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 夏の終わり、桜のワンルームは片付けの最中だった。まとめるという意味ではなく、全部処分するということ。何名か業者が来た後には、ついに何も残さず、空っぽの部屋になって、最後に小さい旅行用カバンしか残っていないごろ、印象のいい「最後」の業者は微笑みで桜に話しかけた。
「移民でしょうかね」
「あ……ま」
「いやーいいんですね。アメリカですか、実は俺も大人になったらアメリカに住みたかったんです。ほら、バリ島で、バーでもやってて、今はこんな仕事やっちゃっているけど」
 三十代のさばさばした感じの彼は豪華に笑いながら言った。でも、おじさん、バリ島はインドネシアですよ。桜はそうバカバカしいことを思いながら返事をした。
「あ……はい」
「羨ましいです」
 そのようなくだらないおしゃべりが何回か取り交わしたら、最後のボックスを持って処分業者が言った。
「以上になります。お疲れ様でした。」
「お疲れ様でした、ありがとうございます」
「最後にこっちにサインをお願いしてもよろしいでしょうか」
「あ、はい」
「では、全部終わりました。お金は後ほど事務所からご送金させていただきます、あ、それから」
「はい?」
「いい旅立ちにご運を」
「え?」
 桜が驚いて反射的に声を出してしまった。まるで自分の心を読まれたような彼の「旅立ち」という言葉には驚かないことができないため。
「はい?」
 彼は自分が何かおかしいことを言ったかとした顔をして桜をみた。たしか、彼が言った意味は「旅行」の意味のはず。桜がそれを気づいて返事するまえに、彼が言った。
「あ、そうですね、移民だから、ちょっと変でしたよね」
「あ、いいえ、ありがとうございます」
「では、失礼いたします」
 出しゃばる業者が行ってしまったら、本当に自分しかない実感がせまり来た。空っぽになった部屋は、そのような思いをさらに強く感じさせる。コンビニで買って来たおにぎりを食べた桜が、ちらっとスマホをいじって時間を確認しようとしたら……テーマで設定していた自分の元彼、野平正一の笑顔が目に入った。
 その写真を見たら、さすがに「死のう」と思った桜も溢れる涙を我慢できない。
「正一……」
 桜はスマホを抱いてから泣き声を出た。
 いつも自分が泣いていたら「どうしたい」と言ってくれる王子様はもういない。自分に諦めたから、飽き飽きしたから、頼りすぎて一人になった。そういうことを桜は知っている。

 ……

 何時に眠ったか覚えていないが、桜が目を覚めたら、既に朝になっていた。キャリーを枕にして涙痕にぐちゃぐちゃになっている。
「そろそろ出なきゃ」
 スマホは七時を示していたが、新幹線の時間は十時半。人生最後の旅に遅刻して乗れなかったって、笑ってはすまされない。簡単にシャワーをした後化粧が終わったら時間は八時四十五分になって、急いで家を出た。郵便箱に鍵を入れて、ついに「最後の旅」が始まる。
 九時の吉祥寺駅はまだ人いっぱいでけっこう混んでいた。キャリーをもって電車に乗ることから大変で、誤りばかりで電車を乗るしかない。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 周りから不愉快な視線で自分をみる人々に頭を下げて三十分、東京駅に到着した。日曜日の駅は、さして混んでいない。桜は簡単に精算をした後で十三ゲートに向かった。
 まだ三十分くらい余裕があって、朝から何も食べなかったことを気づいた桜は、適当に駅弁でも買ってみようかと思って弁当屋に行ってみたが多すぎて決まられない。
「ゆきちゃん、何たべたい?」
「私は、魚定食!しゅうくんは?」
「だね、したら俺はゆきと同じものだ」
「え、やだ~、おかず交換できないじゃん。私、プルゴギもたべたい」
「そ?したら、プルゴギで」
 丁度同じ年ぐらいのカップルが目に入った。腕を組んでいる二人は、とても幸せそうで、眩しいと感じられるほどだった。桜は自分がみすぼらしいと見えて、逃げるように去る。いつだったか自分と正一の様子とダブって見えて、知らず知らずのうちに涙が出てくる。
「やだな」
 桜は独り言を言いながらゲートに戻った。それから落居る頃には十時半になって、桜は新幹線に乗った。お弁当を買うのを忘れたことを気づいたのは、もはや出発の後。
 桜はそのまま目を閉じて 眠りを誘う。
 それから何時間が過ぎたか、
「まもなく、京都です。東北線……ありがとうございます」
 車内放送が流れ、目を覚めて何分か、京都駅に到着して降りる。何日前から台風とひどい雨が降ったそうだったが、今はぬか雨ぐらいで、それほどひどくはない。でもやんでいなかったので、傘を広げた。さらさら降る雨音は、不快というよりも、むしろ警戒に感じられる。桜は鼻歌を歌いながら駅前でタクシーを拾った。
「いらっしゃいませ。どこにいらっしゃいますか」
「五条駅前でお願いします」
「はいっ」
 運転手は、六十歳ほど見えるおじいさん。どこかだるい印象を与えた。
「お客様は旅行ですか」
 でも、五分ぐらい立って、運転手が桜に話しかけた。
「はい」
「独り旅ですか」
「あ、はい」
「偉いですね、女性一人で」
「あ、いいえ」
「でも、ちょっと悪い時期に来ましたね、あっちこっち台風の影響で行けないところがあるんです」
「あ……私もググるして見ました。伏見稲荷大社とか……」
 桜から最初にいい反応が出たと思った運転手が笑顔で返事をした
「そうなんです、嵐山の渡月橋は手すりが倒れました。竹林も竹が全部倒れて」
「酷いですね」
 運転手は台風を話題にしてわずかに言う際にホテルに着いた。

 チェックインをした後で来た部屋は、五階で、赤気味のある紫の壁紙が貼っているきれいな部屋だった。桜は日記帳を広げて、正一と京都に来た時のことを読みながら、メモ帳に行く先を転記した。その際に一つ一つ、去年の思い出が浮かび上がって、涙があふれ、目を覆う。そうしても、桜は手を止まらず、書き続けた。
「み……三日目は…「はしたて」で…海鮮丼」
 涙が落ちて、メモのインクがにじむ。それを桜が気づいたのは全部かきおえてからだった。
 窓外の空は暗くなってきて、軽くいじってスマホを見たら、七時を示していた。
 空腹感を感じる桜は顔を直してホテルを出た。目標は祇園四条の花見小路通り。記憶に頼って横町を歩いたら、懐かしい街燈が目に入った。和風で燈だけが大きなもの。横町の両方には様々な食堂が並んでいる。
 桜はそのまま道を進んで、祇園四条に着くと急に華やかな大通りが目の前に広がった。横断歩道を渡ると、最初の目的地、「松葉」が見えた。絶対泣かない、と思いながら入った最初の思い出の場所では、意外に涙が出なかった。自分が思っても不思議なことだった。くだらないことにも涙がでたのに、その時と同じにしんそばを食べているのに、全然涙はでていない。桜はしばし自分の涙が涸れたか悩めた。そばを食べ終えて花見小路を散歩しても同じだった。思い出の場所に来たら泣きすぎて変な目線で見られることまで心配したのに、夜道からは、桜がホテルに戻るまで涙が溢れることはなかった。

 二日目、朝に起きたら八時になっていた。今度はまだ何も思ってないのに、また涙が出始めた。驚くこともない。正一と別れてこの一ヶ月、日常のことだから。むしろ昨夜が変なことだったのだ。1時間ぐらい、気が落ち着いてから簡単にシャワーと化粧をした桜はホテルを出て伏見稲荷大社に向かった。
 雨が降っていて、人が少ないかと思ったが、月朝の伏見稲荷大社はげっこ混んでいた。神社では祭式の最中で、観光客たちが集まってその祭祀を見ていた。太鼓の響きを聞きながら中に進んで、おみくじを引く。「二十九……」
 独り言で言いながら巫女さんに行ってもらった紙を見ると、向大吉。死のうとする人がおみくじを引いたのに、大吉って、笑うこともない。神様も死ぬがよいと言うのか、確か自分には死ぬこと以外に道はない。と桜は思った。死んだらどの方法がいいのか、薬、首吊り、飛び降り、電車に飛び込み……何を考えてもつらいことばかりで、いつか誰かが「勇気のないものは自殺する勇気もない」と言ったことが思い浮かべる。正にその通りだった。でも死ぬ勇気がなくって、生きて行くというのは情けない。死んだら全部終わりなのに、何で自分は片付け旅行なんてしているのか、情けない。急に失笑が抜け出た。

 桜は魅惑されたように神社を出て、ホテルに向かった。
「決まったら、やらなきゃ」
 部屋に戻って、部屋を閉ざす。
 目を閉じて、心を閉ざす。
「最初からこうした方が良かった」
 それから、花は美しく散る。