金曜日の放課後。俺はすぐに児童公民館に向かった。 今日、調律してもらえているはずだから、弾けるはずだ。
やはりこの時間は子供が多く、唯一高校生である俺は目立ってしまっていた。
なんとなく居づらい雰囲気の中、事務室で竹内さんを呼んだ。
「あ、瀬川くん」
すぐに出てきた竹内さんは満面の笑みで手を振り近づいてくる。その様子から、調律も無事終わったと読み取る。
「もう弾けるよ! 完璧」
それを聞いて、よかった、と胸をなでおろす。
「朽木ちゃんは?」
朽木がいない事に疑問を持った竹内さんは首を傾げ、あっ、と口に手を当てた。喧嘩した事がわかったのだろうか。
「もしかして、別れちゃったの?」
そうではなく、的外れな答えが出た。
「俺たち付き合ってませんから」
「でも、一緒に来ていないのはどうして?」
そう問われ、俺は言葉を詰まらせた。
後から来ますから、と言えばよかったものの一度言葉が詰まってしまい、その後は何も言えなかった。竹内さんは不安そうな顔になり?をかく。
「先にピアノ、いいですか?」
俺は誤魔化すようにそう聞いた。
「うん、そうしよっか」
竹内さんと二階に行きピアノが置いてある部屋に入り、すぐにピアノ椅子に座った。鍵盤蓋を開け左鍵盤からなぞっていく。
良い音だ。調律がしっかりと施されている。
「弾くの?」
竹内さんに聞かれ、俺はすぐさま首を横に振った。
「いえ、俺は弾きません」
朽木、お前が来るまで俺は弾かないから。今弾くべきなのは朽木なんだから、早く来いよ。じゃないと、どんどん時間が過ぎていくだろ。
だが、俺がそう思ったところで、朽木がすぐに来ることはなかった。
竹内さんは仕事のため部屋から出て行き、一人残される。子供の騒いでいる声が遠くからするが、全く気にならなかった。
気がつけば、ここに着いてから十五分は経っている。まだ朽木は来ていない。
俺はため息をついてから上を向いて目を瞑った。その直後、廊下から声が聞こえてきた。
「わっ、走ったら危ないよ」
その声に俺は椅子を蹴るように立ち上がり、部屋の入り口の方を見た。小さい子供が誰かの手にひかれ立ち上がった後、俺の視界に朽木が入ってきた。
「あっ、先輩……」
俺を見て声を漏らした朽木は部屋に入ったところで足を止め、右手を自分の胸に持ってくる。
俺は明らかに朽木を前にして緊張している。なんて声をかけていいのか分からなくなってしまい、口を閉じたまま、朽木の目を見続けた。
黒く澄んだその目は俺の目を逸らさずに見てくれている。
初めて会った日も、こんなことがあったな。
「ふふっ」
すると、突然朽木が小さく笑い口を開いた。
「前にもありましたね、こんなこと」
そう言って朽木はゆっくりと俺に近づいてきて、目の前まで来たところで頭を下げてきた。
「もう一度、私に教えてくれませんか?」
なんで、お前が頭下げてんだよ。謝るのは俺の方なのに。それなのに、どうして、声が出ないんだ。
「……ち、が」
かろうじて出た声は何を言っているか自分でもわからないような声で、言いたい言葉がはっきりと出せなかった。
謝れよ、謝れ。いつまで緊張してんだ、俺は。
心の中では分かっているのに、頭の中では言いたいことも分かっているのに言葉にできない。
「コンクールのその先も弾きますから、今日からでもじっくり教えてください。やっぱり、先輩に教わりたいですから」
そんなことを言うのは、俺が目のことを知らないと思っているからなのだろう。もしかしたら今年で最後かもしれないのに。
俺が黙っていると、朽木は両手を拳にして無理して作り笑いを見せてくる。
「それに、来年なら本選もいけるかもしれませんよ? 私の才能と先輩の教えならあの演奏だって弾けるようになります」
「……ごめんな」
そう言葉が自然と出ていた。それに反応してか朽木の体が小さく震え、その小さな体を俺は抱きしめた。こうでもしないと、朽木が逃げ出さないか不安になってしまう。
「先輩……」
「もう、いいんだ、あの演奏は。俺が今望んでいるのはお前が弾くことなんだ」
朽木の手が俺の背中に回ったのがわかった。
「だから、もう一度、俺に教えさせて……ください」
俺の胸の中で小さく「はい」言った声が聞こえ、俺はゆっくりと朽木から離れた。 朽木の顔はほのかに赤くなって、俯いてしまっている。
「何、赤くなってるんだよ」
「ち、違います! 先輩の胸が暖かいのが悪いんですよ」
と、意味の分からないことを言った後、朽木は目を細めながら、
「元はと言えば、私を泣かせた先輩がいけないんですからね」
そう言われると、何も言い返せない。
「純情な私の心はひどく傷つきました」
「す、すみません」
そしてお互い見合ってから、同じタイミングで笑いあった。
笑い終えてから何か視線を感じ、入口の方を見たら、竹内さんが体半分覗かせこちらを見ていた。
「何を見せられていたの、私は」
冷静になって思い返すと、なんて恥ずかしい事をしていたんだろうと思う。さらにそれを見られていたのだ。穴があったら入りたい。
だが、そう思っているのは俺だけらしく、朽木は清々しいほどの笑顔になっていた。
「でも先輩? もう泣かせるような教え方はしないでくださいね、私って以外と泣き虫なんですから」
「ああ、分かってるよ」
俺は苦笑して頷き、ピアノの横に立った。朽木もすぐにピアノ椅子に座る。たった一日だけだったのに、この立ち位置が随分と懐かしく感じた。
「さ、練習しよう」
「はいっ」
それから閉館時間まで優しく、たまに文句も言い合いながら、コンクール最後の練習を終えた。
最後に滝をとおして演奏し聴いたが、やはり予選を通るには力が足りない。そのことを朽木に言ったほうがいいのだろうか。
「本当に二人って付き合ってないの?」
俺が悩んでいる中で、そんなことを竹内さんが朽木に聞いていた。
朽木は否定するように首を横に振るが、よく見ると顔が赤くなっている。それを見逃さなかった竹内さんが朽木の顔を両手で掴むように触った。
「可愛い?! 乙女よ乙女?!」
そう竹内さんは騒ぎ出し、朽木は動けず、俺はそれを見ているしかない状況になる。
だが、すぐに朽木の顔を離した竹内さんは今度は俺の方を向き、にったり笑って近づいてきた。なんだか母と少し似ているような。
「瀬川君はどうなのー?」
「何がですか」
「朽木ちゃんの事、どうなの」
本人の前で普通は聞かないと思うけど。朽木は朽木でこちらを横目で見てきているし。
「先輩!」
俺が口を開く前に朽木が俺の腕を掴んできた。
「もう帰りましょう、ね?」
「あ、おい」
そのまま引っ張られ部屋から出て、その際竹内さんにお辞儀をするとウインクがかえってきた。階段でも離さずにいたので俺は手すりを掴みながら朽木と下りた。
児童公民館を出ても離されなかったが、もう外も暗かったので振り払うことはしない。
「どうしたんだよ」
「な、なんでもないです」
いつもの帰り道は月が出ているのにも関わらず、いつもより薄暗く感じる。
「先輩は神崎千鶴さんが好きなんですよね」
「ん? ああ」
そういえば、そうだったな。なんか、最近は色々あってそんなこと忘れかけてた。
「神崎さん、素敵な人ですよね。ドレス姿なんて特に、羨ましいです……」
寂しげに言う朽木を見て、俺はある考えが生まれた。
「朽木、明日遅刻しないで来いよ、会場分かってるよな?」
「え、はい。大丈夫ですけど」
いつもの三叉路に着き、朽木は俺の腕を離した。
「じゃあな、明日頑張ろうな」
「はい」
そこで別れ、俺は家に帰らずそのまま瞳の家に向かった。
朽木、明日楽しみしてろよ。