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 冬の寒さもピークを迎えた一月末ごろ。冬休みが明け、近くには学年末考査が控えている。
 年末年始で浮かれていた学生も、この時ばかりは真面目に取り組むもので、その辺りはさすが、自称進学校の生徒たちと言うべきか。
 それで私、紗倉千佳が休日をどのように過ごしていたかと言うと、基本的にベッドに寝転がっていた。
 人間である以上教科の得意不得意はあるが、進級に関わるほど致命的なものではない。総合順位に興味は無いし、成績優秀者にのみ権利の与えられる推薦受験を狙っているわけでもない。私の考えうる限りのキャパシティで対応できるのは、日々の授業をしっかり受けることぐらいだ。
 それに休養をとるのも大事な職務の一つだろうと、休養をとるほど働いたわけでもなかろうに、ただひたすらベッドに横たわるのみであった。
 天井を見つめる。部屋の明かりは点いておらず、今日の天気は曇り。自室は薄暗い空間だった。ひんやりとした空気が流れるこの部屋は、なんだか妙に心地良く、目を瞑るとすぐに微睡んでしまう。
 ハッと目を覚ましたのは、私の枕元に置かれていたスマートフォンに通知が送られてきたからだ。耳元で突然に鳴るバイブレーションの音は、なかなか心臓に悪い。
 通知を見ると、相手はかの悪友、霧野友代からのメッセージであった。
『明日ヒマ?』
「お前の返答次第で明日の予定は変わる」
『行きたい場所があるんだけど』
「行けば?」
『冷たっ』
 その後もやりとりを続けたが、結論から言うと彼女は勉強会をしたいらしい。私は特別必要としていないが、霧野の方は例年通り行けば成績は下位層に入る。
 本人に改善の意思があるなら良いだろうと、重い腰を上げ付き合うことにした。場所は二人の家から程近い、区立図書館だ。
 
 
 図書館の入り口前で、彼女は待ち構えていた。ブレザー姿にマフラーを巻き、そこに長い髪を収納している。私はと言うと、学生であることを主張するべきか分からなかったので普通にコートを着てきた。できる限りの防寒はしたが、しかしどうしても外の寒気は苦手だ。
 霧野は手元のスマートフォンを眺めていたが、私に気づくとポケットにしまい、手を振って挨拶した。
「遅かったじゃん」
「お前が早いんだよ」
 時計は、待ち合わせ時間の五分前を指していた。
 
 図書館の中は、当たり前だが静かである。
 一階にはキッズ向けコーナーがあるため、はしゃぐ子どもたちが何人かいたが、霧野の求めている学生用フリースペースは三階だ。幸いにも席は余っており、難なく確保できた。
 席につくとお互い鞄から筆箱とノートを取り出し、霧野はもう一つ持っていたリュックから山積みの教科書類を取り出した。
「さ、よりどりみどり。何でも持ってけ!」
「お前のために来てんだから早くしろ」
「はい……」
 人に教えるのを得意としているわけでもないのだが、今日の彼女の講師は、私が務める。
 
 何度か定刻を知らせるチャイムが鳴った。ふと時計に目を向けると、長針は一時を指している。
 霧野も休憩にするは頃合いと見たのか、自ら切り出してきた。
「トイレ行ってきていい?」
「この問題解いたらね」
「非道い! ペットボトルで言うならもうキャップ開けた状態だよ私!」
 まだそれなりに余裕がありそうだが。しかし私も鬼では無いので、ここは大目に見てやることにした。
 トイレは一階エントランスか、四階のイベントスペースの二箇所がある。ここからなら四階が近い。それを伝えると、霧野は猛ダッシュで階段を駆け上がっていった。三階入口のカウンターにいる司書さんは、ドタバタと足音のうるさい霧野を白い目で見ていた。
 霧野がトイレに立って数分。わざわざ一人で勉強する意味も無いのでスマートフォンを開いていた時に、それは起こった。
 初めは勘違いかと思ったが、そうではなかった。
 微細な縦揺れから始まり、次に机がガタガタと音を立てて揺れ始める。「まずい」と思ったのはそこからだ。
 咄嗟に鞄を手に取り、机の下に潜り込む。鞄で頭を守るようにしながら、揺れに耐えるために机の脚をぐっと掴む。日本では日頃から地震がよく起きるが、こんなに大きいのは久々かもしれない。机下から覗くと、本棚から本が乱雑に落ちていくのも見えた。
 三分、いや五分? 揺れが落ち着いたのはそれぐらい経ってからだ。まだ若干揺れの感覚が残っている。隠れていた職員も姿を現し、状況の確認をしている。
 ――そういえば、霧野は無事だろうか。トイレに篭っているとなれば、色々な意味で無事ではないだろう。
 彼女を探しに席を立とうとすると、今度は室内にアラームが鳴り響いた。
『火事です。火事です。火災が発生しています』
 できれば聞きたくない言葉が伝えられた。一階にある、職員用の給湯室かららしい。
 一階で火災が起きたということは、階段は使えない。ひとまず最低限必要な荷物を抱え、職員の指示に従う。
「救助袋を使います。一人ずつ順番に降りてください」
 そう言うと、職員は室内に置かれていた避難器具入れを展開、既に外へ避難していた職員と連携を取り、手際良く避難の準備が整った。
(確かこれ、小学校辺りで一回やったな……)
 霧野のことを心配しつつも、そんなことを考えていた。
 私が外へ出た時には、既に消防車が到着していた。
 火は屋外からは分かりづらく、またそれなりに燃え広がっているようだ。二階か三階か……。消防員は、図書館の職員と連絡を取り合っている。
「避難は、これで全員ですか?」
「各階の職員から報告を待ってますが……恐らくは」
 職員はそう言うが、辺りを見回しても霧野の姿が見当たらない。彼女は四階に行っているはず。今ここにいる避難者がそれぞれどの階にいたのかは分からないが、伝えなければ。
「あ、あの……」
「はい、何でしょうか?」
「友達が一人、見当たらないんです。四階に行ったきりで……」
 人見知りっぽくしている場合じゃないだろうに。心の中で自分を殴りながら、消防員にそう伝えた。
「分かりました、すぐ救助に向かいます。ここで待っていてください」
「は、はい」
 テレビなどでその活躍ぶりは散々目にしているが、実際こういった状況に出くわすと本当に頼もしいのだから不思議だ。
 消防員は他の隊員たちに連絡し、何人かが図書館内へ向かっていった。
 しばらくして、霧野が救急隊員に背負われて外へ出てきた。すぐさま彼女の下へ駆け寄り、声をかける。
 だが、眠っているのか気を失っているのか、彼女が反応する様子は無い。
「あ、あの、彼女は」
「ご友人の方ですか? でしたら、救急車に同乗をお願いします。念の為検査をしますので」
「あぁ、はい……」
 検査、というのはたぶん煙などを吸っていないかなどの診断だろう。下手すれば命に関わるかもしれない。それにしても、まさかこんなところで、人生初の救急車に乗ることになるとは思わなかった。
 
 
 時刻は四時を周り、窓から覗く夕焼けは美しい。
 検査の結果、命に別条は無いらしく、即日退院となった。病院の方から彼女の両親へ連絡がされたが、私がついてやってほしいとのことだった。
「いやー、にしても急に来たからびっくりだよ」
 ブレザーを脱ぎ、Yシャツ姿で寝ている霧野も、すっかり調子は戻ったようだ。
「どーんって感じだったね。どーんって」
「分かった、分かったから。もうその表現三回は聞いた」
「面白いのがさ、その後の私の対応だよ」
 霧野はまるで武勇伝を語るようだった。
「だってトイレの途中だったからさ? 人としての尊厳を守るか、命を守るかの瀬戸際だよ」
「はあ」
「そこで人前に出れるよう最低限の努めを果たした私の行動、これは評価されるべきだよ。下手したら垂れ流し……」
「それ以上は言うな」
 切実に彼女を心配した私が間違っていた。あのまま燃えていたらそれはそれで後味が悪いが。
「……とにかく、無事でよかった」
「あれ、千佳が心配なんて珍しいね」
「そりゃ心配ぐらいするでしょ。一応、友達だし」
 我ながら照れ臭いセリフだと思った。それを聞いた霧野は、隠しきれないニヤつきを見せてきた。
「うふふ~、普段冷たい紗倉さんがこんなに丸くなっちゃって。誰のおかげでしょうな~~~??」
 こういう時の霧野は、分かりやすくうざい。私は拳を強く握り、肩をほぐすように回した。
「よし、一回死んでみるか」
「ぎゃーっ! ご勘弁! 既に死線越えてるから!」
 少し前まで冬の冷たい空気が流れていた病室は、暖かい空間へと変わった。
 こんな日々が続くことを願っているのは、他でもない私、なのかもしれない。