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 私、小鷺心美(こさぎ ここみ)と小鷺祐介(ゆうすけ)は結婚式で一生を誓い合った。
 その日、目に映ったものすべては私にとって忘れられない時間となっている。
 今でも目を閉じれば、鮮明に思い出すことができる。隣には祐介がいて、会場に等間隔で置かれた純白のテーブルクロスには私と祐介の見知った顔ぶれが何十人も座っていた。
 あれから10日も経ったのだが、私と祐介の間では結婚式の時の話題が尽きない。
 祐介は新婚旅行先に向かう新幹線の中でも結婚式での思い出を語っていた。
 そんな祐介は旅行先の京都に着く前に眠っている。
 私は座りながらだと寝付けない体質なので祐介を起こさないようにメモ帳を眺めていた。メモ帳の中にはいろいろ想いで詰まっている。新しく何かを書こうと思っていた私はメモ帳を開き、空白のページを開く。
『8月23日木曜日。新婚旅行先の京都に向かう新幹線の中で祐介は寝ています。昨日友達と夜遅くまで飲んでいたから疲れているみたい。起こさずに祐介の寝顔を堪能するとします。落書きでもしてやろうかな。気付かれた時、怒られるのは目に見えているのでやめとこうと思い、悩んだ挙句、顔に落書きしてやりました。季節外れなのは承知で鼻の頂点を赤いマーカーで塗りつぶしました。しかし、何か物足りない気がしました。そして赤いマーカーを思うがままに振るい……』
 私は自分が行ったことを素直にメモ帳に書いた。
「どうしよう。取り返しのつかないことになっちゃった……」
 祐介の顔は真っ赤に染まり、天狗のような顔になっている。とりあえずスマホを取り出し、写真を撮った後、私はこの落書きをどう消そうか悩みこむ。祐介の顔をじっと見て、考えるが解決法が出てこない。祐介の隣の座席であたふたしていると祐介が目を覚まし、じっと祐介を見つめる私を不思議そうな顔で見つめ返してくる。
「どうかしたか?」
「どうもしてないよ」
 真っ赤な顔の祐介はいたずらに気付いていないようで笑みを浮かべている。
「そうか。ちょっとトイレに行ってくる」
「いってらっしゃい」
 祐介がトイレに行ったことを確認すると私は大きなため息をつく。安堵から吐くため息なのだろうけど、なぜか嫌な予感がした。罪悪感がそうさせているのかもしれない。しかし、時折第六感というものは計り知れない力を発揮する。
 祐介が落書きに気付いたとして怒られることは確定だ。トイレには鏡があるので祐介は顔の落書きについて絶対に気付く。それは予想の範疇だが、それでも嫌な予感は拭えない。
 正体の分からない恐怖と戦っている間に祐介がトイレから帰ってくる。
 祐介は満面の笑みを浮かべた。
 前と変わらず真っ赤な顔のままで自分の顔が今どんな惨状なのか気付いていないように見える。目を擦ったり、頬を触ったりすれば手に赤いマーカーがついて気付かれてしまうのだが、幸い顔を触っていないようで後のことが心配になる。
 祐介が自分の顔がどうなっているかを気付くのは時間の問題だ。私から自白することが怒りを抑える良い方法だと思う。
 言い出すタイミングを探していると、祐介はスマホを取り出し、私の顔を見た。
「心美。スマホの充電がなくなったから充電器貸して」
「いいよ。モバイルバッテリーでいい?」
「おっけ。それでいいよ」
 私は鞄の中からモバイルバッテリーを取り出し、祐介に渡す。カバンの中には先ほど落書きに使った赤いマーカーが入っていた。
 その時は何気なく目に入ったものだったが、私はあることに気付いてしまった。
『水性ペン』
 この状況を不味いと私が感じるまで、そう時間はかからなかった。水性ペンは油性ペンに比べて非常に落ちにくい。高校生の時、家庭科の先生が言っていた言葉を思い出し、私の体は凍り付いた。
 慌てた私は祐介の現状を祐介に伝えるべくちょっとした作戦を考えていた。しかし、焦っている時こそ、いい案は出てこない。
 路頭に迷い悩んでいると、祐介は私が悩んでいることに気付き優しく
「考え事なら力になれるぞ」
 と言って私を励まそうとする。
 そう言われると隠し事をしているようでいたたまれない気持ちになった。
「あのね……。祐介の顔に落書きをしちゃいまして。祐介の顔はお酒を飲み過ぎて顔を真っ赤にした人みたいになってます」
「あはは。なんだ、そんなことか。落とせばいいじゃないか」
「それがですね……」
 水性ペンだったということ、隠し通そうとしたこと、面白がって嬉々として落書きをしたこと、すべてを余すことなく伝えた。
 案の定。祐介は烈火の如く怒り、赤い顔がさらに赤くなる。この座席からトイレまでの道のり、この顔で平然と歩いていたことに気付いた祐介はいつも以上に怒っていた。
 そんな波乱万丈な新婚旅行一日目は顔の汚れを落とすことに注がれることとなった。

 

 

 新幹線から降りて、三時間も経った頃だ。私たちはホテルのダブルベットでお互いに背を向けていた。今も『水性ペン赤っ恥事件(今付けた)』を引きずっているようで祐介の怒りの熱が収まらない。
 祐介は京都で行きたいところがたくさんあったらしく、回る予定を組んでいたみたいで、散々怒られた。
 祐介の怒りが収まると、ホテルから駅を経由する必要のない京都御苑というところに散歩がてらに立ち寄ることになった。
 歩いて5分程度のところにある京都御苑は京都御所、仙洞御所を囲むひ広々とした公園で江戸時代には国の偉い人たちの邸宅になっていた場所らしい。明治時代になって、その偉い人たちが東京に移ったことによって広い空間が空き、今では公園になっている場所だと祐介は私に教えてくれた。人が歩く道がとても広く、長くまっすぐな道が続いている。その遠近感が清々しいほどに綺麗で祐介とともに見入りながら歩いていた。
 その間私たちの間での会話はなかった。別に怒っているとかそういうわけではない。
 この沈黙こそが私たちの共にいる意味だと思っているから。
 私が祐介と結婚した理由の一つはこの沈黙にある。
 『沈黙すらも心地よい、そう思える人が傍にいてくれると幸せ』
 祐介にはそんな恥ずかしいことは言っていないが、祐介は私が今まで出会った人の中で唯一、沈黙すらも心地よいと思う人だ。
 幼少期の頃から祐介といるが、今までそれが普通だと思っていた私がそれに気付けたのは祐介とまっすぐに向き合った時だったのを覚えている。高校二年生の時、祐介が私に「好きだ」と告白してきた。その時は祐介以外の人に恋をしていて、その告白を私は受け入れなかった。
 でも、今では私の心の中心にはいつも祐介がいる。私は高校生の頃、好きだった人ではなく、祐介と今を過ごし、幸せを確信している。
「祐介。大好き」
「急にどうした?」
 隣を歩く祐介は少し驚いたようにこちらに目を向ける。
「言いたくなっちゃって」
「心美の口からその言葉が出てくると思ってなかったよ」
「失礼な」
「普段は自分の気持ちを喋ろうとしないから珍しいと思ってな」
「そう?」
「そうだよ。心美の口から大好きなんて、滅多に聞けないからな」
「だって、言い過ぎたら大好きって言葉の価値が下がっちゃうじゃない」
「俺は毎日言っているが価値は下がっってるのか?」
「言葉の原価一円分くらいは下がり続けてる」
「何の単位だよ……」
 そんな他愛のない話から会話は盛り上がる。新婚だからできる会話なんだと考えながら、それを悲しいなんて思わないように。今を目一杯楽しむ。
 新婚旅行一日目は幸せのまま夜を迎え、朝になった。