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 日本国内でも有数の観光地、京都。歴史的建造物も多く、観光シーズンは特に多くの人で賑わいを見せる。そんな古の都に、生まれは違うものの、どこかふるさとのような懐かしさを感じながら、一人の女性がやって来た。
「うわあ、天井高いなあ」
 京都駅の改札を出た女性は遥か上の天井を見上げ、長距離移動でこった身体をほぐすように軽く肩を回した。辺りには、楽しそうな家族連れや、物珍しそうな顔で 周りを見回す外人の姿も多い。季節は夏真っ只中。京都駅は長期休みを利用しての旅行客が多く見える。
 そしてこの女性、宮崎穂乃果もその一人。大学の夏休みである今、観光目的に加え、京都に住む友人に会いに来たのだ。高校二年生のときに友人が引っ越してから、実に三年は経っている。なので、穂乃果は今回の再会をとても心待ちにしていた。
(元気にしてるかな、舞)
 すぐにでも友人に会いに行きたい穂乃果だったが、向こうに用事があるため、夜まで会うことができない。それまでは穂乃果一人で京都の町を回る予定だ。
(とりあえず荷物だけ預けて、それから色々歩いてみよう)
 穂乃果はキャリーケースを手に、コインロッカーを探し始めた。

 稲荷駅を出て、すぐ目の前の道路を渡った先にある赤い鳥居。手前の石像には、この神社の名前がしっかりと刻まれている。
 ここ、伏見稲荷大社といえば、京都の中でもかなり有名な観光名所だ。奥へ奥へと果てしなく続きそうな千本鳥居は、少なくとも日本人なら知らない人はいないだろう。穂乃果自身、だいぶメジャーな場所を選んだ自覚はあるものの、修学旅行以来の京都ということもあり、当時の懐かしさに浸りたくなったのだ。
(記憶のまんまだなあ、この鳥居。修学旅行が懐かしい……)
 周りの人たちと一緒に穂乃果も鳥居を潜る。そこから石畳みの緩い上り道を歩き、二つ目の鳥居も潜った。そしてまず目の前に見えた楼門の前で足を止め、記念にスマホで写真を一枚撮る。そして横の階段を上って見えた本殿も、同じように写真に収めた。あまり歴史に詳しくない穂乃果は、それらにどのような歴史があるのかは知らない。だが、鮮やかな朱を基調としたその外観はよく覚えていた。
(やっぱり綺麗だよね。よし、あそこも見に行きますか)
 脇にある店を少し覗きつつ、目当ての場所へと向かうため、更に歩を進める。本殿を横切り、その奥の祭場を右に曲がると、人だかりが一段と増したように思えた。ここに来てこれを見ずに帰る人はいないであろう、千本鳥居の入り口である。穂乃果はひとまず写真を撮ると、少し端にそれた。
(とりあえずここまで来たけど、どうしよっかなあ)
 千本鳥居に来るのは二回目の穂乃果だが、その奥に進んだことはなかった。修学旅行は班行動で時間も限られていたため、行くことができなかったのだ。今日、このあとに行きたい場所もあるのだが、ここまで来たなら先に行ってみたいものだ。
(まだお昼過ぎたくらいだし、行ってみよう)
 あんまり長そうなら途中で引き返そうと決め、穂乃果は鳥居を潜った。

 歩き始めてかれこれ二十分。穂乃果が先ほど調べたところによると、奥社奉拝所というものが折り返し地点としてあるはずで、もうとっくに辿り着いていてもおかしくはないはずなのだが、鮮やかな鳥居の連なりはまだまだ終わりが見えない。
「うーん、偽情報だったのかな」
 少し疲れを感じ始め、穂乃果は足を止める。そして妙なことに気づいた。
「あれ、誰もいない」
 入り口付近ではあれほどいた観光客が、今は誰もいない。あの賑わいは、一体いつの間にやんでいたのだろう。この細い道の真ん中で、堂々と立ち止まれたことが、穂乃果にそれを気づかせた。辺りを見回せど、人の姿は見えない。前も後ろも、ただただ真っ赤な鳥居が続いているだけだ。
「……戻ろっかな」
 そーだそうしよう。奥へは来れたし。ここまで来たらもう満足。一人で呟きながら、穂乃果は元来た道を引き返し始めた。静まり返った一本道を、一人で歩く。時折何か呟きながら、言い知れぬ不気味さを紛らわすように。
 再び二十分は経っただろうか。行きと同じほどの時間が経過したにも関わらず、鳥居に終わりは見えない。あれだけ美しかった朱の道さえ、今では不安をかき立てる要因でしかない。ここまで、あまり変なことを考えないように進んできた穂乃果だが、そろそろ限界が近かった。
 行けど戻れど、この朱の道に終わりはない。そんな思考が頭を支配し、確信に変わり始めていた。
(どうしよう)
 急速に焦りを感じ、鼓動が早まっていくのが嫌でもわかる。心なしか足取りが重くなり始め、視界も霞んできたように感じる。それでもとにかく前に進もうとする穂乃果の右手を、
何かが掴まれた。あまりにも唐突なその感触に、声も出なかった穂乃果だが、恐る恐る自らの右手を見やる。すると、
「どうしたの、お姉ちゃん」
 そこにいたのは、年端もいかぬような見知らぬ少女だった。赤い浴衣に身を包んだおさげ髪の少女は、不思議そうに穂乃果の顔を覗き込んでいた。
「えっと、」
「どうしてここにいるの?」
 どうして、そう聞かれただけなのに、穂乃果は一体どう答えればいいのかわからなかった。自分はただ観光に来ただけで、それ以外の理由はない。しかし、少女が聞いているのはそういうことではないように思えたのだ。
「お外に出る道がわからないの?」
「あ、うん、多分そう、かな」
 全く知らない、それもこんな幼い子にさえ怯えが抜けないのも情けないが、今の穂乃果はそんな事を気にしている余裕はなかった。
「それならこっちだよ」
 そう言うと少女は、穂乃果が進んでいた方向と逆の方向へと手を引っ張る。
「あっちに行けばお外だよ」
「でも私、そっち側から来たよ……? だからこっちにずっと歩いて来たのに、全然出られなくて」
「だって、こっちじゃないもん」
 少女が嘘を言っているようには見えないが、穂乃果は自分が方向を間違えた覚えもない。一体いつの間に狂ったのだろうか。
「そっちに行けば、ここを出られるの?」
「うん」
 まだ信じきれない気持ちもあるが、少女が頷いたのを見て、穂乃果は少女の言葉に従うことにした。
「わかった。じゃあそっちに行くね」
 少女にお礼を言って来た道を戻ろうとした穂乃果だが、「待って」と少女がそれを引き留める。
「一緒に行く」
「え、本当に?」
「うん。だってきっと、」
 お姉ちゃんだけじゃ出られないから。
 それを証明できるものなど何もない。普通に考えれば、一本道を進んで帰れないなどありえないのだ。しかし、今この場においてその一言は、穂乃果の不安を煽るには十分だった。
「あなたが一緒なら、ここから出られるの?」
「出られるよ」 
「じゃあ、一緒に来てほしいな」 
「うん。行こう」
 少女は手を繋いだまま歩き始め、穂乃果もその隣を歩き始めた。

 どのくらい歩いたのだろう。先ほどと同じくらいの時間が経ったような感覚はあるが、先ほどのような不安はない。この不可解な現状で、手を引いてくれる存在ができたこと、例えそれが幼い少女でも、いてくれるだけで心強かった。
 たまに少女の横顔を見やる穂乃果だが、少女は顔色一つ変えることなく、真っ直ぐ前を見て歩いていた。お互いに言葉を発さない空間がしばらく続いたが、やがて少女が口を開いた。
「もうすぐお外だよ」
「ほんと? よかった」
 少女の言葉に安堵する穂乃果だが、帰る前にどうしても聞きたいことがあった。
「ねえ、どうして私はここから出られなくなったのかな?」
「帰したくなかったんだよ。ここに来る人なんていないから」
「ここに来る人はたくさんいるでしょ?」
「いないよ。誰も来ない」
 国内でも有数の観光地なのに、一体どういうことなのだろうか。少女と自分の認識の違いに多少の違和感はあるものの、穂乃果はそれ以上追及するのをやめた。
「あそこから出られるよ」
 少女に言われて顔を上げると、人はいないものの、鳥居の終わりが見えた。穂乃果はほっと胸を撫で下ろし、少女と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「一緒に来てくれてありがとう。あなたがいてくれてよかった」
 この少女がいなければ、きっと自分はずっとここにいることだったのだろう。そう思うと、いくら感謝しても足りないくらいだ。しかし、少女がその表情を変えることはなかった。
「ここからはお姉ちゃんだけで大丈夫だよ」
 そう言って穂乃果の手を離す少女。穂乃果はわかったと頷き立ち上がった。
「本当にありがとね」
 最後に一つお礼を残し、穂乃果は前へと歩き出す。どんどん残りの鳥居が減っていき、ようやく最後の鳥居を潜ったその時、
「もう来たら駄目だからね」
 耳元で聞こえたその声に、穂乃果は思わず来た道を振り向く。しかしそこには大勢の観光客がいて、一体誰の声だったのかなど判別できそうもない。しばらく惚けていた穂乃果だが、やがて自分が人混みの真ん中で突っ立っていることに気づき、慌てて端に避ける。すると、スマホの着信音が鳴った。画面に表示されたのは、今夜会う友人の名前だ。穂乃果が通話ボタンを押すと、『あ、やっと出た! 何してたのよ穂乃果!』と、少し焦ったような友人の声が聞こえてきた。
「舞? 何って何が?」
『あんたずっと電話出なかったじゃん! バッテリー切れ?』
 そう言われてバッテリー残量を確認するものの、まだ八割は余裕で残っている。。
「そんなことないけど、どうしたの?」
『うーん、まあいっか。私もう用事終わったからさ、今から合流しない?』
「ほんと? どこに行けばいい?」 
『そうねえ、今穂乃果どこにいるの?』
「今は伏見稲荷大社にいるよ」
『あーそこか。なら悪いんだけど京都駅まで戻ってこれない? 私がいるとこから伏見稲荷だとちょっと遠くて』
「わかった。今から行くね」
『ん、あんがと。でも伏見稲荷かー。どう? 千本鳥居見た?』
「うん、今目の前にいるよ。さっき入ったんだけど……?」
『どした?』
「あ、ううん。なんでもない。じゃあ行くね」
『了解。あとでねー』
 そう言って通話は切られた。なんでもないと誤魔化した穂乃果だが、奇妙な感覚に苛まれていた。
(千本鳥居に入って、そのあと、どうしたんだっけ)
 入ったところまでは覚えているものの、一体どうやってここまで戻ってきたのか。その間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
(誰もいなかった、けど、誰かいた?)
 どうにか思い出せないかと記憶を探るものの、何一つ記憶にない。唯一、微かに覚えているのは、誰かが手を握ってくれていたことだけ。確証などないが、なぜかそれだけは確かだと思えた。
(……まあいいか)
 穂乃果はこれ以上思い出すのを諦め、千本鳥居に背を向ける。
 去って行くその背中を、それはじっと見ていた。