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『』

 鎌倉駅で電車を降りて東口の改札を出た雪哉(ゆきや)は、強い日差しに目を細めた。そろそろ涼しくなってもいい頃のはずだが、日差しは全く弱まらない。
 雪哉はハア、を息を吐いて、先に着いているはずの兄を探すため、周囲を見回した。
(東口で合ってたよね……)
 鎌倉駅は東口と西口があり、今日は東口で待ち合わせをしていた。雪哉は不安になりながらきょろきょろと首を動かした。すると後ろから、指先の冷たい手で目を塞がれる。
「だーれだ」
 こんなことをここでやるのは、一人しかいない。
「……兄さんでしょ」
 雪哉が半ば呆れながら答えると、大きな手が後ろへ戻った。見慣れた青年が、雪哉の前に来た。白地に黒で絵が描かれた半袖に、真っ黒いロングベストを羽織っている。彼が雪哉の兄・冬也(とうや)である。
「正解。少しくらい悩んでくれてもいいのに。つまらないの」
 冬也が唇を尖らせて言った。二十三にもなって何を言っているのだ。雪哉も今年高校二年生になっており、目隠しをして遊ぶなどもう何年もやっていない。
「拗ねられても困るんだけど」
「困っているユキはかわいい」
「……何言ってるの」
 今度は本気で呆れてしまった。雪哉がまだ幼ければ嬉しくて笑顔になっているだろうが、今の雪哉相手にそんなことを言っても、嬉しいと思えるわけがない。
「えー? ホントだよ?」
「はいはい、分かったから。行こう」
「うん。でも、どこ行くの?」
「えっと……鎌倉彫資料館ってトコ」
 雪哉は鞄からメモ帳を出して、行き先を確認する。冬也が首を斜めに傾ける。
「なんで資料館?」
「鎌倉彫のことが分かるんだって」
「興味あるの?」
「せっかく鎌倉に来たんだから、鎌倉に関することが知りたい」
「普通、鶴岡八幡宮とか行かない?」
「小学生のとき一回行ってるし、疲れそうだから行かない。兄さん、行きたいの?」
 メモ帳から目を放して冬也を見ると、彼は苦笑して首を左右に振った。
「全然。今日暑いし、なるべく室内にいたい」
「そう」
「で、資料館ってどっち?」
「とりあえずまっすぐ」
 雪哉がメモ帳をしまって脚を動かすと、冬也が後ろでゆっくり歩き出した。
 鎌倉彫資料館は、若宮大路を鶴岡八幡宮方面へ少し歩いたところにあった。
「……あ、ここだ」
 雪哉は足を止めて建物を見上げた。建物自体の名前は鎌倉彫会館となっていた。注意深く見ていなかったら、通り過ぎていたに違いない。
「何階にあるの?」
「えーっと……」
 雪哉はきょろきょろと辺りを見回しながら中へ入った。いくつかショーケースがあり、皿が並べられているようだ。
(ああいうの、きっと高いんだろうなあ)
「……あ」
 雪哉はショーケースの中を見てから入口に入って左にあるエレベーターに向かった。資料館は三階にあるらしい。
「兄さん、三階だって。乗ろう」
「うん。三階ね」
 冬也がエレベーターに乗って閉ボタンを押す。
 エレベーターが止まり、扉が左右に動く。エレベーターを降りた二人は降りてすぐのところにある受付へ行った。
「いらっしゃいませ」
「大人二枚ください」
「六百円になります」
 女性がチケットと三つ折りのパンフレットを二つ用意する。冬也が財布から千円札を出して女性に渡す。
「四百円のお返しです。こちらからお入りください。出入り口は同じですので」
「はい」
 冬也がチケットとパンフレットを受け取って会釈する。雪哉は先に入って、鎌倉彫で作られていく器の映像を眺めていた。
 遅れて入ってきた冬也が、雪哉が見入っている映像を見てぼそっと呟いた。
「彫刻刀で彫っているときの音っていいよね」
「うん」
 雪哉は全工程を見終えて、下のショーケースに入っている器を見た。左のショーケースに、先程映像で見た工程が、一つずつ分けて置いてあった。
「何回も塗って乾かして研いで、大変だね。僕だったら、きっと途中で飽きちゃう」
「でも、黙々と作業するのは向いていると思うよ。そういうの、得意だろ?」
「うん」
 雪哉は何か作業をしているとき、誰かと話さずに集中してやるのが好きだった。失敗する確率は減るし、話さない分、早く終わらせることが出来るからだ。
「わ、ユキ。こっちすごいよ」
「兄さん、早いよ」
 雪哉はショーケースを見終えてから、彼の後ろにある部屋へ向かった。
 時計回りに見ていって最初に目についたのは、手箱だった。プレートには、『鶺鴒(せきれい) 手箱』
と書かれている。
(なんて読むんだろう。鳥の名前かな……)
「セキレイ、だよ」
 突然耳元で声がして、雪哉はその場で跳ね上がりそうになった。跳ね上がらずに済んだのは、聞き慣れた声だったからだ。聞き慣れている分、恐ろしいと感じずに済んだのだ。今にも飛び出そうな心臓を服の上から押さえて、斜め後ろに立つ冬也を見上げた。
「……セキレイ? どんな鳥?」
「スズメ目セキレイ科の鳥の内、タヒバリ属を除くものの総称だったかな。体はほっそりとしていて、長い尻尾をよく上下に振るんだって。羽の色は白と黒か、黄色と黒らしいよ。水辺を歩き回って虫を食べるんだ」
 手箱を見つめたまま、冬也がすらすらと説明してくれた。いつ調べたのだろう。
「兄さん、鳥好きだったっけ?」
「いや? 暇なときにちょっと調べてただけ。こんなところで役に立つとは思わなかったな。調べておいてよかった。ユキの役に立てたかな?」
 冬也が心底嬉しそうな顔で笑った。その顔を見た雪哉は、なんだが恥ずかしくなって彼の傍を離れた。
(成人してる兄さんが子どもみたいに喜ばなくても……)
「乾菓子器?」
 雪哉は首を斜めにしてプレートに書いてある説明を読んだ。
『堆青塗りで仕上げ
 青光と石黄という顔料を混ぜた漆を塗った後、上塗りには調合により緑の強い漆を塗って斑を出し、磨く』
 と書いてあった。確かに少し緑っぽい色に見える。
(セキレイの方がきれいだなあ)
 雪哉は先程見た手箱の方を見て思った。手箱に描かれている左の鶺鴒は螺細、右の鶺鴒は卵殻という漆芸で仕上げられているらしい。
「わー、こっちにもなんかあるよ」
「え」
 少し遠いところから冬也の声が聞こえて周囲を見回すが、彼の姿は見当たらなかった。そうしてから同じ場所にいるのだから慌てる必要はないと判断した雪哉は、展示されているものを全て見て、右手奥にもう一つ部屋があることに気付いた。
「兄さん」
「ユキ。もう見終わっちゃったよ」
「早いなあ」
「ユキがのんびり過ぎるんだよ」
「時間制限ないんだから、のんびりでもいいでしょ。他に誰もいないし」
「そうだね。じゃあオレ、最初のあの映像見てるね。ゆっくりでいいから」
 のんびり過ぎると先程言ったばかりなのに、ゆっくりでいいのかと思いつつ、雪哉は素直に頷いて、展示物を時計回りで見ていった。
 鶺鴒が描かれた手箱が置いてある部屋に戻ったところで、雪哉の腹がきゅるる、と鳴った。慌てて腹部を押さえて少し離れたところに立っている冬也を見る。彼は集中して映像を見続けているようで、雪哉の腹の虫に気が付いた様子はない。
(今日はあんまり朝ごはん、食べてないんだった)
 雪哉ははあ、と密かにため息を吐いた。昨日久し振りに冬也と出かけるのが楽しみで、なかなか寝付けなかったのだ。高校生にもなって、楽しみで寝付けないなど情けない。お陰で朝は時間ギリギリまで寝てしまい、急いで身支度と朝食を終えて出てきたのだった。おまけに横須賀線には乗ったことがないため、この電車で合っているかとか、時間までに間に合うかとか、色々不安で仕方なかった。
「――あれ、見終わったの?」
「あ、うん」
 冬也の声にハッとして下を向いていた顔を上げると、冬也が眉をひそめていた。
「? どうしたの?」
「お腹痛いの?」
「え?」
「押さえているから」
 冬也が細い指で雪哉の腹部を指す。視線を下げると、雪哉の手が腹部に当てられていた。
「あ、違うよ。痛いとかじゃないから」
「そう? ならいいけど……無理はしないでね」
 思わず駆け寄ってしまった雪哉に驚きながらも、冬也は優しく微笑んで彼の頭を撫でた。余計な心配をさせてしまったことと、撫でられた嬉しさで雪哉の表情が複雑になる。撫でられて俯いていたため、その表情は冬也には分からなかったらしい。彼は優しい手つきで雪哉の頭を撫で続けている。
「……いつまで撫でてるの」
「ユキが顔を上げるまで?」
「上げたくても上げられないんだけど」
「ごめんごめん。じゃあ、出ようか」
「うん」
 冬也の手が放れ、雪哉は顔を上げて頷いた。資料館を出てエレベーターで一階に戻ると、奥に何か展示されていることに気付いた。
「あれ、なんだろう」
「見てみる?」
「奥にも展示されているものがございますので、よろしければご覧になってください」
 雪哉が決めかねていると、スーツを着た男性が一歩二人に近付いて奥を指した。雪哉は足を動かして奥へ行った。そこには、花の絵が飾られている。ナスやピーマンの絵などがあった。
「すごい。なんでこんなに上手く描けるんだろう」
「特徴を理解すれば描けるんじゃないかなあ」
「それが出来たら苦労しないよ」
 雪哉は頬を膨らませて冬也を見上げた。彼はにこにこと笑ってこちらを向いている。
「その笑顔は何?」
「拗ねるユキもかわいいなあと」
「僕はもう、高校生なんだってば」
「分かってるよ」
 冬也はふふ、と笑って他の絵を見始める。雪哉も彼に付いていきながら首を動かして絵を眺めた。
 鎌倉彫会館を出た二人は、小町通りを目指した。
「? ……あっ」
 冬也が何かを見つけて声を漏らす。雪哉はなんだろうと思って冬也を見上げて、その視線の先にあるものを見つけた。フクロウが載っている看板だ。『鎌倉乃フクロウの森』と書かれている。
「……入ってみる?」
「いいかな?」
 雪哉が窺うように尋ねると、冬也は目を輝かせてこちらを見下ろした。断る理由はないし、冬也の嬉しそうな顔を見たいので雪哉は頷いた。
 小町通りの入口近くにある雑居ビルの三階に、『フクロウの森』はあった。エレベーターで三階まで行き、入口を入る。
「いらっしゃいませ」
「大人二枚お願いします」
「はい。千二百円です」
 それを聞いた冬也が千円札と五百円玉を出す。
「三百円のおつりです。ご説明をしますので少々お待ちください」
「はい」
 冬也は財布に小銭を入れて頷く。女性店員が後ろに置いてあるフクロウの人形を手に取った。
「フクロウに触るときは、頭、背中を羽の流れに沿って優しく手の甲で触ってあげてください。首やおなか、足には触らないようお願いします。べたべた触ったり、強く撫でたりするのも止めてください。写真撮影は可能ですが、フラッシュは止めてください。フクロウたちの中には、『休憩中』の子がいます。その子たちには触ったり写真は撮らないようお願いします。時間制限はありませんので、何周しても大丈夫です。それでは、ごゆっくりお楽しみください」
 女性店員が順路を指して微笑んだ。冬也もそれに微笑み返し、足を動かす。
「小さいフクロウだ」
 雪哉はウラルフクロウを見て目を丸くした。手に乗るサイズでかわいらしい。
「ユキー、メンフクロウだよ」
「わっ」
 白い体に黒い目をしており、首をひねってこちらを向いていたため一瞬驚いてしまった。真正面から見ようと移動すると、それに合わせてメンフクロウも首を動かす。
「外で見たら怖いなあ」
「こっちのほうが怖いかも」
「え? ……」
 冬也の声に反応して後ろを向くと、大きなフクロウが窓の外を見ていた。シベリアワシミミズクらしい。非常に身体が大きいため、近付くのは躊躇われる。
「ずっと外見てるよ」
「フクロウって、夜行性じゃないの? 外明るいから眩しいと思うんだけど」
「ねー。あ、向こうにもメンフクロウいるよ」
 冬也が奥のほうを見て言った。雪哉は小さいががっちりとしたニシアメリカオオコノハズクや眼鏡をかけているように見えることからその名前がついたメガネフクロウなどをみながら、一周した。その途中で世界で「一番騒々しいリス」と言われるアメリカアカリスがいたことに驚いた。
「兄さん、リスだって。かわいいね」
 雪哉はゲージ内にある回し車で走ったり、木の枝をあちこち移動するというのを繰り返しているリスを目で追った。大抵の小動物はうろちょろしているだけでかわいいと思う。特にハムスターはそうだ。エサを食べているだけなのにずっと見ていられる。
(はああ……なんでこんなにかわいいんだろ)
 雪哉は動き続けるリスを見て、口元を綻ばせた。それを冬也がスマートフォンを出した。かすかにシャッター音がして、雪哉はハッとする。
「……今、撮ったでしょ」
「リスを撮ったら、ユキも写っちゃっただけだよー」
「もっともらしい嘘を吐かないで」
 雪哉は冬也の額を指先でペチ、と叩いた。冬也がはーい、と素直に頷いてもう一度、今度はしっかりリスのほうへカメラを向けてシャッターを押した。
(やっぱり僕を撮ったんじゃん)
 雪哉ははあ、とため息を吐いて、出入り口近くにいる小さなフクロウのほうを向き、目を丸くした。そのフクロウはチャコモリフクロウと言って、南アメリカの非情に暑く乾燥した半砂漠のグラン・チャコという広大な平原に生息しているらしい。暑いのが苦手な雪哉はその情報に驚いたが、一番驚いたのはそのフクロウの顔である。顔がハートの模様になっているのだ。他のフクロウはそんな風に見えなかったので、雪哉はそのフクロウをじっと見つめてしまった。
「何見てるの?」
「あ、兄さん」
「『あ、いたの』って反応止めてよ。ずっと一緒にいたのに」
「ごめん。このフクロウ、顔がハート型だったから、ちょっと見入っちゃった」
「本当だ。かわいいね。あ、『カップルの方は間に挟んで写真を撮ると幸せが長く続くかもしれない』だって。撮る?」
 自分で説明を読んでいて、文章を理解しなかったのだろうか。
「それ、カップルの人でしょ」
「でも、幸せが長く続いてほしいもの。記念に撮っておこうよ」
「なんの記念?」
「いいからいいから」
 雪哉が呆れた声で言うが、彼はそんなことを気にせず雪哉の腕を引いてフクロウの横に立たせ、自分はその反対側に立った。
「う~ん……上手くできない……」
「無理に撮らなくてもいいよ」
「撮りたい。あっ、いけそう。撮るよー」
 冬也が腕を伸ばして二人とフクロウを写し、シャッターボタンを押す。それからきちんと撮れているか確認して、満足そうな顔をした。
「うん。撮れてる。フクロウさん、ありがとねー」
「愛称、チャコだって」
「愛称なんてあるの?」
「他のフクロウにもあったよ」
「ユキ、もう一周しよう?」
 冬也が順路を指して雪哉の腕を引っ張る。まるで一度遊んでみた遊具が予想以上に面白くて、それから何度も遊ぶ子どもの顔のようだ。目がキラキラしている。そんな顔を見せられたら断ることは出来ない。彼が笑顔以外の表情を明確に出すことは珍しいのだ。それにここに入ったのだって、冬也の嬉しそうな顔を見るためだ。
「いいよ。何周でもしていいんでしょ、ここ」
「うん。じゃあ、行こう」
 冬也が先に歩き出して、ウラルフクロウの愛称を見る。
「ジュリアだって。かわいい名前だね」
「僕はチャコのほうが好きだけど」
「それもかわいいよね。ユキの名前くらいかわいい」
「僕は雪哉だけど」
「雪って、なんかかわいくない? アフリカオオコノハズクはジャックだって。かっこいい」
「あ。じゃあ、雪女もかわいいの?」
「それはー……きれい、かな」
「……そう」
 彼の基準はなんだろう。大人か子供か。もしくは人間か人外かなのだろうか。雪哉がそんなことを考えている間に、冬也はどんどん進んでいく。雪哉は慌てて足を動かして、早歩きで冬也に追いついた。
 一周し終え、チャコモリフクロウのところに戻った冬也は、満ち足りたような顔をしていた。
「満足した?」
「うん」
 冬也は撮影した写真を全て確認して、首を縦に振った。雪哉はよかったね、と苦笑した。
 雑居ビルを出た二人は、小町通りを鶴岡八幡宮のほうへ二、三分歩いたところにある海鮮丼屋に入っていた。
 二人は入り口を入って左の窓側に座っていた。雪哉は向かいの店の前で店員が通りに向かって何かを言っているのが見える。先ほど店を入る前に見た女性だ。
「ご注文が決まったら呼んでください」
 店員の男性がお冷を持ってきて言う。二人はメニューを開いて書かれている文字と睨めっこした。
「う~ん、何にしよう」
「僕、これにする。まぐろたたき丼」
「じゃあ、オレはまぐろ山かけ丼にしよう。すみません」
 斜め前に座った冬也が店員を呼び、注文をする。雪哉はその店員が厨房にメニューを伝えるのを見てから、店内を見回した。店内は落ち着いた雰囲気で、カウンターが五席あり、テーブル席は合わせて三十ほどあった。雪哉の後ろには、小学生くらいの少年が四人いる。その内の一人が松葉杖を横に置いていた。この店は二階にあるから、上がってくるのは大変だったのだろうなと思った。
「ユキ、午後はどこに行こうか。行きたいところとかある?」
「ないかな。江ノ電で行けるのって、どこがあったっけ?」
「近いのは由比ヶ浜かな。あとは江の島とか?」
「由比ヶ浜って、海なの?」
「海だね。駅から少し歩くけど」
「行ってみたい」
 雪哉が由比ヶ浜の海を想像しながら言うと、冬也はそっか、と微笑んで、
「じゃあ、そこに行こうか」
 と言ってくれた。
「お待たせしました。まぐろたたき丼です」
「あ、僕です」
「こちらが山かけです」
「はい」
「ごゆっくりどうぞ」
 男性店員がテーブルを離れ、厨房近くに戻る。雪哉は小さな声でいただきます、と言い、醤油をかけてから箸を手に取り、ごはんを口に含んだ。
「……っ」
 口に入れた瞬間、舌の先と鼻の奥がつん、として噎せてしまった。
「ユキ?」
「ワサビつけすぎた……」
「ドジっ子だなあ。ユキ、ワサビあまり好きじゃないのにね」
「平気かなって思ったの。ダメだったけど」
 雪哉は辛さで出てきた涙を拭った。次はわさびの量を減らして食べてみる。醤油とまぐろの味がマッチして、自然と口元が綻んだ。
「おいしい……」
「こういうとこって、美味しいところが多いよね」
「そうなんだ」
「そうなんだよー。知らなかっただろ」
「うん。兄さん、よくこういうところに来るの?」
「たまにね。友達と行ったり、一人で行ったり」
 冬也はそう答えて、まぐろを口に入れる。雪哉も口いっぱいに頬張り、頬を膨らました。
 ごはんを食べ終えた二人は鎌倉駅に戻って電車に乗り、二駅目の由比ヶ浜駅で下車した。
「海って、どっちだろう」
 駅を出た雪哉はきょろきょろと左右を見回した。冬也が雪哉を追い越して左へ曲がる。
「兄さん、場所分かるの?」
「ここに書いてあった」
 冬也が何かを指した。顔を上げてそれを見ると、由比ヶ浜海水浴場の方向が書かれていた。方向は、雪哉たちが立っている方向とは真逆だ。
「こっちだね」
 冬也が体を百八十度回転させて歩き始める。雪哉は駆け足で彼に付いていった。
 駅から六分ほど歩いたところで、海水浴場はあった。
「海だ」
「海だね」
 雪哉は目を細めて波の立つ海を見た。太陽の光を受けて、キラキラと輝いている。
 海ではサーフィンをしている男性が数人いる。女性が一人で海岸沿いを歩いていたり、犬を散歩させている男性もいた。
「……あっつい」
 雪哉が早々にその場にしゃがんだ。太陽が真上から彼らを照らしている上に、近くに日影がなかった。
「海に入ったら、少しは違うかもね。足だけ浸かる?」
「やだ。タオルないし、あがったら砂が足に付くし」
 雪哉がしゃがんだまま首を左右に振ると、冬也も隣にしゃがんで雪哉の頭を撫でた。
「うわっ、ユキの髪熱い」
「ギラギラ太陽に照らされたら、そうなるよ……。うー、暑いー」
「もう帰る?」
「今来たばっかじゃん」
「そうだね。じゃあ、もう少しいようか」
 冬也が階段まで移動して、座った。雪哉も両腕をだらんと垂らしながら歩いて冬也の隣に移動した。
「潮風が涼しいね」
「うん」
「あ、見てユキ。あっちの波、三段になってる」
 冬也が左のほうを指した。雪哉がそちらを見ると、次々と波が立っていて、それが時折三つ出来るときがあった。冬也が言っているのはこのことらしい。
「ユキ、ちょっと歩かない?」
「……歩く」
 雪哉は少し考えてから立ち上がった。冬也も微笑んで立ち、歩道を歩き始めた。
「海岸沿いを歩くんじゃなかったの?」
「そっちのほうがよかった?」
「別に、どっちでもいいけど」
「とりあえず、あそこまで行こうか」
 冬也が前を指差すが、どこまで行くのかいまいち分からなかった。
「どこまでもいいけど、戻ってきたら帰るからね」
「うん」
 冬也が振り返ってにこりと笑った。雪哉も笑い返して、彼の隣を歩き続けた。