「まだ、来ないか」
予選当日の土曜日、すでにホールに着いた俺は朽木が到着するのを外で待っていた。
参加者が通るこの扉の前で待っていれば会えるはずだが、朽木はなかなか来ない。時間にはまだ余裕があるからいいけど、あまり遅いと困る。
一度腕時計を見やり時間を確認していると、
「先輩」
と、近くから朽木の声がした。
顔を上げると制服姿の朽木が目の前に立っていた。
「お、来たか」
「その荷物は?」
朽木は俺が手に持っている袋を見ながら聞いてくる。俺はそれを朽木に渡し手に持たせた。
「更衣室で開けてくれ」
「え、これは?」
俺は得意げな顔で「秘密」と言い、続けて、
「何かあったら瞳に聞けば大丈夫だ」
そう伝え、首を傾げている朽木の肩を叩いた。
「思いっきり弾いてこい」
「……はい」
朽木が扉を開け中に入っていくのを見送ってから、俺は客席へと向かった。
やはり予選だからか観客は少なく、満員には至らなかった。
適当に空いている席に座り開演を待っていると、すぐに会場が暗くなり、予選が始まるアナウンスが流れた。すでに舞台ではセッティングがすまされ、アナウンスでエントリー番号と名前が呼ばれていた。
「一番、朽木響子」
呼ばれた後に現れたのは、俺が用意した真っ赤なドレスに身を包んだ朽木響子だった。
スポットライトが彼女を照らし、ドレスに光が灯った。
彼女はピアノの前で深いお辞儀を客席にしてから、ピアノ椅子に座る。ゆっくり鍵盤蓋を開けてから深呼吸をしたのがわかった。こっちにまで緊張が伝わってくる。
髪を左肩にかけてから一呼吸置き、彼女は勢いよく弾き始めた。
左手を弓のようにひき、右手は滑らかに動かしている。
序盤の勢いのまま弾き続る彼女は、一つ一つの動作に心を込めているかのように、怖いくらい集中していたが、その演奏を聴いてペンを止める審査員もいたし、小言を吐く観客もいた。
だけど、俺にはこの演奏が最高で素晴らしくて、思わず涙がこぼれるほどに、感動してしまった。
だが、演奏が終わった後の拍手は数人からだけだった。