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 ――十年前の冬。
 俺の生まれた街は焼けた。
 
 出火原因は研究施設の薬品保管庫で隠れて煙草を吸ったバカによる火の不始末で、それが化学物質に引火、からの爆発事故。爆発の規模自体はそんなでもなかったけれど、化学薬品が燃えているとのことで下手に水で消火することができず、炎が想定より高く上がった。そして、冬の乾燥した北風がびゅうと吹いて――風下にあった俺の街が、巻き込まれた。
 
 親のいる子供は親に助けられた。当時八才だった俺も、その中の一人だった。母が俺の口元を覆うように言って貸してくれた白いレースのハンカチからは、母の香水の匂いがした。腰をかがめて、頭上の煙を避けながら、社宅を出て、街を出て、隣町の都市中央公園に逃げた。公園で待機し始めてから一時間後、ようやく父とも連絡がついて、炎の向こう側、俺たちの逃げたのとは反対側にある隣町の河川敷に避難していたことが分かった。父と合流できたのは、火災発生から二日後だった。
 炎は、日付が変わるまで消えなかった。深夜まで及んだ消火活動がようやく完全に済んだと聞いたとき、俺の手を握る母の手が少し緩んだのを覚えている。
 
 親のいない子供は、運が良ければ周りの大人に助けられたか、頭が良ければ自分で逃げたか……といったところだったが、どうやら、俺の幼少期唯一の「友達」は、運も頭も良くなかったらしい。
 焼けた街で、職員ごと逃げ遅れた孤児院があった。ビルの五階から七階と敷地内の中庭を借りて運営していた施設で、そのビルも三階の倉庫で火の手が上がったのだ。建物の中は焼けた跡こそなかったものの、多くの子供とその子供たちを掻き抱くようにして息絶えている職員たちの死体が多数発見されたそうだ。職員はほとんどが若い女性で、階段側から煙が昇っていた跡があり、非常階段の前には大きな荷物が並べられていた。「これじゃ逃げられなかっただろうな」と後にその建物の中へ入った監査官は語った。
 俺の「友達」も、そこで死んだのだった。あのせまっ苦しい施設の中で、酸素を失い、意識を失い、死体を煙に燻られた。
 
   ※  ※  ※
 
『あれからもう十年ですか』
 テレビのワイドショーで、高価そうなスーツに身を包んだ小太りのキャスターが言った。テレビの置かれた食堂には多くの兵士たちが集って朝食を共にしていたが、まともに放送を聞いていたのは俺だけのようだ。皆、今日やる訓練のこととか、来週公表予定の試験の結果についてとか、思い思いの会話を仲間たちと楽しんでいる。当然か、今いる訓練兵の中で、あの街の出身は俺含めて三人だけらしいし。
 ――そういえば当時は、連日テレビやラジオであの火災のことが放送されていたな、と思い出す。俺が避難していた中央公園にも、カメラを持った大人たちがうようよいたし、自分も何か聞かれた気がする。それだけ大きな事故だったのだ。しかも、罪なき孤児が多く死んだとのことで、世間は胸を痛めていた、らしい。
『あのような事故が起こってしまったことを、我々は悲しく思い――』
「嘘つき」
 ぶつん、とテレビの電源が切れた。誰もそのことに文句は言わない。違和感すらも覚えていない。俺が、俺だけが気付いて振り返れば、背後には右手にテレビのリモコン、左手にバターパンとフルーツゼリーの乗ったトレーを手に持った少女が立っていた。
「……日野?」
「こんばんは、滝山くん」
 栗毛色のツインテールを揺らし、彼女は「隣良いかな」と言って、俺が何かを答える前にその席にトレーを置いて椅子を引いた。
「嫌になっちゃうね、あんなきれいごとばっかり並べられちゃってさ」
「そうだな……」
「なにが『悲しい』よ。十年前のそんな事故のことなんて、覚えてもいなかったくせに」
 ――彼女は日野菜摘。先程述べた、三人しかいない俺の同郷。そして、
 
「数か月前の戦争だって、もう忘れかけているくせに」
 
 ……あの暴動(デモ)を、戦い、生き抜いた、貴重な仲間。
 数か月前、俺たちは戦争の中にいた。人を殺したし、自分も殺されかけた。日野は頭を撃たれたし、俺は両腕が吹っ飛んだ。もし「あのひと」が超回復の能力を有していなければ、今頃こんな風に五体満足で飯を食ってなんかいられなかっただろうし、生きていたかどうかだって怪しい。その中で、俺は日野と出会い、互いの出身が同じということを知って、たまにこうやって会話をするようになったのだった。
「なにも知らない人はいいよね、幸せそうで」
「……お前の両親は……あの事故でいなくなったんだったよな」
「うん。火事が起きたとき、研究施設にいてね……消火しようとして、どうにもならなくて、そのままふたりとも逃げ遅れちゃったんだってさ」
 日野の両親は、あの街では有名な科学者だった。あの街の中で言うなら、誰よりも功績を上げて、誰よりもこの都市に貢献した夫婦だった。だからこそ、プライドがあったのだろう――自分たちの研究施設から火の手が上がるなど、許せなかったのだろう。それで、日野は一人になった。
「わたしは運がよかったよ。煙が来る前にお母さんの同僚の人が助けにきてくれたし、そのあとも、桃加の家族がわたしを引き取ってくれたから」
 桃加、というのは日野の友人のことだ。そして、俺と同郷の三人、最後の一人でもある。彼女は先の戦争で大怪我を負って……未だに、意識が戻らないと聞いた。
「…………」
「ああ、ごめんね、滝山くんは良かったねって言いたいわけじゃないよ。あの日、あの街で、何もなかった人なんていないんだ。なにも失わなかった人なんていないんだ。数か月前の戦争だって同じ。ねえ、滝山くん、あなたも、きっとそうなんでしょ」
「…………」
 俺は何も答えなかった。答えられなかった。答えないまま、トレーを片手に席を立った。日野も、特にそれを止めなかった。
 実を言うと、俺は日野が苦手だった。いつも、誰かと不幸比べをして、自分の方がマシか、あるいは自分の方が可哀想かを計っている。そのものさしでしか、人を見れないとでも言うように。俺は日野が嫌いだった。こいつの本性を分かった上で、「俺はこいつよりマシだ」などと考えてしまう、自分も含めて。
 
   ※  ※  ※
 
 本日、一般兵の訓練内容は消火活動だった。あの火災事故からちょうど十年だから、という理由らしい。朝礼時、「あの日の悲劇を忘れないように」と、新教官は壇上で繰り返していた。
 一人ずつに渡された訓練用の消火器の中に入っているのは普通の水だが、本物の消火器には「化学物質による火災でも対応できる液状の薬品」が入っているので、実物はもっと軽いそうだ。内容物についても説明はあったが、俺は頭が悪いのでほとんど理解出来なかった。
「第十三班!」
「はい!」
 俺たちの班の順番が回って来て、俺も仲間と一緒に、消火器片手に前へ出る。
 ――まずは、周囲の人間に火事を知らせる――
 すう、と息を大きく吸って、手をメガホンにして、声を張り上げた。
「火事だ――――!」
 それが済んだら、すぐさま振り返ってゆらめくバーチャルの炎を取り囲み、黄色い安全ピンを引き抜いた。外したホースの先端を持ち、火元へ向ける。そのまま、教えられた手順通りにレバーを強く握りしめれば、一斉に噴き出した水で、視界が白く染まった。
 
 ……想像したことがあるんだ。
 あの日、「友達」は何を思って死んだんだろうかと。階段から昇ってくる煙を防ぐ手もなく、階下から迫りくる熱に肌を焼かれながら、霞みゆく視界を睨みつけ、徐々に薄れていく意識の中、自分より幼い孤児たちを抱き寄せて、どんなことを考えていたんだろう。その死体は、一体、どんな顔をしていたんだろう。もう、分からない。知る術もない。
 ……ただ、俺は。
 
 機械的な女声が「消火成功」を告げた。
 空になった消火器を小脇に抱え、次の班と入れ替わる。使用済み消火器を片付けていると、向こうで体育座りして順番を待っている日野と目が合った。彼女がへらりと笑ってこちらに手を振ってきたけれど、俺は見なかった振りをして目を逸らした。後で何かを言ってくるような奴でもないし、まあいいだろ。……どうせ、あいつはずっと、「あのひと」のことしか眼中にないのだから。
 
 人が死ぬ瞬間、何を考えていたのかなんて、俺には分からない。今生きている俺には、どう考えたって理解できない。
 ただ――母に手を引かれながら煙の中を逃げた時――敵に銃口を向けられて、腰を抜かして、名前も知らぬ誰かに命を賭して救われた時――憧れの人の好きな人のために、一人で囮役として戦った時――俺は――。
 ――――…………。
 
 「……何、考えてたっけな」