読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 僕らの世界はあと数か月で廃棄される。穏やかだった街並みも活発な自然災害の影響で、民家をまるごと攫ってしまうし、瞋恚の炎が文字通り具現しているみたいだ。
 何かが起きている。その何かは世界にとってはごく自然な変化で、人が生きて死ぬように、永い時間をかけて回るひとつのサイクルの一部なのかもしれない。
 僕らとは遠い存在、先駆者は当然、これに抗い、街に留まり続けるより、この異変の影響を受けない未開の地へ移住することを選んだ。空に街を創るということだ。
 空への移住計画が実行されたのは案が出てからすぐのことだった。世界屈指の調査団からの報告は素早く、その内容が、「危険ナシ、気候温暖、快適ナリ」だったためだ。
 一度空へあがってしまうと、身体がその環境に適応し変化してしまって、地上へは戻ってこられなくなるそうだ。調査団と地上のやりとりは主に通信で行なわれていた。
 僕らの住む旧東京は、電車が一本通ってるだけで今ではほとんど人が住んでおらず、ゴーストタウンと化している。言うまでもないけど、奪われたんだ。あれもこれも。
 移住計画は今、最終段階にある。最後の住人である僕らもいよいよ次の春までに、故郷を捨て、まばゆい空へと移るのだ。

 

 大地が揺れたとき、僕は地下にいた。電光掲示板が壊れたように文字列を回す。頭の上では喩えようのない破砕音がして鳥肌が立った。人の波に逆らって地上にあがり、あちこちに視線を巡らせる。巻き上げられた砂を被って廃墟然とするオフィスビルと、脳裏にこびりついた景色がレントゲン写真のように合わさって、知っているはずなのに知らない場所と化していた。
「邪魔だ! ぼーとしてんじゃねえ!」
 僕は突き飛ばされて尻もちをつく。逃げても無駄だと思った。世界の崩落が始まったんだ。じゃなきゃ連日の大地震が説明できない。耳が痛くなるような奇声と慟哭の中、舞い上がる砂に咳き込み、生きていることを証明してくれる。ビルが傾いた。人が下敷きになる様を見る前に、僕は踵を返した。
 携帯の明かりを頼りに暗い線路を駆け出す。家を奪われ生活を奪われ、生きることすらも奪われかけているけれど、死ぬに死ねない理由が僕にはある。
 地上に出ると、旧笹塚の標識。ここも灰燼。軒を連ねる商店は色あせて、鮮やかさとは程遠い。アーケードを抜けて、坂を下ると、昔通っていた小学校が見える。記憶の中ではクリーム色をしている校舎は、いたるところに藻がこびりついて、神社のようになっていた。学校の前を横切って、また足場の悪い坂を上る。九十九折りの一本道の先、目当ての住居だ。
「生存者発見! 救急を要請するっ」
 はっとした。まもなく僕は迷彩服の男に捕まった。どんなに抗っても敵わなかった。ここは危険だ、としか教えてくれず聞く耳も持ってくれない。
 瓦礫の山、燃え盛る炎。それがどうした。
「さが……させてくださいっ………………僕の…………大切な人をおおおおおおおおっ!」
 その場にくずおれる。二日前のことだった。

 

 地下は嘘のように静まり返っていた。その静けさは、身を竦めるような居心地の悪いものではなく、落陽を目に、窓辺でまどろんでいるときのような弛緩した静寂だった。
 最後の住人の移住計画が前倒しになったのだ。いよいよ明日、旧東京の移住計画は完了する。あちこちから話し声がし始め、いつまでも積もる話を切り崩しては積んで、最後の一日を楽しんでいるようだった。住人の多くは、きっとこのまま朝まで起きているのだろう。かくいう僕も今日は眠れそうにない。
 そうっと地下を抜け出る。深夜徘徊を咎める人はいないだろう。
「オレも連れてけ」
 動悸がした。後ろを振り返る。憔悴した表情は無理もない。藤崎タケルの姿。大学の同期だ。歓喜したい気持ちを抑えて近づいてきたタケルに無事を伝える。
「知り合いに会えたのは、お前が初めてだ。そっちは」
「僕も」
「……そうか」
 一陣の風で砂が舞い上がり、たまらず顔を背ける。
「げほっ、こほっ、で、どこに行くつもりだ? 人探しか?」
 ここ二日、携帯も繋がらない、こうして出会うことも叶っていない。答えは明白だ。
「チサトが取り残されてるんだ」
「それってお前……。突っ立ってる場合か! 行くぞ」

 

 津波警報が発令されてから一時間が経った。防波堤が決壊したらしい。陸にいて正解だった。地下を移動していたら、たぶんすべてが終わっていた。
「高台にいても油断はできねぇな」
 すでに津波は旧笹塚まで到達している。僕の足の間を大きめのスズキがぬるりと通り抜けた。僕ら人間がいなくなったあと、他の生物はどうするのだろう。ゆるりとその変化を受け入れて、街と共に消えていくのだろうか。あるいは、この現状でも生きていく術を知っているのだろうか。
「僕ら、どうして空へ行くんだろう」
 九十九折りの一本道の手前で、タケルと二人掛かりで瓦礫を掻き分ける。
「生きていくためだろ」
 あまりに真剣な声音だった。
「それから、ここはもう、どうしようもねぇんだ」
 ここに未来はない。ゆっくりと押し寄せてくる潮は、じきに街を呑み込んでしまうだろう。
 目に見えている景色のように、僕らはこれから先も変わっていく。
「セイゾンシャ、ハッケン」
 背後から唐突に一番聞きたくない台詞を耳にした。かたかたかたと四足歩行で不気味に蠢く物体。
「あぁ? ロボットかなんかか。構ってられっか!」
 近づいてくるロボットに僕はたまらず、来るなぁっ、と叫んでいた。
「おいっ、大丈夫か? くそっ」
 タケルが雄叫びを上げてロボットと取っ組み合う。
「コイツの相手は任せろ! おいっ、しっかりしろ!」
「来るなぁっ!」
 今にも身体を絡めとられて。
「迎えに行くんじゃねぇのか!」
「来るなぁっ!」
 取り込まれてしまいそうなーー
「未来の、嫁さんなんだろ!」
 はっと我に返る。
 自分の中にずっと根付いていたはずの、言い表せない愛おしさが咽喉の奥から込み上げてくる。チサト! 明るい場所へあがっていくための足りなかったものを、ようやく見つけた。僕は力強くうなずき、瓦礫を越えた。

 

              ***

 

 青く暗い部屋の中でありったけの抱擁をする。
 和装はダサいから嫌と言っていたっけ。チャペルでも、それなりにイイと思うけど。
 でも、まあ。
「天空で、挙式をしよう」