ビルの照明や街灯がともり始めた夕暮れ時の新宿三丁目。大学生たちの賑やかな様子を見てため息をつく女性がいた。
「いいなぁ、悩みなさそうで」
ぼそりとそう呟いた女性――森永唯香はとぼとぼと新宿駅に向かって歩いていた。
一人暮らしの大学生である唯香は当然バイトをしていたのだが、今日、バイト先の店長と些細なことで口論になってしまい、勢いでバイトを辞めてしまった。唯香は自分の浅はかさにひどく落ち込んでいた。
新宿駅につき、京王線で自宅のある代田橋へと向かう唯香。夏休みシーズンだからか、電車の中では子供の姿が多かった。しかし唯香は子供が苦手で、子供の甲高い声に強いストレスを感じていた。
代田橋で下車し、自宅へと戻った唯香。アパートのワンルームの部屋は片付いていて、ソファーや机、テレビなどがある。唯香は机の横に鞄を投げ置き、机の向かいのソファーにダイブするようにうつぶせに寝ころんだ。
「はぁ~……」
ソファーの上にあったクッションに顔をうずめて一際大きい溜息をつく唯香。
「夕飯、めんどいな」
呟いた唯香は、机の上にあるテレビのリモコンを取り、テレビの電源を入れた。
テレビに映ったのは旅番組だった。京都の仏閣を巡ったり、スイーツを紹介したりしていた。
唯香はその番組に目が釘付けになった。
「京都、京都かぁ。いいな」
すっかり京都に魅了された唯香は、スマートフォンで新幹線や京都のホテルを調べた。夏休みシーズンのうえもうじきお盆ということもあって、ほとんど予約は埋まっていた。しかし奇跡的に、新幹線とホテルをとることができた。
唯香は先ほどまでの落ち込みが嘘のように、上機嫌で計画を練り始めた。
唯香の取った新幹線の切符は十四日と十五日の夜のものだった。十四日に京都へ行き一泊し、十五日に観光して夜に帰るというかなりの弾丸旅行である。
十四日の夜、新幹線で京都へ行き、京都駅近くのホテルへと向かった唯香。チェックインを済ませ部屋に行くと、和風なデザインがちりばめられた落ち着いた雰囲気の部屋だった。
唯香は楽しさの反面、誰かを誘えばよかったかなと少し寂しさを覚えた。その日唯香は、翌日のために早く就寝した。
十五日の朝、唯香は清水寺方面へと向かった。バスで五条坂へ向かい、清水寺には行かずに三年坂、二年坂へとくだっていく。
二年坂には全国チェーンのカフェがあり、歩き疲れた唯香はその古民家風の店に入ろうとした。すると足に何かが当たる感触があった。みるとそれはがま口のようだ。誰かの落とし物のようだがどうすることもできず、唯香はとりあえずがま口を店の壁の方へ寄せておいて店に入った。
まだ朝方だから店内は空いていたが、レジのところで男性が何やら慌てていた。
「あれ? おかしいな確かここに入れたはず……、ない、ない! どうしよぉ」
困った声を聴くに、どうも財布が見当たらないようだ。唯香は先ほどがま口を思い出し、恐る恐る男性に声をかけた。
「あの……、お財布がないんですか?」
「うんそうなんだ、もしかして何か知ってる?!」
「お店の前にがま口が落ちててもしかしてって……」
唯香が言い切る前に男性は店の外に行き、先ほど唯香が壁際に寄せたがま口を持って戻ってきた。
「あったー! よかった、ありがとうお姉さん」
「い、いえ、たまたまですよ」
男性はすぐに会計をすませ、奥の受け取り口に移動した。唯香も飲み物を頼み、奥の受け取り口に行った。
男性は唯香をみるなり人懐っこく話しかけた。
「いやー助かったよ。あ、俺拓馬。お姉さんは?」
「あ、唯香です」
「唯香ちゃんかー、かわいい名前だね」
グイグイくる拓馬に唯香は困惑していた。
そうしている内に飲み物が完成し、二人は飲み物を受け取り上の階に向かった。上の階は座敷や机が並ぶ和モダンな作りになっている。一人掛けの席に行こうとした唯香だったが、拓馬が唯香を呼び止めた。
「ねえ唯香ちゃん、実はちょっとお願いがあって」
「え……、なんですか?」
訝しむ唯香に拓馬はばつが悪そうに言った。
「適当に歩いてたからここがどこかわからなくて、よかったら着いてってもいい?」
唯香は当然怪しんだ。道を教えて欲しいではなく着いていきたいなんて訳が分からない。しかし拓馬の捨て犬のような顔を見ると本当に困っているように思えたし、きっと教わっても分からないと自分で理解しているのだろうと唯香は考えた。
それに、初めて会ったはずなのに唯香は拓馬に妙な親近感が湧いていた。
「うーん、まあ、私の好きに歩かしてもらいますけど、それでもいいなら……」
「ほんと!? ありがとう!」
拓馬の屈託のない笑顔に唯香はどきりと心臓が跳ねた気がした。
カフェを出て二人が向かったのは高台寺。
秀吉を弔うために妻のねねが作らせたその寺は、穏やかで心安らぐ雰囲気に包まれていた。
唯香と拓馬はお互い感嘆の声を漏らしながら境内を歩いて行った。
「自然がきれいだね」
「そうですね。はあ、私もこんなところに住みたい」
「でも階段ばっかで疲れちゃうよ?」
「はっ、確かに」
そんなやり取りをしていると近くにいた老夫婦がくすりと笑った。
「あああ、うるさかったですか!? すいません!」
なぜか異様に取り乱して謝る唯香に、老婦は穏やかに笑った。
「いえねぇ、お二人がとってもお似合いに見えて、微笑ましいなぁと思っただけなのよ。驚かせちゃったみたいでごめんなさいねぇ」
老婦の言葉に、唯香は顔を真っ赤にした。拓馬も気恥ずかしそうに空笑いをこぼした。
それでは、と上品に老夫婦は去っていく。
「……不思議な人だったね」
「そうですね……」
二人は少し疲れたように出口に向かった。
門を抜け、ねねの道へと抜ける階段を下る途中、拓馬が急に立ち止まった。
「唯香ちゃん、ありがとう。俺もう帰らなきゃ。お母さんによろしくね」
「え? 道わかるんですか?」
そう言って拓馬の方に振り返った唯香だったが、そこにいたはずの拓馬の姿はなかった。
代田橋の自宅へと帰った唯香だったが、拓馬のことが頭から離れずにいた。
なぜ突然姿を消したのだろうか。唯香は不思議でならなかった。とにかく誰かに話したい、話せばすっきりするだろうと、唯香は母に電話をかけた。
『もしもし、唯香?』
「お母さん、ねえ聞いてよ」
『旅行中の話?』
「そう。あのね、カフェで男の人に道わかんないから着いてっていいかって聞かれてOKしたんだけど、高台寺出るときにもう行かなきゃって言われて、振り返ったら一瞬でいなくなってたの。ホラーじゃない?」
『そもそもなんでOKしたのよ』
「なんかねぇ、すごく親近感が湧いたんだよね。初めて会った気がしないっていうか。そういえば、お母さんによろしくって言ってたな。何者なんだろう、拓馬さん」
すると、電話越しに母が息をのむ音が唯香に聞こえた。
「お母さん?」
『タクマ? うそ、そんなこと……』
「お母さん? どうしたの」
母の異常な様子に唯香は戸惑う。母は深呼吸して、神妙な声で唯香に言った。
『あなたには言ってなかったわね。私、あなたを生む前に一度流産してるの。その子がおなかの中にいるときにつけた名前が、拓馬なの』
「……は?」
『いや、きっと気のせいだと思うわ。忘れてちょうだい』
そういうと母は電話を切った。
ツーツーとなるスマートフォンをおろしもせず、唯香は呆然とした。
(終わり)