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     二章

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 鏡に囲まれた部屋のなかにいた。
 鏡に映るあなたが反射して違う鏡に映り、その奥にも映り、それが無限に繰り返されていた。
 あなたは部屋の中心にいる本物に『自分』と名付け、
 それ以外の鏡像を『他人』と名付け、
 そこで、死ぬまで呼吸をすることに決めた。

        1

 彼女が第二次性徴期を迎えたのは、平均年齢よりも遅い、十二歳になった頃だった。初潮を迎え、乳房と臀部が膨らみを帯び始めたそのとき、自分が『女』という型に嵌められて凝固

していく様を、否が応でも自覚せざるを得なかった。
 月経が訪れるのが嫌だった。胸が膨らむことに、違和感があった。同級生の女子のように着飾ることが、余り好きではなかった。髪を伸ばそうと思えず、定期的にベリーショートに切

り揃えた。それらの感情や行動に系統立った理屈をつけることが出来ないまま彼女は成長したが、双葉と出会うまで、深刻な問題としてとらえることはなかった。
 だが、見過ごしてきたアンビバレントな感覚は、今となって彼女の喉元に刃先を突き立てる。

 

 信徒からの相談を受けるために設定された面会時間を利用し、彼女は牧師の許を訪ねた。彼は平日は、教会に隣接する牧師館に滞在している。教会同様に固定資産税の免除された施設

だが、お世辞にも綺麗な外観とはいいがたい。
「先生、聞いてくださいますか」
 スーツに身を包んだ流川牧師は、彼女が訪れるまで、讃美歌を小さく口ずさみながら、説教の準備の為に聖書に視線を走らせていた。
 日曜礼拝においては讃美歌を歌唱し、主に祈りを捧げ、聖書を拝誦した後、牧師による説教が行われ、信徒により献金が回収されるというのがオーソドックスな流れとなっている。儀

礼全体は一時間程度が相場だが、十五分程度で神父が説教を終えるカトリック教会に対し、プロテスタント教会では説教自体を重要視する為、牧師によっては九十分超もの長丁場となる

こともある。そういった事情もあり、毎週、聖書の記述から異なる箇所を引用した説教を構成することにそれ相応の時間と労力をかける必要がある。
 教会の集まりが無い日は、地区の集会への参加や信徒からの相談受付、信徒の家庭への訪問などに時間が割かれる。また、婚姻が認められていない神父とは異なり、牧師は伴侶を得る

ことが認められている。妻と息子を持つ流川牧師は家庭内作業にも追われていた。
 疲労の気配をつゆほども滲ませず、悠然とした物腰の流川牧師に対し、彼女は自身の心境を訥々と明かした。
 異性に羨望の目を向けることが出来なかった小学生時代。
 同級生との、事象の捉え方の違い。
 肉体の感覚から遊離した精神的輪郭。
 同性の双葉に対する、胸の熱き。動悸。後ろめたさ。
 なにか、蒙を啓くような至言が与えられるのではないかと、彼女は期待した。
 彼女の訴えが終わると、流川牧師は鷹揚に頷き、組み合わせた指先の上に顎を乗せた。
 精悍な眼差しが、彼女を射抜く。
「――前提として。人間とは、霊魂、肉体、こころより成る存在であることはきみも理解しているだろう。かつてデカルトは心身二元論を唱えたが、脳の働きとは峻別されるべき『意識

』が存在しているのは、臨死体験の研究がそれを示唆している。肉体が滅びても魂が滅びることは無いが、これらは一個の存在が併せ持つものとして切り離すことはできない」
 いささか迂遠な言い回しであったが、彼女は自分にとって益となりそうな言葉だけを探り当てる。
「精神と肉体は別のものとして考えろ、ということですか」
 彼女の質問には答えず、牧師は続けた。
「性同一性障碍のことは知っているかな。性自認……要するに、自分自身がどの性別に属するかという感覚のことだけれど、これが戸籍上の性別と一致しない状態のことを指すんだ。要

するに、『こころは女、身体は男』あるいはその逆の場合だね」
「つまり、自分は女なんですけど、精神は男性のもの、という……」
「断定は出来ないけれどね。話を聞いている限りじゃ、そうなのかもしれないと思っただけだ。――『男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌み嫌うべきことをしたのであ

る。彼らは必ず殺されなければならない』。これは旧約律法の一部だが、同性愛の話題に関しては、新約聖書においてもパウロの手紙のなかで裁きの対象と見做されている。本来は生殖

の為である行為を、我欲を満たすために利用してはならないというのが理由だ。
 中世ヨーロッパでは同性間の性交渉を行った者たちは教会裁判所の手で厳罰に処されたし、米国でも近年までは不道徳な性行為を罰する慣習が残っていた。
 しかし、私個人が聖書の叙述を根拠に他人の思想を咎めることは出来ないと思う。それに――他人との交わりは、えてして後に『導き』であったのだと理解できるときがくる。縁故と

、自分の想いを、大切にすることだ」

 

 肉体と精神は別の物である。先生の仰ることが正しいのなら、自分は男という『精神の性別』で双葉に好意を寄せているのであり、それは間違った感情では無いのではないだろうか。

彼女はかつて考えたこともなかった発想に身を置いた。精神と肉体が別の性別を持つことがあるなどと学校で教わったことはなかったし、異性間で交わされるものしか『愛情』と称して

はいけないのだと考えていた。
 周辺の環境に惑わされず、最初から自分の感情に素直に従えばよかったのだ。
 心中に長年堆積していた澱が、跡形もなく振り払われたような、爽快な気持ちだった。

        2

「なあ典明。今朝のニュース、見た?」
 一日分の講義を受け終わり帰路についた典明の背に、司の呼びかけが追いすがった。足を止めて振り返ると、猫を殺す勢いの好奇心のひかりを湛えた瞳がふたつ並んでいた。またぞろ

面倒な話を持ち掛けられそうな予感がしたが、以前相談に乗ってもらった借りもあり、そうそうむげにすることは出来なかった。
「なんだ藪から棒に。というか、お前、今日はまだ授業あるはずだろ。こんなとこで油売ってていいのかよ」
「いいんだよ、必修科目でもないし。それに、出席取らないから試験だけ受けてれば単位くれる教授だしな。それよりさ、ニュースの話。件の誘拐事件、進展したぞ」
 それは初耳だった。テレビを設置していないからか、世事にはだいぶん疎い。直接面識がある人間が攫われたわけでもないので関係は無いといえば無いのだが、近隣で物騒な事件が発

生しているのはぞっとしない話だ。典明は俄然、興味が沸いてきた。
「また誰か攫われたのか」
「いや、前にいなくなった女児ふたりの遺体が見つかったんだって。捜索願が出されてたふたりと身許が一致するものが、血液を抜かれて山中に遺棄されてたらしい。ハイキングに来て

た観光客が見つけたんだと」
「それ、進展したことになるのか」
「進展だろ。事故とも事件ともつかない失踪が殺人として断定されたんだぞ。しかも同じ場所に特徴の類似する遺体が遺棄されれたとなれば、これは同一犯で決まりだって」
 司の口調は、こころなしか弾んでいるような気がする。自分がこの事件を解決するとでも言いだしかねない勢いだ。ミステリ小説の愛好家らしいのでこの手の話題に食いつくのは分か

るが、現実に被害者が出ているのに不謹慎ではないかとも思った。
「なんだよ典明、反応薄いな」
「とは言われても、あんま実感湧かないのは事実だな……縁もゆかりもない赤の他人が亡くなったところでな」
「薄情な奴め。少しは幼い子供の死を悼もうとか思えないのか。このひとでなし、人非人。もしや貴様が犯人じゃあるまいな」
「ひどい言われようだな。俺は人畜無害かつ善良な人間で通ってるんだがな。『虫も殺せないひと選手権』があったら世界ランク常連はまあ間違いない」
「まったく、どの口が言ってんだ。このあいだもロリっ娘連れ込んでたみたいだし……そういえば、結局どうなったんだよ。家に帰したのか?」
 正直に話すべきかどうか、典明は逡巡した。ただ、ここで嘘をついても後でばれることだ。偽証が得意ではないことは、自覚していた。
「いや、まだうちにいる。自分から言い出すまでは、置いておこうと思ってな」
「は、大した悪人だ。人肌恋しさに敗北を喫したか。その口振りじゃ身許どころか名前すら知らないんだろ」
 言われてみれば、確かにそうだ。もう作りあがった状況として受け入れていたが、名前も知らないような少女を家に泊めるなんて、冷静に考えるまでもなく、不自然極まりない。他人

は信用しないことにしていたのに、どうして部屋にあげたのだろう。
 典明は、自分でも説明のつけられない意思の動きを知覚した。直情的な行動が理性に先立つ感覚など、かつて経験したことが無かった。
「無意識に、あいつの影を重ねてたのかもしれない」
 自分を説得するように、言葉に出した。
「あいつって……?」彼の心情を汲み取れない司は目をしばたたかせる。
 けれど典明は、その名を口にすることはなかった。

 

 その後ふたりは場所をファミレス店に移し、早めの夕食をとることにした。店内の座席は半分程度が空席となっている。
「そういえば昨日、キャンパスで水瀬さん見かけたぞ」
 窓際のテーブルに腰掛け、運ばれてきた料理を囲む。
 司はハンバーグをナイフで切り分けながら、片手間に報告した。
「元気そうだったか」
「ああ。男と腕を組んでにこやかに歩いてたな」
 エビフライを口許に運ぼうとする典明の手が、空中で制止した。魂を刈り取られたかのように呆然とする彼をよそに、司は淡々と言葉を続ける。
「あれは見た感じ数日やそこらの仲じゃないなあ。寝取られたっていうより、元々典明の方がキープ君の役割振られてたんじゃないかと思うよ。それにしても、よく同じ学部のひと相手

にするよな。普通そういうのってばれるからバイト先とか他の場所のひとにしとくもんじゃないの? まあ、今まで気付かなかった典明も典明なんだけどさ。直接目撃してしゅらしゅし

ゅしゅってならなかっただけマシなんじゃない?」
 司の口から放たれる一音一音が鋭利な槍となり典明の胸を滅多刺しにしていく。
 フォークの先端に貫かれたエビフライは口に運ばれることもないまま体温を下げていく。
「それ、本当ですか……?」
「何故に敬語ですか」
 沈黙。女々しく失恋を引きずる自分が残っていたことに、情けなくなった。
「なんでそれを俺に報告する必要があったんですか」
「諦めがつくでしょ。とっくに割り切ったようなふりしてたけど、どうせどっかではこころ残りがあるんじゃないかなぁと思って。ヨリを戻すチャンスがまだ残ってるとか思ってなかっ

た?」
 どうなのだろう、と典明は自問する。少女が部屋に来訪したことで有耶無耶になっていたが、水瀬から別れを告げられたときに甚大なショックを受けたのは確かだ。『退屈な男』のひ

と言で切り捨てられ、誰にも必要とされなくなった自分の存在意義が疑わしくなり、自暴自棄になりかけていた。しかし、今から思えば、彼女には最初から必要とされてなどいなかった

のだ。全部、都合の良い勘違いでしかなかった。
「いい齢になって色恋沙汰に踊らされるなんて、俺、馬鹿みたいだな」
「僕はそうは思わないけどね」司はふっと口調を和らげる。「ただ、典明は、自分に自信が無いだけなんだ。高校のときからそうだったよ。自分を信じてないから、他人を信じられない

。自分を愛せないから、他人を愛せない。だから、誰かにちょっとでも好意を向けられれば、すぐにすがりたくなるんだ。典明は、真面目に生きすぎなんだよ」
「このまえはもっと真剣に将来考えろみたいなこと言ってなかったか」
「そこはそれ。いま話してるのは、もっと抜本的な問題だよ。典明は不器用なんだよね」
「誰も生き方を教えてくれなかったからな」
「まだ間に合うよ」
「それはどうだろう。明日事故でぽっくり、なんてこともあるかもしれない」
「そんなこと言ったら僕だってあり得る話だ」
「……そうだな。悪かった、暗い話になって」
「気にするな。いくらでも付き合うよ」
 司は飴を口に含んだかのように甘やかな笑みを頬に浮かべた。
 良い友を持ったと思い、典明は胸が熱くなるのを感じた。

 

「ただいま」
 自室に帰り着くなり典明は帰宅を告げたが、同居人からの応答はない。まだ寝るには早い時間だがと訝しみながら、三和土で靴紐を解く。
「ただいまー」
 間延びした声を上げながら和室にあがるが、洗面室の電気は点いていない為、入浴しているわけではないことが分かる。もしや外出かと思い玄関に戻ると、少女の履いていたパンプス

は、靴脱ぎにはなかった。
 無断で出かけるなよと思いつつもひとまず安堵するが、今度は異質の疑問が頭をもたげた。ただ外出するだけなら、書き置き程度は残しておいてもいいのではないか。はたまた、短時

間で戻ってくる予定だからそんなものは必要ないと判断したのか。よもや家族の許に戻ったなんてことはあるのだろうか。それなら、より何かしら書き置きが欲しいところだ。寄せては

返す波のように、自問自答が繰り返される。どうしてここまで取り乱すのか、自分でも分からなかった。
 とにかく、杞憂に過ぎればそれに越したことは無い。典明はそう結論付けて畳に腰を下ろし、凝然と部屋の隅を見つめた。薄暗い部屋に、掛け時計が時を刻む音だけが、やけに大きく

響く。
 それから十分が経過すると、心中に焦りの影が差しはじめる。
 さらに二十分が経過すると、典明は立ち上がり、落ち着きなく部屋の中を歩き回りはじめた。
 やがて一時間が経過し、不安と焦燥はピークに達していた。
 典明は、昼間の司の話を思い出した。少女の失踪。発見された遺体。まさか、攫われて――
 その可能性に思い当たった瞬間、矢も楯もたまらず、典明は急いで玄関に向かった。
 そして勢いよく玄関の扉を開けた瞬間――
「ぶへっ」
 素っ頓狂な声を上げながら、廊下にいた人間が飛び退いた。
 瞬時に視線がぶつかり、典明は舌を翻した。
 そこにいたのは、探し求めた少女そのひとであった。
「お前っ、今までどこに行って――」
「すみませんでしたっ」
 少女は典明の言葉を遮り、素早く腰を折って頭を下げた。浅い呼吸を繰り返しながら荒々しく肩を上下させている様子から、走って戻ってきたことが見て取れる。
「事情はなかで聞くから、とりあえず入って……って、これ、お前……」
 典明が少女の手を引くと、その白く小さなてのひらが紅く染まっていることに初めて気が付いた。少女はまずいものをみられたとでもいうように、咄嗟に強く腕を引いて離し、背後に

隠した。
「これ、血か……? お前、どっか怪我したんじゃ」
「いえ、大丈夫です。ちょっと、そこの道で転んじゃっただけで……」
「本当かよ。何しに出かけてたんだ」
「お腹が空いたので、冷蔵庫に買い置きもないし、軽くつまめるものを買いに行こうと」
 口振りに不自然な気配が漂っている。肝要な部分が意図的にぼかされているのは、火を見るよりも明らかだ。まさか、攫われかけたところを必死に抵抗しただとか――そんな図を、典

明は思い浮かべた。それにしては、何かに怯えるような顔色ではない。少女の顔色が悪いのは確かだが、敵対物から身を隠すようなそれとは、また別種の感情が裏側に秘められている気

がする。
「……そうか。何にせよ、無事でよかった。今朝、誘拐された子供の遺体が発見されたらしいから、事件に巻き込まれてるんじゃないかと心配してたんだ」
 関与の可能性をほのめかすことで、少女のリアクションを窺う。
 しかし彼女は疲弊した表情を崩さずに、
「そうだったんですか。心配かけてしまってすみませんでした」
 と言葉を吐いた。
 誘拐という単語に対し、いささかの狼狽も見受けられない。これが演技ならたいした女優だと典明は思った。
 よかった、彼女は関係なかったんだ。典明は肩の荷が下りた気分だった。

 

「……そういえばさ。俺、君の名前聞いてなかったよな。今更だけど」
 靴を脱いで上がり框に足をかけようとした少女に、典明は声をかけた。
「こちらこそ、自己紹介してませんでした。えぇと……サヨ、です。小さい夜って書いて、小夜。そう、呼んでください」
 少女は、やわいてのひらでなぞるように、小さく名乗った。

          3

 異性愛こそが唯一正常で自然な性の在り方であるという考え方(ヘテロノーマティヴィティ)が普遍的である社会において、同性愛者は自己の性的指向をカミングアウトすることでし

か、恋愛に関連するコミュニケーション上で対等な立場に立つことは出来ない。八十年代にエイズが社会的な問題として波紋を投げかけて以来、同性愛者に対する社会の眼差しは好奇や

侮蔑に彩られ、彼らは『正常』から外れた『異端者』として白眼視されてきた。いまとなっては偏見そのものは幾分か薄らいではいるものの、「性的少数者の不遇に理解は示せど、自身

の近くに存在してほしくはない」という態度自体は珍しいものではない――。

 彼女は自身の思想を明確化する為に、『性同一性障碍』『同性愛』『トランスジェンダー』等、関連すると思われる単語で検索をかけた。するとそこには、違和感、悩み、拒絶感など

、彼女が味わってきた感覚と同じものを抱えて生きてきた多数の人間の影があった。
『同性愛を理由に学校でいじめを受けた』『親がテレビに登場する同性愛者のタレントを嫌っている』『性的指向を暴露されて自殺に踏み切った学生』『親友だと思ってたひとに思い切

って話したら、絶縁された』『無理して異性と結婚したけど、素直に愛せない』
 先人たちが自分らの手に馴染むように作り替えた自由と文化と空気とが、革命家の登場を許さぬままに尾を引いている。数知れぬ匿名の訴えに、彼女は胸を痛めた。
 ひとは、男女という性別でしか他人を愛せないのだろうか。
 愛情など、生殖本能に基づく脳の働きでしかないのだろうか。
 そんなはずはない、と彼女は身の裡に沸き上がった疑問を打ち消すように、かぶりを振った。双葉に対する感情はイミテーションではないはずだ。友情よりも深淵にあり、肉親に向け

る情にも近いそれは――紛い物なんかじゃないはずだ。
 彼女はPCをシャットダウンし、決意を固めた。肉体という縛りから、性別という観念の軛から解放された、剥き出しの感情をぶつければ、理解してもらえるに違いない。話せば分か

らないことなどないのだから、誠実に、ありのままの自分をぶつければ、受け入れて貰えるはずだ。さらに、双葉からも同様の感情を向けられているのなら、それに勝る喜びはない。何

にせよ、『神様にも祝詞』という諺があるように、想いは口にしなければ伝わらないのだ。
 双葉に告白する。その決意が、一度は尻込みかけた彼女を賦活させ、推進力となった。

 

「ねえ、双葉。大事な話があるから、聞いてほしいんだけど」
 彼女は膝頭を揃えて床に着座し、漫画本に意識を吸い込ませている双葉の背に呼びかけた。
「なに、お姉ちゃん」双葉が本を閉じ、振り返った。劣情を刺激するような表情に、鼓動が高鳴る。
 教会では信徒同士をきょうだいと呼び合うことから、彼女はプライベートではそう呼ばれていた。出来れば性別を想起させないような呼び方――学校で友人に『さっちゃん』と呼ばれ

るように――で呼んでほしかったが、それを言い出すことはしてこなかった。
「あのね」彼女は息を呑んだ。いまならまだ引き返せると、もうひとりの自分に警告された気がした。双葉に想いを告げれば関係が壊れるかもしれない。べつに、いまのまま、『良い友

達』として付き合っていけばいいじゃないか。何故、みすみす関係を壊すような真似をする必要があるのだ。
 ――それでも、自分に嘘は吐きたくないから。

「双葉のことが好き。友達としてじゃなくて、愛してるって意味で――好き」

 ひといきに、吐き出した。言葉を受ける双葉の表情を直視する自信が無く、咄嗟に面を伏せた。沈黙が重い。加湿器の作動音と、窓を揺らす強風が部屋に響く。それよりも激しい心臓

の拍動が彼女の聴覚を刺激する。双葉に聞こえていないだろうかと、心配になるほどに。それは、激しく胸壁を打つ。

「ごめん。意味が分からない」

 体温が急激に下がったような気がした。冷えた汗が頬を伝い落ち、桃色のカーペットを湿らせる。彼女が顔を上げると、すべてを諦めたような双葉の表情が、そこにはあった。
「お姉ちゃん、女の子だよね。それなのに、双葉のこと好きなの? 普通、男のひとと女のひとが好き合うんだよね。お母さんとお父さんだってそうやって結婚して、双葉が生まれたん

だから。なのに……お姉ちゃんは女の子なのに、双葉のことが好きなの? よく分からないんだけど」
「だからそれは、」
 弁明しようとする彼女を遮り、
「じゃあ、今までお家に呼んでくれたのは、そういうのが目的ってこと?
        《違う/否定したかった》
「男のひとと女のひとがするみたいに、キスしたり、裸で抱き合ったりしたかったっていうこと? 
        《そんなこと、思ってない/本当に、思ってない?》
「今まで、双葉をそういう目で見てたの? 
        《……どうだろう/感情に、もっと分かり易いかたちがほしい》
「それって、ヘンタイっていうんじゃないの?」
        《…………/…………》
        《何ひとつとして、言葉に成らない/成らない》
        《もう、/どうだっていいや》
 双葉は、辛辣に、無慈悲に、執拗に、残酷に、冷徹に、彼女を追い詰めた。
 宙に撒き散らされた爆弾のような言葉が、緩衝材も挟まずに直撃する。
「ていうか双葉、学校に彼氏いるんだけど。お姉ちゃんと遊ぶのは好きだけど、別にぼっちなわけじゃないし。お姉ちゃんがそんな変なひとだって知ってたら、こんな家、最初から来な

かったよ」
 胸の奥に投げ込まれた言葉が出口を見失って、渋滞――摩擦――狂騒を、引き起こす。
「……ごめんなさい。何も聞かなかったことにして」
 彼女は力ない声量で、掠れる言葉を懸命に絞り出した。湿った視界が揺らいでいた。
 双葉は興醒めしたかのように息を吐き、立ち上がった。
 そして、
「遅くなるといけないから、もう帰るね」
 とだけ言い残し、彼女の部屋を後にした。
 きつい音を立てて扉が閉まり、双葉が階段を駆け下りていく音が聞こえる。一瞬だけ開け放たれた扉から、清冽な大気のまとまりが、部屋に吹き込んできた。その背中を追えば、まだ

釈明の余地はあるのかもしれない。しかし、彼女にはもう、立ち上がる気力さえ残っていなかった。
 風が止み、加湿器が眠りに就く。部屋から、胸の裡から、かつて双葉のいた場所がぽっかり空き、乾いたかぜが空洞に吹き込む。
 ふと、窓外の夕景に目をやった。闇夜に奪われまいとして必死に輝く太陽は、命の最後にも似ている。瞼を閉ざしても、熟れた果実の恥じらうような色が網膜の裏に残像を結ぶ。
 空の果てのようなしじまが、密閉された狭い部屋を埋めている。虚しさが、こたえた。
 胸が熱く腫れる。じくじくと疼く。剥き出しの心臓が鉄板の上で炙られていくようだ。
 やがて現実が体内に浸透していき、

 目頭が熱を持つと痛みは嗚咽に変わり、

 双葉の残した台詞が脳内で反芻され、

 行き場を失った彼女は、

 物心もつかない子供のように、

 誰にも届くことのない甲高い慟哭をあげた。

 

 それから彼女の家に双葉が訪れることもなくなり、彼女が教会へと足を運ぶことも、二度となかった。

        4

 少女が眠りに就いてから、典明は誘拐事件についての情報をスマートフォンで検索した。少女が関与していると疑っているわけではなかったが、今後標的にされないとは限らない。
 ――被害者の女児二名は血液を抜かれたうえに胸部と局部の肉を切除され、衣類を脱がされた状態で山中に遺棄されていた。犯罪心理学者のプロファイリングによると、予想されうる

犯人像は、性的倒錯感を抱えた者ではあるが、性交の痕跡が見受けられない為、性別はどちらとも特定できないとのことだった。現場に残された痕跡が非常に少ない為、一定の計画性に

基づいた犯行とみられ、加害者は土地勘が強い人物ではないかとの推測も上がっている。
 断片的な情報はどれも、新聞記事を目にした一般人でも予測が可能な範囲の、曖昧模糊としたものだった。遺体が発見されてから日も浅いのだからしようがなくはあったが、その煮え

切らなさに、典明は歯痒い思いを味わう。
 概要を一読するだに陰惨な事件であり、遺族の心情を思うとやりきれない気持ちになった。司から話を聞いた段階では深く感情移入することがなかったが、いま自分の目の前で安らか

な寝息を立てている少女が殺害されたらと考えると、いてもたってもいられない。
 どうか、彼女が巻き込まれませんように。そう祈ることしか、出来なかった。

 

 翌朝、地取り捜査を担当する警官二名が、典明の部屋を訪れた。少女との初対面を彷彿とさせる、飾り気のないノックの音。少女を匿っていることを知られるわけにはいかない為、当

人と靴はクローゼットに隠し、応対に出た。
 玄関先には、無精髭を口許に蓄えた恰幅の良い中年と、縁無し眼鏡をかけた長身痩躯の若者が立っていた。
「おはようございます」眼鏡の奥から威圧するような三白眼を覗かせながら、若い男が口火を切った。
 後ろに立つ高齢の警官は、屹然とした面持ちで典明の動向を監視している。事件に関与しているわけでもないのだから怯える必要はないのだが、それ自体で相手を射殺さんばかりの視

線には後退りのひとつでもしたくなる。若い男は慣れた素振りで警察手帳を取り出して顔写真を見せ、駐在所名と階級を名乗り、簡易な前置きが済まされた。
「先日、この近隣地域で遺体が発見されたことは御存知でしょうか」
 案の定、件の誘拐殺人の聞き込みだ。典明はニュースで耳にしたと答え、以降、不審人物を目撃しなかったか、普段は何をしているか等の質問に正直に返答した。家族構成や名前、生

年月日、職業などの個人情報も訊かれるが儘にすべて晒したが、現在同居する少女のことは頑なに伏せた。一通りの確認が終わると、警官は、ご協力ありがとうございましたと言い残し

、隣の部屋へと向かって行った。疑われた様子は感じられなかった。
「小夜、出てきていいよ」
 少女は典明の呼びかけに応じ、クローゼットからまろび出てきた。
「あの、わたし……殺してませんから」
 か細い喉を震わせて、少女は言葉を押し出す。何の前振りもない発言に、典明は困惑する。
「事件のことか? 誰も君が犯人だなんて疑ってないよ」
「あ、違くて……その……昨夜、汚れて帰ってきたじゃないですか……あれは全然関係なくて……ほんとうに……」
 切れ切れに語る少女は何かに怯えているように、両腕に爪を食いこませるように自身の身を抱いた。身体が臆病に微動している。いまにも崩れ落ちそうに見えた。
「ちょっと、落ち着けよ。もう警官も帰ったから、何も怯えることなんてない」
「でもわたし、明らかに怪しいじゃないですか。急にこの部屋に駆け込んできて、自分のこと何も言わないで……あなたと、対等な立場に立てないですよ」
「俺は君が話したくないことなら無理に訊き出そうとはしないよ。帰りたいときに帰ればいいし、自由意思は尊重するつもりでいる」
 典明は諭すように言葉をかけるが、彼女は激しくかぶりを振り、頑なに彼の言葉を聞き入れようとしない。
「あの、全部話させてください。こんな突拍子もない話を信用してもらえるかは分かりませんけど、出来るだけ、頑張りますから」

 

 ――最初にわたしがここに来たときに話したことは、本当です。海辺の町で目が覚めて、それ以前の記憶がなくて。けれど、ひとつだけ隠してたことがあります。それは、わたしが吸

血鬼だってことです。冗談ではありません。目覚めたとき、自分の還るべき場所や生きる目的なんかは全然思い出せなかったけど、身体の根っこに染みついた本能みたいなものは、紛れ

も無く残ってました。それが、吸血衝動です。でも、自分がそういう存在であることを受け入れるのには抵抗感があった。一般社会によって刷り込まれたモラルも同じ部分に同居してい

ましたから、『血液を摂取したい』という自分の命令に、抗いたかった。でも、普通の食事をしても満たされない感覚があるのは確かだし、物は試しと思って小動物の血液を頂いたんで

す。殺したわけではなく、少し傷をつけて出血させたものです。すると、確かに空虚感が満たされる。ということは、本能からの指令は正しいものだったということになる。なぜそうい

った欲望があるのかは分からないけど、わたしは自分の身体を受け入れるしかありませんでした。
 そこが解消された一方で、より根源的な疑問が浮上しました。それは、自分が何者であるかです。年齢も分からないし、経歴も思い出せない。レゾンデートルとかよりも、もっと即物

的な構成要素が記憶から抜け落ちてました。以降は、前にお話しした通りです。自分の拠点を求めてこの地に辿り着き、あなたに出会った。……もしかしたらわたし、既に死んでいて、

そして吸血鬼という形でこの世に復活したのかもしれません。生前のわたしがどんな人間なのかは分からないけど、そう考えるのが、何か、しっくりきます。
 わたしはここに来てからも路上の小動物から少量の血を頂く生活を続けていますが、決して人間に危害を加えたりはしません。断じて、です。だから、先程の事件には、いっさい関係

していないんです。

 

 典明の脳が、意味の受容を拒んでいた。眼前の少女は、さっきから何を言っているのだろう。幼い冗談の延長なのだろうか。しかし、彼女の表情に諧謔の気配は微塵も見受けられない


「……嘘だろ」彼はそれだけを言うのが、精一杯だった。「こんなときに言ってる場合かよ」
「証拠、お見せしますね」少女は可能な限り感情を押し殺したような機械的な瞳と口調を携えたまま、脱衣所へと入っていった。典明はその背中を追う。
 そうして、典明は少女が指差す方角を見やる。示された先には、洗面台の鏡がある。
 しかし、そこには現実が正しく反映されていなかった。
 視界が歪んだ気がした。厭な汗が背を伝う。唾を呑む音が閑寂を裂く。喉ぼとけが刹那、盛り上がった。
 典明が我が目を疑い双眸をしばたたかせると、鏡のなかの自分も同じ動作をした。再度瞼を閉ざし、緩慢に持ち上げる。そこには、自分と寸分たがわぬ身なりの男がいる。
 しかし、決定的に、欠けていた。
 少女の姿が、映されていなかった。
 少女は、二の句が継げない典明に対し、おずおずと告げる。
「漫画とかで読んだことありませんか? 吸血鬼は、鏡に映らないんです」