読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 横浜駅のJR横須賀線9番ホームで彼と待ち合わせをした。発車時刻の1分前にようやくホームに着いた私の腕を引っ張った彼の手に、あぁあの人の手とは違うなぁなんて、そんなことを思った。
「焦った、乗り遅れるかと思ったよ」
「ごめん、中央線が遅延してて」
 空いている車両に滑り込むように乗り、座った彼が小さく笑った。彼はこういう風に出かけるとき、細かく計画をたてる。そして計画通りに進めるために躍起になる。
「あ、これ。寒かったから」
 彼はジャケットのポケットから小さなペットボトルを私に手渡した。
「あ、あったかい。ありがと」
 掌からじわーっと温まる。
 前の人だったら、私の最寄まで来てくれて二人で鎌倉に向かっただろうな、大まかな計画はたててもゆっくり行こうって人だった。でも、あったかいココアを買っていてくれたりはしなかった。
 電車が鎌倉へと走る。いつか見た景色が流れる。私の隣には、長く愛した彼ではない、彼がいる。

 鎌倉駅に着いて東口に出る。少し歩いて小道通りに入ると、修学旅行生やカップル、家族連れで溢れていた。
「うわぁ、混んでるなぁ。思った以上だ」
「来るの初めてなんだっけ?」
「うん、俺は初めて。茉奈は何回も来てるんだよね?」
 すれ違う人たちを避けながら進む。彼の腕を掴むのにはまだ慣れていない。彼も、手を繋ごうとか腕を掴んでていいよとか、言ってくれないからいつまでたっても彼の腕を掴めないでいる。
「私は、えっと、3回かな」
「そっか、友達と?」
 彼はきょろきょろと両脇に並ぶ店たちを見渡しながら聞いた。きっと深い意味なんて全くなくて、純粋に話の流れで聞いただけだろう。それでも私は、変に意識して、心臓が速くなってしまう。
「うん、友達と来た」
 私もなんて事のないふりをして辺りをきょろきょろと見まわしながら答えた。3回とも長く愛した彼と来た。彼の腕を掴んで、時には手を繋いで、この道を歩いた。
 ふーんと彼は言う。私の緊張がばれてはいないだろうか。友達ではない。いま隣を歩く彼の前に付き合っていた人。大好きで彼は私の中心にいて、いまでも彼が私の真ん中にいるのだ。
「あ、ねぇ団子食べたい」
 いろんな種類の団子が並ぶショーケースを指さす。さくらの夢見屋。
「すげぇ。うまそうだな。でもいま食べたら昼飯食べれなくなっちゃうよ」
 いつもなら彼に従って、諦めることも多いけれど、今日はどうしても自分のしたいことをしたかった。
「大丈夫! 絶対お昼残さないから」
 彼の腕に触れて目をじっと見つめると、彼が優しい顔で、「1本だけだぞ」と言った。

 苺餡の上に苺が乗った、季節限定の団子を彼が買ってくれた。
 苺の甘い餡が口の中を優しく満たしてくれた。
「うまいなこれ。俺苺の団子初めて食ったよ」
 そう言って笑った彼の顔が、長く愛した彼に似ていた、気がした。目尻に皺が出来て、優しい瞳が私を捉える。
 長く愛した彼ともこの団子を食べた。彼が苺が好きで、とても嬉しそうにしていた。

 

 鎌倉駅から江ノ島電鉄に20分ほど揺られる。住宅の間をすり抜けるように走る。海も見えてなんだか不思議だ。 
 江ノ島に着いて人並に入りゆっくりと歩く。しばらく歩くと、タコせんべいの店があった。タコをそのままプレスしてぺしゃんこにしたせんべい。出来立てを食べれるところも魅力だ。
「これ食べよう」
「また? 本当に昼飯入らなくなるぞ」
「大丈夫。歩きながら食べたいの」
 今日の私はなんだか積極的だ。
 タコせんべいを両手で持ち少しずつ食べながら歩く。時に彼の腕が私の腕に触れたりする。
 口いっぱいに広がる思い出の味。
 このタコせんべいも苺の団子も。これから食べる予定のシラス丼も。
 鎌倉駅も歩いた道も。江ノ島電鉄から見える景色も、この道も。
 全部、長く愛した彼との思い出だ。彼と別れて、しばらくたって、いまの彼と付き合い始めても、なかなか彼が消えなかった。どうしても彼は、私が長く愛した彼とは違う人で、それは当たり前だけど、心にすっと入らなかった。
 今日彼とここに来たのは、もう思い出さない自信があったから。比べたりなんてしないで、いまこの彼との思い出でいっぱいにできると思った。 
 私にとって、鎌倉に向かう電車も、人でにぎわう鎌倉駅も。団子も、タコせんべいも。隣を歩く彼との思い出として塗り替えれると思った。
「少し磯の匂いがしたね」
 いま彼が、長く愛した彼と同じことを言ったとしても、やっぱり微かな磯の匂いもその言葉も、長く愛した彼のものにはならない。
「ねぇ、腕を掴んでもいい?」
 彼の答えを待たずに、右手で彼の腕を掴んだ。
「なんか、あれだな、慣れないなこういうの」
 私の長く愛した彼は、そんなことは言わなかったけれど。
「これから慣れてよ。私も慣れるから」
 女って怖いななんて、他人事のように思った。自分では見えないけれど、きっとしっかり笑えている。
「おう、そうだな」
 少し照れたような彼を見て、ゆっくり目を反らした。

 私にはもうきっと彼しかいないのだ。私が長く愛した彼はもうこの世にいない。
 私はきっと彼と結婚するだろう。
 この先、ずっと隣にいるのは彼だ。 
 それでも、彼が私の「長く愛した彼」になることはない。