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   プロローグ

 初秋の風が吹き抜ける夜の跨線橋に、年端も行かぬ女児の姿があった。彼女が先刻まで菓子を強請って懸命に引き留めていた母親は、執拗な駄々に愛想を尽かし、彼女を置いて先に家

へと戻っていってしまった。脇目もふらずに散々ぱら泣き腫らした後、それでも母が戻ってこないと知った彼女は、大人しく母の辿った帰路をなぞることに決め、とぼとぼと歩を進めて

いた。
「――ねぇ、そこの君」
 女児の背中に、女性のやわらかい声音が追いすがる。彼女はそれまで虎視眈々と、一部始終を静観していた。
 未だに涙の形跡が見て取れる充血した瞳で、女児は彼女を見上げた。
「お菓子、買ってあげようか」
 それは、世の悪意の存在も知らない女児を懐柔するには充分なひと言だった。不満と警戒に歪んでいた女児の唇が、笑みをかたちづくる。今泣いた烏がもう笑った、という様子だった


 女児は、名も知らない『親切なお姉さん』の許へ駆け寄り、差し出された幸運の機会を逃すまいと、そのてのひらを自分から握った。
 彼女は女児の手を強く握り返し、濃い夜闇の染める眠ったような街を歩く。遊弋するように空を泳ぐ叢雲が月のひかりを遮るが、底の見えない澱んだ川は鈍いひかりを跳ね返している

。あっけなく獲物を確保した彼女は、上機嫌に川面の側へ一瞥をくれると、夜光虫みたいで綺麗だな――と心中でひとりごちた。
 彼女が肌寒い外気に小さく身震いすると、女児もほぼ同時に身体を震わせた。互いの動作に気付いたふたりは顔を見合わせると、静かに笑った。

 一章

       0

 満点の星空は、星になったひとたちの墓場。
 果ての無い地平線は、骨になったひとたちの終着点。
 白い灰は微風に舞い、水面を流れ、ときの空にたゆたう。
 精彩を欠いた有限のなかで、誰と泳ぎ、何処で終わるのだろう。

        1

 繰り返し打ち鳴らされる、乾いたノックの音に、榎本典明は目を覚ました。
 いま伺いますので、と扉の向こうに向けて言葉を投げつつ、最低限の身嗜みを整える。大学に進学して独り暮らしを始めてからは、知人を招いたり来客に応対したりした経験など皆無

だった。彼は子の刻を示す掛け時計に一瞥をくれつつ、こんな晩に何用かと内心で訝しんだ。
「はい、どちらさまでしょう」
 軽い調子で誰何しつつ扉を開くと、湿ったにおいと鋭い冷気が同時に感覚を刺激し、次いで、けざやかな純白が視界をきつく焼いた。
 雪の精。そんなフレーズが、唐突に胸に去来した。
 黒ずんだ廊下には、全身を漂白したような白さを纏う、ひとりの小柄な女――もとい、少女が佇立していた。彼女の背後では、渺茫と広がる夜闇を洗い流すような豪雨が、銀色の幕を

張っている。
「あの……ですね、わたしのこと、ご存知ですか」
 空が崩れ落ちるような激しい雨音に霞む声を、典明はなんとか聞き取る。硝子細工を思わせる、高く透き通った音色だった。しかし、その意味合いは即座には判じかね、彼は思わず問

い返す。
「なんだって?」
「ですから、わたしに見覚えがありませんかってことなんですけど……ああっ、変なこと言ってるのは分かるんです。でも、本当のことを答えてほしいです」
 時間が垂直に切り取られたかのような沈黙。冷気に曇った煙色の双眸で、少女は典明をじっと見据え、返答を待つ。篠突くような雨の音と、廊下を駆け抜ける一陣の寒風が、ふたりの

合間を埋める。
 典明は無遠慮に眼前の少女の観察を始めた。あどけない目鼻立ちと細いおとがいは未だ世俗に汚されていない童女のそれに違いなく、齢は十四から十六程度に見受けられる。白皙の顔

の中央では、薄めた柘榴の色をした唇が印象的に浮かび、肩まで届く雪色の毛髪は、長雨によってしとどに濡れている。身を包む白妙のワンピースは雨水を孕んで重く肌に張り付き、若

干、中身の四肢が透けて見える。異国の者にもみえるが、先刻彼女の口から出た言葉は、間違いなく典明が普段から接している言語だった。
 アルビノ――先天性白皮症だろうか。メラニン色素不足の影響で肌や毛髪の色が薄く、紫外線への耐性が低い……と、物の本で読んだ記憶がある。眼前の少女には、そんな無縁だった

情報と、無視できない共通点が散見された。
 漫画から抜け出してきたような少女だな、と。それが、典明の懐いた率直な所感だった。しかし、彼の知人に彼女のような人間がいた覚えはない。もしかして、少し頭のネジが外れて

いる方なのだろうか。思えば、正気を欠いた様子が僅かに漂っているようでもある。あるいは、新手の逆ナンパか……それにしても、もう日付も変わろうかというこの時間帯に個人の部

屋を訪ねるのはおかしい。少女に対する疑心は深まるばかりだった。
「いや、君みたいな子に心当たりはないな」
 突き放すかのように、にべもない語調で典明は言い切った。いくら年下の子供とはいえ、油断を見せれば何が起こるか分からない。些細な物にいつ寝首を掻かれるともしれないのだか

ら、自分以外の人間には常に疑いを持って臨む。それが彼の信条だった。
 すると少女は気後れしたかのように表情を歪め、悄然と俯いた。
 流石に、大人気ない真似をしたか。はしゃいでいた我が子から玩具を没収した親に似た心境に陥った典明は、急いで自己弁護するように言葉を注ぎ足した。
「……申し訳ないけれど、ほんとうに君のことは何も知らないんだ。というか、逆に訊くけれど、君の方は俺のことを知っているのかな」
「それも、分からないんです」
「分からない? 君自身のことだろう?」
「ええ、それはそうなんですけど……ああ、何と言っていいか……」
 語尾は曖昧に濁され、後に言葉は続かない。要領を得ない返答に、いら立ちが募る。
 ふう、と典明は大袈裟に溜め息を吐いた。このままでは埒が明かない。それに、万が一、近隣住民に現状を発見されれば、あらぬ誤解を招く可能性もある。貧乏学生の入居を許したの

は近所でもここしかなかったのだ。転居を迫られるような事態は極力避けたい。彼女に対する不信感は依然として残るが、警戒に値する存在ではなさそうだと判断した彼は、沈黙を破っ

て一案を提示した。
「とりあえず、中に入らないか。こんな雨のなかで立ち話じゃ風邪ひくだろうし、俺の方も寒い」
 事実だった。きりりと肌を刺す冷気は緩慢に、しかし着実に、体温を奪っていく。
「いいんですか。ほんとうに、わたしのせいで迷惑かけて……」
 いいから早く入って、と言葉を遮り、少女を奥へと招じ入れる。お邪魔します、という彼女の発言は間が抜けているようで、典明は不覚にも苦笑を零した。

 

 雨音が、薄い天井を通じて伝播する。豪雨に包まれる六畳一間の一室は、大海に揺られる小舟を彷彿とさせ、胎内に腰を下ろすふたりに奇妙な感覚をもたらした。
「お茶まで出してもらって、なんとお礼すればいいのか」
 少女はただでさえ矮小な体躯を更に丸め、視線を虚空にきょろきょろと彷徨わせながら、正座している。座卓を挟んで相対する典明は、子守の役目を押し付けられたような気分に辟易

していた。かつて学校の行事で幼稚園の職業体験に出向いた記憶が想起された。
「まあ、そんなのはいいから。それよりも本題に移りたいんだよ」
「あっ、すみません。そうですよね、別にお邪魔しに来たわけじゃないんですよね。あはは……」
 少女は恥じらうように頭を掻く。お見合いで緊張する女性のような所作はその背丈に相応しくない。思わず、制止をかける言葉が口をついて出そうになったが、すんでのところで嚥下

する。
 勝手にひとりで盛り上がっていた少女は、典明の無感情に冷えた視線に気付くと、閑話休題、という風にひとつ空咳をし、再度、居住まいを正した。
「えっとですね、わたし、自分のことをよく覚えてないんです。記憶喪失ってやつですかね。一年ぐらい前に海辺の町で目覚めたんですけど、それ以前の記憶がなくって、あれあれ、な

んでわたしこんなところで寝てるの? って感じだったんです。着てる服もぼろぼろだし、周りを見渡しても全然知らないところだし、通行人の皆様も当然知らないひとばかりだし、う

みねこもぴいぴい鳴いてるし、どうしようどうしようってなっちゃって。
 そのあと町を彷徨ってたら、優しいお兄さんが家に泊めてくれてラッキーだったんですけど、いつまでも泊められないってことで、半月くらいでおいだされちゃいました。でもでも、

当分の食事に困らないぐらいのお金と代えの衣類を恵んでくれたんですよ? 
 で、そのあとわたしは自分が誰かを思いだす為に、電車に乗ったんです。なんでかって言うと、その町は自分の住んでた土地じゃないから、自分はどこか違う土地からここに来たはず

なんだろうなって思って、それなら電車で移動して来たんだろうなって判断したからです。スカートのポケットに定期券も入ってましたし……まあそれは期限切れてて使えなくなっちゃ

ってたんですけど」
 少女は、立て板に水の如く一気呵成にまくしたてると一度言葉を切り、活発に肩を上下して酸素を補給した。この女、部屋にあげてから、水を得た魚のようにテンションが上がってな

いだろうか。先刻の玄関先でのしおらしい態度はどこへ雲散霧消したというのだろう。発言内容の真偽を吟味する以前に、典明には、その態度が気にかかってならなかった。
「それで?」典明は苛立ちを隠そうともせずに、険のある表情で続きを促した。
「で、ですね……定期券の乗車駅地点まで乗り継いできたんですよ。そこで降りてみたら、すごく見覚えのある場所で。ここはわたしの住んでた場所に違いないって確信しました。それ

でも住所の詳細まではあと一歩のところで思い出せなくて、結局お兄さんに戴いたお金で漫画喫茶に滞在することに決めたんです。それで毎日町に出て、わたしに心当たりのあるひとを

探し続けてきました」
「それでようやく見つけたのが俺、ってことか」
「ええ、そうなんです! よかったあ、分かってもらえて」
 今にでも握手を求めてこんばかりに、爛々と眼を輝かせた少女が、上半身をずいっと乗り出してくる。
「その話、信じると思うか?」
「だって部屋にあげてくれるってことは、わたしのことを信用してくれてる証拠でしょう?」
「そこはそれだろう。吐くならもう少しましな嘘を吐け」
「ええっ、信じてくれないんですか?」
「最初に言っただろ、君みたいな子に心当たりはないって」
「そっちになくても、わたしにはあるんですよ」
「そっちにあっても、俺にはないんだ」
「じゃあわたしの直感は何だったんですか。わたしは誰なんですか」
「知らん。自分の胸に訊くんだな」
 強いていうのならば、典明にはひとつだけ心当たりがあった。彼の妹である、榎本麻衣だ。しかし麻衣は少女のような特徴的な外見ではないし、何より、既に亡くなっている為、真っ

先に可能性からは排除されていた。
 それにしても、少女の目的が理解できない。典明の部屋を訪ねたのも、下手な嘘を吐くのにも、必然性が感じられない。もしかすると彼女の述懐は真実なのかもしれないとも一瞬考え

るが、そんな荒唐無稽な話を受け入れられるはずもないと、かぶりを振って考えを打ち消す。
「……君の目的が何かは分からないけれど、とりあえず今日は寝床を貸してやるから、ほとぼりが冷めたら出て行ってくれ。家出なら親御さんが心配しないうちに帰ったほうが良いし、

なんにせよこんな夜遅くに外を出歩くもんじゃない。この間も誘拐事件があったばかりだし、最近はこの辺りも物騒だからな」
「心配してくれてるんですか」
「俺もこころない鬼畜ではないからな」
「でもわたしのことはご存知ない、と」
「しつこい女は嫌いだ」
 少女は拗ねたように頬を膨らませ、黙り込む。
 感情表現の豊かな奴だ、と典明は閉口せざるを得なかった。
 衣服を脱ぐよう促すと、嫌ですエッチですと拒否する少女と数分間に亘るひと悶着。なんとか宥めすかして入手した衣類を洗濯機に放り込み、一糸まとわぬ当人は風呂に押し込む。女

性用の寝衣など当然所持していないので、サイズなど度外視して典明のものをあてがう。そして一枚しかない布団を提供して完全に寝入るまでの様子を窺い、至れり尽くせりの奉仕は終

了した。
 犬や猫を拾ってくるのとはまるで訳が違う。身許も知れぬひとりの人間を、これからどう扱えばいいというのか。畳に身を横たえた典明は、前途多難だ、とひとりごちた。
 汗や湿気を孕んだい草のにおいが、空調の風に運ばれて鼻孔に流れ込む。
 堅牢に築かれた生活の香りだった。
 降りやまない雨は明けない夜を予感させ、いっそう不安を煽る。
 今後の行く末に思いを馳せながら輾転反側しているうちに、典明は次第に、眠りの淵へと引きずり込まれていった。

        2

 彼女が初めて自分の在り方に違和感を覚えたのは、小学五年生のときだった。
 きっかけは、午後の昼休憩時の、友人ふたりとの他愛ない日常会話。
 来月行われる予定の林間学校で誰に告白するか、をテーマにした女子間の作戦会議でのことだ。
 ――宏樹クン、かっこいいよね。
 ――うん。足も速いし、面白いし。
 ――テストはイマイチだけど、完璧じゃないとこがまたいいよね。
 ――でも、三組の中原さんと付き合ってるって噂聞いたよ?
 ――えっ、そうなの? それ誰情報?
 ――いやあ、なんか美咲が言ってたよ。放課後手繋いで帰るとこ見たって。
 ――あー、帰る方向一緒だもんね。もしかして宏樹と中原さんって家近いの?
 ――らしいよ。一年んときから幼馴染だったんだって。
 ――うわ、なんかショックだなー。それもう完全に出来上がっちゃってんじゃん。
 ――でもほら、千絵は可愛いからもっと他のカッコイイ男子がいるじゃんか。
 ――そんなことないよお……ってか、さっきからずっと黙ってるけど、さっちゃんは誰狙ってるの?
 唐突に自分に話が振られ、彼女の身体は強張った。同じ机を囲んでいる以上、自分だけ会話に参加しないというわけにはいかない。ただ、間髪を容れずに提示できる回答は、あいにく

持ち合わせていなかった。
 周囲を見渡せば、常日頃の休憩時間なら人目を憚らずに大声を上げて歓談している女子たちも、こころなしか声を潜めて言葉を交わしている。自分たちだけでなく、他の女子たちも似

たような話題に浮足立っているのは一目瞭然だった。しかし、彼女はいまひとつ話題の波に乗り切れない感があり、居心地の悪さを感じていた。
 彼女はわざとらしく顎先に手を添え、視線を右上に逸らす。
 低く唸ることで迷う素振りを演出してから、
 ――うぅん……大野クンとか、かな……?
 その場しのぎの嘘を口にする。倍率もそこそこに高い無難な名前を挙げたが、むろん彼女は本心からその男子に白羽の矢を立てたわけではない。だが彼女の内心の動揺と焦燥は誰にも

気づかれず、会話は円滑に進行していった。彼女はほっと胸を撫で下ろす。
 ――あぁ、わかるよ。大野もいいよね。さわやか。
 ――それね。フンイキがいいよね。
 ……………………。
 …………。
 ……。
 その場の会話はなんとかやり過ごすことが出来たが、それでもどこか腑に落ちないものを胸に抱えたまま、彼女はその日の帰路を辿った。
 男子の誰にも興味が沸かない自分は、おかしいのだろうか。
 クラスメイト達が好んで視聴しているドラマや楽曲では、やたらと純粋な初恋や苦い失恋が表現される。けれど、そこに描かれる関係や感情の流れに、彼女は全く共感することができ

なかった。男子に羨望を懐くよりも、女子の友人たちと取るに足らないような会話をしている方が、余程楽しい。
 こんなことを友人に話せば一笑に付されてしまうだろう。それを十全に理解している彼女は、しかし、近頃になって日増しに強まる違和感を、誰にも打ち明けることはなかった。

        3

「――という夢をみたわけなんだな」
 典明が昨夜の顛末をすべて語り終えると、相模司は軽い調子であしらった。
「違う。夢だったらどれだけよかったことか。あの女、今朝だってひとの気も知らずに鼾かいて寝てやがったぞ」
 典明は烏龍茶のグラスを呷りつつ、自棄気味に切り返す。
 グラスの底で身を寄せ合う氷がからころと鳴いた。
 月末の給料日後ということもあってか、居酒屋店内は日頃よりも多くの酔客で賑わっている。まだ日も完全に暮れ落ちていないというのに、すでにタチの悪い酩酊感が場の雰囲気を席

巻している。気の早い酔客たちの喧噪に呑まれぬよう、勢い声量は大きめになっていた。
「典明みたいな冴えない男の家に幼女が転がり込んでくるとか、そんな都合の良い話が現実にあってたまるかってんだ。こういう妄想と現実をごっちゃにするやつが、犯罪行為に手を染

めて我が国の治安を腐敗させていくんだ。市民にも逮捕権があることをゆめゆめ忘れるんじゃないぞ」
 傾けられたグラスが鈍い照明を照り返した。
 司は琥珀色のモスコミュールを喉に流し込みつつ、怪しい呂律で典明を滔々と面罵する。相変わらず抑制の利かない奴だ。司とは高校時代からの付き合いである典明は、その性格を充

分に承知している為、今更なにかをいう気にはならない。
「あのなあ……俺はお前みたいなロリコンとは違ってだな。健全な肉体に健全な精神を宿してるんだ」
「なにを失敬なっ」司は眉を顰め、呆れながらも説き伏せようとする典明を言下に遮る。「僕はあくまで二次元の女の子が好きなだけで、彼女らに捧げられるそれは崇高かつプラトニッ

クな愛なのだ。リアル幼女を汚いぼろアパートの一室に連れ込むような典明の品性下劣な魂とのあいだには、天と地ほどの差があると知れ」
「その割にはお前が『嫁』と呼称して憚らない女の名前は数か月ごとに変わっているようだが、それが崇高な愛とやらなのか」
「おたくは一夫多妻制を生きているのだ」
「生涯独身制の間違いじゃないのか」
「ぐう……」
 司の口からぐうの音が出たところで、閑話休題。アルコールが飲めない典明は飲み干した烏龍茶を再び注文する。その習性はすでに面前の友人も知るところで、お前も酒を飲めよ、と

言われなくなって久しい。
「それにしても、今後どうするんだ」
 司が機先を制し、脱線した会話を原点に立ち返らせた。
「それな……ほんと、どうすりゃいいんだ」
 一瞬だけ忘れていた喫緊の課題が、暗雲となって典明の胸中に居座る。すぐに届けられた烏龍茶を呷っても、泥濘に足をとられていくような感覚は打ち消せない。
「このあいだの誘拐騒ぎだって、犯人も被害者もまだ見つかってないらしいじゃないか。説得して出て行かないようなら、大人しく警察に引き渡したほうが身のためだぞ」
 司の発言は、暗に冤罪の可能性を示唆していた。
 彼らの住む地域において、去年、そして今年と、立て続けに二件の誘拐事件が発生している。被害者の両親は一心に情報提供を請うビラを配り続けているが、犯人の目的、被害者の消

息ともに杳として知れない。警察の発表では二件の事件の関連性は見受けられないとのことだったが、犯人を炙りだす為に恣意的に情報を隠蔽している可能性も考えられる。事件発生当

初は執拗に取り上げていたマスメディアも今となっては鳴りを潜め、地域の住民の口端に上る回数さえ漸減していったが、事件が終わっていないという可能性は捨てきれない。
 そんな状況下での典明の行動は、傍から見ればとても賢明なものとは言いがたい。司の主張には、一理どころか百理ぐらいはありそうなものだった。
「まあ、それが妥当か……そうなんだよな……そうなんだけど」
「だけど? なんだよ、歯切れが悪いな」
「いや……家出って可能性があるだろ。というか、それが強いよな。で……仮にもしそうならさ、簡単に帰しちゃっていいのかなって思って。ほら、親が碌でもない奴だったら、やっと

の思いで家を脱出して来たのに、その決意を踏みにじることにならないかな、とか……」
「それ、典明が考えることか?」驚くほど冷徹な声色で、司はぴしゃりと言い放った。
 急速に色を失った司の眼光に射竦められ、典明は返す言葉を失う。
 そこに追い討ちをかけるかのように、司は続けた。
「情が移るのは悪い事じゃないけどさ、それよりも自分の身を第一に考えるべきなんじゃないのかな。そろそろ将来設計も真剣に視野に入れてかなきゃいけない時期だし。同じ学部の連

中が企業説明会に足運んでるの見てて、いつまでも他人事ではいられないでしょ?」
 ……若さを言い訳に行使できる自由なんて、もうどこにもないんだよ。
 静謐な現実が明白な言葉として形を成し、典明の胸奥を抉った。
 いまのままではいけないという焦りは、確かにあった。だが同時に、未来のことなどその瞬間が来るまで保留しておけ、という根拠のない余裕も存在していた。その余裕が、アパート

の暗然とした一室に、彼を閉じこめてきた。将来から目を逸らし、いまだけを生き切るという自己欺瞞は、埃となって空間に堆積していき、足をつけていたはずの地面を覆い隠していく

。それら微細な塵芥のあえかな輪郭が、たったいま、日の下に晒されようとしていた。
「……そんなこと、お前に言われるまでもない。知ってたよ。二十歳を迎えて成人したからって、自動的に大人に昇格できるわけじゃない。あれは、子供の国から追い出す最後通牒みた

いなものだった。……だったら。行き先を教わらずに国を追放された子供は、どこに向かえばいいんだ」
「ピーターパン症候群っていうだっけ、そういうの」
 司は軽くいなす。また駄々をこね始めた、ぐらいにしか捉えていないのだろう。不憫なものを見据える瞳だった。
「学者はなんにでも名前を付けたがるんだな。そうやって世界を言葉で塗りつぶして、逃げる余地を奪ってく」
「名札をつければ仲間がどこかにいるんだって認識が生まれるからね。他者の存在は安心に繋がる」
「似た者同士で傷を舐め合えってか。別に自分と似たような他人がいたところで、何の解決にもならないだろうに。結局、自分は自分以外の何者にも成れない。……笑わせてくれるな」
「……典明、そうやってまた逃げようとする」
 詭弁を弄しても、見透かされるだけだ。司は怜悧な人間で、他人の扱い方というものを心得ている。課題は提示しても、回答は与えてくれない。それを冷徹と取るかフェアと取るかで

、個人の自身に対する誠実さが測られる。
「素性も知れない女を匿うなんて、ほんと、最近の典明はどうかしてる」
「そうかもしれないな。水瀬にふられてから、どうも調子が悪い」
「……へ?」
 司の、何もかもお見通しというような、余裕のある表情が一瞬にして崩れた。驚愕は当惑に転じ、次第に静かな怒りの熱を生みだす。次の台詞が安易に予測できた典明は、窓外に一瞥

をくれた。いつの間にか、夜の帳が下りてきている。冬の日没は早い。
「なんで黙ってたの」
 あまりに予想通りの一言に思わず苦笑が洩れそうになるが、火に油を注ぐような真似は慎む。
「聞かれなかったから」
 月並みな返答。表情を窺うと、どうやら鎮火していっているようだった。呆れか、諦めか。どちらともつかないが、懸命に感情に自制をかけている様子は見て取れた。
「付き合うときの相談とか乗ってあげたんだから、別れるときぐらい報告してくれてもいいじゃんか。哀歓ともにした数年来の親友だろ。隠し事はなしにしてくれよな。……というか。

だから女の子連れ込んだって言うの? そんなちゃちな動機でルビコン川を渡るつもりなの?」
「連れ込んだわけじゃなくて、向こうが勝手に来たんだ」
「言い訳は聞きたくないけど。なんで水瀬さんと別れたの」
「なんか、俺といても楽しくないらしい」
 さもありなん、というふうに司は頷く。
「典明は感情表現が下手だからね。何考えてるかわからないから、相手するのが難しかったんでしょ。……僕は長い付き合いだから全部わかるし、一緒に居て退屈なんてことはないんだ

けどさ。良き理解者に恵まれて幸運だったと思えよ」
 いささか癪に障る言い方だったが、指摘自体はもっともだ。典明は、他人の前で自分の感情を曝けだすのを厭うきらいがある。自覚はあっても、今更になって生き方を是正しようとは

考えられない。
「そういうお前は誰か交際相手を見繕う気はないのかよ」
「僕には二次元の女の子たちがいるからいいんだよ。もしかして、水瀬さん貰っちゃっていいのか? それとも、典明が相手してくれるのか?」
「ぞっとしない冗談はやめてくれ」
 司はグラスを傾けてひと息に呷り、中身を空にした。
 それに従い、典明も残りを飲み干す。
「……ま、難しいお年頃だよな、君も。同情はするよ。僕はそろそろ時間だから帰るけど、そっちはまだ飲んでくの?」
「いや、お前が出るなら一緒に会計するよ」
 そうして歓談は幕となった。
 結局、典明の相談に対して快刀乱麻を断つような指針は与えられなかった。それでも、他人に打ち明けることで、自分なりに考え直すべき事柄が浮かび上がったのは確かだ。
 店を出ると、町はすっかり闇に覆われている。昨晩に引き続き、憂鬱な雨が地を打っている。
 当分冷え込みそうだね、と司が零した。典明もそれに迷わず首肯する。
 それからは、いささかおぼつかない足取りの司を駅まで送って別れを告げ、駅前のレンタルショップとコンビニエンスストアに立ち寄ってから、アパートへと踵を返した。

        4

 彼女の母親は、敬虔なキリスト教徒だった。
 幼少期には就寝時に絵本代わりの聖書を読み聞かせ、毎週日曜日には彼女を連れて教会へと赴くのが、日常となっていた。近所の公立中学に進学した彼女はそれまで参加していた子供

向けのバイブルクラスを卒業し、大人の礼拝に参加して牧師の説教を聞き讃美歌を歌うようになったが、周囲との軋轢が生まれはじめたのは、その頃だった。
 自分が決定的に周囲と違う人間だと自覚したのは、中学一年生時の五月だった。
 ――さっちゃん、今度の日曜日みんなで映画観に行かない? あと、服も買いに行きたいし。
 教室内に漂う新学期特有の緊張感もようやく緩和されはじめた頃、彼女は友人から初めて遊びの誘いを受けた。
 ――でも、日曜日は用事があるから。誘ってくれるのは嬉しいけど、また今度の機会に。
 その頃の彼女は既に、「教会に通っている」「神様を信仰している」自分のほうが少数派という事実に薄々と気付いていた。周囲の女生徒たちも占いや御呪いといった宗教的なものに

支配されているようにみえたが、彼女のそれとは存在の濃さが異なる。それを自分からすすんで他言するようなことがあれば、どんな反応が返ってくるかは予測できる程度には、成長し

ていた。
 だが、そこで流れると思った会話は彼女の意に反し、続けられた。
 ――えぇー、じゃあ次の週は?
 ――その日も予定が入ってて……ほんとにごめん。
 女子社会における友人関係至上主義は、小学生時代を経てすでに体得している。けれど、それ以上に、彼女は母を裏切りたくなかった。

 

 かつて、母への反発を口にしたことがある。
『イエス様の話なんて、もう飽きた。学校のみんなに話したら、こんなことしてるのうちだけなんだって、馬鹿にされたよ。神様なんていないんだって。馬鹿らしいって。そういうの、

ゲンジツトーヒって言うんだって』
 それまで糊塗してきた感情が、毒々しい色を帯びて洩れだした瞬間だった。
 ママ、怒るかな。反抗的な言葉を口に出したのは、初めてだ。いくら寛容の精神を持ち続けよと説かれても、流石に主を否定されれば手をあげることもあるかもしれない。そう思い、

彼女は瞼で視界を黒く染め、小刻みに震えながら俯いた。
『……どうして?』ぽつりと、水滴を垂らすような呟きだった。
 心臓の底辺が、きゅっと摘ままれる。
 予想外の反応に、彼女は思わず面を上げ、母の顔を見据えた。その刹那、つ――と、真珠に似た雫が母の目許から溢れ、頬にひと筋の線を引いた。それを拭うこともなく、母は訥々と

語りだす。
『あれは、成功率の低い手術だった。あなたがまだお腹のなかにもいない頃、病は着実に心臓を蝕んでいた。お医者様にも、覚悟はしておいたほうが良いってしつこく念を押されたわ。

子も成していないし、やりたいことだってたくさんあった。なのに、簡単に奪われるんだなって……ヒロインが死ぬようなドラマなんて下らないと思ってたのに、いざ自分の身になると

、これほどに辛いことはないんだってわかった。
 怖かった。
 泣きたいのに、そんな安易な行為に逃げ込むことさえ許さないような恐怖に襲われた。それよりもっと若い頃に自殺を図ったことがあったけど、そのときも、なにも理解できてなかっ

た。日常の裏側に、暗い死は常につきまとっていて、それがいつ裏返るかなんてわからないというのに、目を逸らしてきたんだって。そんな自分の弱さを、思い知らされた。
 だから、一命を取り留めたとき。あなたには意味があるって、執刀医がそんなひと言を口にしてくれたとき。運命の存在を、奇跡の存在を……神様の存在を、信じたくなったの』
 それ以来、彼女が母に反意を訴えることはなくなった。

 

 そうして友人からの誘いを断り続けているうち、彼女は次第にクラスでは浮いた存在になっていった。小学校時代よりもグループ同士の分化が顕著な教室において、カースト下層のナ

ードよりかは階層外のフローターに近いポジションを獲得することに腐心し、なんとか、最下層で虐げられるターゲットの座は免れた。
 お嬢様は庶民とのお戯れには興味がないんだって。
 かつての友人によるそんな揶揄も耳にしたが、担任がシビアな人間という影響もあってか、それがいじめという感情に発展しなかっただけ、幾分かましであった。
 部活にも入らず、クラスメイトとも距離感のある彼女は読書を嗜むことで休憩時間を消費した。母に勧められた三浦綾子や遠藤周作の小説を教室に持ち込み、眼光紙背に徹する時間は

、決して心地の悪いものではなかった。
 母には信仰を友人にも広めたらどうかと提言されたが、流石にそこまでいくと、余計に浮いた存在になる。他人から嫌われること自体は大したことではないが、自分の身に危害が及ぶ

ようなトラブルは極力避けたい。
 それが、幼い彼女の処世術だった。

        5

 自室の扉を開き、上がり框に腰を下ろした瞬間、ポケットのなかのスマートフォンが振動した。典明はただちにそれを取り出し、着信に応じる。
『あ、典明ですか? お母さんですけど』
 他人行儀な口振りに、典明の神経は逆撫でされる。実情、顔を合わせなくなってから久しいのだから、正しい態度なのかもしれないが。せめてそっちだけでも家族ごっこをやめないで

くれよ、と毒づきたくもなった。彼は威圧的な無言で続きを促した。
『本日、夫が息を引き取りました』
 たったひと言で済まされた報告は、さしたる衝撃や感慨も伴わず、胸の裡のしかるべき部位にゆっくりと落ちた。
「自分は『お母さん』なのに、あんたの夫は俺の『お父さん』ではないんだな」
 予期していた事態でもあり、長らく望んでいた事態でもある。
 だから、直接的な皮肉を放つ余裕もあった。
『……だって、それはあなたが認めなかったことじゃないですか』
「死んだからって二階級特進して父親にランクアップ、ってわけにもいかないからな。それより、前に言ったこと、覚えててくれてる?」
『葬式には欠席する、という件ですか』
「ああ。赤の他人の葬儀に出席するほど暇でもないからな」
『気は変わりませんか』
「揺るぐ気配なんて微塵もないな」
 無言。浅い息遣い。扱い方に困った感情を捨てるかどうか思案しているのだろう。
 母が昔から繰り返し典明に見せてきた表情は、未だに、熾火のように、脳裏に焼き付いている。憂鬱と倦怠感を乗せて虚空を見やる視線は、親子間に交わされてしかるべき交流を、少

なからず奪っていた。典明が助けを求めたいとき、教えを乞いたいとき、母はいつも自分の身のことで迷い続けていた。そのせいで、いつだって彼は悩みを自分のなかに閉じこめざるを

得なくなる。結局、彼女に何を惑うことがあったのか、理解することは叶わなかったが、今となっては考えても詮無いことだ。
『分かりました。……兎に角、報告はしておいたので』
「ご苦労様」
 短く告げ、通話を切る。それ以上、彼女の痛ましい声を耳に入れたくはなかった。
「お母様、ですか」
 いつの間にか背後に立っていたらしき少女が、遠慮がちに声をかけてくる。
「盗み聞きなんて趣味が悪いな」
 今は自分ひとりの部屋ではなかったという事実を、典明は一時的に、完全に失念していた。
 不覚を取ったか、と、内心で臍を噛む思いになる。
「わたしはただ、帰ってきたようなので、お出迎えしようと……」
 両手のひと差し指と親指の腹をくっ付けて作った菱形を腹の前で伸縮させながら、少女は言った。
「まあいい。聞かれたところでどうってこともない話だ」
 少女は何か反駁しようと口を開いたが、すんでのところで、競りあがった言葉は呑み込まれたようで、形の良い唇からは浅い呼吸だけが洩れる。典明の剣呑な気配に、いささか怖気づ

いている様子であった。
「弁当買ってきたから、食うか」
 少女の不安と誤解をほぐすように、なるべく穏やかな声音で典明は告げた。

 

 畳に腰を下ろして座卓を囲み、義務的な所作で、箸を動かす。砂を噛んでいるかのように無味の弁当をふたりして咀嚼する音だけが響くなか、沈黙を破ったのは典明だった。
「麻衣を――妹を殺した男が、ようやく死んでくれた」
 昨日とは異なる典明の様相を察してか、少女は口を挟まずに彼の陳述に聞き入った。

 

「どうしようもないクズだったよ、あいつは」
 典明の父は、アルコールを摂取すると前後の見境がなくなり、妻を殴る男だった。
 かねてより営業がメインの業務だった彼が中間管理職に移されてからは、部門業務の進捗状況の確認や上役への報告を書類として纏める仕事が増えていった。しかしそれまでPCとは

無縁だった彼はワードやエクセルの用法につまづき、さりとて、ひと回り下の社員に訊ねるのも矜持が許さなかった。結果的に自分で一から操作方法を学ぶことになったが、資料の作成

は遅々としてはかどらない。効率的に業務を進められないことで上司に叱責を受け、更に、部下の犯したミスの責任まで取らされる。そんなことが、繰り返された。
 ――俺は、こんな目に遭う為に就職したのではない。
 彼は自分でもあずかり知れぬうちにストレスを堆積させて行き――
 それが遂に容量を超えたのは、部下から「会社を辞めたいのですが」と相談を持ち掛けられたときだった。
 ――辞めたいのはこっちだ。
 怒号を飛ばしたいという感情をぐっと堪える。社会的体面が、そうさせた。自分の苦痛はおくびにも出さず、社員の損失を防ぐ為に稀薄な言葉を並べ、なんとか考え直してもらうこと

に成功する。しかし、そんなことに時間を浪費している間も、先延ばしにしていた作業はより遅延していった。
 上役には良いように使われ、部下は成果を残さない自分を棚に上げて責任だけ押しつけてくる。与えられるのは割に合わない報酬と振り払えない疲弊だけ……気が狂いそうだった。
 果たして、彼が鬱積した怒りをぶつけたのは、家庭のなかだった。
「俺と麻衣は、食器の割れる音に怯えて肩を寄せ合って眠る夜を何度も過ごした。何度も近所から通報されて……肩身が狭かった」
 間歇的に暴力の波が起こり、衝動が収まると「もう二度としない」と地に額をつけて謝罪する。彼を不憫に思った母が赦せば当分の間は安寧が保たれる。しかし十日も経たぬうちにそ

れは再び始まり、母の身体には切り傷と青あざが増えていく。麻衣が両親の間に入って止めようとしたときには、力の矛先がそちらへと向いたが、典明が身を挺して妹を護った。
 ――あの男は俺たちの親じゃない、赤の他人が家に這入りこんできただけなんだ。
 典明は、麻衣と、そして自分自身に、そう言い聞かせた。幾度となく言葉にするうちに、それはふたりにとっては紛れもない真実となった。
 ――でも、母さんには言っちゃだめだ。母さんは、あんなクズでも信用してるから。
 典明と麻衣は、父を『居候』と称した。ただ食事を得る為だけに赤の他人の家に住まう、居候。あの男と同じ血が、自分のなかに流れているはずがない。そう思い込むことで、彼らの

心中には平安が保たれた。
「でも、ふとした瞬間、食事のときだったかな」
 母の前で父に対し、居候さん、と麻衣が呼びかけた。
「母さんがキレたのを見たのは、そのときが初めてだった」
 ――自分の父親に対してなんてこと言うのあんたはっ。
 父が言い返すより先に、母が箸を投げつけた。
 麻衣は悲壮感に顔をくしゃりと歪め、途端に泣き出した。
 ――でも、お兄ちゃんがあんなやつ家族じゃないって言ってたもん。
 ――典明、あんた本当にそんなこと言ったの。
 母は憤怒の形相を浮かべたまま、典明の方へ首を回した。しかし彼は物怖じすることなく、強気に言葉を投げつけた。
 ――だって、そうじゃないか! こんなクズの子供だったら、俺たちまでクズってことになるじゃんか! そんなの俺、絶対嫌だよ!
「そしたら母さん、何したと思う? 棚から戸籍謄本取り出して、このひとは間違いなくあなたの生みの親なの、って怒鳴ったんだよ。おかしいよな。なんであいつのほうを庇うんだよ

って話だよな」
 そうして、幼いふたりを現実から守っていた脆い嘘が、音も無く崩れだした。
 麻衣は翌日家を飛び出し、
 失踪届は七年間もの年月を経て死亡届へと変わり、
 典明が彼女の姿を目にすることは、二度となかった。
「俺は、絶対にあの男を認めない」
 そう締め括る典明の瞳には、瞋恚の焔が冷たい熱を宿していた。

        6

 洗礼を受けていない彼女は、母とは異なり、信仰心が特段強かったわけではないが、教会に通うこと自体は嫌いではなかった。相も変わらず異性に対する興味も湧かず、同性の友人も

いない彼女にとって、学校は居心地の良い場所とは言えなかったからだ。
 常時開放している会堂の扉をくぐると、簡素なつくりの空間が広がっている。極彩色のステンドグラスが陽光を幾重もの筋に分けて編み直し、床を埋める朱色の絨毯に陰影をつけてい

るようなカトリック教会とは異なり、内装に華美な装飾は施されていない。カトリック教会における聖母崇敬を、『キリスト教では禁じられているマリア崇拝に繋がるのではないか』と

批判しているプロテスタント系の教派である為、偶像崇拝に値する彫刻像は設置されていない。会堂内を満たす空気はやわらかく、日常からの解放感を享受できる。彼女は、その独特の

雰囲気が気に入っていた。
 教会には、彼女と同様に親に引き連れられて訪れる子供が、ちらほらといた。となれば、子供間でのコミュニティが出来上がるのも自然な流れで、学校では交友関係を築けていない彼

女にも、こちらでは親しい友人が数人いた。
 そのなかでもとりわけ彼女と深い親交を結んでいたのは、柳ヶ瀬双葉という年下の少女だった。基本的に服装に関する規則が存在しない為に瀟洒なファッションに身を包んで礼拝に参

加する双葉は、素封家であり厳格な性格の父を持つ次女であった。近ごろ三女を身籠った双葉の母は、双葉を教会のデイケアサービスに預けつつ、足繁く胎教教室に通っている。
 手広い商いでひと身代を築いた双葉の父は宗教的な要素を嫌い、母とは円満な関係ではないと、彼女は双葉の口から聞かされた。双葉は、夫婦間の軋轢、そして、新生児に熱を傾けて

いて、余り自分を構ってはくれない母の態度に常々悩まされていると話す。えも言われぬ居心地の悪さ、あるいは現実における居場所の狭さへのシンパシーが、ふたりの仲を取り結んだ

のだった。

 

 彼女は週に一度、双葉を自宅に招いた。
 税金対策の為に平屋の上に増築した階層に、彼女の私室がある。生活感の希薄な、整然とした小部屋であった。
 会う際には、彼女たちは本屋へ赴き、ふたり分の小遣いを出し合って漫画本を購入するのが通例となっていた。
「お母さんはこういうの読んじゃ駄目って言うんだけどね」
 双葉は吸血鬼を題材にした漫画本を好んでいた。
 かつて、神の前における平等を標榜し被差別民に救いの手を差し伸べつつ、土着の慣習や信仰を吸収しながら全世界に版図を広げたキリスト教は、政策上、その教義に相容れない存在

や異教の神々を十把ひとからげに敵対物と見做した。
 一方、キリスト教文化圏では遺体は火葬されることなく埋葬される習慣が存在する為、これが『死後蘇生する不死身の存在』のイメージ構築にひと役買うことになる。そうして十八世

紀当時のヨーロッパにおいて、スラブ人の民間伝承に端を発し、恐怖の代名詞としての『ヴァンパイア』の存在が、巷間に流布されることになった。巻き起こった論争に対して教会がこ

れの存在を認めると、ヴァンパイアはキリスト教の敵対者とされた。現代にも通ずるヴァンパイアという存在が十字架や聖水を弱点とするのは、この名残である。なお吸血鬼伝承そのも

のは古来から存在するが、ヴァンパイアという名称が民間で使用されるようになったのは、この頃合いであった。
 双葉がこれらの創作物を好んだのは、自分を余り相手にしない母への反発心が発端だった。親の言いつけに背く背徳感を双葉は非常に愉しみ、彼女とふたりで感覚を共有するのが何物

にも代えがたい美味を覚えさせていた。

 

 長いあいだ秘密を共有し、環境からの疎外感を埋め合ううちに、彼女は自分の裡に、双葉に対する新たな感情が芽生えているのを感じた。
「――ねえ、双葉」
「んー、なぁに?」双葉は、いささか舌足らずの口調で、彼女の呼びかけに応じる。
 自分だけに対して向けられた無垢な視線に、とくんと胸が高鳴る。
 双葉を、自分だけのものにしたい。
 愉しい時間を、永遠に引き延ばしたい。
 しかし、彼女はその感情を巧く言語化する語彙を持ち合わせていなかった。
 それは温かく、尊く、手の届かないものと知っていてもなお求め続けるような――
「いや、やっぱりなんでもなかった」
「そっか、変なの」
 彼女は自分のなかに穿たれた穴から目を逸らし、ぎこちなくこしらえた笑顔で感情を塗りつぶした。

        7

「すみませんでした」
 全てを話し終えて虚脱した様子の典明を前に、少女は短く零した。
「なんで君が謝るんだよ」
 彼女はそれに答えず、気まずそうに顔を逸らす。
「別に、俺が話したいから話しただけのことだ。君が謝る必要なんて全くない」
 一音一音が空虚な響きを伴っているのは、典明自身も理解していた。だからと言って、彼女に与えてしまった緊張感を放置しておくわけにもいかない。父の訃報に歓喜してうっかり内

情を吐露してしまったが、今となっては後悔の種でしかなかった。
「あの……えっと、DVD借りて来たから、映画でも観ようか」
 場違いな発案ではあっただろうが、典明はそれ以外に気まずい沈黙を打破する方法を思いつけなかった。

 

 ふたりで身を寄せ合い、デスクトップPCの液晶画面に視線を集中させた。以前の住まいでは某国営放送局の訪問集金を煩わしく思っていた典明は、独り暮らしを始めてからはテレビ

を購入していない為、DVDを再生できる機器はこれしかない。バラエティ番組やドラマに興味が無く、時事ニュースも検索エンジンのトップ画面を斜め読みする程度で満足する彼が、

テレビの必要性を感じた瞬間は特にない。
 あらすじも特に読まずにタイトルだけで選択した映画は、高校生の少女と吸血鬼の青年の恋愛を描いたアメリカの作品だった。母の再婚を機に転校した主人公の少女は、白く美しい肌

を持つ青年にこころ惹かれていくが、彼は少女に対して敵意を向けたり好意的に接したりと、一貫しない行動をとる。青年の不可解さに、よりいっそう興味を懐くようになった少女は彼

には何か秘密があるのだと悟り、その正体を探り始めた。そうして暴かれた青年の正体は吸血鬼一家の一員だった――というような、単純明快な物語だ。
 吸血鬼と言う題材を怖がりはしないかと、典明はときおり横目で少女のほうを窺ったが、興味津々といった様子で画面に見入っているので、ひと安心した。一方で典明の側は凡庸なス

トーリーに退屈していたが、少女が楽しめているのなら当初の目的は果たせたと思い、作品の内容とは関係ないところで感謝したくなった。
 二時間が経過してスタッフロールが流れ始めると、少女は画面から視線を剥がし、唐突に切り出した。
「あの、ですね……もしも、です。もしも、ですよ? わたしが、こういうひとだって言ったら、どうします?」
 初対面時の如く歯切れの悪い話し方だったが、不思議と苛立つことはなかった。
「今の映画の話してるのか? こういうひとって……吸血鬼に惹かれるような女の子ってことか」
「いえいえっ。そうではなく、わたしが言ってるのは男のひとのほうです」
「吸血鬼のほう?」
「はい」
 少女は自信ありげに首肯するが、典明には彼女が何を言わんとしているのかが、全くもって理解できない。素直に問い返すと、
「だから、わたしが吸血鬼だって言ったら、どうしますかって話ですよ」
「虚言癖をこじらせ過ぎて、とうとう頭がおかしくなったか。冗談にしても面白くないぞ」
「嘘じゃありませんよっ! ……あ、いや、違う違う。仮定の話ですから。兎に角、答えてくださいよ」
 真面目に取り合ったほうが良いのだろうか、と典明は考え直す。ここで彼女を不機嫌にしてしまっては、元も子もない。彼は不承不承、答えた。
「えっと……噛まれたらやだなぁ、とか思うかも」
「嫌なんですか?」
「嫌なんじゃないかな。だってこっちも吸血鬼になるんだろ? 俺はまだ人間でいたいし」
「人間だったんですか」
「君よりは人間やってると思うけどな」
「わたしがうまく人間やれてないみたいじゃないですか」
「もう一歩だな」
「精進します……ではなくっ! 真面目に聞いてくださいよ、もう」
 期せずして野生のノリツッコミに遭遇した。おお、と思わず感嘆が洩れる。猿に芸を仕込む曲芸師の気分だったが、指摘すれば『誰が猿ですかっ』と鼻の穴を膨らませる様が浮かんだ

為、自重した。
「じゃあ逆に、何をすれば信じてもらえるんですか?」
「それ、まだ続いてたのか」
「ちゃんと付き合ってくださいよ。さあ」
「ん……証拠を見せれば信じるんじゃないか。この映画の場合、日光が肌に当たると黄金色に発光するっていうのが証拠だったろ。結局、この現実で証拠に勝る物なんて無いからな」
「なるほど。証拠、ですか……」
 少女は頬に手を添えて沈思黙考を始めた。なにを本気になっているんだ、と典明は思ったが、口にはしなかった。
 それから数分間考え込んだ後、少女はおもむろに面を上げると、「もう寝ます」と宣言した。典明が呆気にとられているうちに彼女は布団に潜り込み、直ぐに穏やかな寝息をたてはじ

める。
「……くそ真面目に待ってた俺が馬鹿だったか」
 誰に向けるともなく呟くと、典明も畳に横になる。
 時刻はとうに午前零時をまわっていた。
 

 誘拐事件の被害者の遺体が発見されたのは、二日後の朝だった。