すでに来ていた朽木はピアノ椅子に座って俺を待っていた。
だが、その顔は少しやつれており、あの後泣いたのか目元が赤くなっている。
俺はそれを冷めた気持ちで見ていた。
もう無理だろ。あの程度で泣くなら俺だって教えようがない。
お前も俺も向いてなかったんだよ、こんなこと。
何が最高の演奏だ。こいつにできるわけないだろ。
そう自己完結した時、脱力感が体を通してでてくような、そんな気分だった。
「えっと、とりあえず弾きますね」
朽木は鍵盤に手を置いて滝を弾く。
癖になっているその弾き方は、一言で言えば雑なモノ。
直す気はあるようで何度か試しているのは分かるが、そこで譜面のミスをしていては本末転倒だ。ミスを許さないのがコンクールなんだ。
なら今のまま弾かせるのがいいのか? 朽木が弾きやすいようにさせたほうがいいのか?
それは無理やり直そうとしている弾き方よりはまだましかもしれない。
一つの賭けみたいなものだ、これは。
この三日間でこの癖を直せれば予選は通れるレベルにはなれる。だけど、それができなかった場合は無理だ。ならはじめから三日間は癖のまま練習して予選に挑むか?
こんなことなら土日は癖の直しからやればよかったのに、二週間あると思い滝の譜面の練習に徹してしまった。
俺は一度深い溜息をついてから朽木の横に立った。
ほら、肘が浮いてるからワンテンポ遅れて速度が落ちた。
意識してても無意識に癖が出るんだよ。これなら癖のまま弾いた方がましだな。
予選は通れないだろうけど、試すだけ試すのはありかも。
「普通に弾けよ」
俺がそう言うと朽木は手を止め、恐る恐る俺の顔を見てくる。
「今までみたいに弾けって、な?」
「……でも、そしたら予選が??」
「いいから弾けよ!」
俺は怒鳴っていた。朽木が怯えるのも予想がついていたが、怒りは抑えられなかった。
できもしないくせにやろうとして、それで泣いたからそのままでいいって言ってるんだよ。
予選は確かに厳しくなる。だけどお前が泣いて俺の顔色なんて伺い始めたから、この方法でやるしかないんだ。
黙って頷いて言うとおりにすればいいんだよ、お前は。
「おい、聞いてんのかよ」
返事をしない朽木は俯き消え入るような声で泣きだした。
いちいち泣きやがって、本当に面倒くさいな。
「……ち、ひっ」
何か言っているが泣き声と混ざり上手く聞き取れない。
朽木は鼻をすすり上げ、目を擦りはじめた。
そして、もう何も言ってはこないただ泣くだけの朽木を、俺は荒んだ心で見ていた。
「もう諦めろ」
俺の言葉に朽木は反応しない。泣くので精一杯なのだろう。
それでも俺は続ける。
「あの演奏は奇跡だったんだ、その演奏に舞い上がってたんだよ、俺もお前も。それで勘違いして、こんなごっこ、やってしまった」
朽木は反抗も抵抗もしないで泣き続けるだけ。
これで最後だ。
「諦めるか、続けるか、選べよ」
何の権利があってそんなことを言うのか、自分でもおかしいと思う。だが、続けるなら俺はもう指導者を降りる。
「つ、づけ、……つづけます」
泣きながらの声でも、確かにそう聞こえた。
俺は諦めると言ってゆっくり教えられる事を心のどこかで期待していた。
だから、今こんなにも後悔してしまっている。
だけど腹は立ったし、イラつき怒鳴ってしまった俺に、このまま、朽木に教えることは無理だ。
俺は何も言わずに朽木の背を通り、音楽室を後にした。
練習をしたのは土日だけだったのに、ずいぶんと長くピアノに関わっていた気がする。
そのまま階段を下りている最中にピアノの音が聴こえてきた。
その演奏は雑で、例えるなら滝というよりも、大雨が傘を打ち立てるようなそんな感じ。本当に耳障りで落ち着かない。
何もなかった数年にこの一週間だけは充実していたと思う。それも朽木のおかげだ。本当に、それだけは。