三章
0
やさしい夢を見た。
快晴の青天井のような海を泳ぐ夢。
生物も植物も、生命のかげはないけれど。
そこにひかりが差し、わたしがいるだけで、充分だった。
1
彼女は最寄り駅の古ぼけた改札前で、文庫本の頁をめくりながら、ひとを待っていた。
電灯の発明は、人々の胸中から暗がりを奪った。高層ビルや信号機やタクシーから洪水のように放たれているのは、人工的な、生活の為の明かり。プラネタリウムのようだった。
「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です……あらゆる透明な幽霊の複合体……風景やみんなといっしょに、せわしくせわしく明滅しながら、いかに
もたしかにともりつづける、因果交流電燈の、ひとつの青い照明です……」
吐息にも近い控えめな声で、宮沢賢治の口語詩の一節を音読する。(『現象』としての『わたくし』が存在し得るのは、その実体が他人の網膜に照射されるが故であり、肉体は魂の座
でしかない? 『ひかりはたもち その電燈は失われ』ということは、肉体という輪郭を持たずとも存在し得るということだろうか? その魂こそが、透明な幽霊……? 交流する因果
のうちのひとつということは、わたくし自身は因果それ自体ということになる。つまり、いまの自分は過去の可能性の積み重ねの結果として存在する……)書かれた言葉の意味するとこ
ろを考えているだけで軽い頭痛がしてきたが、孤独な時間を好む彼女にとって辛い時間ではなかった。暗い思想の海で、一条のひかりが差すのを待っている。
彼女はおもむろに頁から視線を剥がし、雑踏に目をやった。
紺碧の夜の底を踏み鳴らす、散逸した可能性の群れ。拡散された粒子のように、めいめいの方向へと歩を進める他人たち。無数の足取りは総じていささか憂鬱な重さを孕み、うすらい
の上で鉄下駄を履かされているようでもある。俯瞰中毒者の眼差しで、彼女は、はなはだ散文的な夜景を傍観する。町にはこれだけの人間がいるのに、どうして誰とも分かり合えないの
だろうと、彼女は思う。誰もが互いの姿を無視してすれ違う光景は、操縦者不在の幽霊船にも似ていて、ひどく排他的な色を帯びて見えた。
「あの……まりあさんって、君?」
彼女の独りよがりな思索を遮り、毛髪を栗色に染めた剽悍そうな青年が、インターネットで使用している名で、彼女を呼んだ。
「うん」こくりと顎を沈ませる。
「プロフの齢より若くない? てか、背、めっちゃ低いね……君、もしかして未成年?」
「さあ、どうだろう。別にどっちだっていいことじゃないかな」
青年の瞳には、既に官能を期待する気配が湛えられている。ここで煽っても通報などされないだろうと彼女は高を括っていた。
「変な喋り方……ま、やらせてくれるならどっちだっていいけどさ」
青年は三流の悪役の如く口角を吊り上げ、骨張った手を彼女の肩に回し、ホテルへ向けて歩み出した。
もう、随分と慣れたことだ。『同性』と寝ることぐらい、『彼女』にとって、何の抵抗も無い。
倦んだ生存欲は彼女の自尊心を日増しに擦り減らし、未来の光量を枯渇させていた。
彼女が自身の性を社会のかたちに寄り添うように矯正しようと考えたのは、自身の悩みを母に誹られたときからだった。
「あと四年したら性転換手術が受けられるんだけど、お金出してくれないかな」
高校に進学するまで、自分が世界に馴染む方法を模索し続け、最終的に辿り着いた結論が、それだった。彼女が母に自分の違和感を打ち明けたのはそのときが初めてだった為、費用の
ことを切り出すのはかなりの英断と言えた。彼女はなんとか了承が得られるよう、自分がかつて身を置いてきた感覚を懇切丁寧に解説した。彼女が言葉を重ねていくごとに母は顔色を曇
らせたが、色よい返事が返ってくるべくもないと薄々予感しつつも、説き伏せようと懸命に試みた。
「神様から頂いた身体を捨てようなんて、許されることじゃないわ」
数分に亘る彼女の吐露を、母はひと言で切って捨てた。かつて主を否定したときでさえ怒りを見せなかった母が、初めて、表情と声音に憤りを滲ませた。それ以上の付言は逆効果にな
ると察した彼女は弁明を試みることもせず、母から目を背けた。
――男に成れないのなら、女として生きるしかない。
――からだを変えられないのなら、こころを消すしかない。
彼女は高校に進学してから、不特定多数の男と交渉を交わすようになった。インターネットを通じて知り合った相手と落ち合い、一夜の契りを交わすのが、彼女の日常となった。
2
空の心臓が、弱々しく熱を発散しているのがわかる。冬の太陽は、夏のそれと較べると仕事量が少ないように思えた。
典明はアパートの裏手にある公園のベンチに腰掛け、昼下がりの散文的な風景を見るともなしに見つめていた。遊具は少なく、ぎこぎこと三輪車を駆る男児はどことなく退屈そうだ。
吐く息が白い。単調な白さだった。
理屈では理解できても、感情がそれに追いつかないということはいくらでもある。彼はかつてそのような状況に直面した経験が幾度かあった。
穢白の雲が流れる空は不安を湛え、いまにも崩れだしそうな様相を呈している。眺めていると、あてどない夢のなかを浮遊しているような錯覚に囚われる。これが夢であると自覚して
いる、明晰夢の只中に迷い込んでしまったのではないだろうか。その仮説は、彼をひどく安心させる効力を持っていた。
一陣の風に頬を撫ぜられ、彼はコートの襟を掻き合わせた。ひどく現実的な感触だった。裸の街路樹が細い枝を揺らし、地面からは骨の色をした砂塵が巻き上がる。韜晦とフィクショ
ンが溢れかえったこの世界のなかで純然たる真実を見つけるのは、砂漠から一本の針を見つけだす苦行にも等しいのだと、彼はあらためて痛感した。だから、いざ実物を目の前に提示さ
れても、モラルに汚れきった神経では、それを易々と鵜呑みにすることはできない。
やはり、あれにはトリックがあるのだ。何かの見間違いに違いない。典明は結局、自分を一番落ち着かせる結論に辿り着いた。
それからどこに向かうともなく、往来の少ない街路を踏み迷っていると、ポケットのなかでスマートフォンが振動した。デジャヴに、確信めいた予感が頭をもたげる。取り出して画面
を確認すると、果たして予感通り、母からの着信であった。受けるかどうか数秒間逡巡した後、振動が止みそうになかったので、結局、着信に応じた。
「施錠くらいはしておいたらどうですか」
部屋に帰り着くと早速、母のしわがれた声が耳を衝いた。靴脱ぎの様子から、少女の不在は見て取れた。少女と母がニアミスせずに済んだことに、典明はひとまず安堵する。
「べつに盗られて困るようなものは置いてない。それより、何の用事だよ」
典明は靴を脱ぎながら、奥で畳に腰を下ろしている母に向け、なるたけ不快感を染み込ませた声を返す。彼が近寄ると母は小振りなハンドバッグから一枚の封筒を取り出し、座卓の上
に置いた。
「夫の遺したものです」
「遺書ってことかよ。あの男の遺産なんて、俺は貰う気は無いからな」
母が面を伏せた。同情を買うような仕草が癇に障った。彼女が同級生の女だったらいじめているだろうと、典明は思う。
「……いまでも、あのひとを恨んでいますか」
「当たり前だ。あいつは、麻衣を殺した男だぞ。惜しむらくは病気なんかで楽に死んだことだな。もっと苦しんで、誰にも看取られずに、衰弱して死ねば良かったんだ」
「――あなたは、いつまで妹の影に囚われているのですか」毅然とした口調で、母が言った。「教育を受けさせてきたのも、食事を与えてきたのも、こうしてここに住んでいられるのも
、すべて夫の稼ぎが元手でしょう。あなたは今まで誰に生かされてきたと思って――」
「ふざけるなっ、誰も産んでくれなんて頼んでねえんだよっ!」
典明は座卓に平手を打ち下ろし、彼女の言葉を遮った。
「あんたらが勝手に産んだのに、自分勝手にてめえの都合を押し付けんじゃねえよ。自分の所有物だから、麻衣が出て行っても探そうともせずに、勝手に死亡届出したって言うのかよ。
あんたはいつでもそうだった。あのクズに殴られても我慢する良妻を演じて、夫婦ごっこに陶酔して生きてきたんだ。そうやって自分の子供を巻き込んでることも考えずに、自分たちさ
えよければそれでいいって……そんな都合の良い話がまかり通ると思ってんじゃねえよ。何が妹の影だよ。自分たちが殺しておいて、責任は感じないのかよ」
母は沈鬱な表情を湛えて俯いた。
「こんなもの、俺は受け取らない」
典明は茶封筒を手に取ると、いささかの逡巡も無しに引き裂いた。その音に母が咄嗟に面を上げ、典明の手に制止をかける。彼はそれでも破ろうと試みたが、母は手許から強引に封筒
を奪い盗った。
「やめてください。返して」
「それがそんなに大事かよ。あんたはいつまでもそうやって生きてくんだな――話が済んだなら、もう出て行ってくれよ」
母の瞳が迷いに揺れる。いつも典明に見せてきた、どこかに救いを求めるような表情だった。
「……なんなんだよ。あんたは、俺の何なんだよ――ッ。出て行けっ。早く、出ていってくれよっ!」
典明は口角泡を飛ばし、母を追い立てた。彼女は封筒をハンドバッグに仕舞うと無言で立ち上がり、閑静な廊下を抜けて去って行った。去り際に振り向き、何か言葉を残したようだっ
たが、典明には内容は聞き取れなかった。
振り返ると、いつの間にか少女が立っていた。
「どこにいたんだ」典明の口調には、激昂の名残があった。
「お客様が来られたようなので、隠れてました」
「話、聞かれちゃったかな」
「……すみません」
「別にいいよ」典明は調子を平時の状態に戻すよう努める。「別に、いいから。……頼むから、どこにも行かないでくれよな」
彼女がどんな存在であっても構わない。
そんなことよりも、彼は独りになりたくなかった。
少女の熱を、近くに感じていたかった。
「わかりました。どこにも、行きませんから」
典明は彼女の言葉をかみしめるように、深く頷いた。
3
「どうしてこんなこと続けてるの」
窓の桟に背を預けて西に沈んでいく太陽を見つめていた彼女に、男が問いかける。同じクラスに所属している人物なのは分かるが、顔と名前までは一致しない。
「べつに、関係ねえだろ。そうやって詮索されるの、鬱陶しいってわかんないかな」
排他的な、粗野な口調で彼女は切り返す。しかし男は食い下がった。
「クラスの連中も良く思ってない。陰では売女なんて言われて……そのうち、いじめられるかもしれない」
「どうってことないな。他人がどう思おうと、個人のちからで変えられるものじゃない。余計なお世話だよ」
「自分をないがしろにしちゃいけない。大切な、替えの利かない身体だろ」
綺麗ごとだ、と彼女は思った。
――こいつは、堕落した同級生に説教する自分に酔っている。大して対話もしたことのない相手に持論を垂れ流す偽善者。この手合いが一番気に食わない。けれど、どうせ碌な使い道
も無い時間だ。相手をしてやってもいいか。
「なんのことを言ってるんだか分からないな」
窓外のグラウンドに目を落としつつ、彼女は嘯いた。部活動に励む運動部の掛け声が響いてくる。自分とは縁の無い、綺麗な青春だと感じた。
「……好きでもない男と寝るなよ」
「じゃあ、『好き』っていうのは何? 正常な愛っていうのを教えてよ」
「それは……年齢とか性別とか経歴とか関係なく、いま、ありのまま存在するそのひと自身と寄り添いたい気持ちじゃないかな」気取った台詞に自分でも恥ずかしくなったのか、男はや
や視線を伏せ、頬を小さく掻いた。「まあ、そんな都合の良い物、どこにもないのかもしれないけれど」
そこでふと、彼女は気付いた。
眼前の男子生徒は、自分自身の言葉を信用していない。彼のそれは、本心から同級生の愚行を止めさせられるのだと、思ってもいない顔だ。それどころか、自分が誰かに興味を向けら
れるとも、影響を与えることができるとも……人間自体を、信じていないような表情をしている。
先刻の自分の勘違いを、彼女は思い知らされた。この男は、自分を止めたいわけじゃない。ただ、似たような空虚を心臓の裡に抱える者の匂いに釣られて寄って来ただけなのだ。
「お前、ほんとうは誰も信用してないだろ」
彼女は険しい表情で言った。すると男は一瞬目を見開いた後、恥じらうように破顔した。
「ああ、分かっちゃうか。べつに君が身体売ってようと売ってまいと、興味ないんだよね。大衆の正義を軽々しくぶつける気もないし。ただ、俺ら、良い友達になれるんじゃないかと思
って」
分かるような気がした。この男も、なにかに引きずられ、現実感の無い現実のなかで生きているような目をしている。
「そうかもしれないな。なんとなく、興味は湧いてきたよ」
――じゃあ、よろしく。
そう言い残して、男はリノリウムの廊下を音も無く歩み去った。
それは、動機も目的も無い、共犯関係。
彼女が初めて自分を曝け出せる相手との、取るに足らない邂逅だった。
4
郵便受けを覗くと、滞納している家賃の督促状や健康食品のチラシなどが雑然と敷き詰められていた。
決して望んでいなくとも、必要のないものばかりがみるみる溜まっていく。
どうしてここまで現実が追い立ててくるのか、典明には理解できなかった。
もっと自分の思うように、自由に、悠然と、生きていたいのに。
ただ、それだけの望みさえ、誰も叶えてくれやしない。
冬晴れの空から吹き込まれた冷たい吐息が、肌を打った。
外界の寒さから、そして現実から逃げ込むように、典明は部屋に舞い戻った。
水瀬沙也加と知り合ったのは、昨年、大学のサークルの新歓コンパのときだった。週に一度映画を鑑賞して論評を交わし、文化祭に向けて自主製作映画を撮影するという活動を旨とす
る映画サークルであった。
水瀬は生きる気力がみなぎってしようがないという有り様で、全身から健全な陽気を発散している女だった。その明朗快活な喋り方や積極的にピッチャーを注いで回る様子、堅牢な殻
で覆うような濃厚な化粧など、典明にとっては敬遠したいタイプの人種だと思っていた。
そうして、どこかテレビでも観ているような気持ちで店内の様子を傍観していると、先輩から酒を勧められた。自分は未成年ですからと典明は遠慮したが、それでも先輩は引き下がる
こと無く、空いたグラスにサワーを注いでこようとしていた。典明は父の様にはなるまいと考えていた為、アルコールには絶対に手を出したくなかった。そこで断る文言を懸命にひねり
出そうとしていたとき、先輩を背後から呼びかける声があった。
「先輩、こちらのお酒が無くなったので注いでくれませんか」
そうすると、典明の存在など端から無かったかのように、先輩は声の主の許へと出向いていった。
蜘蛛の糸を差し出した人物に感謝すべく、典明は声の主の方角を見やり、慇懃に頭を下げた。すると声の主は、なんてことない、とでも言う風に薄く微笑み、ウインクを返してきた。
それが、水瀬だった。
店から抜けた道すがら、この後の二次会に参加する体力も無かった典明は先輩に辞去を告げた。
繁華街から路地裏へ逃げ込み、暗い帰路を悄然と辿る彼に、先刻耳にしたような声が追いすがる。
「君、二次会行かないの?」
振り向くと、水瀬そのひとであった。
一陣の春風が吹き、アッシュカラーの長い毛髪と藍色のフレアスカートが、波のようにふわりとなびく。オフショルダーのニットから露出した肌に外気が当たり、寒そうに見えた。
「ちょっと疲れたから、もう帰ろうかと思って」
「早めに知り合い作っとかないと、ぼっちになるよ?」
邪念のかけらも感じさせない喋り方だが、それ故の危うさもあった。
口紅の薄い朱色が、危険な予感に拍車をかける。
「ん、あのサークルに入るかどうかもまだ決めてないし……というか、君の方は行かなくていいの?」
「わたしもちょっと調子悪いから遠慮させてもらおうかなーと」
「調子悪いの? さっきは元気そうだったけれど」
「あ、何、わたしの方見てたの?」
典明は思わず俯く。見てた、と正直に話すのは容易いが、その言葉が自分も意図しない別の効果も引き連れてくるように思えて、怖かった。
「……まあ、いいや。そんなことよりさ、まだ時間あるなら、これからどっか寄って行かない?」
「調子悪いんじゃなかったのかよ」
「そこはそれ、かな。ひとが多いと疲れるんだよね。いろんなひとと話してると、それぞれに話題とか調子を合わせるから、自分の核の部分みたいなものが見えなくなっちゃって。風見
鶏っていうか八方美人っていうか……わたし、昔からそういうとこあるし。だから、君みたいな大人しそうなひとと話してる方が、落ち着く」
自分とは無縁な悩みだと典明は思った。自分と似たタイプの人間しか友人としてこなかった彼の周囲には、陽性の人種が寄りつくことはあまりなかった。だから、彼女の告白は新鮮に
思えた。
「俺も、ひとが多い場所は苦手だな。もっとも、君のとは違って、ただ単に他人が苦手ってだけなんだけれど」
「そういう感じだよね。さっきも、先輩に無理矢理お酒飲まされそうになってたし。ふつうに苦手なんで、って断ればよかったのに」
「ああいうその場のノリって断りにくいだろ。つまらない奴って陰で言われそうで」
「今頃言われてるかもね」
「かもな」
「冗談だよ、真に受けないで」
自然と、笑みがこぼれた。他人付き合いは苦手だと思っていたが、彼女との会話は決して不快な感じを与えない。典明は、彼女となら、良い友人になれるかもしれないと思った。
そうして自然と打ち解けていき、互いに自分の中身を曝け出すうちに、次第に恋情が芽生えた。
しかし典明は彼女の本質を見誤っていた。彼女はあくまで、外部の他人付き合いの疲労を打ち消す為の拠り所――安全基地として典明を利用しただけであり、彼女にとってのホームグ
ラウンドは彼の隣ではなかった。それでも、二者の認識の食い違いは破局の原因とはならなかった。
それが決定的となったのは、二年生の夏。水瀬が典明に肉体関係を求めたときだった。
彼女は実家から大学に通っていたが、親の外出時を見計らい、折に触れて典明を自宅に呼び込んだ。
「――ねえ、しよう」
ベッドに腰掛けた水瀬がブラウスのボタンを自ら外していく。窓外では、蝉の音が木々の隙間を縫って弾けている。閉め切った遮光カーテンが、夏の陽射しの侵入を拒む。
家にあがったときから、それまでとは違う気配を感じていた。やたらと強調された香水の匂いや、余所行きでもないのに『見せる』為の服装であったことが、些細な予感の断片として
存在していた。
「……嫌だ、したくない」典明は固く拒絶した。「こういうことをしたいわけじゃなかった。ただ、話してるだけで楽しかった」
「したって、何かが変わるわけじゃないよ。ただの一区切り。ただの、中間地点の息抜きでしかない」
彼女は、行為にさして重きを置いているわけではなさそうだった。実情、彼女にとっては、倦怠期の予防のような、一種のレクリエーションに過ぎないのだろう。
「なんか、無駄になる気がする。結果が出れば、それまでの過程はどんな意味があったんだって」
「結果が出て初めて意味を持つ過程もあると思うよ?」
彼女は強行するように下着のホックを外した。しかし、彼女の肌が典明の劣情を刺激することはない。
「……俺の父親は、クズだった。だから、あいつの血を引いた子供を絶対に産みたくない」
言葉にしてしまえば、それが必然の理由に変わる。かつてそれを意識したことはなかったが、無意識下にそういった信念が作用した場面は幾らかあった気がした。
「べつに、そういうことじゃないよ。てか、ピル飲んでるから心配ないしね」
彼は黙り込んだ。何か言うべきことがある気がしたが、巧く言語に落とし込めない。この名状しがたい感覚をそのままぶつけられればいいと思ったが、方法は無かった。
「ていうかさ、こういうのに意味とか過程とか結果とか、そんなこと考えたってどうしようもなくない? ただしたいからするだけじゃん。わたしたち、哲学者じゃないんだよ
? もっと単純に生きようよ」
「それが出来たら、苦労は無かったよ」
彼女の表情の裏側にはりついた仄暗い期待が、いちどきに融解した。
「あ、そう。……はー、なんか冷めちゃった。ごめんね、今日はもう帰ってよ」
水瀬が衣服を着直しはじめる。典明は返す言葉も無く、ただ、ただ立ち尽くしていた。
いつもはあった彼女の見送りもなかった帰路で、LINEが一件のメッセージを受信した。
『君、あまり面白くなかったよ』
それから、ふたりの間で連絡が交わされることはなく、関係は自然と消滅した。
「小夜」典明は、少女に呼びかける。部屋は既に消灯され、彼女は布団をかぶっていた。
「はい」
「……なんでもない。いるなら、いいんだ」
「わたしはちゃんと、ここにいますよ」
典明はきつく瞼を閉ざす。自分以外の守りたいものが出来たのは、久方ぶりだと思った。
遠くで、知らない鳥の孤独な鳴き声が響いている。
いつまでも、寝付けない夜だった。
5
同じ部位の傷跡をなぞり合うような、三年間だった。周囲の目まぐるしい流れに翻弄されることも無く、彼女は彼との『ふたりぼっち』の関係を保ち続けた。勉学も芸術も他者との交
流も必要最低限だけの熱量を傾け、あとは空虚で衒学的で、どこまでも独りよがりな言葉遊びだけに時間を費やした。
一般的な高校生のそれと較べてどうかは分からないが、決して悪い時間じゃなかったと、彼女は思う。
別れを惜しむ相手もいない卒業式では一掬の涙も流れなかった。
周囲の人間の涙は、空間に同調するだけのポーズに見えてならなかった。
高校を卒業しても、彼とのふたりの時間は、途切れることは無かった。つかず離れずといった、一定の厚みの壁を挟んだような関係。互いにとって最適の距離は、そう易々と崩れるこ
とはないと、彼女は思っていた。
しかし大学に進学して以来、彼との距離は日増しに開いていくようだった。定期的な連絡や会話も、彼の返答はどこか表層だけをかすめるような事務的でおざなりなものになっていっ
た。彼は試験勉強やサークル活動が忙しいと話したが、別に理由があるのは明白だった。
「交際相手とか、出来たの?」彼女は思い切って、疑問を口にした。
「いや……そういうのじゃ、ないよ」
彼は嘘を吐くのが下手だ。
「そう。なら、いいんだけど」
退屈な日常が、続いた。
その日は、映画や小説には成らないような、ありふれた一日になるはずだった。事実、その連絡が来るまで、彼女はその日の曜日や日時すら頭に入っていなかった。
午前中の講義を二コマ聞き終え、昼休みを迎えた彼女がスマートフォンの画面を点けると、一件の留守番電話が入っていた。
自宅の固定電話から彼女のスマートフォンに入った電話の主は、父だった。
「お母さんが意識不明で市立病院に運ばれた。交通事故らしい。父さんは今から向かうから、お前もこの電話を聞き次第、直ぐに来てくれ」
――お母さん。久しぶりに意識した響きだ。彼女が教会に足を運ばなくなって以来、母とのあいだには必要最低限の会話しか交わされることはなく、家族というよりは同居人といった
ような存在になっていた。
それでも彼女の胸に訪れた驚愕はなまなかな度合いではなかった。彼女は昼食も午後の講義のことも忘れ、押っ取り刀でキャンパスを飛び出した。
それから数時間後、母は搬送先の病院で息を引き取った。
通夜。葬式。先立った娘の遺影に泣き崩れる祖母。その肩を横から支える伯母。加害者に対する慰謝料の請求について弁護士と相談する父親。初めて会った親戚。すべてが、リアルじ
ゃなかった。
――何、これ。
自分ひとりだけが、流転する万物の中心に取り残されたような気分だった。
――何なんだろう、これ。
かつて母を死の淵から掬いだした神様は、こんなにも呆気なく命を奪っていった。一度夢を見させておいて、「はいおしまい」だなんて。もう自分のこころに神様はいないけど、余り
にも卑怯ではないかと思う。
彼女は涙を流さなかった。
主人公不在のエピローグは、感傷に浸るには騒がしすぎた。
しかし、永続する痛みだけが、胸の底に刻まれていた。
「どうせ死ぬのに、なんで生きていかなきゃならないんだろうね」
しばらく大学を休学した後、彼女は男の許に出向いた。
久しぶりに彼の声が聞きたかった。気を安める為の、根のある感情論を説いてほしい気分だった。
中庭では、大勢の学生がてんでばらばらの方向に向かって歩を進めている。ベンチに腰掛けた彼女は、その流れを見るともなしに見つめている。ひとがひとり亡くなったところで、世
界は関係なく循環していくのだと、彼女は思った。
彼は眉根を寄せて暫時黙考した後、口を開いた。
「――どうせ死ぬからじゃないのかな。
列車に轢かれようが、首を吊ろうが、不治の病に罹ろうが、通り魔に刺されようが、死という結果は変わらない。けど、その価値なら変えることができる。水泳やマラソンだって、ゴ
ールという結果は同じでも、そこに順位が付けられることで、それの持つ価値は変わってくるだろ。
人生に順位なんてものはないけど、最期を迎えるときの満足度ってのはひとによって違うはずだ。どうせなら、ひとりの部屋で誰にも看取られずに餓死するより、愛したひとや子供に
囲まれて、大勢の人間に死を惜しまれる『華やかなラスト』を迎えたいじゃないか。小説や映画だって、ラストシーンの為にアクションや謎や恋愛があるだろ。それと同じで、俺たちは
、一生かけて、逃れられないラストを演出するんだ。
他人の為に身を削って、子孫を成して、ときには誰かに苦痛を与えて、同じ分の幸福を与えて……そうやって、『死への伏線』を積み重ねていくんだ。現代風にいえば、『死の価値を
高める為の課金プレイ』ってところかな」
「……それでも、どうしようもなく死にたいって思うこともあるよね」
「そのときは、好きにすればいい。生きる権利は在っても義務は無いんだから、本気で死を望むなら、周りが幾ら止めようとしても聞き入れるべきじゃない。けれど、勿体ないとは思う
かな。どうせ最期は変わらないんだから、自分から早々にドロップアウトしなくてもいいのに、とは思う。ま、俺らが生きてる意味なんて端からありやしないんだから、そんなものをむ
やみに探すより、目的を見つけた方が手っ取り早いんだけれどな」
「目的、ね……君には生きる目的って、あるの」
「そうだな……誰かに肯定してもらうことかな。自分で肯定できるほど強い人間じゃないから」
そんなことはない、と彼女はかぶりを振った。彼は充分に強い人間に思えた。
「じゃあ、自分もそうしようかな」
――彼に、自分を認めてもらいたい。
どうせ終わる人生なら、世界に爪痕を遺して消えるのだ。
彼女が自分の『死の演出』を計画し始めたのは、その日だった。
6
扉がいななくように軋む音に、典明は目を覚ました。
上半身を起こし、半覚醒の状態で目をこする。闇を清めるような月のひかりが、掛け時計を照らしていた。針が示す時間は午前一時半。すわ闖入者かと思い周囲を見渡すが、暗い部屋
のなかに他人の気配は感じられない。何かの聞き間違いかと思い直した典明は身体を横たえて再び眠りに就こうとしたが、頭に引っかかるものがあり、なかなか意識が沈んでいかない。
――他人の気配が、無い……?
重大な思い違いに気づき、急いで身体を起こした。そして部屋の電気を点け、視界を明順応させるよう、双眸をしばたたいた。
「小夜っ。いるなら返事してくれ、小夜っ」
焦って布団をはがす。しかし中身は、もぬけの殻だった。
どうして。
どうして。
どうして、何処にも行かないって言ったのに――。
蓋をしていた孤独の影が、音も無く彼の心中を浸した。
「小夜っ――」彼は厭な感情を振り払うように、少女の名を呼び続ける。
こんな時間に自ら外出するはずがない。すると、誰かに連れ去られた可能性がある。
ならば、今しがた耳にした扉の音は、彼女が連れ去られた形跡なのではないだろうか――。
典明は即座にジャージに着替えてフリースを羽織ると、矢も楯もたまらず、部屋を飛び出した。