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『おかし』、と言う合言葉がある。『押さない』、『駆けない』、『喋らない』、この三つの頭文字を取って付けられた言葉だ。これは主に建物内に居る時、地震や火災が起きた場合の避難時に使われる。これを徹底することで、避難をする速度が格段に上がるらしい。
 よく学校の避難訓練でやったと思うが、徹底する奴など、余りいないだろう。それこそ行う人は、よっぽどの優等生か、先生方辺りか。
 実際に災害が起こった時、人は一種のパニックに陥る。その所為で上手く思考が働かず、いざという時に、約束事など抜け落ちてしまうものだ。
 大地震が起こったあの忘れられない時間、合言葉など人々の頭の中から消え去っていた。建物が揺れ、大地が割け、誰もが恐怖したあの日、人々は言葉を失った。
 悲鳴を上げるのも忘れ、自分の身を守るのに精一杯だった時の中で、人々は目にした。

 大地の中から、新たな世界が姿を現したのだ。

 割れ目から見えた土地は、緑の草原に包まれ、コンクリートの下から出て来たとは、絶対に思えない、あり得ない光景だった。なぜ、今まであの存在が認識できなかったのか、不思議でしょうがなかった。
 しかし、これは現実で起こっていること、ファンタジーのような事態であるが、フィクションではないのだ。
 二〇XX年二月二九日、その日、人類は、幻を目にした――

 午前十一時四十二分、それが起こったのは、歴史の授業中だった。
「はい、この時代のことは、テストに出すから、ちゃんとノートに写しておけよ」
 テストに出るということで、自分のノートに、黒板に書かれた内容を記す。歴史など、重要な言葉や、その時代に起きた出来事を丸暗記すれば、そこそこ良い点数を取れるので単純だ。数学みたいに計算して答えを出すような手間がない分、楽でいい。
「なあ道治、書き忘れたとこがあるから写さしてくんね?」
 そう提案してきたのは、同じクラスの男子、木下修だ。去年も同じクラスだったのだが、高校二年になってもクラスメートになった。仲が良かったから一緒で安心したが。
「後にしろよ。まだ書き写してんだから」
「ちぇ、じゃあ後で見せてくれよ」
 まだ授業中なので、小声で会話をする。目立ちたくないのと、自分の所為で授業がストップしてしまうのは御免だ。
 シャーペンとボールペンを使い分け、大事な部分は赤文字など、見直す時に解り易くさせておく、こうする事により、テスト勉強を行う時に、テストに出るポイントを覚えやすくするのだ。
「やべ、間違えた」
 新しく書き直そうと思い、机の上に置いてある、消しゴムを取ろうした時だった。
「ん……?」
 手に取ろうとした消しゴムが、急に小さく揺れ始めたのだ。
 なぜ動いたのか、止まった手を再び動かそうとした、次の瞬間――
『数秒後、地震が来ます。学校内にいる生徒は机の下に、学校外にいる生徒は、その場にしゃがんでください』
 けたたましいサイレンと共に、機械特有の高い女性の声が教室に響き渡った。
 いきなりの事に、この場にいる全員の思考が、追い付いていなかった。
「早く机の下に潜って!」
 先生の切羽詰まった声で、ようやく我に返る。急いで机の下に入ったその時だった。
 ガタガタと窓ガラスが音を出し、学校が倒れてしまうのではないかと思う程、今まで感じた事がない大きな揺れだった。
(うおっ! これやべぇ!)
 机の脚を必死に掴む。今手放せば死ぬ、その恐怖が頭の中を支配していた。教室の中は悲鳴で包まれており、正に阿鼻叫喚となっていた。
 机の上に広げていた教科書やノート、筆箱が床に落ちる。たったそれだけなのに、死という概念が、明確に感じ取れた。
 自分が死ぬなんて、今まで考えたことがなかった。しかし、それが今、自分の目の前に迫っている。
 感じたことのない感覚に、思わず吐き気がした。未だに揺れは収まらず、更に気分を悪くさせる。
 ガシャンっと何かが割れる音がした。音がした方に目を向ければ、ガラスが床に散らばっていた。どうやら、窓ガラスが割れたのだろう。しかも、割れたのはどの学校でもよくつかわれる強化ガラスだ。衝撃に強く、割れないように作られているはずの物が、あっけなく壊れる様は、この場にいる者たちの不安を大いに煽った。
(こんな死に方するなんて、思わなかったな……)
 生きる気力が湧かなかった。災害に直面すると、人はこんなにも諦めやすくなるものなのか。俺がまだ幼稚なら、きっと泣き叫んでいただろう。だが、そんなことはできなかった。プライドとかそういうものではなく、そんな余裕を与えるなど許さないといった、揺れの追撃が襲う。
 もうどうでも良くなっていたのだ。だから、皆が必死になって身を守っている中、机の下から抜け出して、人生最後の外の景色を楽しもうとした。
 目を疑った。
 揺れの影響で、ゴミが目の中に入ってしまったのかと思い擦ってみたが、どうやら違うらしい。
 なら、眼前に映っている光景はなんだ。
 山の中に造られた学校の窓からは、街の景色がよく見渡せた。しかし、今見えているのは、自分がよく通る商店街でも、最近になって建てられたショッピングモールでもない。
 大地震の影響で大きな亀裂が入った街は、無残な姿になっているが、そんなのは気にならなかった。
 巨大な割れ目から見えたのは、誰が見ても美しいと捉える大草原。木の一本もあらず、唯々、緑が広がっているだけの大地。
 僕は見た。マボロシの大地を――