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 それは突然だった。
 誰もが予想しなかった。
 一五〇〇〇人以上の命を奪った災害。

 東日本大震災。

 今から七年前、二〇一一年、三月十一日。当時わたしは九歳だった。小学校は保護者会で生徒のほとんどが帰宅していた。わたしも友だちとの約束があり自宅にいた。
 インターホンが鳴り、友だちを家へ招き入れた直後だった。
 開けっ放しだったベランダから聞こえる声がかなり騒がしいものになった。
「なに? 」
 途端に部屋が揺れた。リビングにいたわたしと友だちは急いでダイニングテーブルの下へ潜り込んだ。少し揺れが強い。その時はそう思っていた。
 ――ドンッ
 大きな音とともに揺れは激しさを増す。食器棚が揺れて食器がカタカタと鳴った。中の食器が一枚また一枚と床へ抛られ鋭い音を立てた。テレビの横にあった金魚の水槽は辺りに水をまき散らしている。それを目にした瞬間に悟った。
 ここで死ぬ、と。
「夢真(ゆま)ちゃん大丈夫? 」
 震えた声で尋ねてきた友だちは不安そうな顔をしていた。
「泣かないで、今ニュースつけるから」
 泣いてる? わたし、泣いてる?
 頬に触れると確かに濡れていた。友だちは小学生ではまだ珍しい携帯電話を持っていて、インターネットにつなげてニュースを映した。地震速報をみたいところだが、どこも揺れの対処におわれていて何を報道しているのか小学生のわたしには理解できなかった。
 大きな揺れが徐々に治まってもしばらくの間、地震は続いた。
 玄関扉をノックする音がして「さくらぁー、夢真ちゃーん」と女の人の叫ぶ声がした。すぐに友だちが「お母さん」と言ってテーブルから出ていった。わたしも後を追って玄関扉を開けると友だちのお母さんがいた。
「すぐ逃げるよ」
 友だちのお母さんに連れられてわたしは自宅を後にした。
 団地からはいろんな人が慌てて避難していくのが見えた。
 避難先はわたしと友だちが通う小学校。校庭には放課後遊びをしていた生徒たち、保護者会に参加していた保護者と教職員たち、地域の人が集まっていた。校庭の中央に固まっておりわたしたちはクラスメイトにも会った。
 ところどころから聞こえる「揺れやばくない? 」「こんな強いの初めてなんだけど」と驚く声。相反して「ちょっと楽しかった」「また揺れないかな」と状況を理解しきれていないものと様々だった。でも、今のわたしにはそれは雑音でしかなかった。避難しても尚震え続ける手、力が入らない足、冷汗で背中は濡れていた。わたしを襲った焦燥感の原因はいまだ判明していない家族の安否だった。わたしのいたところは避難できるくらいの揺れで済んだ。皿が数枚割れて水槽の水がこぼれるくらいのもので済んだ。だけど、お父さんは? お母さんは?
 二人とも共働きで仕事が忙しく今日の保護者会には参加していない。お母さんが勤める会社はここから電車で一時間かかる場所にある。お父さんは出張で一昨日から仙台だ。

 

 

 わたしはお母さんが帰宅するまで友だちの家で過ごすことになった。家の中を片付けないといけないからと一人で帰ろうとしたところ、余震が続いているからダメと友だちのお母さんに言われた。私が住んでいる地域は比較的被害も軽くて数時間経った夕方頃にはみんないつも通りの状態に戻っていた。
 お母さんとは電話がつながらず、連絡できないでいた。それはお父さんも同じでテレビのニュースを見たとき私は愕然とした。
『――東北を中心に大きな被害が出ており』
 わたしがいた地域は震度六弱だった。それでもかなり揺れた。それなのに宮城県は震度七。仙台って宮城県だよね……?
 震度七を観測したのは宮城県栗原市。仙台市内でも震度六強の地域があった。地震が起こった時、お父さんがどこにいたのか分からないけど少なくとも震度六以上の揺れを感じていたことは確かだ。
 連絡が取れない以上不安は募るばかりだった。同じ東京にいるお母さんですら連絡が取れないのだ。わたしはこの世でたった一人取り残された。そんな不安と恐怖で頭の中は簡単に支配されていた。
 お母さんと連絡がついたのは夜の二十二時頃だった。揺れが治まった後、急いで帰宅しようとしたのだが電車が止まっていて携帯電話もつながらない。タクシーも考えたが渋滞なのはすぐに分かった。お母さんは電車が動き出すのをずっと待っていたらしい。電車を降りたときにやっと携帯電話がつながった。家にかけても留守電で友だちの家へと電話したのだと。
 お母さんと家に帰った後にそう教えてくれた。
「ほんとにごめんね、すぐに帰れなくて」
 お母さんは何度も謝ってきた。
「大丈夫だよ」
 そう答えるしかなかった。
 わたしを安心させようとお母さんが無理して笑っているのが分かったから。お母さんもきっとニュースを観たんだ。携帯電話で観られるらしいし。わたしが不安なようにお母さんもお父さんのことが心配でたまらないんだ。
 だけど、数日経ってもお父さんとは連絡がつかなかった。お父さんの会社へ連絡したら、会社側も普及作業と同時進行で連絡を取っているらしくまだ安否は確認できていないとのことだった。お父さんの他にも出張で東北へ出向いている社員はかなりいるようだ。
 半月過ぎて春休みに入った。
 お父さんが出張から帰ってくるのは三月十三日だった。帰宅が遅れるのは仕方がなかった。その後のニュースで被災者への配偶や普及進捗などの報道がほとんどだった。負傷者の救済処置がメインで進展はなかった。でも、恐ろしい災害は終わっていなかったことにわたしたちが気づくのはそう遠くなかった。
 ニュース速報で流れたのは津波被害。三月十一日、大地震に続いて被災地を襲ったのは大津波だった。地震で避難したのに避難場所ごと津波に飲みこまれたところはたくさんある。公共施設も家も学校も全てを流してしまった。
 津波が起こってから行方不明者は爆発的に増えた。
 災害から半月経った今、行方不明になっていた人たちが死体で発見されている。
 そしてその知らせは我が家にも訪れた。
 
『株式会社日の高プロダクション、人事部の高田です』
 お母さんの表情が変わった。
 お父さんの会社からだ。
「――そうですか。…………はい、わかりました」
 数分の間、お母さんは受話器の向こう側の人と話していた。
 通話が切れる音がした。でも、お母さんは受話器を持ったまま立ち尽くしている。
「お母さん」
 お母さんは泣いていた。もう分かった。全部、なにもかも。
 お母さんは何も言わずにわたしを抱きしめた。

 

 

 お父さんの葬儀が終わった後でお母さんは教えてくれた。
 お父さんは無事に避難所に避難していた。そこは津波が来ても安全な高地だった。しかし、迫りくる津波を見て何人かの人が自宅に戻ると言い出した。「愛犬を置いてきてしまった」「旦那の形見だけはなくすわけにはいかない」その人たちを追いかけて津波が来るまでに避難させようとしたらしい。みんなお年寄りばかりで足腰が弱い。それを気遣っての行動だった。結果、誰一人として助からずお父さんを含めた数名は津波にのまれた。
 お母さんもわたしも何も言えなかった。本当なら助かっていたはずのお父さん。いっしょに犠牲になったお年寄りの遺族に何度も何度も頭を下げられて、中には泣いて土下座する人や慰謝料としてお金を支払う人もいた。そんなことをされてもお父さんは帰ってこない。
 春休みには家族で旅行をするはずだった。共働きの両親がやっと二人そろって休みが取れたのだ。お父さんと約束した計画だった。それを全て奪われたのだ。