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                 四章

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 別の宇宙があったって、
 死後の世界があったって、
 前世や来世があったって、
 ここから出て行く気など、さらさら無いくせに。

        1

 いまから思うと、あのときの自分は死のうとしていたのかもしれない。その短絡的な解決法は、弱ったこころにとって、あまりに甘美な誘いだった。ただ、どこかではそれを止めてほしい気持ちがあって。誰かに見つけてほしくて、彼にあんな話を持ちかけたのだ。
 だから、彼は命の恩人。
 そして、これは余生だ。
 競売にかけられても大した値打ちもつきそうにない命をどう使おうと、誰に咎められることもない。

 

 彼女は、一個体としての自分を確定させる方法を模索した。
 精神と肉体の矛盾が解消され、世俗のルールに縛られない、完全に独立した存在をめざした。
 ふと、本棚から漫画を取り出す。かつて双葉と金銭を出し合って購入した、吸血鬼を題材にした漫画本だ。ぱらぱらとめくる頁上に視線を滑らせていると、ひとつの単語が、視界に飛び込んできた。
 ――不老不死。肉体の軛から逃れた存在。児戯じみた発想ではあったが、あながち間違った結論ではないと、彼女は思えた。死から免れたいのなら、生を永遠のものにすれば良い。言うは易いが、実際に方法はないのだろうか。
 彼女は関連すると思われる単語で検索をかけた。すると、ひとつのワードにたどりついた。
『エリザベート=バートリー』。吸血鬼伝説のモデルとなった一人物らしい。彼女はマウスをクリックし、詳細を開いた。

 

 

 エリザベートは、十六世紀当時、トランシルヴァニア公国の権力を掌握していたバートリー家の娘として生誕した。古い貴族の家柄であるバートリー家はハンガリー大臣やポーランド国王等、押しも押されもせぬ有力者を輩出する名門である一方、その血縁と財産を重視する故に、近親結婚が繰り返された。その影響か彼女の親族には、悪魔信奉者や色情狂、同性愛者と噂された者たちがおり、連綿と受け継がれた暗く不穏な遺伝子は、彼女にも例外なく流れていた。
 一五七五年、当時十五歳だったエリザベートはハンガリーの軍人貴族と婚姻関係を結ぶ。「黒騎士」の異名で人口に膾炙した夫は、オスマン帝国との戦争への出陣により居宅を留守にすることが多く、無聊の日々を送っていた彼女ははじめ黒魔術に傾倒したが、やがて性別を問わずに不貞を働くようになった。
 夫は自身の不在の後ろめたさからか、寛容にもエリザベートの浮気を許容したが、これを赦さなかった姑は、彼女を厳重な監視下に置いた。
 義母との確執を深めたエリザベートは乳母や執事、下男といった面々を味方につけると、義母の女中を地下室に幽閉し、拷問の末に惨殺した。
 こうした嫁姑間の冷戦は、夫とのあいだに四人の子供が産まれたことで、終結したかに思えた。
 その後、数年が経過し、ときあたかも十七世紀初頭。還暦も迎えぬうちに夫が他界し、続いて義母もこの世を去った。義母の死に関しては毒殺という説があるが、真相は定かではない。いずれにせよ、そうして抑えつける者のいなくなった彼女は、のちに「血の伯爵夫人」と呼ばれることになる殺人者へと変貌していく。
 或る日、エリザベートの身繕いをしていた女中が、些細な過失を犯した。激昂した彼女は手許の燭台を?むと女中に打ち付け、打擲は女中の息の根が絶えるまで続いた。思う存分に折檻した彼女は恍惚の表情を浮かべながら鏡に一瞥をくれ、返り血をぬぐった。すると、あることに気付く。
 血をふき取った部分の肌が、若返ったかの如く白くなっている。
 かつての美貌も今や失われ、日々老いていく自分を憂いていたエリザベートの脳裏に、ひとつの思想が浮かんだ。

 ――少女の血液が、回春剤となるのではないか。
   生命の源である血こそが、若さを取り戻すのではないか。

 それ以来、エリザベートは女中を次々と惨殺した。
 鋭利な道具で皮膚を切り裂き、指や性器を切断し、搾り取った生き血を浴槽に満たし、そこに全身を浸した。女中の娘が足りなくなれば、近隣の農民から、城への奉公という名目で少女を掻き集めた。貧困な毎日を送る自分にとって城での給仕は何よりの名誉と喜び勇んで訪れた少女たちが生きて帰ることはなく、血液を抜かれた遺体は庭に埋められ、庭園には真紅の薔薇が咲き誇っていたという。
 エリザベートが血液を効率的に搾取する為に発明されたと伝えられている拷問器具がある。
『鉄の処女(アイアン・メイデン)』は、女性の形を模した鋼鉄製の人形である。胴体内部には人間を閉じこめる為の空洞が設けられており、内側に鋭利な刃の付いた胸の扉を閉じると、内部の犠牲者は貫かれ、搾り取られた血は溝から回収される。そして、これよりも使用率の高かった拷問器具は、鉄製の鳥かごである。人間がひとり入れるサイズの籠の内側には無数の棘が生えており、このなかに少女を入れて滑車で天井から吊るし、これを左右から揺さぶる。そしてエリザベートは鳥かごの下で、内部の少女が悲鳴をあげながら血を流すのを眺めながら、その鮮血のシャワーを浴びることとなる。
 エリザベートが凶行を繰り広げたチェイテ城が捜索されたのは一六一〇年のことだ。
 捜索の命を受け城に侵入した役人は、酸鼻を極める現場を目撃した。
 噎せ返る臭気に、鮮烈な赤。血液を搾り取られ、身体の一部を損壊した数多の遺体。全身に穴を穿たれ、辛うじて生存する数人の少女。
 翌年の裁判でエリザベートは一度も出廷しなかったが、判決は有罪。
 共犯者は火刑、斬首刑に処されたが、王室にゆかりのあるエリザベート自身は処刑を免れ、死ぬまでのチェイテ城での幽閉を余儀なくされた。一日一回の食事の差し入れの為の小窓以外はすべて漆喰で塗りつぶされ闇に覆われた寝室で残りの人生を過した彼女は、三年半後の一六一四年に死亡が確認された。
 なお犠牲者の数は、裁判所の認定では八十人、ハンガリー王の書簡によれば三百名以上、エリザベート本人の記録によれば、六五〇人にのぼる。

 

 

 その頁を読み終えたとき、羨ましいな、と彼女は思った。美名であれ悪名であれ、こうして後世に名が遺るということは、生きていた証左になる。誰からも忘れ去られるぐらいなら、最初からいないのと同じだ。どうせすべてが終わってしまうのなら、なにか証がほしい。
 彼女はPC画面から視線を逸らし、天井を仰ぎ見た。
 人間の血を利用すれば若返る――エリザベートの思想は、ほんとうに間違っていたのだろうか。
 行為そのものは間違いだとしても、思想自体は存外、正鵠を射ている可能性もあるのではないか。
 彼女は再び画面に向き直り、更に詳細を追った。

『老齢のマウスの血液を若いマウスに輸血することで、記憶をつかさどる海馬のニューロンが活性化、記憶や学習能力が復活することを米カリフォルニア大学が確認し、ネイチャー・メデ
ィシン誌に発表』

 見出しに眼を惹かれ、内容を一読する。どうやら可能性自体は数世紀前より検討されており、然るべき機関では研究が進められているらしい。
 彼女の脳内で、すべてのピースが噛みあう感覚がした。
 女児の血液を搾取する為に、殺害する。自分がこれを実証すれば、世間は新手の殺人者の登場に沸き立つだろう。頑是ない幼児の無慈悲な死はセンセーショナルに報道され、犯人像の
憶測が飛び交う。その時点で自分は『確信犯罪人』としての最期が確定し、幼児も、『狂った犯罪者の被害者』として、「死の価値が上がる」。
 ――どうせ死は避けられないのだから、殺されたって変わらない。いや、「犯罪の被害者となる」以上に「多くの人間に悔やまれる死」を演出できるかどうか分からないのだから、「人生の価値」を上げてやってるようなものだろう。
 これは殺人じゃない。どうせ終わる生命の、演出だ。
 永遠の生命がほしいわけではない。主眼は、あくまで「最期を彩る」ことにある。
 彼に認められることで、生まれてしまった一個体としての本懐を遂げるのだ。

「完璧だ」彼女は呟き、薄く笑う。余命の過ごし方が決まった瞬間だった。

        ◆◆◆

 大学一年生の夏、彼女はひとり目の女児を街でかどわかし、自宅の裏庭に亡骸を埋めた。
 事件は発覚することなく、彼が彼女の犯行に感づくこともなかった。

        ◆◆◆

 大学二年生の冬、彼女は最寄駅からは数駅離れた、見知らぬ男性の居宅を訪れた。自身の身長の低さを活かしてあどけない少女を演じ、難無くセカンドハウスを獲得した。そして自宅に戻ると、それ以前に誘拐していたふたり目の女児の遺体を、男性の住む地域の近隣にある山へと運搬した。

        ◆◆◆

 ――ふたりの遺体が発見されたというのに、彼は自分の犯行に気付いてくれない。
 そのことが、彼女は不満でならなかった。
 ――死を演出する為の一生だって言ったくせに。
 もう引き返せない。これは、母の命を奪った神様への背反でもあった。
 ――神様がいなくなった精神には、悪魔がやってくるんだ。
 また、誰かを手にかけるしかないのだろうか。

        ◆◆◆

 彼女は三人目の対象を探す為、セカンドハウスから夜の街に出ることにした。隣で、布団を提供してくれた男が穏やかな寝息を立てている。このひとは、何も知らなくていいのだ。た

だ、活動拠点として利用させてもらっているだけなのだから。
 部屋の壁にかかった時計は、もうじき午前一時半になろうかという時刻を示していた。
 彼女は男性の寝顔に内心で謝ると、甲高い音をたてる扉を開き、部屋を出た。

        2

 いっかな止みそうもない特攻隊のような雨粒は、我先にと路面を叩いては砕け、束の間のみ冠の輪郭を残していく。無窮の闇を洗い流すような豪雨のなかを、典明は傘も差さずに駆け出した。
「小夜、小夜――っ」
 信号機を無視して往来の無い車道を横切り、少女の名を叫びながら、その姿を探し求める。凍てついた外気が肌を切り、長い前髪が水気を孕んで額に張りつき、額には玉の汗が浮かび

、こめかみが強烈な痛みを訴えてもなお、彼は縦横無尽に走り続ける。当ては無かった。それでも、滅亡した世界のようにからっぽの町中を走り回る以外、方法が思いつかなかった。
 何も無い地面に足を取られて転びかけたとき、ひとは何も無いところでも躓くのだな、と不意に思ったが、それ以上深く思考に潜っていく余裕は無かった。
 黒天井の隅を明々と染めるコンビニエンスストアの明かりを横目に通り過ぎ、月極駐車場の固いアスファルトの感触を靴の裏に感じながら駆けていると、視界の前方から接近する人影

を感じ、典明は足をとめた。
「司……?」
「やあ、典明」と、黒いコートに身を包んだ人影は典明の方へ歩み寄りつつ、軽快に挨拶した。
 なぜこんな時間にここにいるのか、という疑問はあったが、それよりも肝要なことがあった。
「小夜を、例の女の子だけれど……ここらへんで見かけなかったか。白い子だ。さっき起きたらいなくなってたんだ」
「なに、件の家出少女? うちに帰ったんじゃないのか」
「違う、あいつはそんなんじゃないんだっ。どこにも行かないはずなんだよ……っ」
「うぅん……僕は見てないけど」
 すると、典明の視界の端に白い影のような輪郭が飛び込んだ。
 車道を挟んだ向こう岸の信号機の根元に、少女が立っていた。
「――小夜っ!」
 典明は俊敏な獣のように飛び出した。信号機の赤を無視し、雨粒を振り払い走った。
 少女はその場で茫然と立ち尽くし、冷たい瞳で典明を見据えていた。
 やがて二者間の距離が加速度的にゼロへと収束し――

        3

 彼女の目の前で、恋い焦がれた男が駆け出した。
「小夜、」と声を張り上げながら、車道を横切っていった。
 ――どうして、自分を見てくれないんだ。
 彼女は重い足を緩慢に動かし、男の背を追う。
 男は緊張していた表情をやわらげ、「心配かけるなよ、どこにも行かないって言っただろ……」などと言いながら、『  』を掻き抱いている。
 ――ねえ、どうして。生きる目的を与えてくれた君が、そんなものにすがりつくんだ。
 彼女はコートのポケットに片手を差し入れた。
 そして、彼女――相模司は、男の大柄な背に向けて鋭利な刃先を振り上げた。

        4

 典明は背後に尋常でない殺気を感じ、咄嗟に少女を抱いたまま身を翻し、背中から地面に倒れ込んだ。そして面を上げたとき、にわかには信じがたい光景が彼の視界に映った。
「司、それ……持ってるの、なんだよ」
 司の手に握られたカッターナイフが月光を照り返し、鈍く輝いた。彼女は何も語らず、その刃先を、地面に後ろ手をついている典明に向けて再度振り下ろす。彼は自身の不利な体制か

ら避けることは叶わないと瞬時に判断し、前方に向けて上半身を突き上げ、彼女の手を掴んだ。しかし彼女はその細い腕に反する力強さで凶器を奪われまいと抵抗した。力の関係が均衡

し、鍔迫り合いの状況になると、典明は辛うじて言葉を発することが出来た。
「お前、これは何の冗談だよ……っ」
「まだ分からないの? 全部僕がやったんだよ」
 司が腕に更に力を籠めると、押し込まれる側の典明はそれに抑えが利かなくなり、とうとう彼女の腕を解放してしまった。彼女は刹那の間隙を縫い、刃先を思い切り良く叩きつけるよ

うに、振り下ろした。典明が即座に身を横に引くと刃先は狙った方向から逸れ、顔面への直撃は免れたが、頬の肉をごっそり抉り取った。一閃、吐き出される鮮血、視界が白く明滅し、

強烈な痛みが走る。それを堪え、彼は彼女の気の緩みを見抜き、いささか握力の弱まった手から凶器を弾き落とした。司は明後日の方向に転がっていった凶器を取り戻す為に駆け出し、

その間に典明は立ち上がり、体勢を持ち直した。
 月下、猛烈な雨に閉じこめられた街路で、ふたりは対峙する。
「本気で殺す気なのか……?」
 典明は襲撃を受けた今となっても、司が自分に殺意を抱いていることが信じられなかった。
 彼女は言葉を返さなかった。その表情は雨に霞んで見受けられない。
「なんでだよ。女の子ふたりも、お前が殺したっていうのか」
 彼女は小さな身体を左右に揺らしながら、一歩ずつ、近づいてくる。幽鬼のごとき様相だった。
「なんとか言えよ! 訳が分からねえんだよっ――」
「なあ、典明」
 ようやく、彼女が意味のある言葉を発する。
「僕は、こころを消したかったんだ。昔から、こんなものがあって良いことなんて、ひとつもありやしなかった。誰も、生き方を教えてくれなかった。……母さんが事故で亡くなったと

き。僕は、命に終わりがあることを知った。どう足掻いたって、ひとは結局、死ぬんだよ。それを改めて理解した。正直、もう終わらせてもいいかなって思ったよ。けど、典明は言った

よね。その最期を演出する為に人生があるんだって。……だから。だから僕は、生命の演出家になることにしたんだ。君の思想は素晴らしい。一度は死に誘われた僕を、こうして根のあ

る人間として復活させてくれたんだから」
「お前、何を言って、」
「なのに、典明ときたら、下らない女に振り回された挙句ふられて落ち込んで……結局、虚構に逃げ込むだなんて。全く君らしくない」
「だから、さっきから何を――」
 典明の言葉を一切取り合わず、司は言い放った。

「小夜なんて女の子、どこにもいないじゃないか」

「――は。なに言ってんだよ……そこに、いるのに」
 典明は少女の方向を指さした。確かに、その指先には『  』がいる。
「どうして、幻想に逃げ込むんだよ。それが典明にとって一番都合の良い現実なのか?」
「だから、幻想なんかじゃないっ――」
 典明は蹌踉と少女の許へ歩む。
「もう、いいや。僕が君を見誤ってただけの話だ。壮大な勘違いだったよ」
『  』を抱き締める典明の背に、司はカッターナイフを突き刺した。
 今度は彼は避けずに、ただ、成す術も無く、その場に頽れていった。
 誰かの慟哭を代弁するかのような雨は、未だ降り止まない。万雷の拍手に似た音色が、全天を覆う。
 やがて薄れていく意識の片隅で、典明は司の最後の言葉を耳にした。

「――どうして、誰も助けてくれないんだ」

 エピローグ

 覚醒した視界に映ったのは、白い天井と蛍光灯だった。
 タオルで身体を清拭していた看護師が、典明の意識回復を主治医に告げに向かう。
 死後の世界かと見紛う骨色が、謐とした一室を覆っている。白昼夢のなかを遊泳しているような、焦点を結ばない視界。しかし、窓からの隙間風に揺らぐカーテンややわらかいシーツ

は、紛れも無い現実世界の所有物だった。
 ――まだ、生きている。
 異常に、喉が渇いていた。

 

 病院の連絡を受けた母が、彼の容態を窺いに入室した。
 こころなしか以前よりも痩せ細って見える母が、枯れた唇の隙間から弱弱しい声を洩らす。
「良かったです。あなたが目覚めてくれて」
 典明は返事をしなかった。反抗心からでなく、精神的な衰弱からだ。母は疲弊した様子の彼に気を遣い、無理に返答を求めることはなかった。
「これ、読んでおいてください。私はこの後、仕事があるので」
 そう言って一枚の茶封筒をオーバーテーブルの上に置いてから、母は部屋を退室した。音もたてずに、扉がゆっくりと閉まる。典明は手を持ち上げ、封筒の中身を取り出した。
 そこには、母の筆跡と思われる手紙と、セロテープで補修された父の遺書が入っていた。

 

 背部を刺された典明は出血多量による意識不明の重態で、数日間死と生の合間を彷徨っていたこと。母が弁当屋でパートタイムのアルバイトを始めたこと。その母が、またふたりで暮

らしたいと思っていること。典明を病院に運んだ司が自首したのち、留置場で壁に頭を打ちつけて自殺したこと。
 霞む眼と不明瞭な意識で小さな文字列を丹念に読み進める。情報としての文字を汲み取ることはできても、しかし、その内容が意味のある言葉として頭に入ってくることはなかった。
 典明は、二枚目の紙――父の遺書を、手に取った。

 

 

 もうじき長い眠りに就く瞬間が訪れるであろうことは、理解できている。
 先日、同室の患者が息を引き取ったが、明日は我が身と言われているようで、気が気でなかった。
 ここ最近は、ずっと眠りが浅い。消灯時間を過ぎても長い時間寝入ることが出来ず、気がつけば陽が昇っているという日もしばしばである。また、運良く眠ることが出来れば、そのと

きは、ひどい夢ばかりを見る。過去の自分が、お前は忘れてはならないのだと、罪を突きつけてくる。そういった理由もあって、わたしは文をしたためることにした。恐らく妻の口から

聞かされることはないだろうから、こうして書き遺しておくことにする。
 ――もっとも、妻がこの手紙を君に渡すとは限らないのだが。

 典明は、麻衣の失踪のことでわたしを恨んでいるかもしれない。君があの子を大切に思っていたことはよく知っているつもりだ。わたしが我を忘れて君たちに手をあげたときも、君は

あの子を庇っていた。わたしは、蟷螂の斧と自覚してなお立ちはだかる君の勇敢な眼差しを、いまでも忘れてはいない。
 しかし、君と麻衣は血の繋がっていない家族だ。
 麻衣が産まれたのは君が二歳半の頃だったが、その母親はわたしの妻ではない。わたしが当時勤めていた会社の女性社員だ。わたしは家族に手をあげるばかりか、不貞まで働いていた

。いくら弁明を述べようと償うことは出来ないし、それを自己正当化する気も無い。今から思い返すだに、慙愧に堪えない思いである。だから、妻は麻衣が失踪したあの時も、捜索に積

極的にはなれず、結果的に死亡届を提出するしかなかった。妻はあれでも、本来見たくもないはずの、浮気相手の娘を一所懸命に育てた。君には妻が冷たい人間に見えたかもしれないが

、すべてわたしの責任だ。
 わたしには、この過去と罪を墓場の下まで持っていくことは出来ない。
 だから、こうして最期に伝えることにした。
 わたしのことは赦さなくてもいい。しかし、せめて妻のことだけは、認めてやってほしい。
 あれは弱い女だが、決して悪い人間ではない。

 

 

「――そんなの、嘘ですよ」
 典明の耳元で、少女の声がした。そちらに振り向くと、無垢な麗容があった。
「小夜」彼は、少女の名を、つかみとるように呼んだ。
「わたし、家族ですから。ちゃんと、ここにいます。絶対に、離れませんから」
 凛とした音色が少女のか細い喉を震わせた。
「……俺は、麻衣のことが好きだった。一緒に風呂に入ったときも、沼で泥だらけになって遊んだときも、砂浜で一緒に山をつくったときも、ひとつの玩具を取り合って喧嘩したときも

……全部の麻衣が、好きだった。いろんな顔をする麻衣のことが、大好きだった」
 いつから、妹の影が落ちた日々に足をとられていたのだろう。
「なあ、どこにいったんだよ」
 自分でも気づかぬうちに、彼の頬を濡らすものがあった。
「ねえ。ここ、触ってください」
 少女は典明の手を取り、自分の胸に押しつけた。やわらかいふくらみのあいだに、確かに熱を帯びた心臓の鼓動がある。
「わたし、いま、ここにいるの。わかりますか?」
「わかるよ。いるんだよな、小夜」
 あのときの司には認識できなかったのかもしれない。
 けれど、現実は、自分のなかにしか存在しない。
 聴く者によって音色が変わる音楽のように、観る者によって意味が変わる月の模様や絵画のように、完全な主観で彩られたのが現実だ。
「小夜、おかえり」
 どこまでも空虚で、軽薄で、曖昧な、まやかしの言葉が、少女の胸を捉えたようだった。
 典明は小夜のちいさなてのひらを握った。体温を分け合うように、手の感触を確かめ合った。
 喪に服するように蕭々と降り注いでいた窓外の雨が、白く染まっていく。
「雪だ――」
 典明の視線の推移に釣られ、少女もそちらへ意識を傾ける。
 十二月中旬。去年よりも出足の遅い、初雪が舞い始めた。
 すべてを平等に優しく包み隠す、やわらかい欠片。いつか溶けて無くなってしまうのだと知っていても、刹那の銀色の輝きに目を奪われる。音も無く降下するそれは、やがて地に積も

り、雑踏の底を白く染めていく。視界を。想いを。真実を。白く、どこまでも白く、覆っていく。それがいずれ日の下に晒されるのだとしても――今だけは、永遠に明けぬ夜を思ってい

たい。
 典明は、小夜と唇を重ねた。ベッドシーツにも似た、冷たい熱量をじかに感じた。彼女の存在を繋ぎ止めるように、強く抱きしめる。大きな瞳が、不安げに潤んでいた。
 典明は顔を離すと、首筋を小夜に見せた。彼女はその意味を無言のうちに察知し、白い首筋に唇をつける。小夜の生命を象るための、わずかの血が抜かれた。

 臆病で軽薄な一瞬は、やがて静かな久遠となる。

 それは、どんな絵の具でも描くことのできない、透明な感情。
 愛でも友情でもない、自分固有の感覚が、ふたりの血脈を通った。
 小夜の肩ごしに、病院の庭が見える。夜闇がのしかかる花壇には、遅咲きのシレネが揺れていた。
 ――あの花の下にも、かつて生きたひとの残滓が埋まっているのだろうか。自分がいなくなった未来では、息苦しくも自由な花壇のなかで、花は咲き続けるのだろうか。……いつか来

る終わりは、どんな色をしているだろうか。
 電灯の下で靴底がアスファルトを鳴らす様を、典明は思い浮かべる。
 大樹の根元で、虫の死骸のように、土の温もりに抱かれて眠る様を、典明は想像する。
 ――どちらに還れば良いのかは、分からないけれど。
 とまれ、退院したら、墓参りに行こうと思った。
 やがて訪れる永遠の別れが切なくなって、典明は、小夜の小柄な背中を、強く、ずっと抱きしめ続けた。

                                   (了)