボンが着いておらず、第一ボタンも外されていた。
そして透けたシャツの先にはもちろん二つの膨らみを隠すものが。
「ど、どうしました? さっきから真剣な顔で……」
透けた先には薄いピンク色のスポーツブラが見えた。
「な、何見てるんですか? 変態! 変態!」
俺の視線に気づいた朽木は胸を両手で抱き隠し一歩後ろに退がった。
真っ赤な顔は怒りからか恥ずかしさからか分からないが、とりあえず状況は最悪と言っていい。
なんとか俺が変態という誤解を解かなければならない。
「俺だって見たくて見たんじゃないんだぞ? 朽木がどんなものをつけているか気になって見たんだ、分かるな?」
「それ即ち確信犯ですから!」
「と、とりあえず汗を拭けよ、な?」
バックから無地のタオルを取り出し朽木に渡した。
それを受け取った朽木はじっとタオルを見つめた後、何かを疑うように俺を見てきた。
「後でこのタオルに染み込まれた私の汗……嗅ぐつもりですね?」
「考えすぎだ」
少し休んだ後、機嫌が治った朽木は意気揚々とピアノを弾き始めた。だが、その弾いている曲は滝ではなく、あの有名な曲だった。
「おい、なんで童謡の曲弾いてんだよ」
「とことことー」
朽木は俺の話を聞かず森のくまさんを歌い出した。
「おーい、聞こえてるのかー?」
もう一度聞くと、朽木は顔をこちらに向けギロリと睨んできた。
「なんですか? 変態……元い、いえ、間違っていませんね」
朽木の機嫌はまだ治っていなかったらしい。
「わ、悪かったよ、だから……」
「ふふっ、あはは」
「え?」
突然笑い出した朽木は戸惑っている俺を見て、
「もう怒ってないですから、そんなに困った顔しないでください」
と、からかうように微笑んだ。
これは、さっきの事は許してもらえたってことでいいのかな。
「ちょっと、いじわるでした?」
「まったくだよ」
「それじゃ、お互い様ということで、ご指導お願いしますね」
「ああ」
体格も精神年齢も子供だ、なんて思ってたけど、気まずさも残さない大人な対応をされた気がする。
少しの間感心していたが、ピアノを向く朽木を見てすぐに練習の方に頭を切り替えた。
「とりあえず弾いてくれ」
「了解です」
返事と共に結んでいた髪を勢いよくほどき、そのまま激しく頭を動かし髪を左首に引っ掛けた後、朽木は自信満々の顔で滝を弾きだした。
なんか、どこかで見たことのある動作だな。
無駄な動きをした後に勢いのまま弾きだす朽木に既視感を覚えるが、それが何かは思い出せ
なかった。
気になるが、今はそんな事よりこの雑な演奏が耳障りだ。
昨日言ったアドバイスを取り入れず、ペダルに足すら置いてない。勢いがありすぎて落ち着かない曲へ変わっていた。
演奏を止めるため俺が声をかけようとした時、
「よし、ここからが本番!」
朽木は鍵盤から手を離しそんなことを言った。
「練習中に本番も何もないだろ」
「さっきのはパフォーマンスの練習でしたから」
「は? 今の演奏が?」
「いえ、演奏前にしたじゃないですか」
ああ、あの無駄な動きのことか。少し気になってたんだよな。
「あの動きって朽木が考えたのか?」
聞くと朽木は首を横に振った。
「パクりました」
その対象となった人物を俺が聞く前に言葉を続けられ、
「憧れの人なんです。すごく美人で格好いい人で、ピアノが上手くて……」
ベラベラとその人について語っている朽木をよそに、俺はある一人の女性を思い出していた。
美人で格好よくてピアノが上手い。そしてあのパフォーマンス。
たぶん朽木の言っている人は、
「先輩より上手いんですよ? えっと、名前は……」
「神崎千鶴だろ」
「あ、そうです! よく知ってましたね」
「もういいだろ、この話は。パフォーマンスなんてくだらないことの前に練習だ、時間がないって分かってるだろ」
「わ、分かってますよ」
その後の練習中、神崎千鶴の姿が脳裏から離れることはなかった。
朽木の演奏に集中しようにもそれはできず、結局あまり進歩もなく今日の練習は終わってしまった。