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 激しい雨音が、大事な言葉をかき消した。
 今、彼女が言ったことは、絶対に聞き逃してはいけないことなのに。

 

「ねぇ、これ食べる?」
 年の離れた妹が、先ほど配給された菓子パンを私に差し出す。
「ありがとう」
 普段は、菓子パンなんて食べないけれど、今はこの菓子パンだけが、私たちの食料だ。
「ハンバーグが食べたいなぁ、わたし。お姉ちゃんは何が食べたい?」
「こんなところでそんな、お腹が空く話はしたくない」
 湿った食う子が充満した体育館で、明るく話すのは、この私の妹ぐらいだった。大体は、私のように死んだ目をしていた。
「お姉ちゃんってさ」
 菓子パンを食べ終えた妹は、袋を乱暴に丸めて立ち上がった。
「つまらないよね」
 妹はいつも、私のことをつまらないと言う。
「冷めてるし。そんなんだからフラれるんだよー」
 妹がまた同じことを言った。これもいつも言うことだ。よく飽きもせず、同じことを言うもんだなと、私はいつもため息を漏らす。
 大体、フラれたことは今関係ない。別にいつも言われたくないけど。
 こんな暗い体育館で過去の恋愛のことを持ち出すなんて、本当に憎たらしい。

 今朝方、大きな地震があった。父と母が一階の寝室で寝ていて、妹と私は二階の、それぞれの部屋にいた。妹は何をしていたかわからないけど、私はまだ寝ていなくて、小説を読んでいた。主人公とヒロインが長年の両片思いを諦め、お互い別の人と付き合い始めたところで、部屋が揺れた。最初は、小さな揺れだったからすぐ止まるだろうと、ヒロインがひとりで流す涙に、もらい泣きしていると、その揺れは止まるどころか、大きくなり恐怖で叫んでしまうほどになった。
 本を閉じ、部屋から出ると、隣の部屋から妹が出てきた。
「お姉ちゃん! これ、やばいよ!」
「とりあえず、下降りよう」
 一階から、お母さんが私と妹の名前を叫んでいる。
「まだ少し揺れてるから、気を付けておりてきなさい」
 いつも冷静沈着なお父さんの声から、焦りと不安がにじみ出てきた。
 揺れが収まった頃、私と妹は手を繋いで階段を下りた。部屋を出てきた時から妹は、私にくっついている。喧嘩ばかりの私たちだけど、今はそんなことを言ってられない。私は妹の手を強く握った。
 一階に降りると、棚にあった皿や容器は床に散らばっていて、ガラスの破片があちらこちらにあった。
 大事なもの、といっても携帯や通帳だけをもって近くの小学校の体育館に歩いて行った。道中、泣き叫んでいる人や私たち姉妹のようにいつもは仲が悪い人たちも協力し合ったり、手を繋いだり腕を掴んで歩いたりしていた。
 その光景は妙で、大変のことが怒っているのだなと、どこか他人事のように思った。

 お腹が鳴った。私の音かもしれないし、すぐそばにいる他人の音かもしれない。体育館の床が冷たくて、お尻からだんだんと私の体が全部冷たくなっていく。止めようがない、ただ冷たくなっていくなぁと、どこか呆れて、バスケットボールのゴールを見つめる。 
 不謹慎かもしれないけれど、中学校で好きだったクラスメイトを思い出した。背が高くてバスケの時、活躍していた男の子。正確にはバスケの時にだけ、活躍していた男の子。普段は地味で暗くて誰も近づかないような子だった。声も小さくて、冴えなかった。
 それでも、バスケの時は、その長身を生かして次から次へと点を入れた。女子はそのたびに、黄色い歓声を上げた。かっこいいかもとか、好きかもと。でもそれは体育館でだけで、廊下を歩き、教室に帰ってきたころには、やっぱ無理と、すごく勝手なことを言っていた。
 私はそんな女子たちを見て、こいつらはばかばかしい、軽い好きしか言えないのだと軽蔑した。
 私は、教室にいるときもバスケをしている時も好きだった。どちらかといえば、教室で頬杖をついて窓の外を見ている格好が好きで、あ、バスケ出来るんだってぐらいのものだった。
「お姉ちゃん」
 ボールを綺麗にシュートした佐々木君を思い出していると、妹がぶっきらぼうに私を呼んだ。
「あっちで、豚汁もらえる。もらってきたら?」
 妹の手には、白い器があった。そこからは湯気がたっていて、お腹が鳴ったのが分かった。さっきのお腹の音はやっぱり私の音だったのかもと思った。
 体育館の外に出ると、行列があった。私もそこに並ぶとまた妙な気分になった。地震があってから、全部がはじめての経験で、どこか気持ち悪かった。豚汁をもらうために列に並んでいる自分も、私の前に並ぶおばさんも、豚汁をもらって、おいしい温まると嬉しそうに飲んでいる子供たちも、妙に見えて、なんだか怖くて、逃げ出したかった。
 意識はきっとあるんだけど、でも頭は回っていなくて、私がどこにいてなにをしているか、分かっているけど、わからない、という不思議な感覚だった。
 掌に豚汁の熱が伝わって、そこからゆっくり微かに、体中に温度がつたっていく。私、生きているんだななんて、らしくないことを思った。