「ただいま」
家に着き中に入ると、玄関に見慣れない茶色の皮靴が綺麗に並んでいた。
誰かお客さんでも来ているのか、リビングから母が誰かと話している声が聞こえてくる。
笑い声も聞こえてくるところ会話がはずむ相手なのだろうが、今の俺にそんな雰囲気はごめんだった。
このままリビングに行かず自分の部屋に行こうか……。
だが、晩飯もまだだった俺はそんな考えをしまいこみ、素直にリビングに入った。
「おかえりー」
母が俺に気づいた後、その横にいた客人もこちらを見てきた。
「あ、おかえり、巽」
客人というのは瞳だった。家に来ているのは小学生以来だな。
いや、俺も気づけよ。どう見たって玄関の靴は学生靴で瀬川家の知り合いでそんなの瞳しかいないだろうに。
「飯は?」
「あっ、と、今から作るね!」
母が慌てて立ち上がり台所へ向かうのを見て、思わずため息がこぼれる。
近くのソファに腰をかけて机の上にある父の読みかけであろう新聞を手に取った。
別に読みたくて取ったのではないが、晩飯ができるまで眠る気も起きないので暇つぶしにでもと思って目を通したものの、内容が頭に入ってこない。
そして、文字と行間が鍵盤に見えてきてしまい、俺は目を閉じた。
こんな感じ、前にもあったな。あの時は中学生で、国語の教科書がそう見えて思わず破り捨てた覚えがある。
ここ数年こんなことなかったのに、どう考えても朽木のせいだ。
新聞を机に置き自分の部屋に行こうとした時、
「弾いてもいい?」
俺はその声に驚き体が竦み上がった。
リビングに入った時は瞳の存在があったのに、飯が用意されていないことに少し苛立っただけで忘れてしまっていた。
いつの間にかピアノの前に座っていた瞳は既に鍵盤蓋を開け弾く構えをしている。
「ね、いい?」
「いいけど、俺は部屋に戻るよ」
瞳を一瞥してそう言い、そのままリビングを出ようとしたのだが、ドアのノブに乗せた右手を瞳に掴まれた。
「先週の木曜日、約束したよね?」
何か約束していただろうか。
「聴いてくれるって言ってたよ」
俺が思い出す前に瞳が答えを言った。
先週はピアノを弾いたことで少し浮かれていたそのせいで、そんな約束をしていたかもしれない。
聴こうか迷ったその事に、自分で驚く。ピアノはもううんざりだと思っていたのに、迷うなんて思わなかった。
「……分かった、聴くよ」
小さく息を吐いてから、俺はソファにもう一度腰を置いた。断ろうとも思ったが、今の俺が口を開けば毒を吐いてしまう気がするため、それはやめた。
「よく、聴いてなさいよ」
瞳は睨むような目つきでこちらを見てからピアノに向き直った。
瞳の演奏を聴くのは小学生最後のコンクール以来だ。聴くか迷ったが、どのくらい上手くなっているのか楽しみでもある。
だけど、瞳の演奏が始まってすぐに、楽しく聴く余裕なんてなくなっていた。
瞳はもう、俺よりも上手くなっていた。それが分かってしまい、演奏が進み続けるたびに心臓が細かく動き、俺を急かす。
思い切り跳ねていく音に思わず左手の小指だけがぴくりと動いた。
「瞳!」
俺が瞳を呼ぶと、瞳は肩を竦め、すぐに鍵盤から手を離してこちらに振り返った。
「な、なによ」
「俺と連弾してくれ」
俺は瞳の返事を聞く前に立ち上がりピアノの横に立つ。
「これからだったのに」
ため息を吐く瞳はそう言いながらも椅子から立ち上がって右側へずれた。
「私がこっちでいいんでしょ?」
前に俺と朽木の連弾を覚えていたのか言わなくても右に立ってくれた。
瞳は真剣な眼で俺を見てから右手だけゆっくりと鍵盤に置いた。
「子犬のワルツでいいか?」
それ以外は今弾く意味がない。
俺より上手くなってる瞳と連弾したらどうなるか、それが朽木との演奏よりもすごいものになるのか確かめたいんだ。
そして瞳は断ることなく頷いてくれた。
「弾くタイミングは瞳に任せるよ」
「うん」
瞳は少し手を上げてから手首にスナップをかけて弾き始め、それに遅れず俺も弾き始めた。
やはり、瞳は上手い。そう思わせる始まり方で、俺は合わせるので気持ちがいっぱいになってしまう。だが、音は重っているしペースも悪くない。
それだけなら、瞳一人で弾いた方がいい演奏になるだろう。
そう思った時、俺は鍵盤から手を離していた。
「ごめんね……」
なぜか瞳が落ち込んだ様子で謝ってくる。
「なんで謝るんだよ」
そう言うも、瞳は首を横に振った。
「私じゃ、巽の役に立てなかったよ」
瞳の表情とその言葉は俺の胸を締め付け、思わず瞳の顔から目を背けた。
瞳には分かっていたんだ、この連弾に何かを求められていたことが。だから途中で止まったことで自分のせいだと思っているんだ。
俺が黙りこくっていると、瞳はまた「ごめん」と呟き、ピアノ椅子に座った。
「最高の演奏って、どんなの?」
思わぬ問いに俺は顔を上げた。
「覚えてたのか」
「最高の演奏が弾きたい聴きたいって、神崎先生の演奏ですらそれじゃないって言ってたよね。私にはそれがどんな音でどんな空気か知らないけど、小学生の頃、巽の話を聞いてるだけで夢が広がってた」
瞳は懐かしむように微笑み、言葉を続ける。
「聴いてほしいって言ったのも巽よりも上手くなった自信もあったからで、それが最高の演奏だったらって思ったの。でも、違ったね」
否定できない俺は俯き唇を噛んだ。
「ご飯できたよー」
と、そこで母の呼ぶ声がして食卓の方に俺は振り返った。
「瞳ちゃんも食べてって、ね?」
「はい、いただきます」
「……瞳」
俺の横を通って食卓へ歩く瞳を呼び止めた。これだけは本心で言いたい。
「すごく上手かったよ」
「……うん、ありがとう、巽」
そんなやり取りをした後、一緒に食卓へついた。